カテゴリー

2024年1月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

« 2008年6月 | トップページ | 2008年8月 »

2008年7月

2008年7月26日 (土)

心象/死にたい生きたい

200807061_126

松の木に風、と聞いただけで
海岸沿いの松林を
幾つか思い浮かべることができるのは
日本に生まれ育ったからなのでしょうか

その道はたいてい砂利道で
ザクザクザクザク歩くにつれて立つ音は
たいてい寂しさの漂うものでした

暖かい春風が
ひゅーひゅーぼくの顔を撫でつけ
去来する思いは
昔のことばかりで
懐かしいものでした

見覚えのある風景を
中原中也は
喚起させる名人です。
こんな風景を見たことがある! と
読む人をただちに
詩世界の中に引き込みます。

松林を通り抜け
どこだか防波堤のような
人が腰掛けるのに恰好な場所があり
しばらく佇(たたず)みます

すると
波の音だけがひときわ高く
星のない夜空は綿のようです

おりしも通りかかった小船があり
船頭さんが
屋形の中の女房に
何かを喋っていたのだが
何を喋っていたのか聞き取れなかった

闇の中にふと現れる
人の賑わいに
詩人は入っていけませんでした

そして
波の音だけが高くまた聞こえてきた
孤独……

詩人はしばらく
こうして波の音を聞いています

どれほどの時間が過ぎて行ったのか
詩人はいつしか
深い悲しみの中にいます 

もうここにない過去
現在につながらない過去
滅んでしまった過去のすべてを思うと
涙が溢れてくる

城の塀は乾き切り
風が吹き渡る

草は靡き
丘を越えて、野を渡り
休むことがない
純白の天使の姿も見えてこない

ぼくは死にたかったのだ
ぼくは生きたかったのだ
滅び去った過去のすべてに向き合うと……

涙が溢れる
空の向こうから
風が吹いてくる

涙が溢れても
詩人の心は折れません
風の吹くにまかせ
むしろ決然とした感じさえあります
不思議です。

船頭の女房
白き天使……は
泰子であっても
なくてもよい

心の形
心象
ですから……

「少年時」という章の結末に
中也が配した作品です。

いよいよ
みちこ
汚れつちまつた悲しみに……
無題
雪の宵
時こそ今は……

などへ
恋は高まっていくのです。

 *

 心象

   I

松の木に風が吹き、
踏む砂利の音は寂しかつた。
暖い風が私の額を洗ひ
思ひははるかに、なつかしかつた。

腰をおろすと、
浪の音がひときは聞えた。
星はなく
空は暗い綿だつた。

とほりかかつた小舟の中で
船頭がその女房に向つて何かを云つた。
――その言葉は、聞きとれなかつた。

浪の音がひときはきこえた。

   Ⅱ

亡びたる過去のすべてに
涙湧く。
城の塀乾きたり
風の吹く

草靡(なび)く
丘を越え、野を渉(わた)り
憩ひなき
白き天使のみえ来ずや

あはれわれ死なんと欲す、
あはれわれ生きむと欲す
あはれわれ、亡びたる過去のすべてに

涙湧く。
み空の方より、
風の吹く

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

2008年7月24日 (木)

夏/血を吐くような

血を吐くような、とは、
過激です。

メランコリーとか倦怠とか
物憂さ、だるさ、とかが
血を吐くほどに高じているのです。

しかも、夏のことです。
麦はまだ穂を出していないかもしれません

草波の青に太陽は照りつけ
眠っているかのような悲しさで
空が遠いもののように感じられます

空は燃えている
畑はずっと続いている
雲が浮かび
陽が眩しい

今日も、昨日もそうだったように
太陽は燃え
大地は眠っている
血を吐くような切なさのせいで……

ここで
詩の中の時間が動きます
詩人は
距離を置いたかのように
詩人の心の、
嵐のように揺れ動いたそれまでを
眺めやるのです

それは、終わってしまい
もはやそこから何かを手繰り出そうとしても
何の糸口もないもののようだ
それは、燃える太陽の向こうで眠っている

私は、亡骸として残ります
私は、骸(むくろ)であっても
このまま残ります
血を吐くように切なさ悲しさですが……

体言止めでの
切なさ、悲しさ、です。

これも、
長谷川泰子との叶わぬ恋らしいのですが
恋だけには終わっていません
恋以上、恋以外が
歌われているように
受け取ることができます。

 *

 夏

血を吐くやうな 倦(もの)うさ、たゆけさ
今日の日も畑に陽は照り、麦に陽は照り
睡るがやうな悲しさに、み空をとほく
血を吐くやうな倦うさ、たゆけさ

空は燃え、畑はつづき
雲浮び、眩しく光り
今日の日も陽は炎(も)ゆる、地は睡る
血を吐くやうなせつなさに。

嵐のやうな心の歴史は
終焉(をは)つてしまつたもののやうに
そこから繰(たぐ)れる一つの緒(いとぐち)もないもののやうに
燃ゆる日の彼方(かなた)に睡る。

私は残る、亡骸(なきがら)として――
血を吐くやうなせつなさかなしさ。

*たゆけさ 緩んでしまりのない状態。だるさ。

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

2008年7月23日 (水)

失せし希望/空の月

昭和5年(1930)4月「白痴群」第6号に載った作品です。
同号の発行で「白痴群」は廃刊になりました。

この他に
「盲目の秋」
「わが喫煙」
「妹よ」
「汚れつちまつた悲しみに……」
「無題」
「更くる夜」
「つみびとの歌」
「雪の宵」
「生ひたちの歌」
「時こそ今は……」が第6号に掲載されました。
 *吉田凞生編「中原中也必携」別冊国文学NO.4

中也の独壇場の観がありますが
逆の意味で
グループの危機であったことも想像できます。

暗い空へ
ぼくの若き日の希望は
消えていってしまった

夏の夜の星のように
いまも遠くの空に見え隠れしている
ぼくの若き日の夢、希望

今は
はたとここに打ち伏して
獣のように、暗い思い

その思いは
いつになれば晴れるのやら分かりもしない

溺れた夜の海の中から
空に浮かんだ月を見るようだ
波はあまりに深く
月はあまりに清い

暗い空へ
ぼくの若き日の希望は
消えていってしまった

直訳すると
こんな風になりますが……

空の月は
泰子らしい……。

そう読まなくても
OKですが。

ここは
そう読んだほうが
すんなりしませんかね。
 
 *

 失せし希望

暗き空へと消え行きぬ
  わが若き日を燃えし希望は。

夏の夜の星の如くは今もなほ
  遐(とほ)きみ空に見え隠る、今もなほ。

暗き空へと消えゆきぬ
  わが若き日の夢は希望は。

今はた此処(ここ)に打伏して
  獣の如くは、暗き思ひす。

そが暗き思ひいつの日
  晴れんとの知るよしなくて、

溺れたる夜(よる)の海より
  空の月、望むが如し。

その浪はあまりに深く
  その月はあまりに清く、

あはれわが若き日を燃えし希望の
  今ははや暗き空へと消え行きぬ。

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

2008年7月20日 (日)

