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2008年10月

2008年10月31日 (金)

修羅街挽歌 其の二/憤怒

20080721_040

「山羊の歌」中の「修羅街輓歌」は、 もう一つの作品があります。 未発表詩篇/草稿詩篇(1931-32)として 分類されているもので、 「修羅街挽歌 其の二」のタイトルがつけられています。 こちらは、「輓歌」ではなく 「挽歌」としています。 中也が力を注いでいた 同人誌「白痴群」の廃刊と、 それにともなう集団の崩壊……。 友人関係の崩壊、 という言い方は客観的に過ぎることを 思わせる作品に 驚かされます。 中也は、集団の中心にいた 当事者であり、 廃刊を客観的に捉えられる状況にはありませんでした。 わが友等みな、 我を去るや…… ここには、 悲痛な響きというより 憤怒が感じられます。 押さえに押さえても 立ち現れてくる憤り……。 Ⅱは、「ゴムマリの歌」と題し、 ゴムのマリそのものに 詩人を投影し、 悲しみと怒りを歌います。 Ⅲも、ゴムマリの歌ですが 完成作とみなさなかったのでしょうか Ⅳとともに、 未完成ゆえに 生の心が出ています。 ゴムマリを幼稚園にたとえて 幼稚園には色々な児童がいる、と、 又、 鼻ただれ、 眼はトラホーム、 涙する、童児もあらう と歌う、烈(はげ)しさには ただならぬものが感じられます。 結局は、この詩ではない 「修羅街輓歌」が関口隆克に献じられたのですが、 献じられた関口は、 「其の二」を読んでいないと思われるのに (ひょっとして読んでいたのかもしれません) 詩人の怒りをよく知っていたようであります。  *  修羅街挽歌 其の二 Ⅰ 友に与うる書 暁は、紫の色、 明け初めて わが友等みな、 我を去るや…… 否よ否、 暁は、紫の色に、 明け初めてわが友等みな、 一堂に、会するべしな。 弱き身の、 強がりや怯(おび)え、おぞましし 弱き身の、弱き心の 強がりは、猶(なお)おぞましけれど 恕(ゆる)せかし 弱き身の さるにても、心なよらか 弱き身の、心なよらか 折るることなし。 Ⅱ ゴムマリの歌  ゴムマリか、なさけない ゴムマリか、なさけない ゴムマリは、キャラメル食べて ゴムマリは、ギツダギダギダ ゴムマリは、ころべどころべど ゴムマリはゴムのマリなり ゴムマリを待つは不運か ゴムマリは、涙流すか ゴムマリは、ころんでいって、 ゴムマリは、天寿に至る ゴムマリは、天寿に至り ゴムマリは天寿のマリよ Ⅲ 強がつたこころといふものが、 それがゴムマリみたいなものだといふことは分かる ゴムマリといふものは 幼稚園ではある ゴムマリといふものが、 幼稚園であるとはいへ 幼稚園の中にも亦(また) 色んな童児があらう 金色の、虹の話や 蒼窮(そうきゅう)を歌ふ童児、 金色の虹の話や、 蒼窮を、語る童児、 又、鼻ただれ、眼はトラホーム、 涙する、童児もあらう いづれみな、人の姿ぞ いづれみな、人の心の、折々の姿であるぞ Ⅳ 僕が、妥協的だと思つては不可(いけ)ない 僕は、妥協する、わけではない 僕には、たくらみがないばかりだ 僕の心持は、どう変りやうもありはしない 僕の心持が、ときどきとばつちることはあつたが それは僕の友が、少々つれなかつたからでもあつた もちろん僕が、頑(かたく)なであつたには相違ないが、 それにしても、君等、少々冷淡であつた。 風の中から僕が抜け出て来た時 一寸(ちょっと)ばかり、唇(くち)が乾いてゐたとて 一寸ばかり、それをみてさへくれれば、 僕も猶和やかであつたろう でもまあいい、もうすんだこと これからは、僕も亦猶 ヒステリックになるまいゆゑに 君等 また はやぎめで顔見合わせて嬉しがらずに呉(く)れ。 (「中原中也全詩集」角川ソフィア文庫より)

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中原中也とマレーネ・ディートリッヒ<2>

中也は、吉田秀和とともに
新宿の武蔵野館で「嘆きの天使」を見ましたが、
多分、その日のうちに、
1作、歌います。

 

よく読むと
やはり、中也の詩になっています。

仲良しグループの
タメ語と愛想笑い、
そのうすら幸福顔の
底に隠れた貧困な精神

そんな奴らの言葉を気にするなんて、
そんな奴らの言葉に気をとられるなんて、
と、浮世にあわせて苦労する
マルレネよ
つまらんです。
無駄だよ、徒労だよ。

セミチックは、セム族の意でしょう。

 

昭和5年(1930)から12年(1937)頃まで使われていた
「早大ノート」にある作品です。

 

 *
 マルレネ・ディートリッヒ

 

なあに、小児病者の言ふことですよ、
そんなに美しいあなたさへ
あんな言葉を気にするなんて、
なんとも困つたものですね。

 

合言葉、二週間も口端にのぼれば、
やがて消えゆく合言葉、
精神の貧困の隠されてゐる
馬鹿者のグループでの合言葉。

 

それがあなたの美しさにまで何なのでせう!
その脚は、形よいうちにもけものをおもはせ、
あなたの祖先はセミチック、
亜米利加(アメリカ)古曲に聴入る風姿(ふぜい)、

 

ああ、そのやうに美しいあなたさへ
あんな言葉に気をとられるなんて、
浮世の苦労をなされるなんて、
私にはつまんない、なにもかもつまんない。

 

(「中原中也全詩集」角川ソフィア文庫より)

2008年10月30日 (木)

芥川賞作家・町田康の中也読み/戦士

神に愛された詩人、
面倒くさい奴、
そして、最後に、町田康は、
止(とど)めを刺します。

 

それは
戦士・中原中也です。

 

「中原中也 口惜しき人」の最終回は
終わってしまいましたが
まだ、第3回の中での
芥川賞作家・町田康の発言で
記しておかなければならないこと、
それが
修羅街の戦士です。

 

町田康は、

 

中也は神に愛された詩人だったとさっき言いましたけれども、中也がそれで幸福だったかというと、ぜんぜんそうではなかった。神に愛されてるなんてことは現実の社会の中では通らない。証明もできない(略)……。

 

しかし、証明できないけれども、中也は議論という形で、そのことを一生懸命説明しようとしていたんではないでしょうか。(略) 説明しないと、自分というものの存在が保てなくなる。

 

だから、議論という形で必死に主張しつづけていたのではないか。戦うようにして訴えつづけていたのではないでしょうか。

 

(略)
安原は中也が夜の盛り場で喧嘩することを「市街戦」などと呼んでいたんですけれども、まさに、中也にとって、文学者との議論は芸術のための戦場だったわけですよね。

 

と、戦う中也像を、描き出すのです。

 

修羅街は、東京の街。
似非(えせ)芸術家のはびこる街。
対外意識にだけ生きる人々の元気な街。
修羅の中の無邪気な戦士・中也。

 

関口隆克に献呈された
「修羅街輓歌」は
はじめ、第一詩集のタイトルになるところでしたが、
「山羊の歌」にとって変えられたことは、
大岡昇平の中也評伝などで
明らかにされています。

 

詩集のタイトルが、
安原喜弘に献呈された「羊の歌」でもなく
「山羊の歌」であらねばならなかったのは、
羊の従順ではなく、
山羊の戦闘性を選んだから、
という詩人の意図が明らかになっています。

 

詩人のこの意志を
きわめて自然に、素直に読んだに違いのない
町田康の中原中也・戦士論は、
無闇に喧嘩ばかりしていたという
詩人のイメージを葬り去ります。

 

パチパチパチ……。

 

パチパチパチパチ。

 

パチパチパチパチ。

 

NHK教育テレビ「知るを楽しむ」
「中原中也 口惜しき人」「第3回 去りゆく友への告白」
10月21日22時25分~22時50分放送。

 

 *

 

 修羅街輓歌
    関口隆克に

 

   序歌

 

忌(いま)はしい憶(おも)ひ出よ、
去れ! そしてむかしの
憐みの感情と
ゆたかな心よ、
返つて来い!

