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2017年4月23日 (日)

新川和江・抒情の源流/「睡り椅子」の世界/「しごと」のメッセージ・その2

 

 

お嫁をもらつた誰かさんのニュー・ホーム

――が描かれた後に

描かれるものは無くなってしまったのでしょうか。

 

無限に存在するのでしょうか。

 

ぷつんと途切れた間(ま)があって

きんいろのペンが描こうとするのは

お墓です。

 

きんいろのペン(のしごと)は

凍えるまで続けられるのですから

終点につくるはずのお墓が描かれようとし

お墓に記すメモリアルが考えられます。

 

 

この国には

お役人も議事堂もいらないのよ

祈禱椅子はみんな自家製よ

神さまもそれぞれ

フライパンの中で

オムレツみたいに焼いてつくるのよ

 

 

ここで詩はもはや

死者を思う死者の眼差しになりますが

そうであってもひとつも四角張ることはありませんし

オムレツと同じように

神が焼いて作られるのです。

 

墓碑銘だからといって

尊大ぶって

何かを主張する風でありません。

 

むしろ

くだけたおしゃべり言葉で

だれか親しい人に話しかけます。

 

話しかける内容も実はシリアスなことでありながら

深刻さの微塵もなく

楽天的な声調そのものです。

 

 

この墓碑銘のために

この詩は作られたかのような

この墓碑銘のメタファーは

考えどころであるかのような頂点に至って

詩は閉じられます。

 

 

ここにあるメタファーは

無神論?

 

それとも

自由?

 

それとも

共和国?

 

それとも

幸福?

 

……。

 

 

このような問いが無意味であるような。

 

そういうふうに置き換えることを拒むような。

 

何かへの反意を表明しているのは確かなような。

 

反発(反対)の意図だけがはっきりしているような。

 

 

メッセージの主要な部分が

これらの詩行に含まれているはずですが

それが眉間(みけん)に青筋を立てて

表明されていないところに

この墓碑銘が訴える姿勢はあります。

 

それを書いたら

詩論になっちゃいます

――とその一線を越えようとしていません。

 

 

実はここに

詩人のゲンダイシがはじまっています。

 

その流れでいっても

この詩を現代かな遣いで読み返すことは

無意味ではないことでしょう。

 

 

しごと

 

きんいろのペンでえがく

この いっぽん道

 

ときどき 振りかえり

ともそう 白いすずらん燈

植えよう においのいい花を咲かせるミモザ並木

 

いちばんさきに通るのは風

そのつぎは犬

こども 自転車 牛乳配達車

散歩のふたりづれ

 

だんだん広くなる 長くなる

やがてほとりに住みよい町が生れる

 

本屋

金魚や

“つるし”の洋服

バナナのせり売り

“だし”のにおい漂うそば屋の横を入れば

お嫁をもらった誰かさんのニュー・ホーム

 

もっとえがこう

きんいろのペンが凍えるまで

この道の終点につくるはずのわたしのお墓

 

墓碑銘をかんがえる

――この国には

   お役人も議事堂もいらないのよ

   祈禱椅子はみんな自家製よ

   神さまもそれぞれ

   フライパンの中で

   オムレツみたいに焼いてつくるのよ

 

(花神社「新川和江全詩集」所収「睡り椅子」より。原文のルビは“ ”で示しました。編者。)

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年4月22日 (土)

新川和江・抒情の源流/「睡り椅子」の世界/「しごと」のメッセージ・その1

 

 

第1詩集の冒頭詩「しごと」を

期せずして(?)

ここで読むことにしました。

 

何度も目にしていて

目にする度に黙読しているので

すでに親しみのある詩ですが

詩集の全容を知った後に読もう(書こう)と決めていました。

 

冒頭詩であるために

込められた思いには特別なものがありそうで

それならば後回しにした方がよいと考える底に

詩を素手で読もうという魂胆がありましたから。

 

冒頭詩がもしメッセージ性が高いものなら

それを読む前に

詩集のほかの詩と向き合うのが先決であろう、と。

 

 

しごと

 

きんいろのペンでゑがく

この いつぽん道

 

ときどき 振りかへり

ともさう 白いすずらん燈

植ゑよう にほひのいい花を咲かせるミモザ並木

 

いちばんさきに通るのは風

そのつぎは犬

こども 自転車 牛乳配達車

散歩のふたりづれ

 

だんだん広くなる 長くなる

やがてほとりに住みよい町が生れる

 

本屋

金魚や

“つるし”の洋服

バナナのせり売り

“だし”のにほひ漂ふそば屋の横を入れば

お嫁をもらつた誰かさんのニュー・ホーム

 

もつとゑがかう

きんいろのペンが凍えるまで

この道の終点につくるはずのわたしのお墓

 

墓碑銘をかんがへる

――この国には

   お役人も議事堂もいらないのよ

   祈禱椅子はみんな自家製よ

   神さまもそれぞれ

   フライパンの中で

   オムレツみたいに焼いてつくるのよ

 

