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2008年9月

2008年9月30日 (火)

老いたる者をして1/演奏された歌

明白な秋の歌は
これで尽きそうです
19番目の「老いたる者をして」。
 
昭和3年(1928)10月に制作された、という
関口隆克の証言があるそうです。
この詩に、諸井三郎が曲を付け、
昭和5年(1930)5月の
「スルヤ」第5回発表会で
演奏されました。

 

佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』(角川文庫クラシックス)の年譜には
この発表会で
「帰郷」「失せし希望」(内海誓一郎作曲)も
「老いたる者をして」とともに
歌われたことが記されています。
 
 大岡昇平は、
 
 諸井三郎が内海誓一郎と共に、宮益坂上の長井維理(ういり)の家へ毎週水曜日寄り合って、「スルヤ」という小団体を作ったのは昭和2年の末で、彼に中原を紹介したのは、当時まだピアノを弾いていた河上徹太郎である。(1956年5月号「新潮」)
 
と、「スルヤ」と中也のなれそめを書いています。
 
別のところでは、
 
 昭和3年5月から翌年1月まで、中原は下高井戸で関口隆克と自炊している。関口は後に文部省に入ったが、「スルヤ」の諸井三郎、仏文の佐藤正彰の義兄である。文学をやっていたわけではないが、何についても一言理屈のある男で、中原を愛していた。愛情は文学と関係ないから、決して喧嘩にならない。(1956年9月号「文学界」)
 
と、書いています。
 
「白痴群」は昭和4、5年(1929、30)の活動でした。

 

「スルヤ」とは、
昭和2年(1927年)11月、
河上徹太郎を通じて
諸井三郎を知ったのが縁で
交流がはじまり、
その第5回発表会は、昭和5年5月でした。

 

昭和5年、1930年
中也23歳。(誕生日は4月29日)

 

しかし、この年の後半、
中也は、またもや、ピンチに立たされます。
 
 
 *
 老いたる者をして

 

  ――「空しき秋」第十二

 

老いたる者をして静謐(せいひつ)の裡(うち)にあらしめよ
そは彼等こころゆくまで悔いんためなり

 

吾は悔いんことを欲す
こころゆくまで悔ゆるは洵(まこと)に魂を休むればなり

 

あゝ はてしもなく涕(な)かんことこそ望ましけれ
父も母も兄弟(はらから)も友も、はた見知らざる人々をも忘れて

 

東明(しののめ)の空の如く丘々をわたりゆく夕べの風の如く
はたなびく小旗の如く涕かんかな

 

或(ある)はまた別れの言葉の、こだまし、雲に入り、野末にひびき
海の上(へ)の風にまじりてとことはに過ぎゆく如く……

 

   反歌

 

あゝ 吾等怯懦(けふだ)のために長き間、いとも長き間
徒(あだ)なることにかゝらひて、涕くことを忘れゐたりしよ、げに忘れゐたりしよ……

 

〔空しき秋二十数篇は散佚して今はなし。その第十二のみ、諸井三郎の作曲によりて残りしものなり。〕

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)
*原作第5連第2行「はたなびく」に傍点があります。(編者)

2008年9月29日 (月)

曇った秋/即興的でダダな

詩集「山羊の歌」や「在りし日の歌」に
載せなかった詩のうち
雑誌などに公表したものを
「生前発表詩篇」といい
どこにも発表していない作品や草稿を
「未発表詩篇」といって
分類するのが慣わしです。

 

「曇天」を読んだ流れで
「未発表詩篇」の中の
「曇った秋」を読んでおきます。

 

長い作品です。
1935.10.5と、
制作日が作品の末尾に記されてあります。
「曇天」が1936年(昭和11年)の作と推定されていますから
それより1年前の作品らしい。

 

中也28歳。
力が抜けている
即興性を感じさせる
というものの
中也らしい、底のある
充実期の作品です。

 

曇り日というと
中也は秋を指し示している、と
これですべての曇り日が秋とは
いえないかもしれませんが
参考になることでしょう。

 

難解な語句はありませんので
載せておくだけにします。
どうぞ
声に出して読んでみることを
おすすめしますが
黙読でも構わないでしょう。

 

そういえば
一つだけ。

 

3の第2連第1行
今宵ランプはポトホト燻(かゞ)り、

 

この「ポトホト」は
「山羊の歌」の
冒頭の作品「春の日の夕暮」の
あの、だれでも知っている
「トタンがセンベイを食べて
春の夕暮は穏かです」にはじまる詩の
第3連第1行の
「ポトホトと野の中に伽藍は紅く」と出てくる
あれです。

 

ダダイズムが
健在ということでもあります。

 

  *
 曇つた秋

 

   1

 

或る日君は僕を見て嗤(わら)ふだらう、
あんまり蒼い顔してゐるとて、
十一月の風に吹かれてゐる、無花果(いちじく)の葉かなんかのやうだ、
棄(す)てられた犬のやうだとて。

 

まことにそれはそのやうであり、
犬よりもみじめであるかも知れぬのであり
僕自身時折はそのやうに思つて
僕自身悲しんだことかも知れない

 

それなのに君はまた思ひ出すだらう
僕のゐない時、僕のもう地上にゐない日に、
あいつあの時あの道のあの箇所で
蒼い顔して、無花果の葉のやうに風に吹かれて、――冷たい午後だつた――

 

しよんぼりとして、犬のやうに捨てられてゐたと。

 

   2

 

猫が鳴いてゐた、みんなが寝静まると、
隣りの空地で、そこの暗がりで、
まことに緊密でゆつたりと細い声で、
ゆつたりと細い声で闇の中で鳴いてゐた。

 

あのやうにゆつたりと今宵一夜(ひとよ)を
鳴いて明(あか)さうといふのであれば
さぞや緊密な心を抱いて
猫は生存してゐるのであらう……

 

あのやうに悲しげに憧れに充ちて
今宵ああして鳴いてゐるのであれば
なんだか私の生きてゐるといふことも
まんざら無意味ではなささうに思へる……

 

猫は空地の雑草の陰で、
多分は石ころを足に感じ、
霧の降る夜を鳴いてゐた――

 

   3

 

君のそのパイプの、
汚れ方だの燋(こ)げ方だの、
僕はいやほどよく知つてるが、
気味の悪い程鮮明に、僕はそいつを知つてるのだが……

 

    今宵ランプはポトホト燻(かゞ)り、
    君と僕との影は床(ゆか)に
    或ひは壁にぼんやりと落ち、
    遠い電車の音は聞こえる

 

君のそのパイプの、
汚れ方だの燋(こ)げ方だの、
僕は実によく知つてるが、
それが永劫(えいごふ)の時間の中では、どういふことになるのかねえ?……

 

    今宵私の命はかゞり
    君と僕との命はかゞり
    僕等の命も煙草のやうに
    どんどん燃えてゆくとしきや思へない

 

まことに印象の鮮明といふこと
我等の記臆、謂はば我々の命の足跡が
あんまりまざまざとしてゐるといふことは
いつたいどういふことなのであらうか

 

    今宵ランプはポトホト燻り、
    君と僕との影は床に
    或ひは壁にぼんやりと落ち、
    遠い電車の音は聞える

 

どうにも方途がつかない時は
締めることが男々しいことになる
ところで方途が絶対につかないと
思はれることは、まづ皆無

 

    そこで命はポトホトかゞり
    君と僕の命はかゞり
    僕等の命も煙草のやうに
    どんどん燃えるとしきや思へない

 

 コホロギガ、ナイテ、ヰマス
 シウシン ラッパガ、ナツテ、ヰマス
 デンシヤハ、マダマダ、ウゴイテ、ヰマス
 クサキモ、ネムル、ウシミツドキデス
 イイエ、マダデス、ウシミツドキハ
 コレカラ、ニジカン、タツテカラデス
 ソレデハ、ボーヤハ、マダオキテヰテイイデスカ
 イイエ、ボーヤハ、ハヤクネルノデス
 ネテカラ、ソレカラ、オキテモイイデスカ
 アサガキタナラ、オキテモイイデス
 アサハ、ドーシテ、コサセルノデスカ
 アサハ、アサノホーデ、ヤツテキマス
 ドコカラ、ドーシテ、ヤツテクル、ノデスカ
 オカホヲ、アラツテ、デテクル、ノデス
 ソレハ、アシタノ、コトデスカ
 ソレガ、アシタノ、アサノ、コトデス
 イマハ、コホロギ、ナイテ、ヰマスネ
 ソレカラ、ラッパモ、ナツテ、ヰマスネ
 デンシヤハ、マダマダ、ウゴイテ、ヰマス
 ウシミツドキハ、マダナイノデスネ
                    ヲハリ
(一九三五・一〇・五)

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編
「中原中也詩集『在りし日の歌』未発表詩篇より」)

2008年9月28日 (日)

イガグリ頭の中原中也

昭和7年8月16日付けで、
安原喜弘に宛てた手紙(はがき)。

 