 

  今日は日曜日
  縁側には陽が当る。
  ――もういつぺん母親に連れられて
  祭の日には風船玉が買つてもらひたい、
  空は青く、すべてのものはまぶしくかゞやかしかつた……

 

  忌はしい憶ひ出よ、
  去れ!
     去れ去れ!

 

  2 酔生

 

私の青春も過ぎた、
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
私の青春も過ぎた。

 

ほんに前後もみないで生きて来た……
私はあむまり陽気にすぎた?
――無邪気な戦士、私の心よ!

 

それにしても私は憎む、
対外意識にだけ生きる人々を。
――パラドクサルな人生よ。

 

いま茲(ここ)に傷つきはてて、
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
おゝ、霜にしみらの鶏鳴よ……

 

   3 独語

 

器の中の水が揺れないやうに、
器を持ち運ぶことは大切なのだ。
さうでさへあるならば
モーションは大きい程いい。

 

しかしさうするために、
もはや工夫(くふう)を凝らす余地もないなら……
心よ、
謙抑にして神恵を待てよ。

 

   4

 

いといと淡き今日の日は
雨蕭々(せうせう)と降り洒(そそ)ぎ
水より淡(あは)き空気にて
林の香りすなりけり。

 

げに秋深き今日の日は
石の響きの如くなり。
思ひ出だにもあらぬがに
まして夢などあるべきか。

 

まことや我は石のごと
影の如くは生きてきぬ……
呼ばんとするに言葉なく
空の如くははてもなし。

 

それよかなしきわが心
いはれもなくて拳(こぶし)する
誰をか責むることかある?
せつなきことのかぎりなり。

 

*修羅 阿修羅。インド神話に登場する闘いの神。
*輓歌 人の死を悼み悲しむ歌。
*パラドクサル paradoxal(仏)逆説的な。奇妙な。
*しみらの ひっきりなしに続くこと。あるいは、凍りつくこと、沁みいること。
*謙抑 ひかえめにして自分を抑えること。
*蕭々 ものさびしく雨が降る様子。
*あらぬがに ないのだが

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』」より)

 

*ローマ数字は、アラビア数字に変えてあります。(編者)

2008年10月27日 (月)

芥川賞作家・町田康の中也読み/面倒くさい奴

青春時代には、
だれもみな、
中也に似た友人や知人を知るだろう。
極く親しい友人になったり、
遠くのほうから眺めているだけであったりもするが、
ある日、忽然と、消えてしまったりもする。

 

近くで付き合ってみると、
そいつに、自分の領域を侵されて、
逃げ出したくなったり、
追い返したくなったり、
しかし、いなくなってみると、
無性に懐かしい……。

 

中原中也は、そんじょそこらにはいないが、
似た人はいるものです。
中也の詩を読みながら、
その似た人が頭の中にあることに
驚くことがあります。

 

町田康にも、そんな友人や知人が
いるかもしれません。
いたかもしれません。
友人が、中也を去って行ったわけを、
解き明かす町田康の口ぶりは、
友人を語るかのように、
遠慮がありません。

 

町田康は、

 

結局、彼らは自分の身を守りたかったのではないでしょうか。中也からというよりも、中也の言っていることから身を守りたかったんですね。

 

では、中也は何を言っていたかというと、それは、芸術の世界に身を置く以上、真実とか美とかいったものに奉仕しなければならない、ということなんです。(略)

 

みんな食うためにものを書いたり何か作ったりしている。それはまだ正直なほうで、食うための仕事は別に持って、余技として芸術的なことをやっていたりする。そこのところを、中也は突いていくわけです。

 

言われたほうは迷惑なんですけど、正論だから何も言い返せない。すると、中也のほうは「あ、こいつまだわかってないのかな」と、もっと真剣に教えてあげたりする。そばに来られたら面倒くさい奴ですよ。
(以上、テキストからの引用。)

 

と、語ります。

 

ここです!
そばに来られたら面倒くさい奴ですよ。
と、ズバリ、
中也の相手になった側の気持ちを表明するところ。
中也を深く知らなければ
こうは言えません。

 

しかも、中也の相手になった、
いわば敵の気持ちも汲(く)んでいます
ここが、町田康ならではの、
遠慮なさ、デリカシー……非凡さ。

 

そして、
ここでほとんどの人が反論できないのは、
「中也の場合、驚くべきことに本当に、
純粋に真実と美に奉仕していた」からで、
「相手としてはつらい」し、
「だから、中也から離れていかざるを
えなかったんじゃないでしょうか」
と結論するところ、
完璧ですね。

 

また、パチパチパチです。

 

 

 

NHK教育テレビ「知るを楽しむ」
「中原中也 口惜しき人」「第3回 去りゆく友への告白」
10月21日22時25分~22時50分放送。

2008年10月26日 (日)

六月の雨/懸賞応募作品

「在りし日の歌」8番目の歌は、
「六月の雨」。
昭和11年、1936年
「文学界」6月号に載った作品で、
同誌の懸賞応募作でもあり、
受賞を逃した作品として知られています。

 

中也の口惜しがりぶりが見えるようです。
この時の受賞作は、
岡本かの子の「鶴は病みき」でした。

 

応募作だけあって、というと、
他の作品が、そうでない、
というわけではありませんが、
佳い作品です。
素晴らしい作品です。

 

制作は、昭和11年4月と推定され、
この時、長男の文也は1歳半、
眼に入れても痛くはない可愛さ盛りです。

 

日曜日である、ある日の朝は、雨でした。
窓辺に立つ詩人は、
緑あざやかな菖蒲の葉に
いっそう映えた濃紺の花びらが
雨に打たれている光景をじっと眺めています。
すると、
潤(うる)んだ瞳の
面長(おもなが)の貌(かお)の女が、
雨の中に現れては消えていきました。

 

現れては消えていくと
私の心は憂いに沈み、しとしとと
雨は、畑の上に、落ちています
いつ止む気配もみせず落ちています。

 

この、1連から2連への
絶妙なつながり!

 

しかも、2連では、
心が憂いに沈んでいる状態が
しとしとと、雨の降る様子と重ねあわされ
雨の情景へといつの間にか移動します。

 

そして、3、4連への
場面転換……

 

お太鼓たたいて
笛吹いて
文也とおぼしき子ども
それはまた、
詩人の幼きころの姿に重なります
畳の上で遊んでいるのです

 

外は、ピチピチ チャプチャプ
6月の雨は降り止みません

 

面長き女は、
ここでも、長谷川泰子でしょうか。
泰子は、こういうシーンに似合います。

 

お得意の4-4-3-3のソネット
流麗感のある七五調
色彩豊かなイメージ
リズム、リズム!
……
名品です。

 

 *
 六月の雨

 

またひとしきり 午前の雨が
菖蒲(しやうぶ)のいろの みどりいろ
眼(まなこ)うるめる 面長き女(ひと)
たちあらはれて 消えてゆく

 

たちあらはれて 消えゆけば
うれひに沈み しとしとと
畠(はたけ)の上に 落ちてゐる
はてしもしれず 落ちてゐる

 

       お太鼓(たいこ)叩いて 笛吹いて
       あどけない子が 日曜日
       畳の上で 遊びます

 

       お太鼓叩いて 笛吹いて
       遊んでゐれば 雨が降る
       櫺子(れんじ)の外に 雨が降る

 

* 櫺子 窓や戸に、木や竹の細い間隔で縦または横に並べたもの。

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」より)
 *原文のルビは、( )内に表記しました。

2008年10月24日 (金)

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2008年10月23日 (木)

芥川賞作家・町田康の中也読み/神に愛された詩人

20080721_010

 

 

 

3回目になって、
町田康が乗ってきたな、という感じです。

 

一つは、中原中也が献辞をつけて、
友人らに贈った詩、
すなわち献呈詩を読む中での発言です。

 

中也の献呈詩は、よくあるものとは異なり、
相手を選んで、
その相手にわかってほしい
という願いを込めた詩が多いのではないか、
と、とらえる件(くだり)です。

 

それは、
神への告白みたいなところもあった、
と考えるのです。
「あなたにすべてを告白します」
だから、ぼくを、わかってください、と。

 

そして、ポイントは、

 

