「白痴群」の中也と大岡昇平
「白痴群」は昭和四年四月創刊の同人雑誌である。同人は中原中也のほかに、河上徹太郎、阿部六郎、村井康男、内海誓一郎、古谷綱武、富永次郎、安原喜弘、それに私を入れた九人。
と、記すのは、もちろん、大岡昇平であります。
はっきりした主義主張があるわけでなく、中原の交友範囲の文学青年が十円の個人費を持ち寄っていたずら書きを活字にしただけのものである。従っていつも原稿の集まりが悪く、翌五年四月までに六号を出して廃刊になった。
(「白痴群」大岡昇平、「文学界」1956年9月号)
大岡昇平は、
いつもの通りの、
綿密な文献的考証によって、
「白痴群」の史的意味、
文学史的意味、
中原中也という詩人にとっての意味を
考えています。
中原中也自身が、「白痴群」についてふれた
「詩的履歴書」
「千葉寺雑記」
の二つの文章へ
注釈を加え、補足し、
自らの所見を述べるという形で
中也を語り、
中也を語る中で
大岡昇平自身を語っているのです。
ここに
「千葉寺雑記」から大岡昇平がとりあげた部分を引いておきましょう。
中也の「散文」は、
張りのようなものがあって
詩とはまた異なった味わいがあります。
それにふれるのもいいでしょうし、
中也自身が、生い立ちにふれていることも
中也を知る手がかりになりますし……
(以下、大岡昇平「白痴群」からの孫引き)
十二年二月七日附院長宛。
(略)何しろ小学に這入りましてからは、這入るとまづ、一番(成績順)にならなければ家を出すとお父さんが仰ったと母に聞かせられますし、学校に這入りましてからの家庭生活は、実に蟻地獄のやうでございました。
それでもまづ中学一二年の頃までは、可なり従ってをりましたが、三年に到ってやり切れず、遂に落第。それより京都の中学に転校。何はあれ好きな道で早く恰好をつければ親も安心しようものと、勉強に勉強を致し、漸く昭和三年の春、今では有名な連中の出す雑誌創刊に招かれ、やれやれと思ひましたものの会って見ると赤い気持を持ってゐる様に思はれましたので、少しぐづりましたら相手も怒りましたので、いいことにして其処を去り、翌年「白痴群」なる雑誌を出しましたが、何分当時の文壇は大方赤く、雑誌が漸くだれてゐました所へ同人の一人と争ひといふやうなわけでその雑誌はやめになりました。其の後その一人その時は皆に可なりよく取入ってゐましたのでむしろよく思はれておりましたが、今ではみんなからシャーシャーした奴だとの様思はれてをります。
その雑誌がやめになってみすれば、他に共に雑誌を始むべき者も見当らず、独りでコツコツ書いては数人に見せて、お茶漬けくらゐならどうにか一生食ってゆける境遇に甘んじて、四五年を過しました。(略)
*一部を現代語表記にしたほか、改行・行空きを加えました。
(つづく)
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