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中原中也を歌う(曲と歌:桜木うさこさん)

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2018年9月19日 (水)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「序曲」の謎・その4

 

 

 

1932年(昭和7年)4月に

中原中也は詩集の編集をはじめました。

 

かつて1927年、28年に試みたことのある詩集発行に

再びチャレンジしましたが

この詩集、即ち、「山羊の歌」が

実際に江湖(こうこ)に出るのは

1939年の年末になります。

 

「序曲」は

「山羊の歌」の編集を終えてすぐの頃に

翻訳が試みられました。

 

「序曲」の翻訳は完成しませんでしたが

翻訳に至った背景を知るために

詩人25歳の年、1932年(昭和7年)へ至る足どりを

辿り直してみましょう。

 

まずは創作の足どりを

詩人自らが記した「詩的履歴書」の記述――。

 

 

大正14年8月頃、いよいよ詩を専心しようと大体決まる。

大正15年5月、「朝の歌」を書く。7月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる

最初。つまり「朝の歌」にてほぼ方針立つ。方針は立ったが、たった14行書くために、こん

なに手数がかかるのではとガッカリす。

昭和4年。同人雑誌「白痴群」を出す。

昭和5年、6号が出た後廃刊となる。以後雌伏。

昭和7年、「四季」第2夏号に詩3篇を掲載。

昭和8年5月、偶然のことより文芸雑誌「紀元」同人となる。

同年12月、結婚。

昭和9年4月、「紀元」脱退。

 

(新かな、洋数字に変えました。)

 

 

「朝の歌」で現代詩の作り方を獲得し

「白痴群」を創刊して

目一杯、自己の創作詩や翻訳を発表し

1年後には廃刊のやむなきに至って以後雌伏

やがて「四季」へ寄稿して詩活動を再開

結婚

――という大筋の自己史。

 

雌伏(しふく)の時期から

再び詩活動をはじめたのが「四季」であったという

その間の時期が1932年に当ります。

 

「山羊の歌」の編集に至るには

年初めに「憔悴」を制作し

「山羊の歌」編集期間中に

最終詩「いのちの歌」を完成したという

気力の充実がありました。

 

「山羊の歌」はこの時

本文の印刷までしましたが

資金ぐりがうまくいかず

製本・出版には至りませんでした。

 

「序曲」の翻訳は

その年に行われました。

 

幾つかが出回っている年譜のうちの一つ

角川ソフィア文庫巻末の「中原中也年譜」で

この年をもう少し詳しくクローズアップしてみましょう。

 

 

昭和7年(1932)  25歳

4月、「山羊の歌」の編集を始める。5月頃から自宅でフランス語の個人教授を始める。

6月、「山羊の歌」予約募集の通知を出し、10名程度の申し込みがあった。

7月に第2回の予約募集を行うが結果は変わらなかった。

8月、宮崎の高森文夫宅へ行き、高森とともに青島、天草、長崎へ旅行する。この後、馬込

町北千束の高森文夫の伯母の淵江方に転居。高森とその弟の惇夫が同居。

9月、祖母スエ(フクの実母)が死去、74歳。

母からもらった300円で「山羊の歌」の印刷にかかるが、本文を印刷しただけで資金が続

かず、印刷し終えた本文と紙型を安原喜弘に預ける。

12月、「ゴッホ」(玉川大学出版部)を刊行。著者名義は安原喜弘。

このころ、高森の伯母を通じて酒場ウィンゾアーの女給洋子(坂本睦子)に結婚を申し込む

が断られる。また高森の従妹にも結婚を申し込み断られる。このころ、神経衰弱が極限に

達する。高森の伯母が心配して年末フクに手紙を出す。

 

 

安原喜弘のいう「魂の動乱時代」とは

この年の年末あたりに詩人を襲った

神経衰弱の症状を指しているのでしょう。

 

詩人を脅かすものの正体は

いったいどのようなものだったでしょうか。

 

そこに実生活や将来人生の不透明感とかの

経済的不安があったことは

十分に考えられることでしょう。

 

実家がいかに裕福であるとはいっても

すでに300円の大金を母フクは

工面してくれていました。

 

なんとかして自力で

詩集を出したいという気持ちを

親友、安原喜弘はよく察しているところでしたから

ゴッホ伝のゴーストライターのような仕事は

おあつらえであったということになります。

 