この人は神に愛された人だったんだな、と感じることがあります。必ずしも比喩的な意味ではなくて、ほんとうに神に愛されてしまった人なんじゃないかと思うことがある。

 

そうとしか思えないような詩がいっぱいありますよね。

 

全能の神によって与えられた感性ですべて感じ取り、そうやって書いた詩を、また、神に告白するように友人に捧げていたのかもしれないですね。

 

と、語るところです。

 

ここに唸りませんか。
ここは、鋭く、深い理解ではないですか。
芥川賞や谷崎賞を受賞した作家の読みが
ここにあるとは思いませんか。

 

普通、神を見た、とか、神に導かれた、とか……。
そのように、言うことはあります。
中也の若き日の「見神」は、
よく言われることでもあります。

 

そこのところを、
神を愛した、と言わず、
逆に、神に愛された、と言うのですから、
ハッとさせられますし、
ちょっと、考えてから、
ハタと手を打って、パチパチパチです。
納得しちゃいます。

 

河上徹太郎、
内海誓一郎、
阿部六郎、
関口隆克、
安原喜弘、
小林秀雄、
青山二郎、
大岡昇平
……

 

中也に詩を献じられた友人たちは、
いかに詩を読み、向き合い、
そして、その後
いかなる気持ちで、
詩人と対面したのでしょうか。

 

テキストでは、
安原喜弘宛の「羊の歌」、
関口隆克宛の「修羅街輓歌」を掲載し、
番組中に、朗読します。

 

大岡昇平宛の「玩具の賦」は、
テキストに、大岡批判の詩として記され、
番組中、一部を、町田康が朗読します。

 

NHK教育テレビ「知るを楽しむ」
「中原中也 口惜しき人」「第3回 去りゆく友への告白」
10月21日22時25分~22時50分放送。

 


 玩具の賦
    昇平に

 

どうともなれだ
俺には何がどうでも構はない
どうせスキだらけぢやないか
スキの方を減(へら)さうなんてチャンチャラ可笑(をか)しい
俺はスキの方なぞ減らさうとは思はぬ
スキでない所をいつそ放りつぱなしにしてゐる
それで何がわるからう

 

俺にはおもちやが要るんだ
おもちやで遊ばなくちやならないんだ
利権と幸福とは大体は混(まざ)る
だが究極では混りはしない
俺は混ざらないとこばつかり感じてゐなけあならなくなつてるんだ
月給が増(ふ)えるからといつておもちやが投げ出したくはないんだ
俺にはおもちやがよく分つてるんだ
おもちやのつまらないとこも
おもちやがつまらなくもそれを弄(もてあそ)べることはつまらなくはないことも
俺にはおもちやが投げ出せないんだ
こつそり弄べもしないんだ
つまり余技ではないんだ
おれはおもちやで遊ぶぞ
おまへは月給で遊び給へだ
おもちやで俺が遊んでゐる時
あのおもちやは俺の月給の何分の一の値段だなぞと云ふはよいが
それでおれがおもちやで遊ぶことの値段まで決まつたつもりでゐるのは
滑稽だぞ
俺はおもちやで遊ぶぞ
一生懸命おもちやで遊ぶぞ
贅沢(ぜいたく)なぞとは云ひめさるなよ
おれ程おまへもおもちやが見えたら
おまへもおもちやで遊ぶに決つてゐるのだから
文句なぞを云ふなよ
それどころか
おまへはおもちやを知つてないから
おもちやでないことも分りはしない
おもちやでないことをただそらんじて
それで月給の種なんぞにしてやがるんだ
それゆゑもしも此(こ)の俺がおもちやも買へなくなった時には
写字器械奴(め)!
云はずと知れたこと乍(なが)ら
おまへが月給を取ることが贅沢だと云つてやるぞ
行つたり来たりしか出来ないくせに
行つても行つてもまだ行かうおもちや遊びに
何とか云へるものはないぞ
おもちやが面白くもないくせに
おもちやを商ふことしか出来ないくせに
おもちやを面白い心があるから成立つてゐるくせに
おもちやを遊んでゐらあとは何事だ
おもちやで遊べることだけが美徳であるぞ
おもちやで遊べたら遊んでみてくれ
おまえに遊べる筈はないのだ

 

おまへにはおもちやがどんなに見えるか
おもちやとしか見えないだろう
俺にはあのおもちやこのおもちやと、おもちやおもちやで面白いんぞ
おれはおもちや以外のことは考へてみたこともないぞ
おれはおもちやが面白かつたんだ
しかしそれかと云つておまへにはおもちや以外の何か面白いことといふのがあるのか
ありそうな顔はしとらんぞ
あると思ふのはそれや間違ひだ
北叟笑(にやあツ)とするのと面白いのとは違ふんぞ

 

ではおもちやを面白くしてくれなんぞと云ふんだろう
面白くなれあ儲かるんだといふんでな
では、ああ、それでは
やつぱり面白くはならない写字器械奴(め)!
――こんどは此のおもちやの此処(ここ)ンところをかう改良(なほ)して来い!
トットといつて云つたやうにして来い!
                     (1934.2.)

 

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』角川文庫クラシックスより)

 

 

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中也とマレーネ・ディートリッヒ/吉田秀和

本日の朝日新聞朝刊「音楽展望」で吉田秀和が、
中原中也と映画「嘆きの天使」を見たことを記しています。

 

(略)北海道小樽の中学を出て東京の高校に通い出したころはよく映画を見た。学校が小田急沿線にあったので、新宿に出て武蔵野館という洋画の封切館に行った。

 

ここはよく人が入っていて、私は二階の通路の階段に腰を下ろし、中原中也とマレーネ・ディートリッヒ主演の《嘆きの天使》を見たのを覚えている。ルネ・クレール監督の《巴里の屋根の下》もそんなふうにして見たはずである。(略)

 

と、無声映画が
トーキーに変わりつつあった
昭和初期の映画の中の
音楽についての思い出を書くリードに、
中也との思い出を、
さらっと挟んでいる感じです。

 

中原中也と生前に親交があり、
中也を知る数少ない生き証人でもある人の
さりげないエピソードが
貴重です。

 

昨日の中也忌に、
どんなことが、この、大の字のつく音楽評論家の
脳裏に去来したのか、
「ソロモンの歌」中の「中原中也のこと」では、
中也のことをむやみに書くべきではない、
と述べているのを知っている読者には、
ありがたく、また、ほっとするのです。

 

 

 

 

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中也忌/南無放光院賢空文心居士

昨日は、中也忌。中原中也忌でした。
1937年(昭和12年)10月22日、鎌倉の住まいで、30歳の命を終えました。戒名は、南無放光院賢空文心居士。

いまごろ、あっ、あれは、僕の骨だ! なんて、お道化していますかね。

 *
 骨

ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きてゐた時の苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破つて、
しらじらと雨に洗はれ、
ヌックと出た、骨の尖(さき)。

それは光沢もない、
ただいたづらにしらじらと、
雨を吸収する、
風に吹かれる、
幾分空を反映する。

生きてゐた時に、
これが食堂の雑踏の中に、
坐つてゐたこともある、
みつばのおしたしを食つたこともある、
と思へばなんとも可笑(をか)しい。

ホラホラ、これが僕の骨——
見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
霊魂はあとに残つて、
また骨の処にやつて来て、
見てゐるのかしら?