木蔭/詩人の休息

20080719_025

詩作品そのものから
しばし離れざるを得ず
詩集「山羊の歌」の外部を
少しばかりたどりました。

梅雨が明けて
季節は夏です。

意図したわけではありませんが
この時期の詩といっていいでしょう
木陰が気持ちよい季節です

夏、真昼、神社の境内、楡の木陰……

これらは
ぼくの過去から現在にわたって
まとわりつく後悔

涙に濡れた闇のように
いまや疲労と化して
身体に溜まり

朝から晩まで
忍従するしかなく
怨むことさえない
生気を失った心で
空を見上げるぼくの眼を

なぐさめてくれる
ああ
なぐさめてくれる

木陰です。

ここに
泰子の影を読む人もいます。

 *
 木蔭

神社の鳥居が光をうけて
楡(にれ)の葉が小さく揺すれる
夏の昼の青々した木蔭は
私の後悔を宥(なだ)めてくれる

暗い後悔 いつでも附纏ふ後悔
馬鹿々々しい破笑にみちた私の過去は
やがて涙つぽい晦暝(くわいめい)となり
やがて根強い疲労となつた

かくて今では朝から夜まで
忍従することのほかに生活を持たない
怨みもなく喪心したやうに
空を見上げる私の眼(まなこ)――

神社の鳥居が光をうけて
楡の葉が小さく揺すれる
夏の昼の青々した木蔭は
私の後悔を宥めてくれる

*破笑 思わず笑うこと。
*晦暝 暗闇。

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

「白痴群」の中也と大岡昇平2

20080719_011

大岡昇平が書いた「白痴群」(「文学界」1956年9月号初出)に引用された中原中也の「千葉寺雑記」で

雑誌が漸くだれてゐました所へ同人の一人と争ひというやうなわけでその雑誌はやめになりました。

と、ある「同人の一人」こそ、大岡昇平でありました。

大岡昇平は
「白痴群」の頃、つまり、昭和4、5年の頃を回想して、「白痴群」というタイトルの論評(これも中原中也評伝の一つにすぎない)を、戦後およそ10年を経てまとめているのですが、これをもしも中也が読んだら、どんなかことになるのか、また二人は取っ組み合いをしはじめるのか……。

そんなことを想像するだけでワクワクしてくるような、中也との「争い」をリアルに描いているのです。

「俘虜記」(1949年)
「野火」(1952年)

より後のことです。
1956年(昭和31年)のことです。

中也没後およそ20年が経過していました。
中也は1937年(昭和12年)に30歳で亡くなりました。
大岡昇平は、1909年(明治42年)生まれで、中也より2歳年下です。

中也への眼差しは、愛情にあふれたものですから、ぜひとも、このくだりは大岡昇平「白痴群」を読んでいただきたいのですが(*角川文庫「中原中也」大岡昇平著で読めます)、こんなふうに書いています。

中原も酔うと安原を除いて、我々を罵ることが多くなった。問題の喧嘩の時は、私は二重廻しを着ていたから、五年の一月「白痴群」第五号が出た時の同人会の時だったと思う。目黒不動の裏の安原の家だった。中原が富永次郎を罵り出した。「帰れ」「帰るとも」というような問答で、なぐり合いになりそうだったので、私が間に入ると、そんなら貴様が相手だということになった。富永は先に帰った。

「表へ出ろ」
ついでに散会ということになり、阿部六郎も村井康男も一緒に外へ出た。ほんとの喧嘩になろうとは誰も思っていなかったのだが、だんだん中原が私をなぐる気らしいのがわかって来た。「こっちへ来い」といって二重廻しの袖をつかんで、外の連中から引き離し、道傍の立木の間へ連れ込んだ。

仕方がないから、先へ立って歩いて行くと、いきなり後から、首筋をなぐった。歩いている人間をうしろからなぐるんだから、あんまり衝撃はない。私は向き直ったが、スタヴローギンになったつもりで、手を二重廻しのポケットから出さなかった。

中原は抵抗しないのに安心して「中原さんの腕前を見たか」とか何とかいいながら、跳躍しながら、拳骨で突きを入れて来た。これは少し痛かったが、私は最初の方針通り手を出さなかった。

私の中原への政策は、反抗してもいい負かされてしまうから、何もいわずに、ただ背を向けるということであった。外で会ったら、出来るだけ早く「さよなら」し、家へ来そうな日は外へ出てしまうのである。

理由をいわないのは卑怯だが、いう理由など実はなかったかもしれない。しかしとにかく何もいわずに反いている以上、鉄拳ぐらい我慢してやるというのが、スタヴローギン的感傷だったが、私も人になぐられたのは物心ついてからこれが初めてである。怪我にはならなかったが、なぐられた跡が、精神的に変にうずいた。

それから中原が酒席で罵る時、こっちから手を出すことにした。この時のなぐり方で、おとなしくしていれば、かさにかかって来る奴だということがわかったからである。
(改行を適宜、入れてあります)

太宰治とか、坂口安吾とか、中村光夫とか……。
中也から遠い文学者たちとの喧嘩と
大岡昇平との喧嘩とは
異なっていたと見るべきなのかもしれません。

何よりも
同人内部のことでしたから……。

しかし、大岡昇平は
「白痴群」を冷ややかな眼で見ています。

「白痴群」がつぶれたのは、決して中原と私が喧嘩したためではない。第五号も半分以上中原の原稿である。最初から書きたいものを持っていたのは、中原と河上だけで、あとはただ何となく書いたものが活字になるのがうれしいという程度で、熱心というものが全然なかった。

2008年7月19日 (土)

「白痴群」の中也と大岡昇平

20080719_013

「白痴群」は昭和四年四月創刊の同人雑誌である。同人は中原中也のほかに、河上徹太郎、阿部六郎、村井康男、内海誓一郎、古谷綱武、富永次郎、安原喜弘、それに私を入れた九人。

と、記すのは、もちろん、大岡昇平であります。

はっきりした主義主張があるわけでなく、中原の交友範囲の文学青年が十円の個人費を持ち寄っていたずら書きを活字にしただけのものである。従っていつも原稿の集まりが悪く、翌五年四月までに六号を出して廃刊になった。
(「白痴群」大岡昇平、「文学界」1956年9月号)

大岡昇平は、
いつもの通りの、
綿密な文献的考証によって、
「白痴群」の史的意味、
文学史的意味、
中原中也という詩人にとっての意味を
考えています。

中原中也自身が、「白痴群」についてふれた
「詩的履歴書」
「千葉寺雑記」
の二つの文章へ
注釈を加え、補足し、
自らの所見を述べるという形で
中也を語り、
中也を語る中で
大岡昇平自身を語っているのです。

ここに
「千葉寺雑記」から大岡昇平がとりあげた部分を引いておきましょう。
中也の「散文」は、
張りのようなものがあって
詩とはまた異なった味わいがあります。
それにふれるのもいいでしょうし、
中也自身が、生い立ちにふれていることも
中也を知る手がかりになりますし……

(以下、大岡昇平「白痴群」からの孫引き)

十二年二月七日附院長宛。
(略)何しろ小学に這入りましてからは、這入るとまづ、一番(成績順)にならなければ家を出すとお父さんが仰ったと母に聞かせられますし、学校に這入りましてからの家庭生活は、実に蟻地獄のやうでございました。

 それでもまづ中学一二年の頃までは、可なり従ってをりましたが、三年に到ってやり切れず、遂に落第。それより京都の中学に転校。何はあれ好きな道で早く恰好をつければ親も安心しようものと、勉強に勉強を致し、漸く昭和三年の春、今では有名な連中の出す雑誌創刊に招かれ、やれやれと思ひましたものの会って見ると赤い気持を持ってゐる様に思はれましたので、少しぐづりましたら相手も怒りましたので、いいことにして其処を去り、翌年「白痴群」なる雑誌を出しましたが、何分当時の文壇は大方赤く、雑誌が漸くだれてゐました所へ同人の一人と争ひといふやうなわけでその雑誌はやめになりました。其の後その一人その時は皆に可なりよく取入ってゐましたのでむしろよく思はれておりましたが、今ではみんなからシャーシャーした奴だとの様思はれてをります。