中也自身も

フランス語の個人教授をしたり

出版や翻訳のブローカーと接触したり

生計の足しになることを厭(いと)うことはありませんでした。

 

「序曲」の翻訳が

そのような日銭(ひぜに)仕事を動機としているとは

到底考えられませんが

ベルレーヌの秘密出版という性質は

それを日本語に翻訳するという作業そのものにも影響していると言えるのであって

それなりに秘密裡に行われたようです。

 

高橋新吉が中也に依頼したと記している

「或雑誌に掲載するため」の猥詩は

そのような秘密出版に類するものだったのでしょうか。

 

 

中原中也は

ベルレーヌという詩人の輪郭をつかもうとして

ベルレーヌが書いた評論と詩をはじめ

ベルレーヌのことを書いた評論や

ベルレーヌに宛てたランボーの書簡などを

読み、訳しているのですが

それは相当に戦略的に練られたことでした。

 

結局はランボーの翻訳に

全体重をかけることになりますが

1927年(昭和2年)4月23日の日記に、

 

世界に詩人はまだ3人しかおらぬ。

ヴェルレエヌ

ラムボオ

ラフォルグ

ほんとだ! 3人きり。

――と記した頃から

「序曲」を翻訳するまで

ベルレーヌから受け取ったものの多大さを

見失ってはなりません。

 

 

「序曲」のテキストに触れたとき

詩人はこれを

面白いと感じたのでした。

 

それは

何か金目(かねめ)のものを見つけたという喜びなのでは

勿論あり得ず

ベルレーヌの詩心の名残を嗅ぎ取ったからであるに違いありません。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2018年9月16日 (日)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「序曲」の謎・その3

 

 

どのようにして大岡昇平が「序曲」のテキストを入手し

そもそもどの刊本だったのか。

 

「新編中原中也全集」は

Paul Verlaine:Femmes, imprimé sous le manteaux et ne se vend nulle part,1890

――を原典として推定しています。

 

大岡昇平が所蔵していたのが

この刊本であることは確定できていないようです。

 

 

Femmes(「女たち」)というタイトルの詩集は

ベルギーで、1890年初版、175部限定で秘密出版され

1893年にはロンドンで500部限定で再版

これを機に他にも幾つかの刊本が

秘密出版されました。

 

エロティシズムの迫力からか

ベルレーヌの作品だからか

この種の出版は

小部数ながらおおむね好評で

ヨーロッパ各地に「女たち」は迎えられたようですが

それにしても秘密裡の出版であることは避けられませんでした。

 

「序曲」Overtureは

詩集冒頭に置かれた序詩です。

 

この序詩と末尾の「要約的な教訓」Morale en raccourciとを除くと

計16篇の詩篇が収められてあり

この16篇すべてにローマ数字による通し番号がつけられています。

(同全集解題。)

 

「序曲」は全9連36行の構成。

 

中原中也の翻訳として知られているのは

この9連のうちの冒頭部2連8行です。

 

 

さて、では、

中原中也自筆の翻訳原稿が

存在するのかというとはっきりしたものではなく

中也の訳稿に基づいたと推定(!)される2種類の草稿があります。

 

それは筆写稿①、筆写稿②とに

便宜上分類されているものです。

 

やや込み入っていますが

それを記述している

「新編中原中也全集」第3巻「翻訳・解題篇」を

ひもといてみましょう。

 

 

筆写稿①の有力証言に高橋新吉が現われ

筆写稿②には高橋幸一が現われます。

 

高橋新吉は

「ダダイスト新吉の詩」で知られる

中也の師匠格のダダイスト、

高橋幸一については

新全集はなんの説明を加えていませんが

どうやら「四季」に出入りしていたか

なんらかの関係がある人物くらいのことを

ネットで知ることができます。

 

 

筆写稿①は

旧全集(「中原中也全集」)編集時には

高橋新吉の所蔵品として存在していたが

現在はそのコピーが残っているもので

原詩の第1連と第2連が訳されてあり

作者名、訳者名は書かれていません。

 

高橋新吉は

「ベルレーヌの猥詩を、二つ、中原は、訳してくれたことがある。或雑誌に掲載するため、中原に依頼したのであった」

――と「中原中也の思い出」(「解釈と鑑賞」昭50.3)に記しているそうです。

 