故郷(ふるさと)の小川のへりに、
半ばは枯れた草に立つて、
見てゐるのは、——僕?
恰度(ちやうど)立札ほどの高さに、
骨はしらじらととんがつてゐる。

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)
 *原文のルビは、( )内に表記しました。

2008年10月21日 (火)

三歳の記憶/共感と読み

20080719_034

 

 

 

「在りし日の歌」7番目の歌。
「三歳の記憶」について、さらに&さらに。

 

あまりに多様な解釈、
感じ方があるので、
もう一つ、
詩人・中村稔の解。

 

泣いたということと、「ひと泣き泣いて やったんだ」とは同じではない。この詩句には三歳の幼児の自己主張があり、この自己主張を懐かしく思いおこす詩人の現在の気持がこめられている。

 

そして詩人はこの自己主張の奥に、やはり失われた「生」、あるいは「あの時」を見ているのである。

 

そしてまた、「隣家は空に」の奇抜な表現には、幼児の眼が忠実に再現されているのであり、幼児の孤独と恐怖とを正確に表現しているのである。

 

「ひと泣き泣いて」に共感しないかぎり、おそらく読者が中原に共感することはできないであろう。
(「中也を読む 詩と鑑賞」青土社 2001年 より。これは、「中也のうた」1970年、社会思想社現代教養文庫の新装改訂版で、内容はほとんど同じですから、解釈は1970年のものと考えられます )

 

中村稔の頭には、
大岡昇平の「揺籃」があったであろう。
しかし、大岡昇平とは、
異なる読み方をしているのである。
というより、大岡の読みの冷たさを
批判しているかのようでもある。

 

それは、引用した文の、最終行、
「ひと泣き泣いて」に共感しないかぎり、おそらく読者が中原に共感することはできないであろう。
に、表れている。

 

大岡昇平は、「揺籃」において、
「三歳の記憶」という詩作品に
ちっとも共感していないのだし、
評伝を書く目的の冷徹さだけが際立っている。
中村の、共感云々は、
大岡の読者を牽制しているかのようであります。

 

 *
 三歳の記憶
縁側に陽があたつてて、
樹脂(きやに)が五彩に眠る時、
柿の木いつぽんある中庭(には)は、
土は枇杷(びは)いろ 蝿(はへ)が唸(な)く。

 

稚厠(おかは)の上に 抱へられてた、
すると尻から 蛔虫(むし)が下がつた。
その蛔虫が、稚厠の浅瀬で動くので
動くので、私は吃驚(びつくり)しちまつた。

 

あゝあ、ほんとに怖かつた
なんだか不思議に怖かつた、
それでわたしはひとしきり
ひと泣き泣いて やつたんだ。

 

あゝ、怖かつた怖かつた
――部屋の中は ひつそりしてゐて、
隣家(となり)は空に 舞ひ去つてゐた!
隣家は空に 舞ひ去つてゐた!

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」より)
 *原文のルビは、( )内に表記しました。

三歳の記憶/白秋「石竹の思ひ出」

「在りし日の歌」7番目の歌。
「三歳の記憶」について、さらに。

 

北原白秋の叙情歌集「思ひ出」は
明治44年(1914年)に刊行され、
中に、「石竹の思ひ出」があります。

 

中也の「三歳の記憶」は、
この詩をヒントにしたという研究がありますので、
ここに、「石竹の思ひ出」全行を引きます。

 

 *
 石竹の思ひ出

 

なにゆゑに人々の笑ひしか。
われは知らず、
え知る筈なし、
そは稚(いとけな)き三歳のむかしなれば。
 
暑き日なりき。
物音もなき夏の日のあかるき真昼なりき。
息ぐるしく、珍らしく、何事か意味ありげなる。
 
誰(た)が家か、われは知らず。
われはただ老爺(ヂイヤン)の張れる黄色かりし提燈(ちやうちん)を知る。
眼のわろき老婆(バン)の土間にて割(さ)きつつある
青き液(しる)出す小さなる貝類のにほひを知る。
 
わが悩ましき昼寝の夢よりさめたるとき、
ふくらなる或る女の両手(もろて)は
弾機(ばね)のごとも慌てたる熱き力もて
かき抱(いだ)き、光れる縁側へと連れゆきぬ。
花ありき、赤き小さき花、石竹(せきちく)の花。
 
無邪気なる放尿……
幼児(をさなご)は静(しづ)こころなく凝視(みつ)めつつあり。
赤き赤き石竹の花は痛きまでその瞳にうつり、
何ものか、背後(うしろ)にて擽(こそば)ゆし。絵艸紙(ゑざふし)の古ぼけし手触(てざはり)にや。
 
なにごとの可笑(をかし)さぞ。
数多(あまた)の若き漁夫(ロツキユ)と着物つけぬ女との集まりて、
珍らしく、恐ろしきもの、
そを見むと無益にも霊(たまし)動かす。
 
柔かき乳房もて頭(かうべ)を圧(お)され、
幼児(をさなご)は怪しげなる何物をか感じたり。
何時(いつ)までも何時までも、五月蝿(うるさ)く、なつかしく、やるせなく、
身をすりつけて女は呼吸(いき)す。
その汗の臭(にほひ)の強さ、くるしさ、せつなさ、
恐ろしき何やらむ背後(うしろ)にぞ居(を)れ。
 
なにゆゑに人々の笑ひつる。
われは知らず。
え知る筈なし。
そは稚(いとけな)き三歳の日のむかしなれば。
 
暑き日なりき。
物音もなき鹹河(しほかは)の傍のあかるき真昼なりき。
蒸すが如き幼年の恐怖(おそれ)より
尿(いばり)しつつ……われのただ凝視(みつ)めてありし
赤き花、小さき花、眼に痛き石竹の花。

 

全文引用はここまで。

 

ふくよかな女性に抱えられて
縁側でオシッコをした3歳のときの思い出です。
吉行淳之介の小説にも
こんなのがありましたっけね。
よくある、話ですが……。

 

中也の詩とは、遠い世界ですよ!
読み間違えないでくださいね。

 

そりゃ、ヒントにしたかもしれませんし、
似ているといえば似ていますが、
中也の「三歳の記憶」は、
エロスを歌っていませんよ。
まったく異なる世界です。

 

疎外感とか
悲しみ、絶望……
怖ろしいものの初体験

 

――部屋の中は ひつそりしてゐて、
隣家(となり)は空に 舞ひ去つてゐた!
隣家は空に 舞ひ去つてゐた!

 

隣家は空に 舞ひ去つてゐた! の経験の記憶ですよ。

 

 *
 三歳の記憶
縁側に陽があたつてて、
樹脂(きやに)が五彩に眠る時、
柿の木いつぽんある中庭(には)は、
土は枇杷(びは)いろ 蝿(はへ)が唸(な)く。

 

稚厠(おかは)の上に 抱へられてた、
すると尻から 蛔虫(むし)が下がつた。
その蛔虫が、稚厠の浅瀬で動くので
動くので、私は吃驚(びつくり)しちまつた。

 

あゝあ、ほんとに怖かつた
なんだか不思議に怖かつた、
それでわたしはひとしきり
ひと泣き泣いて やつたんだ。

 

あゝ、怖かつた怖かつた
――部屋の中は ひつそりしてゐて、
隣家(となり)は空に 舞ひ去つてゐた!
隣家は空に 舞ひ去つてゐた!

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)
 *原文のルビは、( )内に表記しました。

2008年10月19日 (日)

三歳の記憶/童話的な自然

051

 

 

 

「在りし日の歌」7番目の歌。
「三歳の記憶」について、もう少し。

 

小林秀雄が中原中也について
初めて沈黙を破って書いた
「中原中也の思ひ出」は、
昭和24年の「文芸」8月号で、
同じ号に、大岡昇平は
「中原中也伝―揺籃」を書いています。
大岡が、初めて世に問うた中也論です。

 

「文芸」編集者の意図が
なんとなく見えますが、
興味深いことに、
小林の「中原中也の思ひ出」にも、
大岡の「中原中也伝―揺籃」にも、
「三歳の記憶」への言及があります。

 

小林の「思ひ出」は、
2部構成で、
1は、中也との交流の回想、
あの、海棠の花見のときのことを中心に記したエッセイ、
2は、詩人中原中也論とか、作品論とか、という構成です。
この2の冒頭、

 

中原の心の中には、実に深い悲しみがあつて、それは彼自身の手にも余るものであつたと私は思つてゐる。彼の驚くべき詩人たる天資も、これを手なづけるに足りなかつた。彼はそれを、「三つの時に見た、稚厠(おかは)の浅瀬を動く蛔虫(むし)」と言つてみたり、「十二の冬に見た港の汽笛の湯気」と言つてみたり、果ては、「ホラホラ、これが僕の骨だ」と突き付けてみたりしたが駄目だつた。

 

と、この作品に注目しました。

 

大岡昇平は、「揺籃」の中で、
この詩を、全文引用したうえで、
次のように、洞察を加えます。

 