 その雑誌がやめになってみすれば、他に共に雑誌を始むべき者も見当らず、独りでコツコツ書いては数人に見せて、お茶漬けくらゐならどうにか一生食ってゆける境遇に甘んじて、四五年を過しました。(略)

*一部を現代語表記にしたほか、改行・行空きを加えました。

(つづく)

2008年7月17日 (木)

寒い夜の自我像完結篇

「寒い夜の自我像」は、
大岡昇平が指摘するように
「山羊の歌」の最終部「羊の歌」に連なってゆく
詩人が特別に位置づけした作品です。

どんな位置か……を
要約すると

1、そもそも「白痴群」創刊号に掲載した、中原中也初の詩作品であること。「白痴群」は、中也主導による文学同人誌でありましたし、他に発表の場を持っていなかった詩人が、かなり自由に、思いのままに作品を提示できた場でした。それまでに書き溜めた詩の中から、中也が創刊号掲載に選んだのが、この詩でした。
2、「山羊の歌」が、「少年時」「みちこ」「秋」の恋愛詩で終わることを望まなかった詩人が、最終部「羊の歌」への導入を意図して、恋愛詩の中に置いた、配列そのものに意味があること。そこには、立ち直りがたい失恋の痛みから抜け出ようとする詩人が、本来、詩作に見い出していた役割を再発見しようとしたことがうかがえます。
3、この詩の内容たるや、豊富な方向を持っていること。ことさら、「神」に向かうかに見える詩人のスタンスがほの見えるという点でエポックであります。

こんなことが、言えるのではないでしょうか。

「寒い夜の自我像」は、
これから、
いよいよ長谷川泰子との
愛の核心に触れる詩世界へ
入るというところで
少し冷静です。

自我像は、
自画像です。

では
「寒い夜の自我像」を、
未発表詩篇を合わせて
全行を載せておきます。

 *
 寒い夜の自我像

きらびやかでもないけれど
この一本の手綱をはなさず
この陰暗の地域を過ぎる!
その志明らかなれば
冬の夜を我は嘆かず
人々の憔懆(せうさう)のみの愁(かな)しみや
憧れに引廻される女等の鼻唄を
わが瑣細なる罰と感じ
そが、わが皮膚を刺すにまかす。

蹌踉(よろ)めくままに静もりを保ち、
聊(いささ)かは儀文めいた心地をもつて
われはわが怠惰を諫(いさ)める
寒月の下を往きながら。

陽気で、坦々として、而(しか)も己を売らないことをと、
わが魂の願ふことであつた!

「2」
恋人よ、その哀しげな歌をやめてよ、
おまへの魂がいらいらするので、
そんな歌をうたひ出すのだ。
しかもおまへはわがままに
親しい人だと歌つてきかせる。

ああ、それは不可ないことだ!
降りくる悲しみを少しもうけとめないで、
安易で架空な有頂天を幸福と感じ做し
自分を売る店を探して走り廻るとは、
なんと悲しく悲しいことだ……

「3」
神よ私をお憐み下さい!
 
 私は弱いので、
 悲しみに出遭ふごとに自分が支えきれずに、
 生活を言葉に換えてしまひます。
 そして堅くなりすぎるか
 自堕落になりすぎるかしなければ
 自分を保つすべがないやうな破目になります。

神よ私をお憐み下さい!
この私の弱い骨を、暖いトレモロで満たしてください。
ああ神よ、私が先づ、自分自身であれるよう
日光と仕事とをお与え下さい!

 *儀文 形式、型のこと。
 *トレモロ tremolo(伊) ひとつの音または複数の音を、急速に反復して演奏すること。また、このような演奏により、震えるように聞こえる音。

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』角川文庫クラシックスより)

もう一つの「自画像」

「中原が生前公表しなかったもう一つは『神』の問題である。『寒い夜の自我像』」の『3』は『神よ私をお憐み下さい』ではじまっている。」

1967年発行の角川書店版「中原中也全集」解説「詩Ⅱ」で、大岡昇平はおよそ10年前の「寒い夜の自我像」への評言を補うかのように、こう記しています。

「寒い夜の自我像」は、詩集「山羊の歌」に発表されたものの続篇として「2」があり、さらに「3」があるのです。その「3」が歌っているのは「神」でした。

いま、角川文庫クラシックス、佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』」に「未発表詩篇」として分類された「3」を読んでみると……

「3」
神よ私をお憐み下さい!
 
 私は弱いので、
 悲しみに出遭ふごとに自分が支えきれずに、
 生活を言葉に換えてしまひます。
 そして堅くなりすぎるか
 自堕落になりすぎるかしなければ
 自分を保つすべがないやうな破目になります。

神よ私をお憐み下さい!
この私の弱い骨を、暖いトレモロで満たしてください。
ああ神よ、私が先づ、自分自身であれるよう
日光と仕事とをお与え下さい!

* トレモロ trèmolo(伊) ひとつの音または複数の音を、急速に反復して演奏すること。また、このような演奏により、震えるように聞こえる音。

ストレートです。誠実一辺倒の中也がここにいるようです。

つづけて大岡昇平は

昭和三年五月から関口隆克と、下高井戸の京王線「北沢」駅(当時)附近に家を借り自炊した。関口は深夜祈りながら涙を流す中原の姿を回想している。

阿部六郎は、話が神の問題に及んだ時、今からすぐ二人で教会へ行って受洗しよう、と促されたことがあった。

昭和四年六月二十七日附けで河上徹太郎宛に送られた論文がある(「河上に呈する詩論」)。「(略)芸術とは、自然の模倣ではない。神の模倣である!」

と、三つの例をあげるなど、宗教家中原中也について触れています。

そう言われてみれば
「寒い夜の自我像」の「1」にも
十字架を背負ったキリストを想起させるものがありました。

しかるに
「山羊の歌」には「1」だけを載せた意図は、
宗教色を前面(全面)には
まだ打ち出したくなかったのかもしれません。

それにしても
「1」 だけでも十分に
クリスチャンっぽい響きがあります。

2008年7月16日 (水)

寒い夜の自我像

恋人よ、その哀しげな歌をやめてよ、
おまへの魂がいらいらするので、
そんな歌をうたひ出すのだ。
しかもおまへはわがままに
親しい人だと歌つてきかせる。

ああ、それは不可ないことだ!
降りくる悲しみを少しもうけとめないで、
安易で架空な有頂天を幸福と感じ做し
自分を売る店を探して走り廻るとは、
なんと悲しく悲しいことだ……

以上は
「山羊の歌」に公表された
「寒い夜の自我像」の続篇、
と大岡昇平が明らかにしている詩です。
(大岡昇平「片恋」。初出は「文芸」1956年6月号)

憧れに引廻される女等の鼻唄を
わが瑣細なる罰と感じ

この2行の背景を
大岡昇平は
解き明かしているのです。

この時期の長谷川泰子を、
「十九歳の私の眼から見れば、もう老いがその病身の顔に現れていたのだが、彼女はまだ自身を美しいと思い、銀幕上の見込のない成功にしがみついていた。」
と、なかなか辛らつな物言いをしています。

したがって、
この詩は
長谷川泰子そのものを登場させている、
と言ってよいでしょう。

その恋は
失われたものなのでした
だから……

だからといって
単なる失恋の詩
なのではありません。

失恋の詩でありながら
「志」を述べ
詩人のスタンスを宣言し
魂のありようを歌い
詩論を展開し
思想を語る……

中也の詩は
恋愛の詩であっても
恋愛だけに終わることのない詩になります

この一本の手綱
その志
静もりを保ち
儀文めいた心地をもつて
陽気で、坦々として、己を売らないわが魂

これらは
きらびやかなものではありません

 *

 寒い夜の自我像

きらびやかでもないけれど
この一本の手綱をはなさず
この陰暗の地域を過ぎる!
その志明らかなれば
冬の夜を我は嘆かず
人々の憔懆(せうさう)のみの愁(かな)しみや
憧れに引廻される女等の鼻唄を
わが瑣細なる罰と感じ
そが、わが皮膚を刺すにまかす。

蹌踉(よろ)めくままに静もりを保ち、
聊(いささ)かは儀文めいた心地をもつて
われはわが怠惰を諫(いさ)める
寒月の下を往きながら。

陽気で、坦々として、而(しか)も己を売らないことをと、
わが魂の願ふことであつた!