二つ、とあるベルレーヌの猥詩のうちの一つが

「序曲」と推定されています。

 

 

筆写稿②は

旧全集で、

中原中也が「高橋幸一に手渡したもの」とされていますが

筆跡は中也のものではなく

原稿用紙も中也が愛用していたものではなく

筆記具も中也の使用例にないもの。

 

そのため

この草稿は中也の自筆ではないとされていますが

中に「夏原冲也」の名前があり

中原中也の筆名であろうと推定されています。

 

猥詩であることを考慮し

本名を記すことを控えたものと考えられています。

 

 

筆写稿①も②も

「序曲」の冒頭8行だけが記されてあることから

中也が翻訳したのも

この部分だけであったものと考えられました。

 

 

「序曲」を訳した1932年(昭和7年)は

詩人25歳の年。

 

4月に「山羊の歌」の編集に取りかかっています。

 

詩人の最も近くにあり

詩人を助け

相談に乗り

酒を共に飲んだ安原喜弘は

この時期の中原中也を

「魂の動乱時代」と呼んで回想しています。

(講談社文芸文庫「中原中也の手紙」。)

 

ゴッホ伝の代筆の仕事は

この流れの中で進められていたもので

年末には玉川大学出版部から発刊されますが

中也は著者名にペンネーム千駄木八郎を提案します。

 

同じ年に

「序曲」の翻訳者として

夏原冲也というペンネームが使われていたことになります。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年9月13日 (木)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「序曲」の謎・その2

1

(「新編中原中也全集」別巻<上>よりスキャニング。)

 

 

中原中也が

ベルレーヌのエロティック詩篇「序曲」Overtureを翻訳したのは

1932年(昭和7年)7月下旬から8月の間と推定されています。

 

その根拠となっているのが

同年7月19日付け、安原喜弘宛の書簡です。

 

この書簡に

大岡昇平の住まいから

「序曲」全行を筆写して持ち帰った前夜のことが

書かれてありました。

 

その書簡の全文をまず読んでおきましょう。

 

 

100 7月19日 安原喜弘宛書簡 葉書

     表 下目黒842 安原喜弘様

     千駄谷874 隅田方 中也 19日

 

 先夜は失礼

 ゴッホは、クルト・ビスタア(中川一政アルスにあるもの)を土台にして、処々に少しづつ自

分の意見を加えて書くことにしましたがどうでしょうか。なまなか僕なんかが考えて書くより

もクルト・ビスタア氏の方がよっぽど有益だと思うのです。剽盗(ママ)にならないために

は、最初にクルト・ビスタアに拠るとしましょう。印刷界の常識から云えばそんな必要さえ殆

どありません。現にこのアルスは翻訳なのを一政著とあります。相手が辞典ですから、権

威ある専門家のものの方が勿論よいでしょう。今3分の1位書いた所です。4、50枚になり

ましょう。若しそれで君が嫌ならば、没書にして下さい。

 

 今日大岡の所でベルレーヌ全部写して来ました。非常に面白いです。1日で写したんでク

タクタになりました。何れお目にかけます。

 

予約の方大抵、早くやると使っちまうと云っている模様です。とんだ見当ちがいです。そう

ではありませんか。                        怱々(十八日夜)

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰ。新かな、洋数字に変え、改行を加えました。編者。)

 

 

「今日大岡の所で」以下が

「序曲」の筆写作業のことを書いているところです。

 

前半部は、当時進行中のアルバイトの件の

最後の詰めの話をやりとりしているもの。

 

安原が請けていたゴッホの評伝を中也が代筆し

幾分かの執筆料を得るのですが

執筆とはいっても

中川一政がクルト・ビスターの著作を翻訳したものがあって

それを剽窃(書簡では「剽盗」となっている)するのが実際でした。

 

中也は

予め依拠した資料を明らかにしようと

安原に提案しています。

 

末尾に「予約の方」云々とあるのは

第1詩集「山羊の歌」の自費出版を決め

予約を募集した後に起きた反響についての小言(こごと)です。

 