人が三歳の記憶を残し得るかどうかは問題であろう。後の記憶が前の記憶を蔽うのはよくあることである。我々はまずこの詩に何ら「伝記的」価値をおき得ないのであるが、むろん重要なのはこの詩が記録として正しいかどうかということではなく、彼がここで組立てた画面が三十歳の彼の心であるということである。彼が自ら造った童話的な自然に酔い、「ひと泣き泣いてやつた」という無償の行為に喜びを見出そうとしていることである。(略)

 

小林秀雄と大岡昇平を並べて
比較しようとしているのではありません。
どちらもが、この「三歳の記憶」に
着目している、そのこと自体が、
この詩をおろそかに扱っていない、
ということを示していて面白い、興味深い、
というだけのことです。

 

小林は、
悲しみの深さ、という角度から
これを論じ、
大岡は、
30歳の詩人が書いた、という角度から、
これを論じています。

 

小林は、
詩人の悲しみに寄り添うように解釈し、
大岡は、
冷酷なほど、距離を置いて、
詩人の全体史の中で、解釈しようとしています。

 

大岡の、
「自ら造った童話的な自然」とは、
何でしょう。
「伝記的」価値を一切認めないから、
これは、童話的な自然だ、という断定は、
頑固過ぎはしまいか。

 

 

 

 *
 三歳の記憶

 

縁側に陽があたつてて、
樹脂(きやに)が五彩に眠る時、
柿の木いつぽんある中庭(には)は、
土は枇杷(びは)いろ 蝿(はへ)が唸(な)く。

 

稚厠(おかは)の上に 抱へられてた、
すると尻から 蛔虫(むし)が下がつた。
その蛔虫が、稚厠の浅瀬で動くので
動くので、私は吃驚(びつくり)しちまつた。

 

あゝあ、ほんとに怖かつた
なんだか不思議に怖かつた、
それでわたしはひとしきり
ひと泣き泣いて やつたんだ。

 

あゝ、怖かつた怖かつた
――部屋の中は ひつそりしてゐて、
隣家(となり)は空に 舞ひ去つてゐた!
隣家は空に 舞ひ去つてゐた!

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)
 *原文のルビは、( )内に表記しました。

渓流/悲しいビール

ここで、「生前発表詩篇」から
「渓流」を読んでおきます。
「たにがわ」と訓読みで読ませる意図が
詩人にはありました。

 

1937年(昭和12年)7月15日に作られ、
同7月18日付け「都新聞」に発表された作品です。

 

長男文也を前年11月10日に亡くし
半年以上の月日が流れました。
中也は、この頃、帰郷の意志を固め、
「在りし日の歌」原稿を小林秀雄に託すのは、9月です。
10月に発病、同月末に死亡する詩人です。

 

なんとも美しい響きの作品で、
多くのファンが、この詩を
一番だ! と支持する声が聞こえてきます。

 

現代詩壇を牽引した一人
鮎川信夫も、
この詩には参っています。

 

青春のやうに悲しかつた。
と、中原中也以外のだれが歌っても
違和感を感じるような……。

 

なかなか、こうは、歌えません

 

この、泣き入るやうに飲んだ。 なんて詩句は
ビールの1杯目を飲むときの
誰しもが抱く快感のリアリズムそのものです。

 

だから、誰にも、歌えそうですけれど……。

 

青春のやうに悲しかつた。 という詩句とともに、
やっぱり、誰にも、歌えません。

 

もし歌ったら、
テレビCMのキャッチコピーだなんて
言われてしまいそうです。

 

だから、
やはり、この詩が、よいのは、
最終連。

 

最終連があるから、
1、2、3連が生きている
中原中也の詩になっているから
よいのです。

 

これが
「三歳の記憶」を歌った詩人と
同じ詩人の作品です。

 

中也は、
実に様々な経験を積み
実に様々な詩を書いたのです。

 

一本調子を辿る
日本現代詩史の源流に
滔々(とうとう)と流れる多旋律を刻んだのです。

 

 *
 渓流

 

渓流(たにがわ)で冷やされたビールは、
青春のやうに悲しかつた。
峰を仰いで僕は、
泣き入るやうに飲んだ。

 

ビショビショに濡れて、とれさうになつてゐるレッテルも、
青春のやうに悲しかつた。
しかしみんなは、「実にいい」とばかり云つた。
僕も実は、さう云つたのだが。

 

湿つた苔も泡立つ水も、
日蔭も岩も悲しかつた。
やがてみんなは飲む手をやめた。
ビールはまだ、渓流(たにがわ)の中で冷やされてゐた。

 

水を透かして瓶の肌へをみてゐると、
僕はもう、この上歩きたいなぞとは思はなかつた。
独り失敬して、宿に行つて、
女中(ねえさん)と話をした。
(1937.7.15)
「都新聞」1937年7月18日

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌 生前発表詩篇』」より)

三歳の記憶/回虫の歌

「在りし日の歌」7番目の歌。

 

「在りし日」の意味が、
生前であり、
「過ぎ去りし日」であり、
少年時代であり、
幼年時代でもあった、とは
大岡昇平の読みです。

 

少年もの以前の
幼年ものがあり、
「三歳の記憶」はその一つです。

 

吉本隆明は、
思想家にして詩人でもありますが、
その吉本がどこかで、
「現代詩人が10人ぐらいで、
束(たば)になってかかってきても、
中原中也にはかなわない」と発言していますが、
この発言を思い出すたびに
「三歳の記憶」が浮かんできます。

 

この詩はすごい!
前代未聞です!
有史初です!
いかなる現代詩人もまねできない!

 

できるとしたら……
……
できるとしたら……
……
できるとしたら……
……
ダダです。

 

でも、これは、
ダダの作品ではありません。
深刻な幼児体験ですし、
世界認識の原体験ですし、
世の中の怖さの初体験ですし、
寂しさの
悲しさの
怖ろしさの
一人ぼっちの
孤独の
初めての経験です。

 

詩人は、
尻から下がった回虫を描写し
厠(かわや)の「浅瀬」で
それが動くのを見た、
そのことを歌うのです。

 

農業に人糞が使われていた時代。
寄生虫が珍しくはなかった時代。
水洗式トイレが普及していなかった時代。
それは、つい最近のことです。

 

リフレインが効いています。

 

あゝあ、ほんとに怖かつた
なんだか不思議に怖かつた、
と繰り返し
再び、
あゝ、怖かつた怖かつた
です。

 

最終行の
舞ひ去つてゐた!のリフレインが
怖かつた、のリフレインにこだまし、
いっそう効果的です。

 

一本調子の
日本モダニズム詩に
追随できない高みが
この作品にあります。

 

 *
 三歳の記憶

 

縁側に陽があたつてて、
樹脂(きやに)が五彩に眠る時、
柿の木いつぽんある中庭(には)は、
土は枇杷(びは)いろ 蝿(はへ)が唸(な)く。

 

稚厠(おかは)の上に 抱へられてた、
すると尻から 蛔虫(むし)が下がつた。
その蛔虫が、稚厠の浅瀬で動くので
動くので、私は吃驚(びつくり)しちまつた。

 

あゝあ、ほんとに怖かつた
なんだか不思議に怖かつた、
それでわたしはひとしきり
ひと泣き泣いて やつたんだ。

 

あゝ、怖かつた怖かつた
――部屋の中は ひつそりしてゐて、
隣家(となり)は空に 舞ひ去つてゐた!
隣家は空に 舞ひ去つてゐた!