昨日今日、夜は盆踊りの太鼓が、小さな天地の空に響いてゐます
髪を刈って、イガグリ頭になりました 従って間もなくイガグリ頭で、出現のことと相なります

 

山口市 湯田からの発信。

 

黒のルパシカ、お釜帽子の
あの、純情顔と異なるイメージです。

 

長男文也を抱く親父顔とともに
詩人の「本当の」顔。

麻雀する中原中也

昭和6年2月16日付けで、
安原喜弘に宛てた手紙に

 

麻雀は34日前からイヤ気がさして来ました。底の知れたものです。
僕事、多分初段位ではあるでせう。34ケ前までは、正月以来、毎日3卓はやってゐました。

 

と、書き送っています。代々木山谷からの発信。

 

普通に遊び疲れる人って感じがあり、親近感ありますね。
昭和6年は中也24歳の年、1931年です。

魂の動乱時代/中也25歳

一方詩人の魂には漸く困乱の徴が見え始めた。

 

「中原中也の手紙」の「手紙四十九 九月二十三日(はがき)(大森 北千束)」の解説で、著者・安原喜弘は、昭和7年(1932)秋の詩人・中原中也25歳の状態を、こう記して、次のように続けています。

 

この時まで辛くも保たれた魂の平衡運動は遂にこの疲労した肉体のよく支え得るところでなく、夢と現実と、具体と概念とは魂の中にその平衡を失って混乱に陥り、夢は現実に、具体は概念によって絶えず脅迫せられた。人はこの頃の状態を神経衰弱と呼ぶかもしれない。然しながら私は詩人のこの時代の消息については今は単に詩人の動乱時代と呼ぶに止めたいと思う。

 

詩人27、28、29歳の上昇機運の前に
「魂の動乱時代」とか「魂の惑乱時代」があった、と
中也の晩年、最も近くに存在し続けた
僚友・安原喜弘が書いているのです。

 

安原喜弘は、
「白痴群」以来の中也の友人で
詩集「山羊の歌」中の「羊の歌」が
献呈されている、当の人です。

 

1932年、25歳の年譜を
中原中也詩集『在りし日の歌』」
(佐々木幹郎編、角川文庫クラシックス)で
見ておきます。
* 同文庫は、当然ながら縦書きで、漢数字表記ですが、ここでは洋数字に改めているほか、改行を適宜加えています。

 

1932年(昭和7)
4月 「山羊の歌」の編集を始める。
5月頃から自宅でフランス語の個人教授を始める。
6月、「山羊の歌」の予約募集の通知を出し、10名程度の申し込みがあった。
7月に第2回の予約募集を行うが結果は変わらなかった。
8月、馬込町北千束の高森文夫の伯母の家に移転。高森と同居。
9月、祖母スエ(フクの実母)没、75歳。母からもらった300円で「山羊の歌」の印刷にかかるが本文を印刷しただけで資金が続かず、印刷し終えた本文と紙型を安原喜弘に預ける。
秋以降、高森の従妹に結婚を申し込む。ノイローゼ状態となり、高森の伯母が心配して
年末フクに手紙を出した。

 

「中原中也の手紙」に付された「中原中也略年譜」も
ここで見ておきましょう。

 

*青土社版2000年発行の「中原中也の手紙」に収められた、この略年譜は、だれがいつ編集したものか明らかでありませんが、ここでは安原喜弘が作ったものと判断します。佐々木幹郎編の中原中也詩集『在りし日の歌』」(角川文庫クラシックス)の年譜は、これより新しい制作のようです。

 

1932年(昭和7年) 25歳
3月 上旬、京都を経て帰省。下旬、安原、山口を訪れ、5日間滞在。秋吉鍾乳洞(秋吉洞)、長門峡などを案内する。
5月 これまでの詩作をまとめて第1詩集「山羊の歌」の編集に着手。
6月 「山羊の歌」の編集を終り、7月出版の予定にて一口4円の予約募集をするも、応ずるもの十数名にすぎず。
7月 「山羊の歌」予約の訂正通知を出す。応募〆切りを7月20日とし、発行を9月に延期することを告げ、重ねて予約を勧誘する。しかし結果は思わしからず、結局全部自費で出版することを決意し、ひとまず帰省。
9月 郷里よりあるていどの資金を用意して上京、「山羊の歌」を印刷する。しかし資金不足のため装丁、出版までにいたらず、本紙、紙型を引きとって安原宅に預ける。
この頃より長年にわたる疲労と苦難から神経衰弱の徴候を現わし、次第に激しくなる。年末から年初にかけて絶頂に達し、ほとんどの友人たちと断絶する。

曇天/黒い旗ひとり

秋は、秋晴れが素晴らしいが
雨日も多く
9月の降雨量は6月を凌ぐ   
野分もあれば
曇天の日も続くことがある。
意外に、荒れた天候こそ秋らしい。

 

41番の「曇天」も
ちょうど今頃の、
2008年9月
何日も何日も続いている曇り日を
思わせます。

 

晴れることのない
明るい曇り空は
かといって
雨に向かうのでもなく
暑くもなければ
寒くもない
爽やか、と言えるほどでもない
おだやかな日です。

 

そのような曇天の朝の空に
詩人は黒い旗を見ます。
旗は、はたはたと
はためいているのに
はたはたという音が聞こえないのは
旗が観念の旗だからでしょうか。

 

いいえ、そうではなく
旗は高いところにあって
確かに、そこにある空に
はためいているのに
僕以外のだれにも聞こえないのです。

 

手繰り寄せて
引きおろそうと僕はしましたが
綱でもなければ、下ろせるわけもなく
依然として、旗ははためいているばかり
空の奥の方で、舞うがごとく、です。

 

こういう朝が、少年の日にもあったっけ
よく見たものだった、と僕は思う
その時それを野原で見た
今は都会の屋根の上。

 

あの時と今と、時は隔たっているけれど
こことあそこと場所も違うけれど
はたはたはたはた、大空にひとり
今も変わらずはためいているよ。

 

この暗示的な黒い旗はなんなのでしょうか
不吉なものでしょうか
弔旗でしょうか
受け止め方によってそれは変わります。

 

最終連第3行に「ひとり」とあり
旗は、詩人その人の象徴的表現ではないか、と
解する読み方もできます。
曇天にずっと変わらずはためいている旗
僕はあの旗のようだ……。

 

1936年(昭和11年)は
中原中也29歳。
「改造」同年7月号に発表されました。
「中央公論」とならぶ総合雑誌「改造」。
その総合雑誌に
詩人が載せた初めての作品です。
記念すべき作品です。

 

 *
 曇天

 

 ある朝 僕は 空の 中に、
黒い 旗が はためくを 見た。
はたはた それは はためいて ゐたが、
音は きこえぬ 高きが ゆゑに。

 

 手繰り 下ろさうと 僕は したが、 
綱も なければ それも 叶(かな)はず、
 旗は はたはた はためく ばかり、
空の 奥処(をくが)に 舞ひ入る 如く。

 

 かかる 朝(あした)を 少年の 日も、
屡々(しばしば) 見たりと 僕は 憶(おも)ふ。
 かの時は そを 野原の 上に、
今はた 都会の 甍(いらか)の 上に。

 

 かの時 この時 時は 隔つれ、
此処(ここ)と 彼処(かしこ)と 所は 異れ、
 はたはた はたはた み空に ひとり、
いまも 渝(かは)らぬ かの 黒旗よ。

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)

 

 

中原中也30歳の死

中原中也の27歳、1934年は
長男文也の誕生、
「山羊の歌」の出版という
公私ともに充実した年で
ありました。

 

上昇気流に乗って、そのまま、
大空に翔ぶ鷹のような
力強い人生が期待されますが……

 

しかし
まったく不運にも
この充実ぶりは
1936年11月の文也の死によって
消え去り
その翌1937年10月には、
また不運にも
結核性脳膜炎を発症し、
急逝してしまいます。

 

あまりにもあっけなく
あまりにもはかない……
30歳の命でした。

 

29歳から死までの年譜を
ここで見ておきます。
「中原中也詩集『在りし日の歌』」
(佐々木幹郎編、角川文庫クラシックス)
からの引用です。
*同文庫は、当然ながら縦書きで、漢数字表記ですが、ここでは洋数字に改めているほか、改行を適宜加えています。

 

1936年(昭和11) 29歳
「四季」「文学界」「改造」「紀元」などに詩・翻訳を多数発表。
1月、「含羞」、6月「六月の雨」(「文学界賞」佳作第一席)、7月「曇天」など。
6月、山本文庫「ランボオ詩抄」刊行。
秋、親戚の中原岩三郎の斡旋で放送局入社の話があり面接を受ける。
11月10日、文也死す。
12月15日、次男愛雅(よしまさ)生まれる。神経衰弱が昂じる。

 

1937年(昭和12) 30歳
1月9日、千葉市の中村古峡療養所に入院。2月15日退院。
同27日、鎌倉の寿福寺境内に転居。同月「また来ん春……」、4月「冬の長門峡」、5月「春日狂想」を発表。
8月、草野心平がJOAKで「夏(血を吐くやうな)」を朗読。
9月、野田書房から「ランボオ詩集」を出版。
同月、関西日仏学院に入会を申し込む。
同月、「在りし日の歌」を編集、原稿を清書。小林秀雄に託す。
10月、結核性脳膜炎を発病。同6日鎌倉養成院に入院。
同22日永眠。戒名は放光院賢空文心居士。郷里山口市吉敷の経塚墓地にある「中原家累代之墓」に葬られる。

2008年9月27日 (土)

中原中也関連の番組情報

NHK教育
「私のこだわり人物伝/中原中也 口惜しき人」町田康(作家)
 火曜日  午後10:25~10:50
 翌週火曜日午前05:05~05:30(再放送)

 第1回 落ちつけない故郷 (2008年10月7日放送/10月14日再)
 第2回 恋人という他者  (2008年10月14日放送/10月21日再)
 第3回 去りゆく友への告白(2008年10月21日放送/10月28日再)
 第4回 詩人という人生  (2008年10月28日放送/11月4日再)

 どうぞお見逃しなく!

