生い立ちの歌/雪のメタファー
ここで詩人は
自己の履歴を
幾分かまとめて明らかにします。
詩人としてのスタンスを述べることを
中原中也は
折りあるごとに行ってきましたが
この詩もその流れのものでしょう。
自己の歴史を
「私の上に降る雪は」と
雪の形態・姿態の変容に結びつけて
回顧します。
雪のメタファー
とでもいうべきレトリックは
世間へ強い浸透力をもって広まった
「汚れつちまつた悲しみに」もそうでした
いや、レトリックなどという
技術のことばかりでなく
雪は
中原中也の詩に現れる
骨格とか血肉とかのようなものの
一つです。
Ⅰ=第1章で
「私の上に降る雪」は
幼児期 真綿まわた
少年時 霙みぞれ
17~19 霰あられ
20~22 雹ひょう
23 吹雪ふぶき
と形容され、
24では、いとしめやかになりました……
と、落ち着きます。
Ⅱ=第2章に入って
24歳以降の現在の雪の姿態をうたいますが。
ふと
この雪は
泰子のようである
長谷川泰子との時や場所の記憶……
と、自然に感じられてくる
仕掛けに気付きます
1連
花びらのように
2連
いとなよびかになつかしく
3連
熱い額に落ちもくる
涙のやう
5連
いと貞潔で
ところで
4連は
私の上に降る雪に、と、
雪が主語でなく、
目的語になります。
雪は、感謝の対象になります。
いとねんごろに感謝して
じゅうぶんに感謝して
神様に
長生きしたいと祈りました
と、詩句にされないまでも
主語は私=詩人に変わります。
この詩のポイントは
ここにあります。
「雪の宵」や
「汚れつちまつた悲しみに」の雪に
かすかにただよう甘やかさの元
そこに女性の存在があります。
*
生ひ立ちの歌
Ⅰ
幼年時
私の上に降る雪は
真綿(まわた)のやうでありました
少年時
私の上に降る雪は
霙(みぞれ)のやうでありました
十七―十九
私の上に降る雪は
霰(あられ)のやうに散りました
二十―二十二
私の上に降る雪は
雹(ひよう)であるかと思はれた
二十三
私の上に降る雪は
ひどい吹雪とみえました
二十四
私の上に降る雪は
いとしめやかになりました……
Ⅱ
私の上に降る雪は
花びらのやうに降つてきます
薪(たきぎ)の燃える音もして
凍るみ空の黝(くろ)む頃
私の上に降る雪は
いとなよびかになつかしく
手を差伸べて降りました
私の上に降る雪は
熱い額に落ちもくる
涙のやうでありました
私の上に降る雪に
いとねんごろに感謝して、神様に
長生したいと祈りました
私の上に降る雪は
いと貞潔でありました
*黝む 「黝」は青みがかった黒色のこと。「くろ」は推定ルビ。
*なよびかに 柔らかに。穏やかに。
(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)
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