*儀文 形式、型のこと。

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』角川文庫クラシックスより)

◇この詩「寒い夜の自我像」は、中原中也が最も積極的だったといわれる同人誌「白痴群」の創刊号(昭和4年4月刊)に掲載されました。「プロ」の詩人としての中原中也が、活字にした初の詩作品ということになります。

2008年7月15日 (火)

詩人の祈り/妹よ

20080616_090

女ならだれしも
もう死んだっていいよう、と
どこか心の底で思っているのであろう。

なぜ、そんなことが言えるのか
というと
男だってだれしも
もう死んだっていいよう、と
思うことがあるからであります。

人はだれしも
もう死んだっていいよう、と
どこか心の底で思っていることがあるらしく

だから
可愛い女が、そう言うとき
男は、何をすればいいのか
何と言ってやればいいのか
途方に暮れるのであります

だから
祈るしかないのであります。

もう死んだっていいよう、を聞く人は
だから、お兄さんにならざるを得ないのです。

 *

 妹よ

夜、うつくしい魂は涕(な)いて、
  ――かの女こそ正当(あたりき)なのに――
夜、うつくしい魂は涕いて、
  もう死んだつていいよう……といふのであつた。

湿つた野原の黒い土、短い草の上を
  夜風は吹いて、 
死んだつていいよう、死んだつていいよう、と、
  うつくしい魂は涕くのであつた。

夜、み空はたかく、吹く風はこまやかに
  ――祈るよりほか、わたくしに、すべはなかつた……

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

2008年7月13日 (日)

二人だけの時/わが喫煙

165

これ以上
何を望んだのだろうか
何を求めたのだろうか

中原中也と長谷川泰子の
二人だけの時間が
これも14行に
濃密に刻まれました。

二人の距離は
もやは、ない、
と言えるほどに
近しい
港町、横浜あたりへのデート。

幾分か、
誇らしげでもある
詩人の心根が見える気がします。
こんな時もあったのだ。

にも拘わらず
自分の女ではない
自分の伴侶ではない

いや、そういうことではありません

自分の気持ちには応えていない女
一緒に、デートを楽しんでいるけれど
自分を心底で好いてくれてはいない女が
憎い……

 *

 わが喫煙

おまへのその、白い二本の脛(あし)が、
  夕暮、港の町の寒い夕暮、
によきによきと、ペエヴの上を歩むのだ。
  店々に灯がついて、灯がついて、
私がそれをみながら歩いてゐると、
  おまへが声をかけるのだ、
どつかにはひつて憩(やす)みませうよと。

そこで私は、橋や荷足(にたり)を見残しながら、
  レストオランに這入(はひ)るのだ――
わんわんいふ喧騒(どよもし)、むつとするスチーム、
  さても此処(ここ)は別世界。
そこで私は、時宜にも合はないおまへの陽気な顔を眺め、
  かなしく煙草を吹かすのだ、
一服、一服、吹かすのだ……

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

無限の前に腕を振る/盲目の秋

集中の絶唱に
突如、会います。

4章に分かれる長詩です。
連というより章と言う方がふさわしい
1章1章が独立した世界を展開します

第2章以外には
もろに、女=長谷川泰子が歌われます

なにも付け加えることもありません。
ただ読むだけでいい
ただ味わうだけでいい
魂の震えに合えばいい

小林秀雄のもとへ去った泰子でしたが
こんどは小林秀雄のほうが泰子から去り
中原中也は再び泰子に求愛します
しかし、受け入れてはもらえません

3、4章は、ほぼこの事実に照応していることが
多くの研究で明らかにされています。

大岡昇平が、
この時から、中也の恋がはじまった、とする
恋愛詩が多産される時期。

死ぬほど好きになった女
死ぬほど好きになってしまった男

実際は
中也の住処に
泰子が訪れることもあった、という
二人のただならぬ関係を
中也は絶望の底で
悲しんでいました。

風が立ち、
波が騒ぎ、
無限の前に腕を振る。

歯を食いしばって
断崖に立つ詩人。

甘やかな恋の時間にはいません。
苦しい
血を吐くような恋です……。

 

 *

 盲目の秋

   1

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限の前に腕を振る。

その間(かん)、小さな紅(くれなゐ)の花が見えはするが、
  それもやがては潰れてしまふ。

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまへに腕を振る。

もう永遠に帰らないことを思つて
  酷薄(こくはく)な嘆息するのも幾たびであらう……

私の青春はもはや堅い血管となり、
  その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。

それはしづかで、きらびやかで、なみなみと湛(たた)へ、
  去りゆく女が最後にくれる笑(ゑま)ひのやうに、
  
厳(おごそ)かで、ゆたかで、それでゐて佗(わび)しく
  異様で、温かで、きらめいて胸に残る……

      あゝ、胸に残る……

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまへに腕を振る。

   2

これがどうならうと、あれがどうならうと、
そんなことはどうでもいいのだ。

これがどういふことであらうと、それがどういふことであらうと、
そんなことはなほさらどうだつていいのだ。

人には自恃(じじ)があればよい!
その余はすべてなるまゝだ……

自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行ひを罪としない。

平気で、陽気で、藁束(わらたば)のやうにしむみりと、
朝霧を煮釜に填(つ)めて、跳起きられればよい!

   3

私の聖母(サンタ・マリヤ)!
  とにかく私は血を吐いた! ……
おまへが情けをうけてくれないので、
  とにかく私はまゐつてしまつた……

それといふのも私が素直でなかつたからでもあるが、
  それといふのも私に意気地がなかつたからでもあるが、
私がおまへを愛することがごく自然だつたので、
  おまへもわたしを愛してゐたのだが……

おゝ! 私の聖母(サンタ・マリヤ)!
  いまさらどうしやうもないことではあるが、
せめてこれだけ知るがいい――

ごく自然に、だが自然に愛せるといふことは、
  そんなにたびたびあることでなく、
そしてこのことを知ることが、さう誰にでも許されてはゐないのだ。

   4

せめて死の時には、
あの女が私の上に胸を披(ひら)いてくれるでせうか。
  その時は白粧(おしろい)をつけてゐてはいや、
  その時は白粧をつけてゐてはいや。

ただ静かにその胸を披いて、
私の眼に輻射してゐて下さい。
  何にも考へてくれてはいや、
  たとへ私のために考へてくれるのでもいや。

ただはららかにはららかに涙を含み、
あたたかく息づいてゐて下さい。
――もしも涙がながれてきたら、

いきなり私の上にうつ俯して、
それで私を殺してしまつてもいい。
すれば私は心地よく、うねうねの暝土(よみぢ)の径を昇りゆく。

*ローマ数字を、アラビア数字1、2、3、4と表記し直しました。

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

2008年7月12日 (土)

