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2017年8月19日 (土)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊④

 

 

 

 

樹々はしずかに身ぶるいする 爽涼な栄養

と大きな夏の日暮をすこしずつ振り落す

葡萄の皿に種子ばかり残して

 

あの日 ぼくを泣かせたのは誰 枯れた梢ほ

どの影が映る書斎の壁に 薄い脱け殻たちが

眠っている あたらしいいとなみは日に日に

はげしく ぼくは果実をだいて風見(かざみ)のみえる野

のほうへあるいて行こう

 

――人よ しばらくはきみと別れるために

 

(角川文庫「現代詩人全集」第10巻・戦後Ⅱ/鮎川信夫解説」より。)

 

 

「蝉」と題したこの詩が

「小さな町で」というタイトルに変えられて

内容にも幾つかの変更(補強)が行われてあるのを

「廃墟の詩学(中村不二夫、2014年)」の中の

「戦後詩復興と抒情精神――『純粋詩』から『地球』創刊まで」という論考で知りました。

 

この論考の中に

「小さな町で」が引用されてあります。

 

 

「蝉」と「小さな町で」は

どちらが先に制作されたものでしょうか?

 

 

「戦後詩復興と抒情精神」の中では

「小さな町で」の引用の前に、

 

第二号掲載の秋谷の詩作品は、戦地で友が逝き、いまだ消息不明のままの詩友もいる、

敗戦後のそうした傷心を率直に映し出している。

――という記述があり

「地球」復刊第2号に発表されたことを明示していますから

1947年11月の発表ということになります。

 

角川文庫の「現代詩人全集・第10巻・戦後Ⅱ」は

1963年に初版発行されていますから

おそらく「小さな町で」のほうが先に制作されたようですが

これは単に発表順を制作順と想像しただけの推定です。

 

「小さな町で」は

歴史的かな遣いが見られますし

「蝉」は現代かなで表記されていますから

二つの詩の制作順序は明らかなようではありますが

断定できません。

 

編集上の必要から

新しい作品に歴史的かな遣いが使われる場合もあります。

 

 

ということですが

まず、その「小さな町で」を読んでみましょう。

 

 

小さな町で

 

樹々はしづかに身ぶるひする 爽凉な栄養と 大きな夏の日暮

をすこしづつ振り落す 葡萄の皿に 白い種子ばかり残して

 

あの日 僕を泣かせたのは誰 枯れた梢ほどの人影をうつす書

斎の壁に 蝉の脱け殻たちが眠ってゐる 沈鬱なあれらの来歴の

やうに あたらしいいとなみは日に日にはげしく 僕は肉体

の果実をいだいて風見鶏の見える町のほうへ歩いてゆかう

 

リルケの果樹園の匂ひのする抒情よ

しばらくは君と別れを告げるために

 

(土曜美術社出版販売「廃墟の詩学」所収「戦後詩復興と抒情精神」から引用。)

 

 

制作順を特定できないままですが

「蝉」と「小さな町で」の異同を見ると、

 

1、 タイトルが「蝉」という昆虫(自然)と

  「小さな町で」という場所の違い。

2、「蝉」にはない詩句「沈鬱なあれらの来歴のやうに」が

  「小さな町で」にはある。

3、「蝉」の詩行「ぼくは果実をだいて風見のみえる野のほうへあるいて行こう」は

  「小さな町で」では「僕は肉体の果実をいだいて風見鶏のみえる町のはうへ歩いてゆ

  かう」とある。果実に「肉体の」という修飾があり、風見は「風見鶏」、野は「町」になって

  いる。

4、最終連の――以後の詩行は

  「蝉」では、

  「人よ しばらくはきみと別れるために」という1行に、

  「小さな町で」は、

  「リルケの果樹園の匂ひのする抒情よ

  しばらくは君と別れを告げるために」と2行になっている。

 

――といったところです。

 

削除か、追加の

どちらかが行われたことになります。

 

 

仮に「蝉」が先に書かれたとすれば、

追加が「小さな町で」で行われたことになります。

 