2008年9月23日 (火)

お道化うた2/中原中也の27歳

「お道化うた」が作られた
昭和9年(1934年)は、中也27歳。
昔の人だから、
現代(2008年)の人の精神年齢より
かなり熟しているはずで
油の乗り切った歳、と
いえる年齢ではないでしょうか。

 

前年に
遠縁にあたる上野孝子と結婚していますし、
この年の10月には、
第一子である長男文也が生まれています。
第一詩集「山羊の歌」も、
紆余曲折の末、出版されました。

 

昭和8、9年ごろは
中原中也という詩人の
新しい生活がはじまった年、と
考えられそうですので
少しこだわってみたいと思います。

 

「中原中也詩集『在りし日の歌』」
(佐々木幹郎編、角川文庫クラシックス)
の年譜を見てみます。
*同文庫は、当然ながら縦書きで、漢数字表記ですが、ここでは洋数字に改めているほか、改行を適宜加えています。

 

1933年(昭和8) 26歳
1月、高森の伯母を通じて坂本睦子に結婚を申し込む。
3月、東京外国語学校専修科修了。
4月、「山羊の歌」を芝書店に持ち込むが断られる。
5月、牧野信一、坂口安吾の紹介で同人雑誌「紀元」に加わる。
6月、「春の日の夕暮れ」を「半仙戯」に発表。同誌に翻訳などの発表続く。
7月、「帰郷」他2篇を「四季」に発表。
同月、読売新聞の懸賞小唄「東京祭」に応募したが落選。
9月頃、江川書房から「山羊の歌」を刊行する予定だったが実現をみなかった。
同月、「紀元」創刊号に「凄じき黄昏」「秋」。以降定期的に詩、翻訳を発表。
12月、上野孝子と結婚。四谷のアパートに新居を構える。同アパートには青山二郎が住んでいた。青山の部屋には小林秀雄・河上徹太郎ら文学仲間が集まり、「青山学院」と称された。
同月、三笠書房から「ランボオ詩集《学校時代の詩》」を刊行。
*高森は、前年(昭和7年)に知り合った、年少の詩人・高森文夫のこと。坂本睦子は、大岡昇平の「花影」や、久世光彦の「女神」のモデルになった伝説的なホステス。直木三十五、菊池寛、小林秀雄、坂口安吾、河上徹太郎ら、文学者と数多の浮名を流し、最後に自殺した。(編者)

 

1934年(昭和9) 27歳
この年も「紀元」「半仙戯」への詩の発表続く。「四季」「鷭」「日本歌人」などにも多数発表。
2月、「ピチペの哲学」、6月「臨終」など。
9月、建設社の依頼でランボーの韻文詩の翻訳を始める。同社による「ランボオ全集」全3巻(第1巻 詩 中原中也訳、第2巻 散文 小林秀雄訳、第3巻 書翰 三好達治訳)の出版企画があったためである。中也は暮れに帰省し、翌年3月上京するまで山口で翻訳を続けたが、この企画は実現しなかった。
10月18日、長男文也誕生。
同月、「山羊の歌」刊行。この頃、草野心平ら「歴程」同人の催した朗読会で「サーカス」を朗読。同時期、檀一雄の紹介で太宰治を知る。

 

以上を見ただけで、
一種、「売れっ子」ともいえそうな
活動ぶりですし、
公私ともに充実。
詩人は、未来に、多少なりの展望を
見い出していたことをうかがわせます。

 

なお、「お道化うた」の
朗読を聴いたという吉田秀和と、中也は、
1930年(昭和5年)に相知っています。
中也は、吉田秀和に
フランス語を教える立場の
アルバイトをしていました。

 

東京外国語学校専修科を修了したり、
翻訳を手がけたりと、
フランス語の習得も
伊達(だて)ではありません。

 

 

2008年9月21日 (日)

お道化うた/朗読するダミ声

20080912_086

 

 

 

「秋」を糸口に
詩集「在りし日の歌」を読んでいることに
特別の意図があるわけではありませんが、
それほどナンセンスな読み方でもないかな
と、思ったりするのは
いま、季節は、秋だからです。

 

「秋」という字が
詩の中に登場するからといって
その詩が、秋という季節を歌ったものでは
必ずしもありませんが
これまで読んできた詩は
秋である今ごろに読んでよかった、と
思える詩が多かったようです。

 

33番の「お道化うた」は
たびたび作品の中に現れるピエロと異なり
ピエロ=お道化が歌う歌、と
タイトルをつけ
詩人が、その歌を歌っている
当のピエロになっています。

 

ここにも秋の文字が登場します
第2連冒頭行
霧の降つたる秋の夜に、

 

ほかにも
第3連第4行
虫、草叢(くさむら)にすだく頃、
第4連第3行
今宵星降る東京の夜(よる)、
は、秋を匂わせます。

 

ベートーベンの「月光の曲」にまつわる
盲目の少女との物語を題材に
詩人はお道化てみせるのですが
星が降り、月の光さす、東京の夜、といえば
秋しかないような
やや出来すぎの設定です。

 

「歴程」第2次創刊号(昭和11年3月)に初出。
昭和9年(1934)6月、中也27歳の制作。
前年1933年に結婚した中也は
同人雑誌、総合雑誌などに
精力的に作品を発表、
第一詩集「山羊の歌」を年末に刊行しています。

 

佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」(角川文庫クラシックス)の
年譜の1934年の項目に、
「12月、高村光太郎の装幀で『山羊の歌』刊行。この頃、草野心平ら「歴程」同人の催した朗読会で「サーカス」を朗読。」
などと、あります。

 

大岡昇平も
中也が自作を朗読する場面を記していますが
ここでは「歴程」同人会での
「サーカス」の朗読です。

 

中也が、
迎角45度前方の
虚空を見据え
だみ声で
ゆあーん ゆよーん、と
朗読していた姿が
彷彿としてきますが……。

 

「お道化うた」だったか
今や、記憶の中にはっきりとはしないのだけれど
「あれだったとしても決しておかしくはない」と
中也の朗読を聴いた思い出を 
記すのは、評論家・吉田秀和です。
(朝日新聞2008年3月20日「音楽展望」)

 

「七五調のあのうた、中原は気持ちよさそうに、独特のダミ声でサービスしてくれた。」と
吉田秀和は続けます。
そして、
「お道化うた」の第1連を引いて、
この、珠玉のようなエッセイを
結んでいるのです。

 

朗読されたのが、
「お道化うた」であったというのが
驚きの一つですが、
その朗読がダミ声だった、
というのも驚きでしたし、
新鮮でした。

 

中也はだみ声だった! 
という話は
ここから広まったようです。

 

 *
 お道化うた

 

月の光のそのことを、
盲目少女(めくらむすめ)に教へたは、
ベートーヹンか、シューバート?
俺の記憶の錯覚が、
今夜とちれてゐるけれど、
ベトちやんだとは思ふけど、
シュバちやんではなかつたらうか?

 

霧の降つたる秋の夜に、
庭・石段に腰掛けて、
月の光を浴びながら、
二人、黙つてゐたけれど、
やがてピアノの部屋に入り、
泣かんばかりに弾き出した、
あれは、シュバちやんではなかつたらうか?

 

かすむ街の灯とほに見て、
ウヰンの市(まち)の郊外に、
星も降るよなその夜さ一と夜、
虫、草叢(くさむら)にすだく頃、
教師の息子の十三番目、
頸の短いあの男、
盲目少女(めくらむすめ)の手をとるやうに、
ピアノの上に勢ひ込んだ、
汗の出さうなその額、
安物くさいその眼鏡、
丸い背中もいぢらしく
吐き出すやうに弾いたのは、
あれは、シュバちやんではなかつたらうか?