ギロギロ生きていた/少年時

ここには、
「恋愛」はないでしょう。
「女」の影もないでしょう。

しかし
暗喩というレトリックによれば
少年時代のできごとにかこつけて
泰子との失恋を歌った詩と
解釈できなくもありません。

ここでは
そんな深読みはしません。

でも
少年時代だけのことを回想した詩
とだけに限定して読むと
ただの思い出の詩かあ
ということになり
詩作品としての深みがなくなる
ということもあります。

少年時代のことを歌ったように
見せかけて
実は
つい最近の出来事
つい最近の喪失感
つい最近の失恋を歌った
ということは考えられます。

青黒い石は河原の石か
田舎の川に照りつけるカンカンの太陽
土肌は朱色をして眠るような静けさ

地平の果てに立つ蒸気
入道雲のことか
不吉に見えたのだ

麦の田を風が撫で倒し
それは、灰色で
爽やかなものではない

その上に黒い影
あれは飛行機が落とす影か
伝説の巨人のようだ
だいだらぼっちの物語

夏の午後
みんな昼寝の時間だというのに
ぼくは野原を走り回っていた
一人っきりで

希望を唇で噛み締めるように必死に
ギロギロする目で求めて……

諦めていた
冷徹な心をも失わずに

ああ
ぼく生きていた
生きていたのだ

やっぱり
「女」は出てこない、と
受け取ります。

ギロギロする目で諦める
ここに「女」がいそうではありますが……

 *

 少年時

黝(あをぐろ)い石に夏の日が照りつけ、
庭の地面が、朱色に睡つてゐた。

地平の果に蒸気が立つて、
世の亡ぶ、兆(きざし)のやうだつた。

麦田には風が低く打ち、
おぼろで、灰色だつた。
 
翔(と)びゆく雲の落とす影のやうに、
田の面(も)を過ぎる、昔の巨人の姿――

夏の日の午(ひる)過ぎ時刻
誰彼の午睡(ひるね)するとき、
私は野原を走つて行つた……

私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦めてゐた……
噫(ああ)、生きてゐた、私は生きてゐた!

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

中也の恋愛と作品

055

「(略)昭和三年五月小林と別れてから、中原は再び求愛したが容れられない。松竹へ入って映画女優となり、小林と同棲中から親交があった男と同棲した。その男がパリへ行くと、東中野に下宿して、駅前の芸術的カフェーに出入りして不安定な生活を送っていた。たまに中原の中高井戸の家へ来て泊ることがあるという程度に愛情を分配することもあったが、昭和五年末若い学生の子供を生んだ。これが恋愛関係においては決定的な別れとなり、八月、中原は代々木山谷の下宿に移転する。「少年時」「みちこ」「秋」に収められた詩篇は、大体この苦しい恋の経過から生れた。」

大岡昇平は、1967年、角川書店版「中原中也全集」解説に以上のように書いています。この文の主語は、長谷川泰子です。小林は、もちろん小林秀雄のことです。これは綿密な「文献的検索」の結果の発言です。

1967年角川版全集の編纂は、大岡昇平としては3回目の仕事でした。1回目は、1951年の創元社版、2回目は1960年の角川書店版でした。

「山羊の歌」の半分が「初期詩篇」で、それ以外の「少年時」「みちこ」「秋」の詩がほとんど長谷川泰子への求愛から失恋の過程で創られた、と断言しているのです。

しかし、だからこの時期の作品すべてが恋愛詩ではないでしょうし、

「ただ、こういう風に、詩人の生活、特に恋愛から、その創造のすべてを解釈するのは誤っていよう。詩人は結局のところ、恋人より作品を大事にしている。『恋愛を夢みるほかに能がない』という歎きは彼の生活感情であるが、それをそう表出する時、彼はより普遍的なものを目指しているのである。」

とも書いています。

とはいえ、「初期詩篇」の中にも長谷川泰子をモデルにした作品があるかもしれないし、「初期詩篇」以外の作品の7~8割が「泰子がらみの詩」であるなら、「山羊の歌」全体の半分は、長谷川泰子を元にした作品ということになります。

その説に沿って、「少年時」の中の8篇、「みちこ」の中の5篇、「秋」の中の5篇を読んでいくことにしますが……

「山羊の歌」末尾に配列された「羊の歌」の3篇は、もはや、恋愛詩ではありません。失恋の苦悩のさなかに、詩人は、詩人の立つ位置への悲痛といってもいい宣言を敢行します。詩集の結びとして、「いのちの声」を含む3篇を置いた

ということも忘れないでおきたいものです。

2008年7月 8日 (火)

月/詩人の悲しみ

Tuki

初期詩篇で一つだけ
読まなかった詩があります。
初期詩篇の2番目。
「山羊の歌」全体から見ても
2番目に置かれた
「月」という作品です。

ダダの詩です。

だからといって
恐れることはありません。

詩を読んで
苦しむことはありません。
もし苦しんでいるのなら
何かが間違っていますよ!

ダダの詩なら
いっそ楽しみたいですね。

中也の作品としては初期のもの。
であるがゆえに
ダダである上
若い(=青い)作品といえるかもしれません。

でも詩句を何度も追っているうちに
見えてくるものがあります。
ある形みたいなものが
浮かび上がってきて
やっぱり中也だと見直します。

4-4-3-3の14行詩
ソネットの形。

各連に「月」の1字が見えます。
その月を見比べると……。

1連は、月はいよいよ悲しく
2連は、物憂く煙草を吸っている
3連は、汚辱に浸る月
4連は、月は待っている

月は詩人自らのことと
想像できるでしょう。

1連の4行は、悲しい理由
2連の4行は、戦地のイメージか
3連の4行は、天女が舞い元気づけようとし
4連の4行は、慰められない詩人が、
       星々に向かって
       自らへの裁断を呼びかけます

2008年7月 6日 (日)

宿酔/天使たちのバスケットボール

181

4行3連で
第1連と第3連は全く同一の詩句。
こういうのを
2部形式と音楽の授業で習った覚えがあります。
シンプルであるがゆえに
中身の濃さが問われる、というか。

一読して
残るのは第2連
もう不要になったストーブ。

ここに中也がいる
と真っ先に思ってしまいます。

白っぽくさびているストーブは
ダルマストーブなのでしょうか
昔の小学校、中学校、高校など学校……は
駅舎の待合室……は
みんなダルマストーブでしたが
個人の家ではどうだったのでしょう

石炭やコークスの
燃え盛るストーブは
太陽の赤でしたが
一度消してしまえば
白い粉を吹き出して
隅っこに死んでいました

目を瞑(つむ)ると
このストーブが見えるのです。

朝、目覚めると
曇天に風。
それも強い風です。

二日酔いで
ガンガンする頭をかかえた詩人が見るのは
たくさんの天使が
バスケットボールをしている景色です。

強い風が
詩人には
天使のバスケットボールに見えたのです。

なんだかシュールな映像!