そのことによって

いっそう詩の骨格が明瞭になり

詩の意図が鮮明になります。

 

(詩人のメタファーである)蝉という自然を押し出すより

僕が小さな町(野ではなく)で起こそうとする行動の未来へ

詩の重心を置く意志がはっきりしますし。

 

「沈鬱なあれらの来歴」は

蝉の過去を明らかにするとともに

日に日に激しい営み(変化)を繰り返すという現在を示して

僕のこれから(未来)の行動を促す原因がくっきりします。

 

時の流れを明確にし

起承転結を明らかにした効果があります。

 

果実に「肉体の」を加えたのは

収穫の豊穣を強調したからでしょうか、

まだ残っている身体のパワーを意味しているのでしょうか。

 

 

最終連の2行は、

「蝉」では

「人よ」と呼びかけた対象が

だれか友人たちであったかのように漠然としていましたが

「小さな町で」では

「抒情」そのもの、それもリルケの抒情であることを明かし

「人よ」の人は「君」に変えられて

しかもそれは友人たちのことではなく

「リルケ的抒情」そのことであるとの変更になります。

 

戦前に親しんだリルケの抒情(四季派的抒情)との訣別

もしくは軌道修正を宣言したことになり

詩の根底からの変成(変更)を意図したことになります。

 

これらの変成の底に

戦争の影はあり

戦後を生きる姿勢がおぼろげに見え出す仕掛けになるでしょうか。

 

 

最終連の2行、

リルケの果樹園の匂ひのする抒情よ

しばらくは君と別れを告げるために

――は、しかし

リルケ的な(四季派的な)抒情の全否定ではないようです。

 

しばらくのわかれのようです。

 

 

……。

 

さて、もし、制作順がこの逆であるなら

ぼくを泣かせたあの日のかなしい出来事を

蝉(脱け殻たち)という自然を通じて

乗り越えて行こうとする

そのわかれ(訣別)の詩(うた)ということになるのかもしれません。

 

そうなると

戦争の影は薄くなりますが。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年8月14日 (月)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊③

 

 

秋谷豊には「戦後詩の出発――『純粋詩』創刊の周辺」という著作(講演記録)があり

戦時下から敗戦を通じて東京近辺にいた青年詩人たちの動向を

地方在住の詩人たちとの交信を含めて

生き生きと記していますが、

中に「交書会」という聞きなれない言葉を案内して

詩人たちの交流の実際を

鮮やかに描き出しています。

 

交書会とは、

おたがいの古本を持ち寄ってそれぞれが入札して交換し合うもので、これは空襲が激しく

なっても続けられた。

――というもの。(同書。)

 

月に1回ほど、B29の爆撃をかいくぐって集まり

この交書会は行われたそうです。

 

こういう集まりは単に古本交換ばかりでなく

詩人たちの活動の状況を互いに知る情報交換の場であり

戦時下、抑圧されていた詩心を発露する場であり

詩集や詩誌発行などの詩活動が継続していたことを示す

「詩人たちの闇市」のような蠢(うごめ)きでした。

 

それは、幾分か、地下活動めいたうごめきだったでしょう。

 

 

詩人たちの集まりが

本の交換、情報交換の場になるのは必至で

秋谷豊はそれを交書会と紹介していますが

こうした動き(蠢き)の中ばかりではなく

通信によったり、別の形の集まりの中であったり、

詩誌発行の計画が生まれ

その計画は全国各地に起こったことが

現在では次第に明らかになっています。

 

敗戦直後の詩人たちの活動を

秋谷豊の著作はその一端を伝えていますし

日本現代詩人会のホームページには

「創立前史――戦火と廃墟のなかで――」がありますし

最近では「廃墟の詩学」(中村不二夫、2014年)などの労作もあります。

 

 

「純粋詩」発行の動きは

戦争末期の東京で起こり

敗戦の翌年1946年3月に創刊号を出しましたが

秋谷豊はその中心にいました。

 