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)
 *原文のルビは、( )内に表記しました。

青い瞳/ゴールデンバット

Blueeys2

by Matt Seppings

 

さて、「在りし日の歌」を
読み続けます。

 

6番目の作品「青い瞳」は、
外国人のことではありません。
「青」は、
第4番「早春の風」の
「青き女(をみな)」と同じように読むとよいのかもしれません。
とすると、
これは詩人自身のことになりますか。

 

昭和10年(1935年)10月頃の制作で、
中也28歳。
この年12月に「四季」同人になります。

 

「中原中也の手紙」の著者、安原喜弘は、
同書昭和10年「手紙91 6月5日(封書)」(四谷 花園町)の項で、
次のように記します。

 

「(略)この夏の頃から私たちの往き来は次第に稀になつていつた。私は多く旅に出て暮らし、彼を訪れるのも月に一度ぐらいであつたろうか。彼は詩壇の一角にその名を知られ、かなりに多忙な詩人生活であった。この年12月彼は詩誌「四季」の同人になつている。(略)私は次に、今手許に残された僅かの手紙により、私にとつてはまことに心重い彼の昇天に至る最後の2年間をあわただしく叙(のべ)り終ろうとする。

 

前年、長男文也が誕生、
第一詩集「山羊の歌」の出版がかない、
充実した詩人生活がはじまっていた時、
安原は、中也との往来を減らしていた。

 

安原は、中也の「四季」入りを
好ましく思っていなかったようでした。

 

「青い瞳」が、
この流れと直接に関係して
書かれたものではありませんが、
中也は、ようやく、
「一般読者」なるものを意識して詩作しはじめた、
というようなことは考えられます。

 

夏の朝は、
その時が過ぎつつあった、
あの時は過ぎつつあった、と、
いまや遠い日となった、
青い瞳の
喪失が歌われ……

 

冬の朝は、
それから日が経ち
飛行場で
消え去ってゆく飛行機を見送る
寒い朝の
作り笑顔のむなしさが歌われ……

 

飛行機に残つたのは僕、
バットの空箱(から)を蹴つてみる

 

と、孤独な僕が
ゴールデンバットの空箱を蹴ってみせるシーンで
締めくくります。
この、オチが利いています。
まことに
中也にはゴールデンバットが似合います。

 

 *
 青い瞳

 

1 夏の朝
かなしい心に夜が明けた、
  うれしい心に夜が明けた、
いいや、これはどうしたといふのだ?
  さてもかなしい夜の明けだ!

 

青い瞳は動かなかつた、
  世界はまだみな眠つてゐた、
さうして『その時』は過ぎつつあつた、
  あゝ、遐(とほ)い遐いい話。

 

青い瞳は動かなかつた、
  ――いまは動いてゐるかもしれない……
青い瞳は動かなかつた、
  いたいたしくて美しかつた!

 

私はいまは此処(ここ)にゐる、黄色い灯影に。
  あれからどうなつたのかしらない……
あゝ、『あの時』はあゝして過ぎつゝあつた!
  碧(あを)い、噴き出す蒸気のやうに。

 

2 冬の朝
それからそれがどうなつたのか……
それは僕には分らなかつた
とにかく朝霧罩(こ)めた飛行場から
機影はもう永遠に消え去つてゐた。

 

あとには残酷な砂礫(されき)だの、雑草だの
頬を裂(き)るやうな寒さが残つた。
――こんな残酷な空寞(くうばく)たる朝にも猶(なほ)
人は人に笑顔を以て対さねばならないとは

 

なんとも情ないことに思はれるのだつたが
それなのに其処(そこ)でもまた
笑ひを沢山|湛(たた)へた者ほど
優越を感じてゐるのであつた。

 

陽は霧に光り、草葉の霜は解け、
遠くの民家に鶏(とり)は鳴いたが、
霧も光も霜も鶏も
みんな人々の心には沁(し)まず、
人々は家に帰つて食卓についた。
     (飛行機に残つたのは僕、
      バットの空箱(から)を蹴つてみる)
*バット ゴールデンバット。1906年から発売された国産煙草の銘柄。
(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)
 *原文のルビは、( )内に表記しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

2008年10月18日 (土)

中原中也と小林秀雄/大岡昇平の友情論

20080713_015

 

 

 

NHKの番組から離れて
もう少し、長谷川泰子事件について、
見ておきます。
参照するのは、当然、大岡昇平です。

 

大岡昇平は、
中也「我が生活」の、

 

友に裏切られたことは、見も知らぬ男に裏切られたより悲しい――というふのは誰でも分る。しかし、立去った女が自分の知ってる男の所にゐる方が、知らぬ所に行ったといふことよりよかつたと思ふ感情が、私にはあるのだつた。それを私は告白します。それは、私が卑怯だからだろうか? 

 

さうかも知れない。しかし私には人が憎みきれない底の、かの単なる多血質の人間の嗤ふに足る或る心の力――十分勇気を持つてゐて、而も馬鹿者か軟弱だと見誤る所のもの、かのレアリテがあるものでないと、誰が証言し得よう?

 

が、そんなことなど棄てて置いて、とも角も、私は口惜しかつた!

 

というくだりに、注目します。

 

中原中也が、
人を憎み切れない
多血質の人間が笑って軽蔑する心、
つまり、勇気があって、バカとか軟弱とかと、間違われる……
レアリテのある
などと、自身の性格を分析している部分を、
立ち直りととらえるのです。

 

そして、続けます。

 

しかし「口惜しき人」だけは、この断片が書かれた昭和3年には、既に消滅していたと私は思う。書き継がれなかったのは、実際それがなかったからである。(略) 

 

小林と中原の文通は大正15年11月に再開される。恐らく富永太郎の1周忌が機縁であったろう。そして中原の手紙には、まるで昨日別れた人に対するような、親愛の情が見られるのである。

 

中原が小林に「朝の歌」を見せるのは、この年のうちである。

 

立ち直りの例証として
1、「口惜しき人」という語句が、以後、現れないこと。
2、小林秀雄との文通が、事件の1年後には、再開されていること。
3、「朝の歌」が書かれ、小林秀雄に見せられていること。
の、3点があげられています。

 

大岡昇平は、
長谷川泰子の出奔によって
中也の受けた傷が深く、
晩年になっても、この傷を弄ぶ詩人の心境を
他のところでは記すのですが、
ここ、「友情」では、
詩人の立ち直りは
意外に早かったことを指摘するのです。

 

なによりも、それは、
「朝の歌」の誕生によって証明された、
という評伝へと
展開されていくことになります。

 

詩人とか文学者の
実人生というよりも
作品という地平において、
中原中也と小林秀雄は、
詩と散文というジャンルの違いはあるものの、
認め合う部分があった、
という解釈でしょうか。

 

二人の文学者の亀裂は、
終生消えなかったかもしれませんが、
中也は、小林秀雄以外に、
第2詩集「在りし日の歌」を託すほかにはなく、
小林秀雄は、その出版に力を注ぎました。

 

「朝の歌」を
載せておきます。

 

 *

 

 朝の歌

 

天井に 朱(あか)きいろいで
  戸の隙を 洩れ入る光、
鄙(ひな)びたる 軍楽の憶(おも)ひ
  手にてなす なにごともなし。

 

小鳥らの うたはきこえず
  空は今日 はなだ色らし、
倦(う)んじてし 人のこころを
  諫(いさ)めする なにものもなし。

 

樹脂(じゆし)の香に 朝は悩まし
  うしなひし さまざまのゆめ、
森竝は 風に鳴るかな

 

ひろごりて たひらかの空、
  土手づたひ きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

中原中也と小林秀雄/町田康の中也論7

中原中也から去り、
自分のもとへ身を寄せた、という
大正14年の長谷川泰子事件について、
小林秀雄が初めて書くのは、
中也の没後10年を経た昭和24年、
「中原中也の思ひ出」です。

 

一方、中也は、
昭和3年か4年に
「我が生活」のタイトルで、
初めてこの事件について書きます。

 

中也は「詩的履歴書」や「日記」などにも、
思い出したようにこの件を記しますが、
まとまった文章としては
「我が生活」です。

 

「口惜しき人」は、
「我が生活」に中也自ら記した言葉で、
これを小林秀雄は引用しますが、
中也の生前ではなく、
中也死後10年を要した、ということになります。

 

東京の街に一人投げ出された中也は
しかし、
詩人としての出発と自負する作品「朝の歌」を書きます。
大正15年です。
昭和元年です。

 

「朝の歌」により、
暗闇を抜け出した、とする解釈は
大岡昇平が言い出したもので、
番組も、町田康も、
この解釈に沿っているようですが、
明確にしていませんので、
泰子事件は
中原、小林ともに、
亀裂を残したままに終わります。

 

番組テキストは、

 

小林は続けてこう記している。「私は辛かった。詩人を理解するという事は、詩ではなく、生れ乍らの詩人の肉体を理解するという事は、何んと辛い想いだろう」
そして、小林と花見をした翌日の中也の日記には、こうある。「人間は、醜悪なものだ。然るに人々はさうは思つてをらぬ。/かくて人生は、愚劣なものだ。詩の世界より他に、どんなものも此の世にあるとは思はない」

 

と結び、二人の文学者の平行線を強調したままです。

 

