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2008年9月 7日 (日)

冬の日の記憶/弟・亜郎の死

Bybwhistler01

By bwhistler

 

詩集を順にパラパラめくり
15番目にある
「冬の日の記憶」を
読んでみます。

 

この詩は、
「別冊国文学NO4 中原中也必携」(吉田煕生編、学燈社、1979年夏季号)によれば
昭和10年(1935年)12月に制作されたことが
考証されています。

 

すなわち
文也の死亡の前年、
約1年前の制作です。
ですから、文也のことではありません。

 

「夜になって、急に死んだ」のは
中也の次弟・亜郎と推定されています。

 

4歳の亜郎が亡くなったのは
大正4年1月9日。
中也は8歳でした。

 

中原中也が
「詩作」した初めてのこと、と
自ら、「詩的履歴書」に記した
事件でした。

 

この詩のことではありません。
この事件、亜郎の死が
詩人に詩作を促した
人生の最初だった、というのです。

 

心根のやさしい次弟を
長兄である中也は
ことのほか
可愛がったことが伝えられています。

 

作中の
「父親は、遠洋航海してゐた。」は
父親の謙助が朝鮮に勤務していたことを意味しています。

 

最終行
「電報打つた兄は、今日学校で叱られた。」は
兄=詩人が、母親の悲しみをねぎらえなかった、
という自責の念の表現でしょうか。

 

電報を打ったりして
詩人は、
長兄であり
長子である役割を
小学生ながら果たしたことが
うかがえます。

 

この、亜郎の死をはじめとして
中也は、生前、
肉親の死に合計7回立ち会うことになります。

 

1921年(大正10年)に、
     養祖父・政熊(66歳)
     中也14歳
1928年(昭和3年)に、
     父・謙助(52歳)
     中也21歳
1931年(昭和6年)に、
     三弟・恰三(19歳)
     中也24歳
1932年(昭和7年)に、
     祖母・スヱ(74歳)
     中也25歳
1935年(昭和10年)に、
     養祖母・コマ(72歳)
     中也27歳
1936年(昭和11年)月に、
     長男・文也(2歳)
     中也29歳
     
肉親の死のほかに
親友であり詩人であった富永太郎の死
文学者・牧野信一の自死
……などにも
遭遇しました。

 

文壇の寵児・芥川龍之介の自殺のことや
小林多喜二の拷問死のことなども
同時代を生きていた者として
少なからぬ関心があったに違いありません。

 

とはいえ
詩作品の動機になったのは
やはり
肉親の死でした。

 

「在りし日の歌」の根底にあるのは
これら、肉親の死
とりわけ
「弟・亜郎の死」
「弟・恰三の死」
「長男・文也の死」
……のようであります。

 

 *
 冬の日の記憶

 

昼、寒い風の中で雀を手にとつて愛してゐた子供が、
夜になつて、急に死んだ。

 

次の朝は霜が降つた。
その子の兄が電報打ちに行つた。

 

夜になつても、母親は泣いた。
父親は、遠洋航海してゐた。

 

雀はどうなつたか、誰も知らなかつた。
北風は往還を白くしてゐた。

 

つるべの音が偶々(たまたま)した時、
父親からの、返電が来た。

 

毎日々々霜が降つた。
遠洋航海からはまだ帰れまい。

 

その後母親がどうしてゐるか……
電報打つた兄は、今日学校で叱られた。

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)
 *原文のルビは、( )内に表記しました。

 

 

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