「純粋詩」は

鮎川信夫、田村隆一、木原孝一、三好豊一郎、中桐雅夫といった

のちに「荒地」に結集する詩人が参加した

同年12月号で新段階に入りましたが

秋谷豊が「ゆうとぴあ」(のちの「詩学」に繋がる)の編集へ移り

「荒地」の創刊(1947年9月)とともに鮎川らが抜けてからは

社会派色の強い関根弘、井出則雄らがリードし

1948年8月号で「造形文学」と誌名を変えたころには

さらに新たな局面を迎え

「純粋詩」は終止符を打ちました。

 

関根弘は後に「列島」の創刊の主軸となりますから

「純粋詩」は

「荒地」「列島」「地球」の母体になったと言われる所以(ゆえん)が

この経過にあります。

 

秋谷豊は

この流れの中にあって

16歳の時から出していた「ちぐさ」を「地球」と改め

重心をこの「地球」に乗せるようになり

1947年7月には

「地球」復刊第1号を出します。

 

 

秋谷豊の、比較的初期の詩を

ここで読んでおきましょう。

 

 

 

樹々はしずかに身ぶるいする 爽涼な栄養

と 大きな夏の日暮をすこしずつ振り落す

葡萄の皿に 種子ばかり残して

 

あの日 ぼくを泣かせたのは誰 枯れた梢ほ

どの影が映る書斎の壁に 薄い脱け殻たちが

眠っている あたらしいいとなみは日に日に

はげしく ぼくは果実をだいて風見(かざみ)のみえる

野のほうへあるいて行こう

 

――人よ しばらくはきみと別れるために

 

(角川文庫「現代詩人全集」第10巻・戦後Ⅱより。)

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年8月12日 (土)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊②

 

 

戦争の終りは

戦後のはじまりだった

――というのを同義反覆であると考えるのは

早計というもので

戦争と戦後は異なります。

 

1945年8月15日を境に

戦争は過去のものになりましたが

戦後という現在がはじまりました。

 

秋谷豊の詩を

もう一つ読んでおきましょう。

 

 

漂流

 

まっくらな暴風雨の夜に出撃した艦隊は

壮大な花火だった

 

どてっ腹に魚雷命中

あたりはまっくら

一〇〇メートルの火柱をふきあげ

鋼鉄の斜面が垂直になって沈むところだ

 

おれは黒い油の海をふかぶかと流れていった

重油に汚れた顔をつきだし

おれはフカのように流れる

軍艦の亡霊と 抱き合ったまま

かなしい眼をして 死ぬのはごめんだ

だが 朝がくるまでに おれはフカの餌食になる

 

――二十年の間

おれは黒い油の海をふかぶかと流れていった

汚れた腕を波の上につきだし

何かを叫びながら

深い霧の中で

おれは現在も泳ぎつづけているのだ

 

(新潮社「日本詩人全集34・昭和詩集」より。)

 

 

この詩は

1962年発行の詩集「降誕祭前夜」にありますから

戦後17年を経過しての発表です。

 

詩の中に

20年の間とあるのは

強調と読んでよいでしょう。

 

20年もの長い間

戦闘の悪夢に苛(さいな)まれる男の現在が

表白されています。

 

戦争は終わったけれども

続いています。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

2017年8月 9日 (水)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊

 

 

 

秋谷豊(あきや・ゆたか)は

1922年(大正11年)、埼玉県鴻巣市に生れました。

 

エベレスト峰への登頂など

のちにアルピニストとしての勇名を馳せ

山岳詩や旅の詩を多数書きました。

 

木原孝一、北村太郎らと同年の生れですから

戦中派ということになり

戦争体験を歌う詩の一群を持ちます。

 

戦前に出発し

「四季」の詩人、立原道造、堀辰雄らの詩に共鳴、

戦後すぐに福田律郎らと「純粋詩」を立ち上げ

1949年にはネオ・ロマンチシズムの旗印を掲げた

「地球」という同人詩誌を創刊しました。

 

 