 

シュバちやんかベトちやんか、
そんなこと、いざ知らね、
今宵星降る東京の夜(よる)、
ビールのコップを傾けて、
月の光を見てあれば、
ベトちやんもシュバちやんも、はやとほに死に、
はやとほに死んだことさへ、
誰知らうことわりもない……

 

*とちれて 山口方言で、とっさの判断がつかない様子をいう。「とちる」の意味を含むか。
(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)

2008年9月20日 (土)

独身者その2/物語のはじまり

中原中也の詩作品「独身者」と
南こうせつらかぐや姫が歌った
ヒット曲「神田川」(作詞は、喜多條忠)の詞の
類似性を言うつもりはありません。
ふと、思い出しただけで、
両者はまったく異なる世界を歌っています。

 

しかし、
銭湯というシチュエーションと
石鹸箱……と、聞いただけで
両者は、ひどく、近しい世界である、
とは言えるのではないでしょうか。

 

「独身者」という詩の

 

極度な近眼の彼とは、
来る日も来る日も
詩の勉強にいそしんだ詩人。
よそゆきの服を普段着にしている彼も、
中原中也その人である詩人。
「判屋奉公」の経験のある彼も、
苦労を人一倍してきた詩人。

 

そのような独身の男の物語で、
物語は、まだ、はじまっていないのですが
詩人は、これから、
どのような物語を演じていくべきかを
自ら問いかけている詩です。

 

結婚のことを考えているのかもしれません
パートナーは大原女のようでありたい、
と願っているのかもしれません。
まったく違うことを考えているのかもしれません。

 

詩人が大原女に何を見立てたのか……
この詩の最大のポイントですが
断定できる何ものもありません。
京都に住んだことのある詩人の
なんらかの経験につながっていることは
間違いなさそうですが
なにがしか「女性」のメタファーではありそうです。

 

いま、大原女は
郊外と市街の境の道を歩いているのですが
銭湯のある市街のほうへ来るのか
詩人が郊外のほうへ向かったほうがよいのか

 

詩人の生活の拠点は
市街がよいのか
郊外がよいのか
あれやこれや
考えている

 

そこに
持っている石鹸箱が
カタカタと鳴り
秋風が吹いている

 

どっちのほうへ行くのかなあ
大原女は……
どっちのほうへ行けばいいのかなあ
彼=詩人=僕は……

 

この二者択一は
詩人が取らねばならない
のっぴきならない選択で
崖っぷちに立っているような
切羽詰った感じがあるのですが……

 

だれも答えてくれるものなぞ
あるわけはなく
カタカタと石鹸箱は鳴り
秋風が吹いているばかりです。

 

 *
 独身者

 

石鹸箱(せつけんばこ)には秋風が吹き
郊外と、市街を限る路の上には
大原女(おほはらめ)が一人歩いてゐた

 

――彼は独身者(どくしんもの)であつた
彼は極度の近眼であつた
彼はよそゆきを普段に着てゐた
判屋奉公したこともあつた

 

今しも彼が湯屋から出て来る
薄日の射してる午後の三時
石鹸箱には風が吹き
郊外と、市街を限る路の上には
大原女が一人歩いてゐた

 

*大原女 大原近辺から京都市中に、薪や花などを頭にのせて売りにくる女性。
*判屋奉公 「判屋」は、はんこ屋のことか。

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)
 *原文のルビは、( )内に表記しました。

2008年9月18日 (木)

独身者/小さな石鹸 カタカタ鳴った♪

20080103_075

 

 

 

読んで
これはいい詩だなあ、と思うのですが
意味や内容を隅々まで理解できているかわからない
論理的に、
これはこうで、あれはあれで、
ここはこうなっているから、こっちはこうでなければ、などと
把握しきったとは言えない。

 

39番「独身者」は
このような感想を抱かせる
知られざる傑作の類に
入る作品ではないでしょうか。

 

まったく唐突に
南こうせつの歌う「神田川」を
思い出させられましたのは、
小さな石鹸 カタカタ鳴った♪
というフレーズがかぶさってきたからです。

 

「神田川」は
1970年代の若いカップルの物語で
「独身者」には、パートナーはいません。
でも、どこか重なるところがあるのは
大原女という女性が登場し、
この女性をパートナーと擬することが可能です

 

独身者とは、中也自身のことでしょう。
この詩が制作された昭和11年4月に
中也は結婚していましたが
詩人である自分を、
独身者=どくしんものに見立てたのです。
独身者は、詩人という存在のメタファーです。

 

では、第1連2、3行目

 

郊外と、市街を限る路の上には
大原女(おほはらめ)が一人歩いてゐた

 

とある、
郊外と、市街を限る路とは、何を意味しているのでしょうか
大原女は、文字通りの大原女と受け取ってよいのでしょうか
こ2行によって、指し示されたメタファーはどんなことでしょうか

 

ここで読む人の想像や推理や創作によって
詩は無限の展開をみせるはずです

 

3連は、
独身者が
昼下がりの銭湯から出てくると
郊外と市街の境界になっている道を
大原女が歩いている、のを見た

 

というこの詩の物語のリフレインですが
やはり、ここに何が込められているか
あれやこれや
考えたり、首をひねったり
合点したり、一人ほくそ笑んだり、

 

そうして
詩人が、二者択一を迫られて
どうしようにもなく崖っぷちに立っているような
切羽詰った感じがある……
という解に辿り着いたところで
この詩のエキスの部分は読み終えた
と、しておきましょう、ひとまず。

 

 *
 独身者

 

石鹸箱(せつけんばこ)には秋風が吹き
郊外と、市街を限る路の上には
大原女(おほはらめ)が一人歩いてゐた

 

――彼は独身者(どくしんもの)であつた
彼は極度の近眼であつた
彼はよそゆきを普段に着てゐた
判屋奉公したこともあつた

 

今しも彼が湯屋から出て来る
薄日の射してる午後の三時
石鹸箱には風が吹き
郊外と、市街を限る路の上には
大原女が一人歩いてゐた

 

*大原女 大原近辺から京都市中に、薪や花などを頭にのせて売りにくる女性。
*判屋奉公 「判屋」は、はんこ屋のことか。

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)
 *原文のルビは、( )内に表記しました。

2008年9月15日 (月)

蜻蛉に寄す/詩人のためいき

詩集「在りし日の歌」は
前3分の2ほど、42篇を「在りし日の歌」
残り3分の1ほど、16篇を「永訣の秋」に分けています。
「蜻蛉に寄す」は、42番目の作品です
つまり、「在りし日の歌」の最後に置かれ
次から「永訣の秋」に入る
いわば、けじめの歌です。

 

「むらさき」という女性向けの教養雑誌に初出、
この雑誌は、紫式部学会の編集、
制作は、昭和11年(1936)8月頃か、
と「中原中也必携」(吉田熈生編)は記している。

 

「秋」を拾っているうちに
前回読んだ「残暑」との相似に気付きます。
職業詩人であることの自覚が
中也の中に芽生えたのでありましょう。

 

この作も、気のせいか、どこかしら、
女性読者を意識しているように
感じられるのです。
どこそこと指摘できませんが、
平易平明な言葉使い、
流麗感のある七五調。

 

それ以外の詩法はない
シンプルさ、やわらかさ。

 

詩は
夕日の中に赤トンボが群れ飛ぶ
向こうのほうに工場の煙突が見える野原で
大きなため息をついた僕が
石を拾って放り投げ
草を抜く、
それだけの描写に終始します。

 

「残暑」よりも、いっそう
単純です。

 

大きな溜息 一つついて
僕は蹲(しやが)んで 石を拾ふ

 

抜かれた草は 土の上で
ほのかほのかに 萎(な)えてゆく

 

敢えて絞り込んで言えば
2連後半2行
4連前半2行
ここが考えどころです。

 

詩人はなぜため息をついたのだろうか
草が萎えていくから、どうしたというのか

 

このあたりを考えれば
この詩に触れることができそうですが……。

 

ため息をついて
しゃがんで石を拾い
その石が手の中であたたまると
それを放り捨てる
という一連の行為は
どんなことのメタファーであるのか

 

夕日を浴びている草を抜き
その抜かれた草が
ほのかに萎えていく
という一連の行為と状態の流れは
何のメタファーであるのか

 

このあたりを考えていくと
平易な詩句が孕む
深みが見えてきて
ハッとします。

 

 *
 蜻蛉に寄す

 

あんまり晴れてる 秋の空
赤い蜻蛉(とんぼ)が 飛んでゐる
淡(あは)い夕陽を 浴びながら
僕は野原に 立つてゐる

 

遠くに工場の 煙突が
夕陽にかすんで みえてゐる
大きな溜息 一つついて
僕は蹲(しやが)んで 石を拾ふ

 

その石くれの 冷たさが
漸く手中(しゆちゆう)で ぬくもると
僕は放(ほか)して 今度は草を
夕陽を浴びてる 草を抜く

 

