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2008年6月17日 (火)

トタンがセンベイ食べる/春の日の夕暮

20080525_014h_2

詩集「山羊の歌」は、
いま手元にある佐々木幹郎編
中原中也詩集『山羊の歌』(角川文庫クラシックス)で数えると

初期詩篇22
少年時9
みちこ5
秋5
羊の歌3

と、合計で44篇で構成されています。

中也が残した詩篇は
全部でおよそ300篇といわれています。

トタンがセンベイ食べて
と、はじまる「春の日の夕暮」は
「初期詩篇」の冒頭
つまり
「山羊の歌」という詩集のトップを飾ります。

「初期詩篇」のトップから4篇

「春の日の夕暮」
「月」
「サーカス」
「春の夜」

は、ダダイズムの詩といわれているもので
語句の意味にこだわっていると
迷路に入ったような
わけのわからない世界に分け入ることになります

トタンがセンベイを飲み込んじゃってるよ
穏やかだなあ、春の夕暮れ
あの山も下手の方から青ずんで
笑えちゃえそうに静かだなあ

案山子なんぞいませんよ
馬が嘶く姿なんぞも見えませんよ
月の光だけがヌルヌルと
おとなしい夕暮れです
春の夕暮れです

解釈を試みると
変になります。
隠された意味がありそうだ
などと詮索するのはほどほどに。

意味不明な語句も気にしないで
どんどん続けて
読んでいきましょう。

……
ポトホトと
ポトホトと

……

野原の真ん中に
あれは太陽
真っ赤に燃えている

油がきれた
荷馬車がギシギシ

ぼくが
歴史的現在に物を言う

世の中の人並みに
まともな発言をしたらば
笑われちゃった
空とか山とかに

瓦が1枚はがれてどっかへ行っちまったよ
春の夕暮れは
もの言わず
まっすぐに暮れていきます

どこへ行くかって?
静脈管の中へです
血の中へです

 春の日の夕暮

トタンがセンベイ食べて
春の日の夕暮れは穏やかです
アンダースローされた灰が蒼ざめて
春の日の夕暮れは静かです

吁(ああ)! 案山子(かかし)はないか――あるまい
馬嘶(いなな)くか――嘶きもしまい
ただただ月の光のヌメランとするまゝに
従順なのは 春の日の夕暮れか

ポトホトと野の中に伽藍は紅く
荷馬車の車輪 油を失ひ
私が歴史的現在に物を云へば
嘲る嘲る 空と山とが

瓦が一枚 はぐれました
これから春の日の夕暮れは
無言ながら 前進します
自(み)らの 静脈管の中へです

*最終行「自(み)ら」は「みずから」と読ませ、「自(お)ら」を「おのずから」と使い分ける慣わしが、中也の時代に行われていました。「白狐さん」から、コメントをいただきました。声に出すときは、「みずからの 静脈管の中へです」と読みましょう。

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0001はじめての中原中也」カテゴリの記事

コメント

毎回、楽しみに読ませていただいています。

ところで、「春の日の夕暮」の読みについてですが、ひとつだけ。
中也はこの詩の最終行「自ら」の「自」に「み」とルビをふっていますが、これは「自(みずか)らの」と読むことを示す符号です。「自」にルビ「お」を付けた場合は、「自(おのずか)ら」と読みます。これは当時の表記上の習慣でした。

したがって、当該箇所は、「自(みずか)らの 静脈管の中へです」と読むことになります。

『新編中原中也全集』第1巻の「春の日の夕暮」の解題に、この説明が書かれています。 

ご指摘、ありがとうございます。編者によって、「自ら」を「みずから」と現代語読みのルビをふる人が多いことは知っていました。佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』」(角川文庫クラシックス)は、そうではない少ない例であるのでしょう。「自ら」の「自」に「み」とルビをふると、それが「みずから」と読ませる符号になり、「自」に「お」のルビをつけた場合の「おのず」と使い分けている、ということも初めて知り、日本語の水準にあらためて感激します。徒手空拳で中也の詩と格闘するブログですが、また、コメントしてください。

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