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2008年7月13日 (日)

無限の前に腕を振る/盲目の秋

集中の絶唱に
突如、会います。

4章に分かれる長詩です。
連というより章と言う方がふさわしい
1章1章が独立した世界を展開します

第2章以外には
もろに、女=長谷川泰子が歌われます

なにも付け加えることもありません。
ただ読むだけでいい
ただ味わうだけでいい
魂の震えに合えばいい

小林秀雄のもとへ去った泰子でしたが
こんどは小林秀雄のほうが泰子から去り
中原中也は再び泰子に求愛します
しかし、受け入れてはもらえません

3、4章は、ほぼこの事実に照応していることが
多くの研究で明らかにされています。

大岡昇平が、
この時から、中也の恋がはじまった、とする
恋愛詩が多産される時期。

死ぬほど好きになった女
死ぬほど好きになってしまった男

実際は
中也の住処に
泰子が訪れることもあった、という
二人のただならぬ関係を
中也は絶望の底で
悲しんでいました。

風が立ち、
波が騒ぎ、
無限の前に腕を振る。

歯を食いしばって
断崖に立つ詩人。

甘やかな恋の時間にはいません。
苦しい
血を吐くような恋です……。

 

 *

 盲目の秋

   1

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限の前に腕を振る。

その間(かん)、小さな紅(くれなゐ)の花が見えはするが、
  それもやがては潰れてしまふ。

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまへに腕を振る。

もう永遠に帰らないことを思つて
  酷薄(こくはく)な嘆息するのも幾たびであらう……

私の青春はもはや堅い血管となり、
  その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。

それはしづかで、きらびやかで、なみなみと湛(たた)へ、
  去りゆく女が最後にくれる笑(ゑま)ひのやうに、
  
厳(おごそ)かで、ゆたかで、それでゐて佗(わび)しく
  異様で、温かで、きらめいて胸に残る……

      あゝ、胸に残る……

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまへに腕を振る。

   2

これがどうならうと、あれがどうならうと、
そんなことはどうでもいいのだ。

これがどういふことであらうと、それがどういふことであらうと、
そんなことはなほさらどうだつていいのだ。

人には自恃(じじ)があればよい!
その余はすべてなるまゝだ……

自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行ひを罪としない。

平気で、陽気で、藁束(わらたば)のやうにしむみりと、
朝霧を煮釜に填(つ)めて、跳起きられればよい!

   3

私の聖母(サンタ・マリヤ)!
  とにかく私は血を吐いた! ……
おまへが情けをうけてくれないので、
  とにかく私はまゐつてしまつた……

それといふのも私が素直でなかつたからでもあるが、
  それといふのも私に意気地がなかつたからでもあるが、
私がおまへを愛することがごく自然だつたので、
  おまへもわたしを愛してゐたのだが……

おゝ! 私の聖母(サンタ・マリヤ)!
  いまさらどうしやうもないことではあるが、
せめてこれだけ知るがいい――

ごく自然に、だが自然に愛せるといふことは、
  そんなにたびたびあることでなく、
そしてこのことを知ることが、さう誰にでも許されてはゐないのだ。

   4

せめて死の時には、
あの女が私の上に胸を披(ひら)いてくれるでせうか。
  その時は白粧(おしろい)をつけてゐてはいや、
  その時は白粧をつけてゐてはいや。

ただ静かにその胸を披いて、
私の眼に輻射してゐて下さい。
  何にも考へてくれてはいや、
  たとへ私のために考へてくれるのでもいや。

ただはららかにはららかに涙を含み、
あたたかく息づいてゐて下さい。
――もしも涙がながれてきたら、

いきなり私の上にうつ俯して、
それで私を殺してしまつてもいい。
すれば私は心地よく、うねうねの暝土(よみぢ)の径を昇りゆく。

*ローマ数字を、アラビア数字1、2、3、4と表記し直しました。

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

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