「早くやると使っちまうと云っている模様です」というのは

自費出版で予約を募集しているものの

集めた予約金は酒代に消えてしまうだろうと

仲間うちで噂となっていることへの愚痴(ぐち)です。

 

 

「序曲」の筆写については簡略なものですが

全部写して来ました。

非常に面白いです。

1日で写したんでクタクタになりました。

――と身の入れ方は只事(ただごと)ではありません。

 

何れお目にかけます。

――とある通り

7月26日付け安原宛て書簡に同封され

安原の手に渡りました。

 

 

中原中也が書き取った「序曲」Overtureは

大学ノート大の白紙9枚に残されました。

 

冒頭に掲出したのは

その1枚目です。

 

コピー機というものがなかった時代ですから

クタクタになったことは

容易に想像できますが

筆写の元になったテキストは

大岡昇平所蔵のものでした。

 

このテキストがどの刊本だったのか

大岡昇平は

中原中也の仕事を紹介する評伝の中で明らかにせず

謎が残りました。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年9月 4日 (火)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「序曲」の謎・その1

 

 

中原中也の初期作品のうち

「山羊の歌」集中の

第2番詩「月」

第3番詩「サーカス」

第4番詩「春の夜」

――の3作品に

ボードレールやベルレーヌらの外国詩人の影響があり

これらの詩がダダイズムからの脱皮の過程で作られていることは

一目瞭然ですね。

 

第5番詩「朝の歌」を

ダダイズム脱皮の完成と見なす

大岡昇平の評伝に異論をはさむ読みには

今でもあまり巡りあいません。

 

たとえば「サーカス」の人気は

「朝の歌」を超えているのにそうであるのは

「朝の歌」のオリジナリティーを評価する

大岡や小林秀雄や

ほか多くの声が大きいからです。

 

同じ理由で

「港市の秋」など

一連の横浜ものも

「朝の歌」を頂点とする評価(好み)の

下部に置かれているのが実情でしょう。

 

「朝の歌」以後の「初期詩篇」にも

「春の思い出」や「秋の夜空」など

たとえ詩の優劣を競っても

「朝の歌」に引けを取らない詩が幾つもあり

キラキラとキラキラと輝いているのに。

 

 

誰からの影響も受けていないという一事が

詩の形の上で達成されていることが

詩世界にデビューする中原中也には要求されていました。

 

どんな詩の模倣でもないということは

昔も今も変わっていない

詩人の必須の要件でしょう。

 

「詩的履歴書」に

大正15年5月、「朝の歌」を書く。7月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる
最初。つまり「朝の歌」にてほぼ方針立つ。方針は立ったが、たった14行書くために、こん
なに手数がかかるのではとガッカリす。

――と中也が記したのには

この理由がありました。

 

一字一句が

自分の言葉で書かれなければならないという掟(おきて)を

小林秀雄は中也に伝えたのでしょう。

 

大岡昇平は

そのことを全面的に支持して

評伝「朝の歌」を戦後に書きあげました。

 

中也の不満そうな響きを

「詩的履歴書」のこの部分に

認めないわけにはいきません。

 

この不満は表明したとしても

かき消されてしまうことでしょう。

 

 

「サーカス」や「春の夜」を

ベルレーヌの足跡を辿る中で読んだのには

このようなことをも考えるためでした。

 

この流れに乗って

「山羊の歌」の「初期詩篇」への

ベルレーヌの影響を見直す作業へと

誘惑されそうになり

それはなかなか魅力的なことですが

今それに取りかかることはやめておきましょう。

 

今はベルレーヌを中原中也が

どのように翻訳したかの足跡を

辿り終えることが先です。

 

 

とはいうものの

次に読むベルレーヌの詩の翻訳は

創作の謎について

考えさせるものを十分にもっています。

 

 

序曲

                 ポール・ヴェルレーヌ

 

私はおまへの腿(もも)や臀部(おしり)に専心したい。

唯一の真(まこと)の神なる辻君、真に比丘尼の比丘尼たる比丘尼よ、

美(をんな)よ、熟してゐようと熟してゐまいと、未熟だらうと修練を経たものであらうと、

もうはやもうおまへの裂け目、おまへの畝条(うねすぢ)に丈生きるこつた!