このあたりの町田康の見解を
もう少し、聞きたいところでしたが、
前のほうで、「中也は泰子に去られたことで、詩人としての必須のものを手にしたんじゃないかと思います。」
と、言っていることから、
いくらかを推測できるかもしれません。

 

NHK教育テレビ「知るを楽しむ」
「中原中也 口惜しき人」「第2回 恋人という他者」
10月14日22時25分~50分放送。

2008年10月17日 (金)

中原中也と小林秀雄/町田康の中也論6

昭和12年春、鎌倉、妙本寺境内、
海棠の花の散るのを眺める
中原中也と小林秀雄。
二人は、
同じ花の散華を見ながら、
ついに同じ考えに至ることはなかった。

 

この花見の時のことを、
昭和24年、中也の没後10年、
「中原中也の思い出」に、
小林秀雄は記録し、
二人の様子を描写するのですが、
それを、芥川賞作家・町田康が、
読み直します。

 

この間の事情は、
大岡昇平の詳細な評伝があり、
(「友情」1956年4月号「新潮」など)
ほかの研究者による解釈や論評も
多様に存在しますが、
中也の「もういいよ」という言葉への
(これを記しているのは、小林秀雄です!)
町田康のコメントは、
具体的でわかりやすく、
一歩突っ込んでいます。

 

そこのところを、
番組テキストから引くと……。

 

第1点、

 

何に対して「もういいよ」と言ったかは書いていないのですけど、察したんじゃないでしょうか。相手の性格をよく知っているから、小林が理詰めで何か考えて、説明づけようとしているなというのが気配でわかった。それで、「やめとけ」と言ったのではないか。

 

第2点、

 

花を見ながら、小林は自分の頭の中の世界のほうに行っちゃっている。目の前にいる中也という相手は置き去りにされているんです。しかし、中也のほうは、そうではない。(略) まったく逆なんですね。だから、「もういいよ」と言ったのかもしれないですね。

 

第3点、

 

「お前はそうやって理屈のほうにスッと入っていって、いやになったら、スパッと切れるんだから、変なやっちゃのう」ということなのかもしれない。「俺なんか最初からずーっといやな気分を引きずってきているんだ」と。だから、「もういいよ」と言った可能性もありますよね。

 

以上、中原中也の「もういいよ」を
町田は3通りに解釈してみせてくれます。
そのポイントは、
中原中也、小林秀雄という
存在および文学が、
決定的に相容れなかった、
異なるものであった、という見方です。

 

(この稿つづく)

 

NHK教育テレビ「知るを楽しむ」
「中原中也 口惜しき人」「第2回 恋人という他者」
10月14日22時25分~50分放送。

2008年10月15日 (水)

中原中也と小林秀雄/町田康の中也論5

20080719_090_2

 

「あれは散るのじゃない、散らしているのだ」と
考えはじめた時、すでに、
小林秀雄は「理屈の迷路」にはまり込んでいたのではないか

 

町田康は、
そんな言葉では言っていませんが、
無理に、言葉を弄して、
理屈をひねくり出そうとした
小林秀雄の心を読んでいるかのようです。

 

それを、小林自身が、
「無理筋だと気づいた」と、
読むのです。

 

小林が、その自分を、中也に見透かされ、
「もう、いいよ、帰ろう」と、
中也に言われた時の、一瞬の狼狽。
しかし、すぐさま、
「お前は、相変わらずの千里眼だよ」と
応じることのできた機転、いや、ずるさ。

 

これらすべては、
小林自らが、克明に、書き記している! 
のです。

 

芥川賞作家・町田康は、
小林、中原の、この、
静かで、燃え滾(たぎ)った
魂の格闘を、
その間に立って、
冷徹に眺めているかのようです。

 

「中原中也 口惜しき人」
「第2回 恋人という他者」のテキストには
発言の、微妙なニュアンスが剥ぎ取られてしまっていますが、
確かに、
町田康は、
「中也の側からみれば」と、
小林への一方的な批判になりそうな空気に
水をさすように
一言添えているのが、
さすが、です。

 

(この稿つづく)

 

NHK教育テレビ「知るを楽しむ」
「中原中也 口惜しき人」「第2回 恋人という他者」
10月14日22時25分~50分放送。

 

 

 

 

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2008年10月14日 (火)

中原中也と小林秀雄/町田康の中也論4

小林秀雄は、昭和24年、それまでの沈黙を破って、
「中原中也の思い出」(文芸)を書きました。

 

中に、
鎌倉の妙本寺境内の海棠の花を見ながら、
小林と中也が会話した日のことがあります。

 

昭和12年(1937)の春、
夕暮れ時でした。
中也は、この年末に亡くなりましたから、
10年を経ての回想です。
海棠の花びらが先ほどから
しきりに落ちているのを
二人は黙って眺めていました。

 

小林の想念が描写されます。

 

「あれは散るのじゃない、散らしているのだ、一とひら一とひらと散らすのに、屹度順序も速度も決めているに違いない、何という注意と努力、私はそんな事を何故だかしきりに考えていた。(略)花びらの運動は果しなく、見入っていると切りがなく、私は、急に厭な気持ちになって来た。我慢が出来なくなって来た。

 

その時、黙って見ていた中原が、突然「もういいよ、帰ろうよ」と言った。私はハッとして立上り、動揺する心の中で忙し気に言葉を求めた。「お前は、相変わらずの千里眼だよ」と私は吐き出す様に応じた。彼は、いつもする道化た様な笑いをみせた。
(NHK教育テレビ「知るを楽しむ」「中原中也 口惜しき人」テキストより)

 

町田康は、第2回「恋人という他者」で、
以上の、小林秀雄の回想について、語ります。
小林秀雄は、なぜ、急に、自分の考えが厭になったのだろうか、について。

 

順序も速度も決めて、
花びらを散らす海棠の見事さを、
自分に見立てている自分に、
嫌気がさしたのだ、と読むのです。

 

やはりその考え方には無理がある、
無理筋だと気づいたからじゃないでしょうか。
と読むのです。

 

(この稿つづく)

 

NHK教育テレビ「知るを楽しむ」
「中原中也 口惜しき人」「第2回 恋人という他者」
10月14日22時25分~50分放送。

 

 

 

 

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ダダ音楽の歌詞/躍動する16歳

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「中原中也全詩集」(角川ソフィア文庫)は、
角川書店版「新編中原中也全集」の
第1巻「詩Ⅰ」、と第2巻「詩Ⅱ」を底本とし、
中原中也が作った詩篇のすべてが収録されている
廉価版詩集です。

中也の詩作品を完全にフォローしており、
作品の編集・配列は、
現在の中也研究の最高峰、最前線ですから、
少なくとも、詩を読みたい人には、
手っ取り早く、重宝なテキストです。

その「未発表詩篇」の「ダダ手帖」には、
「タバコとマントの恋」のほかにもう一つ
「ダダ音楽の歌詞」が載っています。

「ダダ手帖」とは、
河上徹太郎が昭和13年に書いた
「中原中也の手紙」(文学界10月号)に
引用した2篇の詩、
すなわち、「タバコとマントの恋」と「ダダ音楽の歌詞」などを書いたノートをさします。
手帖そのものは、
戦災で焼け、現存しません。

ダダイスト新吉を知って
なんでもやっていいのだ、
という表現の自由を実践する
16歳の詩人。
ダダを理解しない石頭たちに
盛んに宣伝する中也。

それにしても
4-4-4-2のソネットが
ここにあります。
定型への意志が
なくなってしまったわけではありません。
 
物語
語呂合わせ
思想的展開
お道化
リフレイン
落ち(起承転結)
……
若き詩人が
躍動しています

ダダ音楽の歌詞

ウワキはハミガキ
ウワバミはウロコ
太陽が落ちて
太陽の世界が始まった

テッポーは戸袋
ヒョータンはキンチヤク
太陽が上つて
夜の世界が始まつた

オハグロは妖怪
下痢はトブクロ
レイメイと日暮が直径を描いて
ダダの世界が始つた

(それを釈迦が眺めて
それをキリストが感心する)

中原中也全詩集 中原中也全詩集

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2008年10月13日 (月)