(花神社「新川和江全詩集」所収「睡り椅子」より。原文のルビは“ ”で示しました。編者。)

 

 

きんいろのペンは

金色のペンではないところ、

いっぽん道もそうです

一本道としないところに

詩人の詩があります。

 

あえて言えば

これらは暗喩でしょうか。

 

きんいろに書かれる文字のイメージの

至高のかがやきばかりが

青い空に浮かび上がるような。

 

いっぽんの道は

飛行機雲かなにかのように

まずすっと引かれました。

 

そしてこの道は

ときどき振り返られるのです。

 

 

すずらん燈

ミモザ並木

こども

自転車

牛乳配達車

散歩のふたりづれ

――が何の衒(てら)いもなく描かれます。

 

風がいちばんさきに通るのも

この詩人の洞察の証しでしょうが

風を特別に扱っている気配さえありません。

 

 

みんなただそこにあるそのもののようで

それ自体を示しているようで

あえていえば明喩であり直喩ですから

それ以上ではなく

それ以下でもない

毎日目にするものごとであって

それらで町が生まれます。

 

 

本屋

金魚や (金魚屋としないところ!)

“つるし”の洋服

バナナのせり売り

“だし”のにほい漂ふそば屋

誰かさんのニュー・ホーム

 

ぜんぶがふだん見ている暮らしの景色です。

 

いっぽん道が

暮らしの景色を列挙して描かれるのですが

描かねばならないものは尽きることがありません。

 

描いても描いても描ききれないことを

きんいろのペンは知っているからでしょうか。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年4月18日 (火)

新川和江・抒情の源流/「睡り椅子」の世界/「君よ 籐椅子のやうに」の毛虫

 

 

毛虫が現われる詩が

ほかにもあり、びっくりしています。

 

「睡り椅子」はじめの章「雪の蝶」の

3番詩「君よ 籐椅子のやうに」です。

 

 

君よ 籐椅子のやうに

 

君よ

籐椅子の様にわたしを抱いて

此のみどりの藤棚の下でねむらせて下さい

 

夏の日の午睡のひととき

世界中におそれるものの

何ひとつとてない此の誇らかな幸福を

静かに眠りつつ夢みたいのです

静かに夢みつつ楽しみたいのです

 

やがて

むらさきの花房が

音もなくしづしづと垂れてくるでせう

頬といはず胸といはず腕といはず

はては二重顎のかげの頸筋にまで捲きついて

おお わたしの体はむらさきの花房まがひ!

わたしは眠りながらほのかに微笑して

その花のひとふさを握ろうとします

するとまあ それはあなたの

やさしい腕 あたたかな抱擁

 

限りなき幸福よ

何おそれよう 藤棚の毛虫を

花散らす秋風を 移りゆく季節を――

花房は君が腕

籐椅子の様に安楽なる君が腕ゆゑ!

 

(花神社「新川和江全詩集」所収「睡椅子」より。)

 

 

冒頭詩が「しごと」で

2番詩「愛人ジュリエット」であり

この詩が3番目に配置されている意図を汲めば

この詩の重要な位置づけというものが

理解できることでしょう。

 

第1詩集「睡り椅子」の中で

「君」が初めて登場するのもこの詩ですし。

 

「しごと」も「愛人ジュリエット」も読んでいないのですから

その位置づけを理解するというのは無理な話ですが

詩集の最終詩に「おもひ出」を配置し

この詩「君よ 籐椅子のやうに」が詩集の3番詩であるという

単なる並び順のように見えるこの配置が

偶然であるはずもありません。

 

最終詩が重要な位置づけであるように

3番詩が重要であるという位置づけは

疑いようにありません。

 

二つの詩は

重要な位置づけにあるうえに

毛虫という詩語の使用で接続しているという

意図も浮かび上がってくることでしょう。

 

 

こちらの毛虫は

何おそれよう 藤棚の毛虫を

――とあるように

「おもひ出」の毛虫と同じく

恋を脅かす存在です。

 

より明確に

怖い存在の象徴ですが

花散らす秋風を 移りゆく季節を――

――と続けられて

恋の翳(かげ)りを予感するかのようなこころが

歌われます。

 

幸福の絶頂を願望しながら。

 

 

「おもひ出」では

飛葉を毛虫たちの末の形である蝶々と見まがうわたしでしたから

恋はすでに遠い日のことでしたが

この詩でも

恋の絶頂を願望するゆえに

その終わりをも瞥見(べっけん)する眼差しがあります。

 

 

甘苦しいだけのような詩ではありません。
 
その装置として

毛虫たちは現れます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年4月16日 (日)

新川和江・抒情の源流/「睡り椅子」の世界/毛虫の「おもひ出」

 

 

 

毛虫たち!

――として現れる毛虫は

いったいどこに存在したのでしょうか?

