骨/死後のメルヘン
人は、死んだ後の自分を見ることはできません
死んだ自分を見ることはできません
死んだ自分の肉体を見ることはできません
自分の屍(しかばね)を見ることはできません
それなのに
中原中也は、自分の骨を見ました!
ふるさとの小川のほとりの
枯れ草の中に立っていると
ちょうど立て札の高さにある
自分の骨を見たのです
「危険ですから、泳ぐのはやめましょう」などと
書かれた立て札でしょうか
立て札の高さとは
自分の背と同じ高さほどということでしょうか
それは
胸のあたりに
立っているのでした
生きていたときの
あの、汚らわしい肉は
すでになく
骨だけが
雨に洗われ
剥き出しになっている!
これが
食堂のにぎわいの中に座って
好物のみつばのおひたしを食べていたのかな
なんで
僕は僕の骨を見ているんだろう
おかしいなあ
霊魂が見ているのだろうか
……
やや道化た感じに読めますか。
もっと、深刻な感じですか。
人によって、読め方は、まちまちかも知れません。
「一つのメルヘン」の
さらさらとさらさらと
流れているのでありました
に通じていくような響きもあります。
*
骨
ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きてゐた時の苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破つて、
しらじらと雨に洗はれ、
ヌックと出た、骨の尖(さき)。
それは光沢もない、
ただいたづらにしらじらと、
雨を吸収する、
風に吹かれる、
幾分空を反映する。
生きてゐた時に、
これが食堂の雑踏の中に、
坐つてゐたこともある、
みつばのおしたしを食つたこともある、
と思へばなんとも可笑(をか)しい。
ホラホラ、これが僕の骨——
見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
霊魂はあとに残つて、
また骨の処にやつて来て、
見てゐるのかしら?
故郷(ふるさと)の小川のへりに、
半ばは枯れた草に立つて、
見てゐるのは、——僕?
恰度(ちやうど)立札ほどの高さに、
骨はしらじらととんがつてゐる。
(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)
*原文のルビは、( )内に表記しました。
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