抜かれた草は 土の上で
ほのかほのかに 萎(な)えてゆく
遠くに工場の 煙突は 
夕陽に霞(かす)んで みえてゐる

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)
 *原文のルビは、( )内に表記しました。

2008年9月14日 (日)

残暑/女性誌デビュー

 

 

20080831_028

 

 


「秋」にちなんだ歌を
読み進めていきます。

 

第35番は
「残暑」。

 

「中原中也必携」(吉田熈生編)によると
初出は「婦人公論」昭和11年(1936)9月号。
中也の女性誌デビューです。
1936年は、やがて長男文也の死にあう年ですが
そんなことになることを
詩人はまったく知りません。

 

女性の読者を
幾分か意識していることが
感じられるでしょうか。

 

畳が黄ばんできた、と言ったのは
奥さんの孝子でしょうか。

 

残暑厳しい
昼下がり
詩人は
所在無く
畳の上に
寝転んで
蝿がうなっているのを聞いていて
今日の朝
畳が黄ばんできたね
そろそろ替え時かしら
なんて言っていたのを
ぼんやり思い出しています。

 

それやこれやと
とりとめもなく
思い出したりしているうちに
眠ってしまった。

 

目覚めたのは夕方ちかくで
カナカナは鳴いており
木々は陽を浴びており
ぼくは庭木に水をまいた。

 

まいた水が
木々の枝々に
溜まって光っているのを
いつまでもいつまでも
ぼくは眺めていた。

 

……

 

午睡をむさぼる
平和な時間を歌っているように見えても
ここに、詩人は
爆弾をしかけているのです。

 

違うよちがうよ
僕は
葉末の水滴が美しい、なんて
思ってもみないのさ。
そんなものをぼーーっと見ている自分が
悲しいのですよ。

 

 
 *
 残 暑

 

畳の上に、寝ころばう、
蝿(はへ)はブンブン 唸つてる
畳ももはや 黄色くなつたと
今朝がた 誰かが云つてゐたつけ

 

それやこれやと とりとめもなく
僕の頭に 記憶は浮かび
浮かぶがまゝに 浮かべてゐるうち
いつしか 僕は眠つてゐたのだ

 

覚めたのは 夕方ちかく
まだかなかな[#「かなかな」に傍点]は 啼(な)いてたけれど
樹々の梢は 陽を受けてたけど、
僕は庭木に 打水やつた

 

    打水が、樹々の下枝(しづえ)の葉の尖(さき)に
    光つてゐるのをいつまでも、僕は見てゐた

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)
 *原文のルビは、( )内に表記しました。

朝鮮女/街の出会い

社会に孤絶した魂が
同じ孤絶した魂に遭遇するとき
いきなりは
しっくり相会うことはなく
互いを怪訝な面持ちで見やり
すれ違って通り過ぎることは
よくあることのようですが……。

 

昭和10年(1935)4月頃の作と
「中原中也必携」(吉田熈生編)が推定する
「朝鮮女」。

 

「骨」「秋日狂乱」の次の
25番目に置かれています。

 

東京の、どこかの街で
子連れの朝鮮人女性とすれ違う詩人は
その子ども、おそらくは、物心のつきはじめた
今でいう中学生の年頃の女の子の手を
引っ張る感じで、無理に引く
額を顰めた女
日焼けして赤銅色の顔の女に
目を見はっているのです。

 

服の紐
秋の風にや縒(よ)れたらん

 

着ている民族の服の紐が
吹かれて縒れているのは秋の風に吹かれためか。

 

何を思っているだろう
わたしが思うことと
同じようなことを思っているだろうか
いや、わたしの思うこととは
まるで別のことを思っている、のか。

 

――まことやわれもうらぶれし
ほんとうにうらぶれているのは
わたしの方もなので……

 

どれほどの時間だったろうか
心の中でのことだけれど
遠慮もしないで
まじまじ見ていたわたしを訝り
子どもを追い立てるようにうながしては
去っていった

 

すると、ちょうど、その時
小さな風とともに
少しの埃がたったのです

 

まるで
何かを思え、とでもいわんばかりに。

 

いったい
何を、これ以上、思えばいいのか。
わたしが思うことに
何の変わりはない。

 

孤絶した魂は
すれ違ったままではなく
……
……
……

 

詩人は
朝鮮女に出会った、のです。

 

 

 

 *
 朝鮮女

 

朝鮮女(をんな)の服の紐
秋の風にや縒(よ)れたらん
街道を往くをりをりは
子供の手をば無理に引き
額顰(しか)めし汝(な)が面(おも)ぞ
肌赤銅の乾物(ひもの)にて
なにを思へるその顔ぞ
――まことやわれもうらぶれし
こころに呆(ほう)け見ゐたりけむ
われを打見ていぶかりて
子供うながし去りゆけり……
軽く立ちたる埃(ほこり)かも
何をかわれに思へとや
軽く立ちたる埃かも
何をかわれに思へとや……
・・・・・・・・・・・

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)
 *原文のルビは、( )内に表記しました。

2008年9月13日 (土)

秋の日/無形の筏(いかだ)

文語調で
ややとっつきにくい作品ですが
何度も読んでいるうちに
やはり、すごいところのある詩だ、と
思えてくる。

 

はじめは
詩の形にを注目せざるを得ないので
そうするのですが
だんだん、この詩の、思想性というようなものに
気付きます。

 

形は、明治・大正期の詩人・岩野泡鳴の手法を
真似たものとか。

 

3字で区切り、1字分の空白を置き、
次に4字で区切り、1字分の空白を置き、
3-4(4-3)×2の14字で改行し、
14字1行の4行を1連とし
4行、4行、3行、3行の4連
つまり、4-4-3-3のソネットとし

 

さらに
1、2、3連の奇数行の第一字を字下げしています。

 

字の数の遊び
数によるリズム感
音数律
詩の形へのこだわり
この作品には、これらがあるのは確かです。

 

形のこだわりの上に
文語です。
その中に、内容の重さが忍び込んでいることも
わすれてはなりません。

 

4連に
連れだつ友の、とあり
友と歩いていることがわかります

 

河原の土手道でしょうか
並木の道です
「女の瞼」
「空の潤み」
「馬の蹄」
これは、回想か、幻想か

 

第2連の国道は
1連の河原と同じ道なのでしょうか
ぽっくりは、1連の女が履いているものに違いない

 

第3連に、山はあります。
流れを、無形の筏が通る、のです。
1連の河原の
半分に陽が射し
半分は陰になっていて
おそらく、陰になった河原を
無形の筏が、ゆっくりと、通っていくのです。

 

筏そのものでさえ
なんの装備もない
舟ですらない
木で組んだだけの乗り物です
無形、とは、何にもない
無一物の、という、
詩人の姿でありましょう。

 

連れの友が冗談を言い
道化て見せるのも
この旅に不釣合いではなく
秋は
唇をきっぱり結んで
思慮深く、息づいているよ

 

詩人の宣言は
いくつかありますが
この詩にも
その宣言があります。

 


 秋の日

 

 磧(かはら)づたひの 竝樹(なみき)の 蔭に
秋は 美し 女の 瞼(まぶた)
 泣きも いでなん 空の 潤(うる)み
昔の 馬の 蹄(ひづめ)の 音よ

 

 長の 年月 疲れの ために
国道 いゆけば 秋は 身に沁む
 なんでも ないてば なんでも ないに
木履(ぼくり)の 音さへ 身に沁みる

 

 陽は今 磧の 半分に 射し
流れを 無形(むぎやう)の 筏(いかだ)は とほる
 野原は 向ふで 伏せつて ゐるが 

 

連れだつ 友の お道化(どけ)た 調子も
 不思議に 空気に 溶け 込んで
秋は 案じる くちびる 結んで

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)
 *原文のルビは、( )内に表記しました。

 

 

秋日狂乱/無一物の詩人

24番目で
「骨」の次に置かれた
「秋日狂乱」。

 

中也の「狂」は
なにもすることがなく
時間をもてあますほどに
考えたり、詩想を練ったり,
在りし日・過ぎし日・幼かりし日を思い出したり

 

そのうち、倦怠感を抱いたり
ものうくなって、
血を吐きそうになるほどの
もの狂おしい状態をさします。
 
4行8連の
やや長めの口語自由詩で
難解な詩句はない。

 

「デーデー屋さん」は
後註にある通り
下駄や雪駄を直す人のこと。

 

昔、さまざまな職業の行商人が
東京の街で見かけられた
納豆少年とか
シジミ売りとか
いかけ屋さんとか
……。
そういう職業の一つでしょう。

 

「ヂオゲネス」も
後註のいうように
古代ギリシアの哲学者のことで
それ以上を知らなくてもよいでしょう。

 

「昇天」が2度出てきますが
どちらも
幸福・幸運を得る、
というような意味で使われています。

 

お道化た調子ですが
繰り返し読んでいると
やはり中也らしい深みが
随所に見られます。

 

第1連には、いきなり
詩人が
何ものも持たず
それを嘆くこともしない
素裸の人間であることの宣言。

 

無一物、無所有の者から見れば
以下、2、3連……
好いお天気で
いろんなことがあるけれど
好いお天気で。

 

空には飛行機がいっぱい飛んで
戦争になるのかもしれない、と
人々は騒いでいるけど
分かったように言うほど
そんなこと誰が知るもんか

 

ここには、詩人の
時局への無関心ではなく
関心が表明されていることを
見逃してはいけません。

 

空の青さは、もう、
涙に潤んでいるほどの
お天気で
子どもたちはさっき遊び呆けて遊びを止めちゃった

 

地上には、日向ぼっこしているサラリーマンの奥さんと
デーデー屋さんしかいないよ

 

ああ、ヒマでヒマで仕方ない
誰か、相手になってくれよ
ディオゲネスの時代なら小鳥のさえずりも聞こえたろうが
今日は、すずめも一つ鳴いていない
物の影さえ、淡いのだ!

