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2008年7月17日 (木)

寒い夜の自我像完結篇

「寒い夜の自我像」は、
大岡昇平が指摘するように
「山羊の歌」の最終部「羊の歌」に連なってゆく
詩人が特別に位置づけした作品です。

どんな位置か……を
要約すると

1、そもそも「白痴群」創刊号に掲載した、中原中也初の詩作品であること。「白痴群」は、中也主導による文学同人誌でありましたし、他に発表の場を持っていなかった詩人が、かなり自由に、思いのままに作品を提示できた場でした。それまでに書き溜めた詩の中から、中也が創刊号掲載に選んだのが、この詩でした。
2、「山羊の歌」が、「少年時」「みちこ」「秋」の恋愛詩で終わることを望まなかった詩人が、最終部「羊の歌」への導入を意図して、恋愛詩の中に置いた、配列そのものに意味があること。そこには、立ち直りがたい失恋の痛みから抜け出ようとする詩人が、本来、詩作に見い出していた役割を再発見しようとしたことがうかがえます。
3、この詩の内容たるや、豊富な方向を持っていること。ことさら、「神」に向かうかに見える詩人のスタンスがほの見えるという点でエポックであります。

こんなことが、言えるのではないでしょうか。

「寒い夜の自我像」は、
これから、
いよいよ長谷川泰子との
愛の核心に触れる詩世界へ
入るというところで
少し冷静です。

自我像は、
自画像です。

では
「寒い夜の自我像」を、
未発表詩篇を合わせて
全行を載せておきます。

 *
 寒い夜の自我像

きらびやかでもないけれど
この一本の手綱をはなさず
この陰暗の地域を過ぎる!
その志明らかなれば
冬の夜を我は嘆かず
人々の憔懆(せうさう)のみの愁(かな)しみや
憧れに引廻される女等の鼻唄を
わが瑣細なる罰と感じ
そが、わが皮膚を刺すにまかす。

蹌踉(よろ)めくままに静もりを保ち、
聊(いささ)かは儀文めいた心地をもつて
われはわが怠惰を諫(いさ)める
寒月の下を往きながら。

陽気で、坦々として、而(しか)も己を売らないことをと、
わが魂の願ふことであつた!

「2」
恋人よ、その哀しげな歌をやめてよ、
おまへの魂がいらいらするので、
そんな歌をうたひ出すのだ。
しかもおまへはわがままに
親しい人だと歌つてきかせる。

ああ、それは不可ないことだ!
降りくる悲しみを少しもうけとめないで、
安易で架空な有頂天を幸福と感じ做し
自分を売る店を探して走り廻るとは、
なんと悲しく悲しいことだ……

「3」
神よ私をお憐み下さい!
 
 私は弱いので、
 悲しみに出遭ふごとに自分が支えきれずに、
 生活を言葉に換えてしまひます。
 そして堅くなりすぎるか
 自堕落になりすぎるかしなければ
 自分を保つすべがないやうな破目になります。

神よ私をお憐み下さい!
この私の弱い骨を、暖いトレモロで満たしてください。
ああ神よ、私が先づ、自分自身であれるよう
日光と仕事とをお与え下さい!

 *儀文 形式、型のこと。
 *トレモロ tremolo(伊) ひとつの音または複数の音を、急速に反復して演奏すること。また、このような演奏により、震えるように聞こえる音。

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』角川文庫クラシックスより)

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