もう一つの「自画像」
「中原が生前公表しなかったもう一つは『神』の問題である。『寒い夜の自我像』」の『3』は『神よ私をお憐み下さい』ではじまっている。」
1967年発行の角川書店版「中原中也全集」解説「詩Ⅱ」で、大岡昇平はおよそ10年前の「寒い夜の自我像」への評言を補うかのように、こう記しています。
「寒い夜の自我像」は、詩集「山羊の歌」に発表されたものの続篇として「2」があり、さらに「3」があるのです。その「3」が歌っているのは「神」でした。
いま、角川文庫クラシックス、佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』」に「未発表詩篇」として分類された「3」を読んでみると……
「3」
神よ私をお憐み下さい!
私は弱いので、
悲しみに出遭ふごとに自分が支えきれずに、
生活を言葉に換えてしまひます。
そして堅くなりすぎるか
自堕落になりすぎるかしなければ
自分を保つすべがないやうな破目になります。
神よ私をお憐み下さい!
この私の弱い骨を、暖いトレモロで満たしてください。
ああ神よ、私が先づ、自分自身であれるよう
日光と仕事とをお与え下さい!
* トレモロ trèmolo(伊) ひとつの音または複数の音を、急速に反復して演奏すること。また、このような演奏により、震えるように聞こえる音。
ストレートです。誠実一辺倒の中也がここにいるようです。
つづけて大岡昇平は
昭和三年五月から関口隆克と、下高井戸の京王線「北沢」駅(当時)附近に家を借り自炊した。関口は深夜祈りながら涙を流す中原の姿を回想している。
阿部六郎は、話が神の問題に及んだ時、今からすぐ二人で教会へ行って受洗しよう、と促されたことがあった。
昭和四年六月二十七日附けで河上徹太郎宛に送られた論文がある(「河上に呈する詩論」)。「(略)芸術とは、自然の模倣ではない。神の模倣である!」
と、三つの例をあげるなど、宗教家中原中也について触れています。
そう言われてみれば
「寒い夜の自我像」の「1」にも
十字架を背負ったキリストを想起させるものがありました。
しかるに
「山羊の歌」には「1」だけを載せた意図は、
宗教色を前面(全面)には
まだ打ち出したくなかったのかもしれません。
それにしても
「1」 だけでも十分に
クリスチャンっぽい響きがあります。
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