第1詩集「睡り椅子」を発表した直後の新川和江を

「地球」に誘い出しました。

 

どんな詩を書いた詩人か

詩を読みましょう。

 

 

夏の人

 

今日 燃えつきようとする

夏の日は

あつい画廊の壁にながれ

照り返す

ひまわりの炎のなかで

その風景だけが烈しく光る

 

 それは芥子(けし)色の原野の殺戮(さつりく)

 死の眠りにおちる沈黙の風景

 重くなった銃をかゝかえて

 人は暮れなずむ日射のなかで

 死にかけていた

 輝きと微笑に満ちたその額を

 黒い弾丸がくだき

 告げるべき意志も

 悲哀の声も

 ただ傷口のように 暗く

 地球のむこうへながれていく

 

画廊の固いドアをおして

見しらぬ人が出ていった

かたむく夏の血の中から

木立のくろい夜の中へ

その人は 街角を曲って消える

銃創の腕にこわれた楽器をさげて

 

(中央公論社「日本の詩歌27 現代詩集」より。)

 

 

戦争を経験した者が

戦後になっても

戦争の記憶を消し去ることは出来ず

平穏な日常の暮らしのふとした瞬間に

殺戮の風景がよみがえるのを止めることはできない。

 

銀座かどこかの画廊で見た

ひまわりの絵が

秋谷豊にこの詩を書かせるきっかけになったのでしょうか。

 

戦争を生きのびた詩人は

戦場での経験を

こうして戦後の暮らしの合間に思い出すのです。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年8月 8日 (火)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/「地球」へ

 

 

新川和江が第1詩集「睡り椅子」を発表して以降の

20余年間に残した仕事は目覚ましいものでした。

 

ここでその20余年の作品活動をざっともう一度見ておくと――。

 

1960年に、第2詩集「絵本『永遠』」

1963年に、第3詩集「ひとつの夏 たくさんの夏」

1965年に、第4詩集「ローマの秋・その他」

1968年に、第5詩集「比喩ではなく」

1971年に、第6詩集「つるのアケビの日記」

1974年に、第7詩集「土へのオード」

――などの新作詩集を次々に発表しました。

 

その足どりは

日本現代詩の一角に

歴史を刻んだと言ってもおおげさでありません、いまや。

 

 

この20余年間を

ひとくくりにして何かを言おうとすれば

「目覚ましい」という

新聞の批評のような言葉しか見当たらないほどの詩活動でした。

 

目覚ましいというのは、

詩集の発表のほかにも

第1詩集以前から手掛けていた幼年詩、少年詩の制作・発表をはじめ

各種アンソロジー(編詩集)の出版、

文学全集への詩作品の収載、

詩人以外の創作家とのコラボ、交流、

座談会・会合への参加、

ラジオ・テレビへの出演など

多彩広範な領域に渡ったということを意味します。

 

現代合唱曲への詩の提供などの共同制作や

1972年には初のエッセイ集「草いちご」(サンリオ出版)も刊行しました。

 

1975年に「新川和江詩集」が、

思潮社の「現代詩文庫64」として出版されたとき

小自伝「始発駅にて」は書かれましたが

そこには第1詩集「睡り椅子」(1953年)までの足どりが記されただけだったのには

詩人の意地のようなものすら感じることができます。

 

「まず詩を読んで!」と

詩人は主張しているように見えます。

 

 

詳細な自筆年譜が書かれたのは

「新川和江全詩集」(花神社)が発行された2000年でした。

 

この「全詩集」の年譜に現われる詩人の名を拾い

新川和江の詩と合わせて

各々の詩人の詩を読んでいけば

日本現代詩の歴史の一端をひもとくようなことになります。

 

まだ、いま、1953年。

 

日本現代詩は

戦後復興期を8年を経過した活況の中にあり

新川和江も第1詩集をその中に投じたところです。

 

前後しますが

新川和江が詩人活動の第2歩を印したのは

秋谷豊が率いる「地球」という同人詩誌でした。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

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