 

ここで、考えさせる1行。
――さるにても田舎のお嬢さんは何処(どこ)に去(い)つたか
この「田舎のお嬢さん」とはだれか、です。

 

長谷川泰子の影を
感じるか感じないか、は、
読む人次第ですが、
とうに忘れたはずの「女」が
突然ここに出てきても
おかしくはありません。

 

この詩の制作は
昭和10年10月。
1935年です。
死の1年前です。

 

つづく「昇天の幻想」とは
泰子との幸福の幻想ではありませんか。

 

しかし、ふと、我に返り
今は春じゃなくて
秋だったのか、と
季節を忘れるほどに
僕は、なんだか自分を忘れることもあったけど、と
詩人は醒めます。

 

甘い、濃いシロップでも飲むことにしよう!
冷たくして、太いストローで
脇目もふらずシロップを飲もう!
他者には、何にも求めずに
自分は、徒手空拳で頑張って行こう!
……。

 

 *
 秋日狂乱
僕にはもはや何もないのだ
僕は空手空拳だ
おまけにそれを嘆きもしない
僕はいよいよの無一物だ

 

それにしても今日は好いお天気で
さつきから沢山の飛行機が飛んでゐる
――欧羅巴(ヨーロッパ)は戦争を起すのか起さないのか
誰がそんなこと分るものか

 

今日はほんとに好いお天気で
空の青も涙にうるんでゐる
ポプラがヒラヒラヒラヒラしてゐて
子供等は先刻(せんこく)昇天した

 

もはや地上には日向ぼつこをしてゐる
月給取の妻君とデーデー屋さん以外にゐない
デーデー屋さんの叩く鼓の音が
明るい廃墟を唯独りで讃美し廻つてゐる

 

あゝ、誰か来て僕を助けて呉れ
ヂオゲネスの頃には小鳥くらゐ啼いたらうが
けふびは雀も啼いてはをらぬ
地上に落ちた物影でさへ、はや余りに淡(あは)い!

 

――さるにても田舎のお嬢さんは何処(どこ)に去(い)つたか
その紫の押花(おしばな)はもうにじまないのか
草の上には陽は照らぬのか
昇天の幻想だにもはやないのか?

 

僕は何を云つてゐるのか
如何(いか)なる錯乱に掠(かす)められてゐるのか
蝶々はどつちへとんでいつたか
今は春でなくて、秋であつたか

 

ではあゝ、濃いシロップでも飲まう
冷たくして、太いストローで飲まう
とろとろと、脇見もしないで飲まう
何にも、何にも、求めまい!……

 

*デーデー屋さん でいでい屋。下駄や雪駄(竹の皮の草履の底に皮をはったもの)を直す人。「でいでい」と呼び声をかけて回り歩いた。
*ヂオゲネス 古代ギリシアの人名。哲学者としてアポロニアのディオゲネス、シノペのディオゲネスなどが知られている。 

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)
 *原文のルビは、( )内に表記しました。

 

 

2008年9月12日 (金)

「在りし日の歌」に秋を拾う

思いついて
詩集「在りし日の歌」の中の
「秋」を拾ってみました。

 

中也は
春夏秋冬のいずれをも
万遍なく歌っていることに気づきます。
秋だからといって
特別の意味を込めているわけでもなさそうです。

 

幾分か、傾向というものは
あるかもしれませんが
ここでは深追いしません。

 

そもそも詩集「在りし日の歌」は
「在りし日の歌」と「永訣の秋」に分けられており
ここにすでに「秋」はあり、
この「秋」に
文也の死が色濃く映し出されていることを知ると
やはり、タイトルを立てた意味を
想像しないわけにもいきません。

 

1番目の作品「含 羞(はぢらひ) ――在りし日の歌――」に
秋 風白き日の山かげなりき
の1行はあり
詩集冒頭から「秋」です。

 

続いて、16番目の「秋の日」に、
秋は 美し 女の 瞼(まぶた)
国道 いゆけば 秋は 身に沁む
秋は 案じる くちびる 結んで
の3行が1、2、4連に。

 

19番目の「老いたる者をして ――「空しき秋」第十二」は
秋の語句はないものの
東明(しののめ)の空の如く丘々をわたりゆく夕べの風の如く
とあるのが秋っぽい。

 

22番目の「秋の消息」は
昨11日に見たとおり。
秋の日は、からだに暖か
手や足に、ひえびえとして

 

24番目
「秋日狂乱」
今は春でなくて、秋であつたか

 

25番目の「朝鮮女」
朝鮮女(をんな)の服の紐
秋の風にや縒(よ)れたらん

 

33番目「お道化うた」
霜の降つたる秋の夜に、

 

35番目「残暑」
覚めたのは 夕方ちかく
まだかなかなは 啼(な)いてたけれど

 

39番目「独身者」
石鹸箱には秋風が吹き
郊外と、市街を限る路の上には
大原女(おはらめ)が一人歩いてゐた

 

42番目「蜻蛉に寄す」
あんまり晴れてる 秋の空
赤い蜻蛉(とんぼ)が 飛んでゐる

 

「永訣の秋」には
意外にも
44番目「一つのメルヘン」
秋の夜は、はるかの彼方(かなた)に、
だけでした。

 

このほかに
「秋」の言葉はなくても
秋を感じさせる詩が
いくつかあるのは当然です。

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)

2008年9月11日 (木)

秋の消息/新宿のアドバルーン

20081126_673649

 

 

 

「骨」の前に置かれた作品。
はじめから数えて22番目にある
「秋の消息」には
「新宿」が出てきます。

 

最終行に

 

此の日頃、広告気球は新宿の
空に揚りて漂へり
ソラニアガリテタダヨエリ

 

と、あります。

 

単に、秋が来たことを歌った詩で、
ちょうど、今頃の爽やかさにふさわしく
ドラマチックな展開があるでもなく
のんびりしていて、いいですね。

 

教会堂の石段も
新宿のものでしょうか。

 

石段に腰掛けて
日向ぼっこする詩人の目に
秋の柔らかな陽光に包まれた花が見え
建物か、どこかの物陰から
コオロギの鳴く声が聞こえています。

 

強い日ざしのおもかげさえ残り
からだはあったかいけれど
手足には、ひんやりする秋の日差し。

 

からだに暖か
手や足に、ひえびえ

 

この繊細な表現!
平凡な作品のようだけれど
中也の深みは
されげなく、こんな詩句に存在する

 

ふと見上げれば
百貨店の宣伝アドバルーンが
青空にポッカリ
ユラリユラリ揺れています

 

三越百貨店あたりの
イメージでしょうか。
そうでなくとも
角筈あたりを
歩いている詩人の姿が見えてきます。

 

 *
 秋の消息

 

麻は朝、人の肌(はだへ)に追い縋(すが)り
雀らの、声も硬うはなりました
煙突の、煙は風に乱れ散り

 

火山灰掘れば氷のある如く
けざやけき顥気(かうき)の底に青空は
冷たく沈み、しみじみと

 

教会堂の石段に
日向ぼつこをしてあれば
陽光(ひかり)に廻(めぐ)る花々や
物蔭に、すずろすだける虫の音(ね)や

 

秋の日は、からだに暖か
手や足に、ひえびえとして
此の日頃、広告気球は新宿の
空に揚りて漂へり

 

*顥気 天上に漂う白く明るい気。

 

角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)
 *原文のルビは、( )内に表記しました。(編者)

 

 

2008年9月10日 (水)

一つのメルヘン/サラサラの謎

秋の夜なのに
陽が射している
そのうえ
蝶さえ飛んできた
小石しか見当たらない河原。

 

さらさらと射す
という不思議な詩句

 

さらさら、は
普通なら
粉のようなもの
砂のようなものの
乾いたイメージを表す
擬音語なのに

 

太陽の光の降り注ぐ様を
さらさら射す、と
言い表す。

 

