中也の恋愛と作品
「(略)昭和三年五月小林と別れてから、中原は再び求愛したが容れられない。松竹へ入って映画女優となり、小林と同棲中から親交があった男と同棲した。その男がパリへ行くと、東中野に下宿して、駅前の芸術的カフェーに出入りして不安定な生活を送っていた。たまに中原の中高井戸の家へ来て泊ることがあるという程度に愛情を分配することもあったが、昭和五年末若い学生の子供を生んだ。これが恋愛関係においては決定的な別れとなり、八月、中原は代々木山谷の下宿に移転する。「少年時」「みちこ」「秋」に収められた詩篇は、大体この苦しい恋の経過から生れた。」
大岡昇平は、1967年、角川書店版「中原中也全集」解説に以上のように書いています。この文の主語は、長谷川泰子です。小林は、もちろん小林秀雄のことです。これは綿密な「文献的検索」の結果の発言です。
1967年角川版全集の編纂は、大岡昇平としては3回目の仕事でした。1回目は、1951年の創元社版、2回目は1960年の角川書店版でした。
「山羊の歌」の半分が「初期詩篇」で、それ以外の「少年時」「みちこ」「秋」の詩がほとんど長谷川泰子への求愛から失恋の過程で創られた、と断言しているのです。
しかし、だからこの時期の作品すべてが恋愛詩ではないでしょうし、
「ただ、こういう風に、詩人の生活、特に恋愛から、その創造のすべてを解釈するのは誤っていよう。詩人は結局のところ、恋人より作品を大事にしている。『恋愛を夢みるほかに能がない』という歎きは彼の生活感情であるが、それをそう表出する時、彼はより普遍的なものを目指しているのである。」
とも書いています。
とはいえ、「初期詩篇」の中にも長谷川泰子をモデルにした作品があるかもしれないし、「初期詩篇」以外の作品の7~8割が「泰子がらみの詩」であるなら、「山羊の歌」全体の半分は、長谷川泰子を元にした作品ということになります。
その説に沿って、「少年時」の中の8篇、「みちこ」の中の5篇、「秋」の中の5篇を読んでいくことにしますが……
「山羊の歌」末尾に配列された「羊の歌」の3篇は、もはや、恋愛詩ではありません。失恋の苦悩のさなかに、詩人は、詩人の立つ位置への悲痛といってもいい宣言を敢行します。詩集の結びとして、「いのちの声」を含む3篇を置いた
ということも忘れないでおきたいものです。
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