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2008年7月26日 (土)

心象/死にたい生きたい

200807061_126

松の木に風、と聞いただけで
海岸沿いの松林を
幾つか思い浮かべることができるのは
日本に生まれ育ったからなのでしょうか

その道はたいてい砂利道で
ザクザクザクザク歩くにつれて立つ音は
たいてい寂しさの漂うものでした

暖かい春風が
ひゅーひゅーぼくの顔を撫でつけ
去来する思いは
昔のことばかりで
懐かしいものでした

見覚えのある風景を
中原中也は
喚起させる名人です。
こんな風景を見たことがある! と
読む人をただちに
詩世界の中に引き込みます。

松林を通り抜け
どこだか防波堤のような
人が腰掛けるのに恰好な場所があり
しばらく佇(たたず)みます

すると
波の音だけがひときわ高く
星のない夜空は綿のようです

おりしも通りかかった小船があり
船頭さんが
屋形の中の女房に
何かを喋っていたのだが
何を喋っていたのか聞き取れなかった

闇の中にふと現れる
人の賑わいに
詩人は入っていけませんでした

そして
波の音だけが高くまた聞こえてきた
孤独……

詩人はしばらく
こうして波の音を聞いています

どれほどの時間が過ぎて行ったのか
詩人はいつしか
深い悲しみの中にいます 

もうここにない過去
現在につながらない過去
滅んでしまった過去のすべてを思うと
涙が溢れてくる

城の塀は乾き切り
風が吹き渡る

草は靡き
丘を越えて、野を渡り
休むことがない
純白の天使の姿も見えてこない

ぼくは死にたかったのだ
ぼくは生きたかったのだ
滅び去った過去のすべてに向き合うと……

涙が溢れる
空の向こうから
風が吹いてくる

涙が溢れても
詩人の心は折れません
風の吹くにまかせ
むしろ決然とした感じさえあります
不思議です。

船頭の女房
白き天使……は
泰子であっても
なくてもよい

心の形
心象
ですから……

「少年時」という章の結末に
中也が配した作品です。

いよいよ
みちこ
汚れつちまつた悲しみに……
無題
雪の宵
時こそ今は……

などへ
恋は高まっていくのです。

 *

 心象

   I

松の木に風が吹き、
踏む砂利の音は寂しかつた。
暖い風が私の額を洗ひ
思ひははるかに、なつかしかつた。

腰をおろすと、
浪の音がひときは聞えた。
星はなく
空は暗い綿だつた。

とほりかかつた小舟の中で
船頭がその女房に向つて何かを云つた。
――その言葉は、聞きとれなかつた。

浪の音がひときはきこえた。

   Ⅱ

亡びたる過去のすべてに
涙湧く。
城の塀乾きたり
風の吹く

草靡(なび)く
丘を越え、野を渉(わた)り
憩ひなき
白き天使のみえ来ずや

あはれわれ死なんと欲す、
あはれわれ生きむと欲す
あはれわれ、亡びたる過去のすべてに

涙湧く。
み空の方より、
風の吹く

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

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