 

 

二人は

川のほとりにいて

せせらぎがきこえています。

 

せせらぎの音にさえぎられて

あなたのささやきは聞こえなかったし

それどころか

みどりの葉かげに潜んでいる

毛虫たちがこわかったから

とても耳に入らなかったと

遠い日の思い出を語っている第1連は

次の連に行くと

5月だった同じその日その時に流した涙は

青葉の緑がまぶしかったせいだったことを明かします。

 

 

緑の葉陰の毛虫たちは

第2連で

まぶしい緑の中に消えてしまうのですが

第3連で

ふたたび現われ

今度は蝶になります。

 

……といってもこの蝶は

あの日の蝶ではなく

幾年月が流れて

結婚したわたしが築いている家庭の

晩ご飯のための買い出しに出た街の

落ち葉が舞うのを見て

想像する中に出てくる蝶でした。

 

何年も後になって

都会の街角で見た落葉が

あの日の毛虫たちが羽化して飛び立ったイメージとして

突然現れたのでした。

 

蝶といっても

ひらひら舞い落ちる黄色い葉が

骸(むくろ)を連想させたのでした。

 

 

そして最終連最終行は
「あなたもどこかでぬれてゐるのでせうね?」


――と遠い日の恋心が
消滅していないことを歌って

閉じられます。

 

 

怖いのと眩しいのとが絡まりあうはじまりから

街角で見た落葉が蝶の死骸へ連結する現在へ。

 

思い出がよみがえるとき

毛虫たちは毛虫でなくなって

蝶々のむくろになって現れる

骨太なイメージの飛躍と時間の経過が

この詩の命になっています。

 

乙女の恋に現われる毛虫のイメージ(思い出)が

妙に生々しく

詩に強度を与えているのは

この詩が口語自由詩であることと無縁であるはずがありません。

 

それにしても

毛虫たちはどこに存在したでしょうか?
 
この詩が

リアリズムの詩と一線を画している謎が

この問いに隠されているようです。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2017年4月14日 (金)

新川和江・抒情の源流/「睡り椅子」の世界/「おもひ出」口語自由詩へ

 

 

 

「睡り椅子」の終章「昨日の時計」には

文語定型詩を離れる瞬間があり

その過程をつぶさに見ることができます。

 

 

五月雨が降りつづいて

農家はどこもからつぽです

――とはじまる「夏の窓」

 

待つてゐたのに

たうとう来なかつたあなた

――とはじまる「待ちぼうけ」

 

「二つの鈴」

「小春日和に」

「秋の舗道」

「あかり」

――なども五七調を離れ

口語を使っています。

 

これらは

歴史的かな遣いですから

文語と見間違いがちですが

口語体です。

 

 

「芒」では、

 

青い川原の芒穂(すすきほ)は

暮れてまねけど里はるか

 

「夜更けの雨」では、

 

まあ ふしぎ

たしかに雨の

おとでした

 

――といったように

自然、五七調になり

文語を使用しているのですが

その中にこれらの口語詩は現われます。

 

 

そして、この章の最終詩、すなわち

詩集の最終詩に至りますが

この詩も口語自由詩です。

 

 

  

 

おもひ出

 

いいえ

あなたのささやきなど

たえまない川の瀬音にかき消されて

わたしの耳にはきこえませんでした

稚いさげ髪のほそいリボンが

消えのこりの星のやうなつゆくさ色に

かすかにやさしくふるへてゐたのは

みどりの葉かげにひそんでゐる

たくさんの毛虫たちが

なんだかとてもこわかつたからでした

 

五月でしたね

さんさんとお日さまよりも強烈に

青葉若葉がもえてゐたのは

あの春ばかりだつたのでせうか

あなたにひとみをのぞかれても

なんにも言へずに涙ぐんだのは

ただ ただ みどりがまぶしかつたのです

 

毛虫たち!

みんなきれいな蝶になつて

あの林からどこへ飛び立つて行つたのでせう

さうしてわたしも島田に結つて

知らない都の花よめさんになりました

晩のおかずを買つての帰り

薄暮のなかで街路樹の

きいろい朽葉(くちは)が舞ひ落ちるのを見ると

恋に破れた蝶々の

かなしいむくろと見まがへて

わたしはおもはず立ち止まります

 

こんなよる

みやこはきまつて時雨になりました

お寝間に重いカアテンをおろすとき

白いパヂヤマの衣ずれほどにもさり気なく

わたしはそつと

つぶやかずにはゐられません

 

「あなたもどこかでぬれてゐるのでせうね?」

 

(花神社「新川和江全詩集」所収「睡り椅子」より。)

 

 

「昨日の時計」は

「睡り椅子」の最後の章ですが

最初期の詩篇が集められ

おそらく同時期に作られた「16歳のノート」の詩群に

近い位置にあります。

 

抒情を思う存分に歌いながら

「ゲンダイシ」を射程圏に入れた

たくらみ(意図)のある作品群が置かれました。
 
この「おもひ出」もその一つで

リアリズムなのだか幻なのだか

あわいを自在に越えてしまうような

仕掛けが現われて驚かされます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

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