光がさらさら
音がさらさら
水がさらさら

 

不思議な詩です。
いつ読んでも
新鮮な気持ちになり
洗われるのは
なぜだろう。

 

ひょっとして
死のイメージの
安らかさが
よぎるからだろうか。

 

小石ばかりの、河原があつて、
……の1行が喚起する
生物のいない河原のイメージはなんだ。

 

陽が硅石のようでもあり
個体の粉末のようでもあり
……

 

そこへ、1匹の蝶が
飛んできて起こる
革命!
河原が息を吹き返します。

 

大岡昇平のいう
「異教的な天地創造神話」とまでは
思い及ばない。

 

いつしか、
それまで流れていなかった
川の水が流れ出し
こんどは
その水が
さらさらと流れるきっかけには

 

一匹の蝶が
どこからともなくやってきて
どこへともなく飛んで行く

 

というのは
やはりメルヘン……。

 

ほかにも
いくつかの謎があります。
その謎を謎としても
味わいたいものです。

 

 *
 一つのメルヘン

 

秋の夜は、はるかの彼方(かなた)に、
小石ばかりの、河原があつて、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射してゐるのでありました。

 

陽といつても、まるで硅石(けいせき)か何かのやうで、
非常な個体の粉末のやうで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもゐるのでした。

 

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでゐてくつきりとした
影を落としてゐるのでした。

 

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもゐなかつた川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……

 

*硅石 石英・水晶など珪素の化合物からなる鉱物。ガラスや陶磁器の原料となる。
*個体 「固体」と同じ意味で用いられている。初出「文芸汎論」1936年1月号でも「個体」。中原中也が常用した字のひとつ。

 

角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)
 *原文のルビは、( )内に表記しました。(編者)

骨/死後のメルヘン

人は、死んだ後の自分を見ることはできません
死んだ自分を見ることはできません
死んだ自分の肉体を見ることはできません
自分の屍(しかばね)を見ることはできません

 

それなのに
中原中也は、自分の骨を見ました!
ふるさとの小川のほとりの
枯れ草の中に立っていると
ちょうど立て札の高さにある
自分の骨を見たのです

 

「危険ですから、泳ぐのはやめましょう」などと
書かれた立て札でしょうか

 

立て札の高さとは
自分の背と同じ高さほどということでしょうか

 

それは
胸のあたりに
立っているのでした

 

生きていたときの
あの、汚らわしい肉は
すでになく
骨だけが
雨に洗われ
剥き出しになっている!

 

これが
食堂のにぎわいの中に座って
好物のみつばのおひたしを食べていたのかな

 

なんで
僕は僕の骨を見ているんだろう
おかしいなあ
霊魂が見ているのだろうか
……

 

やや道化た感じに読めますか。
もっと、深刻な感じですか。
人によって、読め方は、まちまちかも知れません。

 

「一つのメルヘン」の
さらさらとさらさらと
流れているのでありました

 

に通じていくような響きもあります。

 

 

 

 *
 骨

 

ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きてゐた時の苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破つて、
しらじらと雨に洗はれ、
ヌックと出た、骨の尖(さき)。

 

それは光沢もない、
ただいたづらにしらじらと、
雨を吸収する、
風に吹かれる、
幾分空を反映する。

 

生きてゐた時に、
これが食堂の雑踏の中に、
坐つてゐたこともある、
みつばのおしたしを食つたこともある、
と思へばなんとも可笑(をか)しい。

 

ホラホラ、これが僕の骨——
見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
霊魂はあとに残つて、
また骨の処にやつて来て、
見てゐるのかしら?

 

故郷(ふるさと)の小川のへりに、
半ばは枯れた草に立つて、
見てゐるのは、——僕?
恰度(ちやうど)立札ほどの高さに、
骨はしらじらととんがつてゐる。

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)
 *原文のルビは、( )内に表記しました。

2008年9月 7日 (日)

冬の日の記憶/弟・亜郎の死

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By bwhistler

 

詩集を順にパラパラめくり
15番目にある
「冬の日の記憶」を
読んでみます。

 

この詩は、
「別冊国文学NO4 中原中也必携」(吉田煕生編、学燈社、1979年夏季号)によれば
昭和10年(1935年)12月に制作されたことが
考証されています。

 

すなわち
文也の死亡の前年、
約1年前の制作です。
ですから、文也のことではありません。

 

「夜になって、急に死んだ」のは
中也の次弟・亜郎と推定されています。

 

4歳の亜郎が亡くなったのは
大正4年1月9日。
中也は8歳でした。

 

中原中也が
「詩作」した初めてのこと、と
自ら、「詩的履歴書」に記した
事件でした。

 

この詩のことではありません。
この事件、亜郎の死が
詩人に詩作を促した
人生の最初だった、というのです。

 

心根のやさしい次弟を
長兄である中也は
ことのほか
可愛がったことが伝えられています。

 

作中の
「父親は、遠洋航海してゐた。」は
父親の謙助が朝鮮に勤務していたことを意味しています。

 

最終行
「電報打つた兄は、今日学校で叱られた。」は
兄=詩人が、母親の悲しみをねぎらえなかった、
という自責の念の表現でしょうか。

 

電報を打ったりして
詩人は、
長兄であり
長子である役割を
小学生ながら果たしたことが
うかがえます。

 

この、亜郎の死をはじめとして
中也は、生前、
肉親の死に合計7回立ち会うことになります。

 

1921年(大正10年)に、
     養祖父・政熊(66歳)
     中也14歳
1928年(昭和3年)に、
     父・謙助(52歳)
     中也21歳
1931年(昭和6年)に、
     三弟・恰三(19歳)
     中也24歳
1932年(昭和7年)に、
     祖母・スヱ(74歳)
     中也25歳
1935年(昭和10年)に、
     養祖母・コマ(72歳)
     中也27歳
1936年(昭和11年)月に、
     長男・文也(2歳)
     中也29歳
     
肉親の死のほかに
親友であり詩人であった富永太郎の死
文学者・牧野信一の自死
……などにも
遭遇しました。

 

文壇の寵児・芥川龍之介の自殺のことや
小林多喜二の拷問死のことなども
同時代を生きていた者として
少なからぬ関心があったに違いありません。

 

とはいえ
詩作品の動機になったのは
やはり
肉親の死でした。

 

「在りし日の歌」の根底にあるのは
これら、肉親の死
とりわけ
「弟・亜郎の死」
「弟・恰三の死」
「長男・文也の死」
……のようであります。

 

 *
 冬の日の記憶

 

昼、寒い風の中で雀を手にとつて愛してゐた子供が、
夜になつて、急に死んだ。

 

次の朝は霜が降つた。
その子の兄が電報打ちに行つた。

 

夜になつても、母親は泣いた。
父親は、遠洋航海してゐた。

 

雀はどうなつたか、誰も知らなかつた。
北風は往還を白くしてゐた。

 

つるべの音が偶々(たまたま)した時、
父親からの、返電が来た。

 

毎日々々霜が降つた。
遠洋航海からはまだ帰れまい。

 

その後母親がどうしてゐるか……
電報打つた兄は、今日学校で叱られた。

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)
 *原文のルビは、( )内に表記しました。

 

 

「在りし日」について2/文也が死んだ日

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中原中也の
第2詩集「在りし日の歌」は
多様な「在りし日」によって
読み方が撹乱されることがあります。

 

その撹乱とたたかうように
大岡昇平は
「在りし日」について考証し
繰り返し繰り返し
論評を書いています。

 

「生からの離脱」
「死」
「霊への呼びかけ」
「幽霊との対話」
「死者との交流」
「死の観念」
「在りし日の氾濫」
……など

 

大岡昇平の考証は
1966年の「在りし日の歌」(新潮1月号)をはじめ

 

1967年の「在りし日、幼かりし日」(群像10月号)でも
さらに深められます。

 

1969年の
「『在りし日の歌』解題」(「生と歌 中原中也その後」所収)では
簡略に

 

「在りし日の歌」とは通常「生前」を意味するが、中原は過去の意に用いている。未刊詩篇昭和三年一月二十五日付「ありし日、幼かりし日」、昭和七年ごろの「風雨」では幼時を意味している。

 

と、まとめています。

 

今、詩集「在りし日の歌」を
読み進めるにあたって
特に知っておいたほうがよいのは
「死」が登場したとき
それが、文也の死に関与しているか否か、です。

 

詩集全体の副題に
「亡き児文也の霊に捧ぐ」とあるからといって
この詩集中の作品が扱う「死」が
すべて文也の死ではないことに
気付かねばなりません。

 

冒頭の「含羞(はぢらい)」は
そのことを
教えてくれます。

 

文也の死は、1936年、昭和11年。
それ以前に「含羞」は作られましたし
ほかにも、文也の死以前に作られた作品があります。

 

 

2008年9月 6日 (土)

