いのちの声再その1
今年2008年5月末に読みはじめた
中原中也詩集「山羊の歌」の
最終に配置された
「いのちの声」に辿りつきました。
「山羊の歌」全作品を読むために
詩集末尾のこの作品を
真っ先に読みました。
どのような経過で
「いのちの声」が作られたのか
小説ならば
物語の結末を先に読んで
何が書かれているのかを
まず知ってから
はじめから読む
と、いうような読み方でした。
最後に置いた作品には
作者のそれなりの思い入れがあるだろう
と、大岡昇平もどこだかで言っていたように記憶します。
その作品を先に読んでしまってから
詩集の配列の順序に従って読み進め
じわじわと最後の作品に近づいて行こう
他意はありません。
はじめて中原中也の詩を読んでいこうとする者が
そのインナープラネットに入っていくための
一つの方法でしかありません。
こうして
「いのちの声」を読む
2回目になります。
初めて読んだ時と
どのような違いがあるでしょうか、
違いはないでしょうか。
まずは、再び、ここで
作品に触れてみましょう。
(つづく)
*
いのちの声
もろもろの業(わざ)、太陽のもとにては蒼ざめたるかな。
――ソロモン
僕はもうバッハにもモツアルトにも倦果てた。
あの幸福な、お調子者のヂャズにもすっかり倦果てた。
僕は雨上がりの曇つた空の下の鉄橋のやうに生きてゐる。
僕に押し寄せてゐるものは、何時でもそれは寂漠だ。
僕はその寂漠の中にすつかり沈静してゐるわけでもない。
僕は何かを求めている、絶えず何かを求めてゐる。
恐ろしく不動の形の中にだが、また恐ろしく憔(じ)れてゐる。
そのためにははや、食慾も性慾もあつてなきが如くでさへある。
しかし、それが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。
それが二つあるとは思へない、ただ一つであるとは思ふ。
しかしそれが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。
それに行き著(つ)く一か八かの方途さへ、悉皆(すつかり)分つたためしはない。
時に自分を揶揄(からか)ふやうに、僕は自分に訊(き)いてみるのだ、
それは女か? 甘(うま)いものか? それは栄誉か?
すると心は叫ぶのだ、あれでもない、これでもない、あれでもないこれでもない!
それでは空の歌、朝、高空に、鳴響く空の歌とでもいふのであらうか?
Ⅱ
否何(いづ)れとさへそれはいふことの出来ぬもの!
手短かに、時に説明したくなるとはいふものの、
説明なぞ出来ぬものでこそあれ、我が生は生くるに値するものと信ずる
それよ現実! 汚れなき幸福! あらはるものはあらはるまゝによいといふこと!
人は皆、知ると知らぬに拘(かかは)らず、そのことを希望しており、
勝敗に心覚(さと)き程は知るによしないものであれ、
それは誰も知る、放心の快感に似て、誰もが望み
誰もがこの世にある限り、完全には望み得ないもの!
併(しか)し幸福というものが、このやうに無私の境(さかひ)のものであり、
かの慧敏(けいびん)なる商人の、称して阿呆(あほう)といふものであらう底のものとすれば、
めしをくはねば生きてゆかれぬ現身(うつしみ)の世は、
不公平なものであるよといはねばならぬ
だが、それが此(こ)の世といふものなんで、
其処(そこ)に我等は生きてをり、それは任意の不公平ではなく、
それに因(よつ)て我等自身も構成されたる原理であれば、
然(しか)らば、この世に極端はないとて、一先ず休心するもよからう。
Ⅲ
されば要は、熱情の問題である。
汝、心の底より立腹せば
怒れよ!
さあれ、怒ることこそ
汝(な)が最後なる目標の前にであれ、
この言(こと)ゆめゆめおろそかにする勿(なか)れ。
そは、熱情はひととき持続し、やがて熄(や)むなるに、
その社会的効果は存続し、
汝(な)が次なる行為への転調の障(さまた)げとなるなれば。
Ⅳ
ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。
(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)
*同書でルビのふられた箇所は( )の中に表記しました。
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