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2008年9月 2日 (火)

「在りし日」について

「在りし日の歌」というタイトルへの
詩人の並々ならぬこだわりは
「死後もの」「臨死もの」とかの
死世界を描写した一連の作品に接すると
さらにビビッドに浮かび上がってきます。

 

まるで   
死について書かれた作品は
すべてが「在りし日――」と
一括りできるようなジャンルを形成するかのようです。

 

ジャンルというよりも
この詩人の世界の
この詩人の作品の
欠かせない要素であるかのように
大きく聳え立ってきます
「在りし日もの」とでも
呼びたくなるほどです。

 

第2詩集「在りし日の歌」は
ことさらに
「死」が際だっているようですが
第1詩集「山羊の歌」にも
「死」はいくつかありました。

 

ですから
「山羊の歌」が「生の歌」で
「在りし日の歌」が「死の歌」で
などという対比は
それほど意味あることではありません。

 

意味は、しかし、思いがけなくも
詩人の死によって
鮮烈に付与されました。

 

「在りし日の歌」は
「死」と、より多く、より深く
向き合った詩集であることが
知れわたったのです。
むべなるかな、です。
故なきことではありません。

 

にもかかわらず
詩集「在りし日の歌」は
作りためた作品を世に問い
これからの創作へのけじめとするための
「過去に歌った作品」
「過去の歌」
「過ぎし日の歌」
……であったのです。

 

詩人の精神は明らかに
明日に向かっていました。
たとえ、それが茫洋としたものであっても!

 

それでは
いったい
詩人の「在りし日」とは
なんのことなのでしょうか。
どんなことを指し示しているのでしょうか

 

他人の死を人は見ることはできますが
自分の死を見ることはできません

 

自分の死を見ることができるのは
あたかも、臨死体験をしたときとかのほかは
想像して見ることくらいです

 

中原中也という詩人は
自分の死そのものや死後を
想像して
詩作したのだ

 

未来へジャンプするために
作品を過去のものにして
「在りし日」を思う眼差しの中へ入れる
そういう想像で
創作したのだ

 

あまりにも自明な
あまりにも明白な
この事実が
多様な「在りし日の歌」によって
撹乱されることがあって
「在りし日の歌」の詩人として
その名は広がりました。

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