曇天に強い風は
宿酔の詩人に
心地よかったのかもしれません。

初期詩篇の末尾を飾る作品です。

 *

 宿酔

朝、鈍い日が照つてて
  風がある。
千の天使が
  バスケットボールする。

私は目をつむる、
  かなしい酔ひだ。
もう不用になつたストーヴが
  白つぽく銹(さ)びてゐる。

朝、鈍い日が照つてて
  風がある。
千の天使が
  バスケットボールする。

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

秋の夜空/遠いお祭り

6行3連
各連第5行を3字下げとする
めずらしいフォームです。

字下げの行は下界
以外は天界
いずれも秋の夜が歌われています。

賑わしく
てんでに語り合い
よそよそしい雅を漂わせる
奥様たち

下界の秋は
寂しい秋だというのに

磨かれたフロア
星々は輝き
椅子の一つも置いていない
明るさ

下界の秋は
寂しい秋だというのに

ほんのりと電灯をともし
昔の陰祭りのように
静かな賑わい

私は下界で見ているだけだったが……

いつの間にか
天界に入り込み
いつの間にか
退場していました。

字義通りに読める作品ですが
やはり

第1連
それでもつれぬみやびさよ。
第2連
椅子は一つもないのです。
第3連最終行
知らないあひだに退散した。

この3行に
詩人の孤独、隔絶感、疎外感覚は
あります。

平明平凡に見える詩ながら
影祭りは遠く(距離)
遠い日(時間)のことでした

と、読んでいくと
やはり
非凡さが立ち現れてきます。

秋の夜空は遠く
秋の夜空は遠い昔の影祭り……。
なのです。

 *

 秋の夜空

これはまあ、おにぎはしい、
みんなてんでなことをいふ
それでもつれぬみやびさよ
いづれ揃つて夫人たち。
    下界は秋の夜といふに
上天界のにぎはしさ。

すべすべしてゐる床(ゆか)の上、
金のカンテラ点(つ)いてゐる。
小さな頭、長い裳裾(すそ)、
椅子は一つもないのです。
    下界は秋の夜といふに
上天界のあかるさよ。

ほんのりあかるい上天界
遐(とほ)き昔の影祭、
しづかなしづかな賑はしさ
上天界の夜(よる)の宴。
    私は下界で見てゐたが、
知らないあひだに退散した。

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

2008年7月 5日 (土)

青春のカドリール/春の思ひ出

Byjohanniterburg
by Johanniterburg

東京郊外といわず
たとえば渋谷や中野、
世田谷、杉並……にも
れんげの咲く原はありました。
この詩の場所がどこだか

摘んで摘んでたくさん溜まった
れんげの花を
持って帰るにゃ
ちと面倒過ぎて
そこいらの原に投げ捨てて
帰りの道を急いだ
思い出ならば
だれにもあることだし
どこでもいいではありませんか

叩きつけて
その場を去ったものの
寂しさに……哀れさに……
振り返っては
何事もなかった顔をして
手などをはたいて
走ってきたよ

まだ陽は暮れ残っている!

家に辿り着けば
和やかな夕餉のとき
秋の日の夕方の光なのか
それともご飯を炊く煙の匂いなのか
とろとろに
ぼくを眩(くら)ませるものがありました。

すると詩人は……

古い時代の立派な屋敷の
カドリールという
ダンスに興じる男と女
スカートが揺れている

老若男女入り乱れて
楽しげに踊る
中世フランスのある館に
ワープするのです

眩暈(めまい)のするほどの
幸福なときの絶頂
おお
永くは続かないものであることの
恐れ、嘆きへと
転じます……。

ああ
いつの日か
なくなってしまうのか
カドリール!

第4連での
突然の場面転換
転調が
思い出のスケールを大きくします。

幼時の思い出が
青春の思い出へと飛躍します。

青春の思い出が
人の世の思い出へ……。

 *

 春の思ひ出

摘み溜めしれんげの華を
  夕餉(ゆふげ)に帰る時刻となれば
立迷ふ春の暮靄(ぼあい)の
    土の上(へ)に叩きつけ

いまひとたびは未練で眺め
  さりげなく手を拍きつつ
路の上(へ)を走りてくれば
    (暮れのこる空よ!)

わが家へと入りてみれば
  なごやかにうちまじりつつ
秋の日の夕陽の丘か炊煙か
    われを暈(くる)めかすもののあり
      
      古き代の富みし館(やかた)の
          カドリール ゆらゆるスカーツ
          カドリール ゆらゆるスカーツ
      何時の日か絶えんとはする カドリール!

*カドリール quadrille(仏)組になった男女が方形に並んで踊るフランスの舞踊。
(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』角川文庫クラシックスより)

ためいき/荷車の音

20080616_012_2

夜の沼とは
たとえば
井の頭池とか石神井池とか
幽霊でも出てきそうな東京の
樹木が鬱蒼と茂る暗闇で
夜ともなれば
瘴気が立ち込める

詩人のためいきはそこへ行き
目をパチクリさせるのです。
そのパチクリは怨めしそうであり
限界を超えてパチンと破裂します。
知り合いの若い学者先生たちは
首筋を幾本もの木々のようにしています。

孤絶、疎外、焦燥……などから
詩人が抱え込んだためいきは深まり
時として爆発するのです。

木々が若い学者仲間の、頸すぢのやうであるだらう。

河上君!
君の友達の仏文学生たちは
ほんに素直で嫌味がなくて……
木みたいだねえ
木々が首筋のようだねえ

多少からかいも含めて
尊敬のあいさつを贈っているようです
ぼくのためいきなんか聞こえていないようだ

たとえば詩人は
眠れぬ夜を一人自室で過ごします。
夜が明けると
地平線が見える窓が開くことでしょう。

荷車をひいてゆく百姓は
詩人のこと
町へ向かっていくのです。
その吐き出すためいきは
いっそう深いものになり
丘にさしかかった荷車の音にかぶさります。
ためいきはすでに荒々しい呼吸です。

野原には頭上に松の木
荷車をひく詩人を見守っています。
あっさりしていて笑わない
おじさんのようです。

あるいはそれは

空気の層の底で
魚を捕まえているのかもしれません。

空が曇り
神が見えなくなると
イナゴたちは砂土にもぐり
目だけを出して見るでしょう。

遠くの町は、石灰のように白々としていて
ピョートル大帝の大きな目玉が
雲の中にギラギラ光っています。

ためいきは
神を呼ぶほどに
深く……。

 *

 ためいき
   河上徹太郎に

ためいきは夜の沼にゆき、
瘴気(しやうき)の中で瞬きをするであらう。
その瞬きは怨めしさうにながれながら、パチンと音をたてるだらう。
木々が若い学者仲間の、頸すぢのやうであるだらう。

夜が明けたら地平線に、窓が開(あ)くだらう。
荷車を挽いた百姓が、町の方へ行くだらう。
ためいきはなほ深くして、
丘に響きあたる荷車の音のやうであるだらう。

野原に突出た山ノ端の松が、私を看守(みまも)つてゐるだらう。
それはあつさりしてても笑はない、叔父さんのやうであるだらう。
神様が気層の底の、魚を捕つてゐるやうだ。

空が曇つたら、蝗螽(いなご)の瞳が、砂土の中に覗くだらう。
遠くに町が、石灰みたいだ。
ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光つてゐる。

*瘴気 熱病を起させる毒気。
*ピョートル大帝 ロシア皇帝ピョートル一世(1672―1724)。西欧文化を積極的に取り入れ、絶対主義帝政を確立した。
(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』角川文庫クラシックスより)

ぎーこたん ばったり/港市の秋

104

「帰郷」あたりから
東京を離れた詩世界が
ふたたび、都会の匂いを放ちはじめます。

といっても
そこは横浜らしい。
「秋の一日」と同じ舞台の横浜らしい。

詩人は
埠頭の見える丘にいます。

その手前の石崖に
朝の陽光が射し
息を飲む美しさです。
その向こうの港に
カタツムリの角(つの)のようなものは
繋留中の船のマストだろうか……。

いま歩いてきたばかりの町では
煙管の手入れをするおじさん
住家の屋根はリラックスしてあくびをし
空はぽっかり割れて真っ青な青空
休日の役人はどてら姿もしどけなく
くつろいでいました。