 

おまへの足は素晴らしい、情夫(をとこ)の所へしか行きはしない、

情夫とでなけあ帰つて来ないし、その床の中でしか

じつとしてゐはしない、それからこつそり情夫の足を打つのだが、

その情夫の足は疲れてぐつたりしてちゞこまつてゐるわけさ。

 

(「新編中原中也全集」第3巻「翻訳」より。原文のまま。)

 

 

中原中也がこの詩を翻訳したのは

1932年(昭和7年)7月下旬から8月の間のことでした(推定)。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2018年9月 2日 (日)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「春の朝」から「春の夜」へ

 

 

 

「春の夜」の第3連には

ああこともなしこともなし

――とあり

これは

イギリスの詩人、ロバート・ブラウニングの詩「春の朝」の

上田敏訳の写し(コピー)であることは

だれの目にも明らかです。

 

上田敏の訳詩集「海潮音」(1905年)にある

ブラウニングの詩は

一時代前の(今でも?)高校の国語教科書に掲載されてあり

それを読んで初めて西欧の詩の一つに触れた

青春の記憶であったように

他の世代の日本人の経験でもあったはずで

多くの日本人が知っている有名な詩ですから。

 

 

春の朝(はるのあした)

 

時は春、

日は朝(あした)、

朝(あした)は七時(ななとき)、

片岡(かたをか)に露みちて、

揚雲雀(あげひばり)なのりいで、

蝸牛(かたつむり)枝に這(は)ひ、

神、そらに知(し)ろしめす。

すべて世は事も無(な)し。

 

(岩波文庫「上田敏訳詩集」より。)

 

 

「新編中原中也全集」は

「春の夜」解題の参考の項目に

① ベルレーヌの「Mandoline」原詩

② 同詩の川路柳虹訳

③ ベルレーヌの「Ⅴ(Le piano que baise une main frele…)」原詩

④ 同詩の川路柳虹訳

――と並んで

⑤ ブラウニングの「春の朝」を紹介しています。

 

一つの詩に様々な方面からの影響の跡があるのは

古今東西の詩の歴史によく見られることですが

「春の夜」についてはことさらに

その難解さから

解釈のアプローチも

様々に試みられてきた歴史のあることを物語っています。

 

中原中也の詩の作り方、

とりわけ初期作品の制作方法が

手に取るように理解できて

あらためて数次にわたる編集の仕事に

敬意を表するところです。

 

 

ところで

ああこともなしこともなし

――が「事も無し」の反映であることがすぐにわかるのは

上田敏訳が極めてポピュラーに世間に浸透していたからですが

この詩にベルレーヌが影響していることは

多くの素人の読者は気づかないところです。

 

やはりここにベルレーヌの詩に精通していた

ファンか誰かが存在していて

その人がまず気づいたということですね。

 

それを発見した瞬間が想像できて

胸が躍ります。

 

 

しかし

ああこともなしこともなし

――と中也が詩語に記した時に

普段そらんじていた詩の言葉を

無意識のうちに使ったと考えるのは

間違いでしょう。

 

詩人は

ああこともなしこともなし

――を「春の夜」の詩行として使ったときには

それを確信していました。

 

無意識に使ってしまったということでは

まったくありません。

 

言葉に書く

紙の上に記す

詩を作る

――という行為は

繊細な意識化の作業に他なりませんし

そのことを忘れてしまって

創造することはできません。

 

意識して

ああこともなしこともなし

――は中也の詩の詩語になりました。

 

 

「春の夜」は

そのようなものとしてあります。

 

そのようなものとして

中原中也の第1詩集「山羊の歌」の

第4番詩として存在します。

 

「春の夜」は

「マンドリーヌ」や「ピアノ」に

インスパイヤ―されながらも

中原中也の詩です。

 

そこには

サフラン色に湧き出る

中原中也の春の夜があります。

 

 

こうして「春の夜」を読み直していると

第2番詩「月」への

ボードレールやワイルドの影響や

第3番詩「サーカス」へのベルレーヌの痕跡などのことが

次々に思い起こされます。

 

「山羊の歌」の第2章「少年時」へのランボーの足跡をたどる中で

ベルレーヌの足跡を見ないことには

前に進めないことに気づいて

中也のベルレーヌ翻訳を読み進めていると

いつしか「山羊の歌」の第1章「初期詩篇」に

舞い戻ってきました。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

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