在りし日の歌アウトライン

詩集「在りし日の歌」は
「在りし日の歌」42篇
「永訣の朝」16篇
合計で58篇で構成されています。

 

一つひとつの作品を読み進んでいく前に
パラパラと作品に触れてみながら
全体を展望しておきましょう

 

次に記すのは
全作品のタイトルです。

 

いくつか
記憶にある詩が見つかるでしょうか

 


<在りし日の歌>
含羞(はぢらひ)
  ――在りし日の歌――
むなしさ
夜更の雨
早春の風

青い瞳
 1 夏の朝
 2 冬の朝
三歳の記憶
六月の雨
雨の日

春の日の歌
夏の夜
幼獣の歌
この小児
冬の日の記憶
秋の日
冷たい夜
冬の明け方
老いたる者をして
  ――「空しき秋」第十二
湖上
冬の夜
秋の消息

秋日狂乱
朝鮮女
夏の夜に覚めてみた夢
春と赤ン坊
雲雀
初夏の夜
北の海
頑是ない歌
閑寂
お道化うた
思ひ出
残暑
除夜の鐘
雪の賦
わが半生
独身者
春宵感懐
曇天
蜻蛉に寄す

 

<永訣の秋>
ゆきてかへらぬ
  ――京都――
一つのメルヘン
幻影
あばずれ女の亭主が歌つた
言葉なき歌
月夜の浜辺
また来ん春……
月の光 その一
月の光 その二
村の時計
或る男の肖像
冬の長門峡
米 子
正 午
 丸ビル風景
春日狂想
蛙声

 

<後記>

 

 

<在りし日の歌>で
一度は読んだことのありそうな作品は

 

ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう。
「湖上」

 

ホラホラ、これが僕の骨だ、
「骨」

 

海にゐるのは、
あれは人魚ではないのです。
「北の海」

 

思へば遠く来たもんだ
「頑是ない歌」

 

除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
「除夜の鐘」

 

雪が降るとこのわたくしには、人生が、
かなしくもうつくしいものに――
憂愁にみちたものに、思へるのであつた。
「雪の賦」

 

 ある朝 僕は 空の 中に、
黒い 旗が はためくを 見た。
「曇天」

 

<永訣の秋>で
どこかで読んだような感じがする作品は

 

 僕は此の世の果てにゐた。
「ゆきてかへらぬ
    ――京都――」

 

秋の夜は、はるかの彼方《かなた》に、
小石ばかりの、河原があつて、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射してゐるのでありました。
「一つのメルヘン」

 

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。
「月夜の浜辺」

 

また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るぢやない
「また来ん春……」

 

長門峡に、水は流れてありにけり。
寒い寒い日なりき。
「冬の長門峡」

 

あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
「正午
 丸ビル風景」

 

愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。
「春日狂想」

 

こんなものでしょうか。
はやく、じっくり読みたくなってきますね。
パラパラっと見ただけで。

2008年9月 2日 (火)

「在りし日」について

「在りし日の歌」というタイトルへの
詩人の並々ならぬこだわりは
「死後もの」「臨死もの」とかの
死世界を描写した一連の作品に接すると
さらにビビッドに浮かび上がってきます。

 

まるで   
死について書かれた作品は
すべてが「在りし日――」と
一括りできるようなジャンルを形成するかのようです。

 

ジャンルというよりも
この詩人の世界の
この詩人の作品の
欠かせない要素であるかのように
大きく聳え立ってきます
「在りし日もの」とでも
呼びたくなるほどです。

 

第2詩集「在りし日の歌」は
ことさらに
「死」が際だっているようですが
第1詩集「山羊の歌」にも
「死」はいくつかありました。

 

ですから
「山羊の歌」が「生の歌」で
「在りし日の歌」が「死の歌」で
などという対比は
それほど意味あることではありません。

 

意味は、しかし、思いがけなくも
詩人の死によって
鮮烈に付与されました。

 

「在りし日の歌」は
「死」と、より多く、より深く
向き合った詩集であることが
知れわたったのです。
むべなるかな、です。
故なきことではありません。

 

にもかかわらず
詩集「在りし日の歌」は
作りためた作品を世に問い
これからの創作へのけじめとするための
「過去に歌った作品」
「過去の歌」
「過ぎし日の歌」
……であったのです。

 

詩人の精神は明らかに
明日に向かっていました。
たとえ、それが茫洋としたものであっても!

 

それでは
いったい
詩人の「在りし日」とは
なんのことなのでしょうか。
どんなことを指し示しているのでしょうか

 

他人の死を人は見ることはできますが
自分の死を見ることはできません

 

自分の死を見ることができるのは
あたかも、臨死体験をしたときとかのほかは
想像して見ることくらいです

 

中原中也という詩人は
自分の死そのものや死後を
想像して
詩作したのだ

 

未来へジャンプするために
作品を過去のものにして
「在りし日」を思う眼差しの中へ入れる
そういう想像で
創作したのだ

 

あまりにも自明な
あまりにも明白な
この事実が
多様な「在りし日の歌」によって
撹乱されることがあって
「在りし日の歌」の詩人として
その名は広がりました。

2008年9月 1日 (月)

含羞はぢらい/死児等の亡霊

「在りし日の歌」は
「亡き児文也の霊に捧ぐ」と 詩集タイトルの裏ページに献辞が置かれ、
後記の書かれた日(1937年9月23日)の ほぼ1年前の
1936年11月10日に死んだ
長男文也への追悼詩集という 顔をももっています。

 

そのうえ
詩集の冒頭に置かれた
「含羞(はぢらひ)」という作品にも
「在りし日の歌」という 副題がつけられています。

 

このタイトル「在りし日の歌」への
詩人の並々ならぬこだわりを 感じないわけにはいきませんが
同時に
「含羞」を読むとき
この詩に出てくる 「死児等の亡霊」の「死児」が
文也のことと読み間違える理由が ここにあります。

 

「含羞」の制作は
1935年(昭和10年)11月と考証され
文也の死は 1936年11月ですから
この詩の中の「死」は
1935年11月以前のものなのです。

 

つまり 「含羞」は
文也の死より前に制作されています。

 

このことを知りながら 「含羞」を 読んでみますと……
「がんしゅう」という音読みではなく
「はじらい」と詩人が読ませたいのは
文語の詩であるからでしょう。

 

「はぢらひ」とルビがあるのは
歴史的仮名遣いのためです。

 

秋、 風が白くさやいでいる山かげの
椎の枯葉が積もる窪地に
幹々は、 とても大人っぽい感じで立ち並んでいる

 

幹が、すでに幼さを脱し、
一人前の成木のように大人びている
それを目にしている詩人の心は
含羞=はじらいに浸されているのですが
なぜなのだろう、と
その含羞の立ち上ってくる理由を
自らに質します。

 

椎の木の枝と枝が交叉するあたりに
なにやら悲しげな空気がただよい
空には、
死んだ子どもたちの亡霊がいっぱいいて
ピカピカ瞬(またた)いている

 

亡霊を幻視する眼差しは
さらにシュールな夢を見ます。

 

折も折、
向こうの野原の上は
あすとらかんのあはひ縫ふ 古代の象の夢なりき
アストラカンの間を縫って
古代の象が のっしのっし歩いている夢のような光景 ……

 

しばらくして、
目を、 幹に戻すと また、
異なるイメージが見えてきます。

 

その日その幹の間にのぞいた睦まじい瞳
亡霊の児らの瞳はなごやかな光を帯び
とりわけ キミの瞳には、 姉らしい色が映っていた ……

 

あゝ! 過ぎし日の 仄(ほの)燃えあざやぐをりをりは
ああ! 過ぎ去った日の、 いまはもう見ることもできない
ほのかだけれど、 鮮やかに燃えた時があった
わたしの心はなぜ 何故、 このように はじらうのだろう

 

 *
 含羞(はぢらひ)
  ――在りし日の歌――

 

なにゆゑに こゝろかくは羞(は)ぢらふ
秋 風白き日の山かげなりき
椎の枯葉の落窪に
幹々は いやにおとなび彳(た)ちゐたり

 

枝々の 拱(く)みあはすあたりかなしげの
空は死児等の亡霊にみち まばたきぬ
をりしもかなた野のうへは
あすとらかんのあはひ縫ふ 古代の象の夢なりき

 

椎の枯葉の落窪に
幹々は いやにおとなび彳ちゐたり
その日 その幹の隙 睦みし瞳
姉らしき色 きみはありにし

 

その日 その幹の隙(ひま) 睦みし瞳
姉らしき色 きみはありにし
あゝ! 過ぎし日の 仄(ほの)燃えあざやぐをりをりは
わが心 なにゆゑに なにゆゑにかくは羞ぢらふ……

 

*あすとらかん astrakan(仏) ロシアのアストラハン地方で産する子羊の毛皮。また、それに似せて作られたビロード織。

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)
 *原文のルビは、( )内に表記しました。
 *原文には、「あすとらかん」に傍点がつけられています。(編者)

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