水兵がなにやら
今度生まれてきたら
なんて歌うのが聞こえました。
ばあさんが
ぎーこたん ばったりしようよ
なんて歌うのも聞こえました。

港町の秋です
眠りたくなりような
穏やかな
私の入り込めない……
おとなしい……
ものみな発狂したような風景でした。

私は
この日
わたしがいられる場所を
失って
私が存在できる場所を探そうと
心に決めるのでした……。

 ◇
横浜へ中也は
「女」と会いにでかけたことが
知られています。
 ◇
一連の「横浜もの」などと
呼ばれているようですが 
「サラリーマンもの」とも
分類できそうです。

 *

 港市の秋

石崖に、朝陽が射して
秋空は美しいかぎり。
むかふに見える港は、
蝸牛(かたつむり)の角でもあるのか

町では人々煙管(きせる)の掃除。
甍(いらか)は伸びをし
空は割れる。
役人の休み日――どてら姿だ。

『今度生れたら……』
海員が唄ふ。
『ぎーこたん、ばつたりしよ……』
狸婆々(たぬきばば)がうたふ。

  港(みなと)の市(まち)の秋の日は、
  大人しい発狂。
  私はその日人生に、
  椅子を失くした。

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』角川文庫クラシックスより)

夕照/戦地に聞こえる詩

20070904_025

どこだかで大岡昇平が
戦地でこの詩の一節を
口ずさんで苦しい時を
やり過ごした、
というようなことを書いています。

「野火」「レイテ戦記」の作家が
この詩に何を感じていたのか
を思って、この詩を読んでいる
自分に気付きます。

とすると……

鄙唄の歌い手は
誰なのか

丘々が向こうの方に
女性が胸に手をあてがって
祈っているかのように
見えます

金色の落陽は
慈愛に満ちて……

草原から鄙唄が聞こえ
山の木々はつましい

ここに母がいます。

母を思っている私は
この時
子どもが踏んづけた貝を見るのです。

貝の肉……
これをどう解するか
さまざまですが
人の世の現実
悲しみの溢れる
いかんともしがたい……

こんなときであるからこそ
剛直な心を保ち
奥ゆかしく諦めよう

じっとこらえて
腕組んで
歩いてゆくのです。

 *

 夕照

丘々は、胸に手を当て
退けり。
落陽は、慈愛の色の
金のいろ。

原に草、
鄙唄(ひなうた)うたひ
山に樹々、
老いてつましき心ばせ。

かゝる折しも我ありぬ
小児に踏まれし
貝の肉。

かゝるをりしも剛直の、
さあれゆかしきあきらめよ
腕拱(く)みながら歩み去る。

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』角川文庫クラシックスより)

2008年7月 4日 (金)

夏の日の歌/いじらしい夏空

20080623_012

難しい語句が一つもなく
はじめ、稚拙を思わせる
平易な言葉の列だけで
ある夏の1日の、ある昼間の
静かな時間、静かな空間を
歌います。

アスファルトの道が
一瞬、時間を止めたかのように
澄んで、清々しく
タールの焦げ茶はいっそう鮮やかです。

青い空は動かない、
雲一つないから、動かない

炎天の夏日が
静もりかえった一時(いっとき)を
感じさせることがあるのを
人はみな経験しています。
どこか懐かしい感覚!

何もない青空なのに
何かがある!
いじらしく思わせる何かがある

それは
微動だにしない向日葵
図太い向日葵の黄色
田舎の駅の植え込みに咲いています。

シュッシュポッポ ポーッ
シュッシュポッポ ポーッ

山に抱かれて
裾野を走る汽車が汽笛を鳴らす

お上手! お上手!
やんちゃ坊主をしっかり育てている
母さんのようです。

ああ
静かな
夏の日。

あれは
母さんの……

 * 

 夏の日の歌

青い空は動かない、
雲片(ぎれ)一つあるでない。
  夏の真昼の静かには
  タールの光も清くなる。

夏の空には何かがある、
いぢらしく思はせる何かがある、
  焦げて図太い向日葵(ひまはり)が
  田舎の駅には咲いてゐる。

上手に子供を育てゆく、
母親に似て汽車の汽笛は鳴る。
  山の近くを走る時。

山の近くを走りながら、
母親に似て汽車の汽笛は鳴る。
  夏の真昼の暑い時。

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』角川文庫クラシックスより)

中也の詩の「女」たち

20080623_022

「山羊の歌」の全篇の
いくつかには
「女」が登場します。

その「女」のほとんどが
長谷川泰子をモデルにしている
といわれています。

中也は、京都で知り合い
京都で同棲しはじめた泰子と連れ立って
東京での生活をスタートしました。
1925年、大正14年3月のことでした。

その泰子が
文学的僚友である小林秀雄のところへ
出奔してしまうのは
その年の11月でした。

中也と泰子の関係が
ここで断たれたわけではなく
小林秀雄自らが名づけたように
「奇妙な三角関係」が
以降、ずっと続きます。

泰子を失った中也の
懊悩、狼狽、衝撃……は
後になって
「私は口惜しい人であった」と
記されるように
中也の心を支配し
中也の格闘ははじまります。
この格闘が
歌われないわけがありません。

いま、「山羊の歌」の内の
初期詩篇44篇に
表現された詩句だけをたどってみても
「女」は随所に見られ

直喩、暗喩……
シンボライズ……
擬人化……など、
レトリックの中に登場する「女」も
あちこちに散らばっています。

例えば
「春の夜」の
第1連
 
燻銀なる窓枠の中になごやかに
  一枝の花、桃色の花。

とあるのは、明らかに
「女」です。
これを、
長谷川泰子とみなすのか、みなさないのか
それを探る試みには
深入りしません。
それは
研究、考証……の仕事です。

2008年7月 3日 (木)

山羊の歌の構成2

 春の日の夕暮れ
 月
 サーカス
 春の夜
 朝の歌
 臨終
 都会の夏の夜
 秋の一日
 黄昏
 深夜の思ひ
 冬の雨の夜
 帰郷
 凄じき黄昏
 逝く夏の歌
 悲しき朝
 夏の日の歌
 夕照
 港市の秋
 ためいき
 春の思ひ出
 秋の夜空
 宿酔

以上の初期詩篇22篇のうち

春の日の夕暮れ

サーカス
春の夜

の4篇はダダの強い影響下にある詩。

朝の歌
以降は、ダダのみにあらず
ランボー、ベルレーヌらフランスの詩人
富永太郎、宮沢賢治、北原白秋ら日本詩人

いろいろな詩の影響を受け
ダダも時折顔を見せる

中原中也の詩が確立されていった
豊饒の時間です。

どの詩も
読み込めば読み込むほど
中也の魂の核心にある
悲しみ

透き通るような悲しみを
放出しています。

帰郷以降の6篇
夕照まで
舞台は東京を離れ、

再び
港市の秋で
都会の匂いが戻ります。

初期詩篇を通り抜けると
少年時
みちこ

羊の歌

と、中也が
作品群を分類し配列した意図は明瞭になり
詩集の全貌が見えてきます。

そして、最終末に
いのちの声が配されたことを
拍手することになります。

 

 

山羊の歌の構成1

とにかくも作品にふれてみよう
ということで
山羊の歌を読みはじめたのはいいのですが
そして詩の魂に少しふれた感じがしているのはいいのですが

いま、どこを、歩いているのだろう
と、ふと疑問が生まれました
そこで、少し、退(ひ)いてみて……
「詩集山羊の歌」のつくりを俯瞰してみます。

山羊の歌は
 初期詩篇
 少年時
 みちこ
 秋
 羊の歌

と、五つに分けられ、

初期詩篇は22篇

 春の日の夕暮れ
 月
 サーカス
 春の夜
 朝の歌
 臨終
 都会の夏の夜
 秋の一日
 黄昏
 深夜の思ひ
 冬の雨の夜
 帰郷
 凄じき黄昏
 逝く夏の歌
 悲しき朝
 夏の日の歌
 夕照
 港市の秋
 ためいき
 春の思ひ出
 秋の夜空
 宿酔

