老いたる者をして1/演奏された歌
明白な秋の歌は
これで尽きそうです
19番目の「老いたる者をして」。
昭和3年(1928)10月に制作された、という
関口隆克の証言があるそうです。
この詩に、諸井三郎が曲を付け、
昭和5年(1930)5月の
「スルヤ」第5回発表会で
演奏されました。
佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』(角川文庫クラシックス)の年譜には
この発表会で
「帰郷」「失せし希望」(内海誓一郎作曲)も
「老いたる者をして」とともに
歌われたことが記されています。
大岡昇平は、
諸井三郎が内海誓一郎と共に、宮益坂上の長井維理(ういり)の家へ毎週水曜日寄り合って、「スルヤ」という小団体を作ったのは昭和2年の末で、彼に中原を紹介したのは、当時まだピアノを弾いていた河上徹太郎である。(1956年5月号「新潮」)
と、「スルヤ」と中也のなれそめを書いています。
別のところでは、
昭和3年5月から翌年1月まで、中原は下高井戸で関口隆克と自炊している。関口は後に文部省に入ったが、「スルヤ」の諸井三郎、仏文の佐藤正彰の義兄である。文学をやっていたわけではないが、何についても一言理屈のある男で、中原を愛していた。愛情は文学と関係ないから、決して喧嘩にならない。(1956年9月号「文学界」)
と、書いています。
「白痴群」は昭和4、5年(1929、30)の活動でした。
「スルヤ」とは、
昭和2年(1927年)11月、
河上徹太郎を通じて
諸井三郎を知ったのが縁で
交流がはじまり、
その第5回発表会は、昭和5年5月でした。
昭和5年、1930年
中也23歳。(誕生日は4月29日)
しかし、この年の後半、
中也は、またもや、ピンチに立たされます。
*
老いたる者をして
――「空しき秋」第十二
老いたる者をして静謐(せいひつ)の裡(うち)にあらしめよ
そは彼等こころゆくまで悔いんためなり
吾は悔いんことを欲す
こころゆくまで悔ゆるは洵(まこと)に魂を休むればなり
あゝ はてしもなく涕(な)かんことこそ望ましけれ
父も母も兄弟(はらから)も友も、はた見知らざる人々をも忘れて
東明(しののめ)の空の如く丘々をわたりゆく夕べの風の如く
はたなびく小旗の如く涕かんかな
或(ある)はまた別れの言葉の、こだまし、雲に入り、野末にひびき
海の上(へ)の風にまじりてとことはに過ぎゆく如く……
反歌
あゝ 吾等怯懦(けふだ)のために長き間、いとも長き間
徒(あだ)なることにかゝらひて、涕くことを忘れゐたりしよ、げに忘れゐたりしよ……
〔空しき秋二十数篇は散佚して今はなし。その第十二のみ、諸井三郎の作曲によりて残りしものなり。〕
(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)
*原作第5連第2行「はたなびく」に傍点があります。(編者)
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