少年時は9篇

 少年時
 盲目の秋
 わが喫煙
 妹よ
 寒い夜の自画像
 木蔭
 失せし希望
 夏
 心象

みちこは5篇

 みちこ
 汚れつちまつた悲しみに……
 無題
 更くる夜
 つみびとの歌

秋は5篇

 秋
 修羅街輓歌
 雪の宵
 生ひ立ちの歌
 時こそ今は……

羊の歌は3篇
 羊の歌
 憔悴
 いのちの声

全部で、44篇で構成されています。

はじめに読んだのが
詩集の最終に置かれた
「いのちの声」でした。

いま、2008年7月3日現在、
「月」を飛ばした以外、
初期詩篇の「悲しき朝」まで
山羊の歌の3分の1ほどを読み終えました。

順に読みながら、
ときどき、
「在りし日の歌」「未刊詩篇」にもふれました。

悲しき朝/知れざる炎

20080104_252h

いくつもの巨岩が山をなし
岩と岩との間を流れ落ちてくる滝があります。
水しぶきを浴びながら見上げると
彼方には木々がのぞき
そのまた彼方にはコバルトブルーの空……。

ひっきりなしに聞こえてくるせせらぎの音
春先の陽光はキーンと固く
岩の間を流れ落ちる滝は
まるで老女の白髪……。

ぼくは歌った
雲母みたいに薄っぺらに

心の中は涸れていて、皺枯れていて
岩の上で綱渡りしているようだった

でも、だれも知らないだろう! 
ぼくの中の炎、
情熱は空に向かって行ったのさ。

河瀬の音が雨の音になっていよいよ高まって、
ああ心の中までビショビショしてきた!

…………

とにもかくにも
ぼくは手をはたいて……
この手に負えない悲しみに
……折れ合おうと
……したのです
……

 ◇中也の弟中原思郎が、この詩の舞台を、中也の故郷山口・泰雲寺の鳴滝として以後、多くの人がそうみなすようになったようです。

 *

 悲しき朝

河瀬の音が山に来る、
春の光は、石のやうだ。
筧(かけひ)の水は、物語る
白髪(しらが)の嫗(をうな)にさも肖(に)てる。

雲母の口して歌つたよ、
背(うし)ろに倒れ、歌つたよ、
心は涸(か)れて皺枯(しわが)れて、
巌(いはほ)の上の、綱渡り。

知れざる炎、空にゆき!

響の雨は、濡れ冠る!

・・・・・・・・・・・

われかにかくに手を拍く……

2008年7月 2日 (水)

乗り手のない自転車/逝く夏の歌

20070426_003p

「帰郷」あたりから
東京を離れたイメージになり
「凄じき黄昏」
今回の「逝く夏の歌」
「悲しき朝」
「夏の日の歌」
「夕照」まで
どことなく開けた感じの景観風物や自然が
歌われていると思えませんか。
気のせいかもしれません。

中也が「帰郷」以後の数編を
制作日の順に配列した、
というより
詩が喚起するイメージの共鳴を狙って
一つのまとまりをつけた、
と見るほうが面白そうです。

「凄じき黄昏」の戦争は
「逝く夏の歌」の

飛行機、
陥落、
騎兵聯隊、
上肢の運動、
下級官吏の赤靴……

の戦争へと、すんなりと続いていきます。

そうして、この詩の主人公は旅人です。
旅人はそして私です。

第1連第1-2行は空
3-4行は旅人
第2連第1-2行は山の端
3-4行は私

というように主語が入れ替わり
対をなします。
空が見ます私が見付けます。
山の端が清くします私が塗っておきます。

空が見る
山の端が清くする
ここに戸惑うこともありません
ごく自然な擬人法で
すんなり通じます。

第3連
風はリボンを空に送り、
で、視線は転換し
戦争に向かいます。

陥落した海とは
中也が1歳の時に滞在した旅順、か。
その陥落は、歴史的事件で
むろん中也は経験しているわけではありません……。
記憶にすらありません……。

その戦争の悲惨さを語ろう
というのではないようです。

海や、その浪や……。
騎兵聯隊や上肢の運動や……、
下級官吏の赤靴のことや
乗り手もなく行く自転車のことを

語ろうと思うのです。

乗り手もなく行く自転車!

ここに私=詩人が語ろうとしている
悲しみのすべてがあります。

 *

 逝く夏の歌

並木の梢が深く息を吸つて、
空は高く高く、それを見てゐた。
日の照る砂地に落ちてゐた硝子(ガラス)を、
歩み来た旅人は周章(あわ)てて見付けた。

山の端は、澄んで澄んで、
金魚や娘の口の中を清くする。
飛んでくるあの飛行機には、
昨日私が昆虫の涙を塗つておいた。

風はリボンを空に送り、
私は嘗(かつ)て陥落した海のことを 
その浪のことを語らうと思ふ。

騎兵聯隊や上肢の運動や、
下級官吏の赤靴のことや、
山沿ひの道を乗手(のりて)もなく行く
自転車のことを語らうと思ふ。

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』角川文庫クラシックスより)

2008年7月 1日 (火)

凄まじい黄昏/屍体累々

054

丸2日しきりに考える詩でした。
ただの黄昏ではないのだな
凄まじいのだ、このたそがれは……。

3-3-3-2を
繰り返し読んでみるのですが
戦世(いくさを)を思うほどに
何が今、凄まじいのだろう
詩人の心の内に荒れ狂うのは
憤り? 悲しみ?  嫉妬?
口惜しさ?

どこか広々とした草原を
眼下に見ているのでしょうか。
風がビュービュー吹き
いい加減、煩わしいほどに吹き止みません。
草々は横倒しに吹きつけられるままです。
こうも荒涼とした風景につつまれては
自然と遠き時代の薩摩隼人らが行った
戦のことが思いやられてきます。

いかにも急ごしらえの竹やりの一群が
川沿いを進んでいきました
一個の雑兵(ぞうひょう)であることに
自分を任せきって。

風は
行く手行く手の累々たる屍を
運ぶこともしない、できない。
その彼方の空は
死体の山にかぶさるように
立ち上がっている

戦いに参加していない家々の者こそは
賢い陪臣(また家来)なのです
煙草のヤニで汚れた歯を隠して
ひたすら見せかけの従順を装っています

第3連終行の
空、演壇に立ち上がる。が、
難解を極めましたが
なんとか僚友・来人のアドバイスを得て
演壇を屍の塚と解釈しました。

ひとたび解釈できると
ほかの解釈も生まれてくる
多様な解釈を許容する
不思議な魅力。

中也詩の、ここにも、強さがあるようです。

 *

 凄じき黄昏

捲き起る、風も物憂き頃ながら、
草は靡(なび)きぬ、我はみぬ、
遐(とほ)き昔の隼人(はやと)等を。

銀紙(ぎんがみ)色の竹槍の、
汀(みぎは)に沿ひて、つづきけり。
――雑魚(ざこ)の心を俟(たの)みつつ。

吹く風誘はず、地の上の
敷きある屍(かばね)――
空、演壇に立ちあがる。

家々は、賢き陪臣(ばいしん)、
ニコチンに、汚れたる歯を押匿す。

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』角川文庫クラシックスより)

« 2008年6月 | トップページ | 2008年8月 »