タバコとマントの恋/相対性理論

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佐々木幹郎編「中原中也詩集 山羊の歌」
の「未発表詩篇」にも載っていない
ダダ詩を見ておきます。

「相対界」とあるのがポイントですか

アインシュタインが来日したとき
ダダイスト高橋新吉が
しきりにアインシュタインに関する
「詩的冗談を書き散らした」のが
中也に伝染したらしい。
相対界は
相対性理論の「相対」というわけです。

恋とは、ズバリ!
中也と長谷川泰子の恋、でしょう。

 *
 タバコとマントの恋

タバコとマントが恋をした
その筈だ
タバコとマントは同類で
タバコが男でマントが女だ
或時二人が身投心中したが
マントは重いが風を含み
タバコは細いが軽かつたので
崖の上から海面に
到着するまでの時間が同じだつた
神様がそれをみて
全く相対界のノーマル事件だといつて
天国でビラマイタ
二人がそれをみて
お互の幸福であつたことを知つた時
恋は永久に破れてしまつた

「中原中也全詩集」(角川ソフィア文庫)
「未発表詩篇」「ダダ手帖(1923年~1924年)」より

名詞の扱ひに/中也のダダ1

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佐々木幹郎編「中原中也詩集 在りし日の歌」
(角川文庫クラシックス)は、
「未発表詩篇」の中に
ダダの詩を1篇も
採りいれていないのは、
同書が、1935~1937年の作品を
扱っているからです。

「山羊の歌」は1920~1934年を扱い、
「未発表詩篇」には
いくつかを載せていますから、
ここで少しだけ
ダダ詩を見ておきます。

中也自身は
タイトルを付けていない状態の詩で、
草稿です。
大岡昇平らにはじまる研究は
草稿作品には
便宜上( )をつけて
詩の冒頭行を、仮のタイトルにする慣例です。

詩人が、ダダについて歌っている作品。

ダダイストが「棺」といへば
何時の時代でも「棺」として通る所に
ダダの永遠性がある
だがダダイストは、永遠性を望むが故にダダ詩を書きはせぬ

この4行は、
しばしば引き合いに出され、
中也のダダ観を示す言葉として
広まっています。

 *
 (名詞の扱ひに)

名詞の扱ひに
ロヂックを忘れた象徴さ
僕の詩は

宣言と作品の関係は
有機的抽象を無機的具象との関係だ
物質名詞を印象との関係だ

ダダ、つてんだよ
木馬、つてんだ
原始人のドモリ、でも好い

歴史は材料にはなるさ
だが問題にはならぬさ
此のダダイストには

古い作品の紹介者は
古代の棺はかういふ風だつた、なんて断り書きをする
棺の形が如何に変らうと
ダダイストが「棺」といへば
何時の時代でも「棺」として通る所に
ダダの永遠性がある
だがダダイストは、永遠性を望むが故にダダ詩を書きはせぬ

如何(いか)

佐々木幹郎編「中原中也詩集 山羊の歌」
「未発表詩篇」(角川文庫クラシックス)より

2008年10月11日 (土)

月/ミョウガを食い過ぎた

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詩集「在りし日の歌」5番目に置かれた作品。

 

「月」は、
第1詩集「山羊の歌」にもあります。

 

今宵月はいよよ愁(かな)しく、
養父の疑惑に瞳を睜(みは)る。
秒刻(とき)は銀波を砂漠に流し
老男(らうなん)の耳朶(じだ)は螢光をともす。

 

と、はじまる難解なあれ、
ダダっぽい詩です。
「山羊の歌」2番目に置かれ
大正14年作と考証されています。(「中也必携」吉田凞生編)
「在りし日の歌」の「月」も
同じ頃の制作と推定されています。

 

大正14年は、
中也が長谷川泰子をともなって上京した年です。
富永太郎を介して小林秀雄を知り
その小林秀雄に泰子を奪われる。
「月」に、
この事件の影を見るかどうか、
断定的なことはいえません。

 

ダダの作風に飽き足らず
フランス象徴詩を
果敢に摂取していた時期の中也です。
「在りし日の歌」の「月」には
まだダダが、もろに露出しています。

 

月がミョウガを食べ過ぎている、は、
トタンがセンベイを食べている(「春の日の夕暮れ」)、
に似た表現方法ですね。
まともに意味を探ろうとすると
ダダの詩は味わえなくなりそうですから、
つっこまないで、
理解できない詩句はそのままにして
詩句は頭の中で
ころがしておくだけにしておくのがよいでしょう。

 

月がミョウガを食い過ぎている、とは、
朧月(おぼろづき)、とか
三日月よりももっと細い月、とか

 

ミョウガを食べ過ぎるとバカになる、
とかの俗説を想起させながら、
朦朧(もうろう)とした月、とか
色々な感じ方がありますし、できます。

 

「月」と題名があるからには
月を歌ったことには違いなく、
なにか、物語の気配が感じられますね。
文子さんが、月を落っことして、困っているだろうから
明日にでも、届けてやろう

 

この文子さんは、
第1連の姉妹の一人かな

 

姉妹は眠り、
その母さんも寝支度をして
紅殻色(べんがらいろ)の格子を締めた!

 

これくらいに読んでおけば
ほのぼのとしたドラマで済ませられますかな。

 

1連の3行
済製場(さいせいば)の屋根にブラ下つた琵琶(びは)は鳴るとしも想へぬ
石炭の匂ひがしたつて怖(おぢ)けるには及ばぬ
灌木がその個性を砥(と)いでゐる

 

ここを読めば
この詩の、状況が掴めそうです。

 

潅木が、夜の空に、
高々と聳え立っている
月は、その向こうに
浮かんでいる

 

 *
 月

 

今宵月は蘘荷(めうが)を食ひ過ぎてゐる
済製場(さいせいば)の屋根にブラ下つた琵琶(びは)は鳴るとしも想へぬ
石炭の匂ひがしたつて怖(おぢ)けるには及ばぬ
灌木がその個性を砥(と)いでゐる
姉妹は眠つた、母親は紅殻色(べんがらいろ)の格子を締めた!

 

さてベランダの上にだが
見れば銅貨が落ちてゐる、いやメダルなのかア
これは今日昼落とした文子さんのだ
明日はこれを届けてやらう

 

ポケットに入れたが気にかゝる、月は蘘荷を食ひ過ぎてゐる
灌木がその個性を砥(と)いでゐる
姉妹は眠つた、母親は紅殻色の格子を締めた!

 

* 済製場 洗濯、消毒をする場所のこと。
* 紅殻色 黄色味を帯びた赤色。

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)
* 原文のルビは、( )内に表記しました。

元パンクの中也読み/町田康の中也論3

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町田康は、さらに、つづける。

 

中也もダダイズムを
ずっとやりつづけるわけではないんですね。
パンクだ、破壊だと言いながら、
それをずっと続けるていると、
今度はパンクという定型になってしまう。

 

だから、次に行くための
通過点みたいなことだったと思います。

 

たとえばグラスを投げて
粉々に打ち砕いてしまったら、
そのグラスはもう二度と割ることはできない、
というのと同じです。

 

ダダイズムは中也にとっては
どうしても必要な通過点で、
そこを通過しないと、
のちの中原中也はうまれなかったんだろうな、
という気がします。

 

NHK教育テレビ「知るを楽しむ」
「中原中也 口惜しき人」
10月7日22時25分~50分放送。

 

通過というと
もう2度とそこへ戻ってはこない、
ということで、
町田康とパンクの関係は通過点であり、
中也とダダとの関係も通過点だった、
と捉えているようです。

 

中也には
晩年になってもダダが
思い出したかのように顔をもたげてくる作品がありますから、
通過というと、やや違う感じですけれど、
わかりやすい説明ですね。

 

短歌の定型を破壊するダダではありましたが
ダダを定型として意識し、
さよならっていうことではなかったようです。
ダダは、中也の、
一種の武器でありつづけました。

2008年10月 9日 (木)

元パンクの中也読み/町田康の中也論2

20080719_045

 

 

 

町田康はつづける。

 

たとえばブルースみたいなものを
ずっと聴いていると、
その価値観にとらわれて
先に行けなくなってしまうことがある。
ブルースという定型から
抜け出せないってことですよ。
僕の場合、
そういうものを破壊するものとして
パンクがあった。

 

中也の場合は、
それまでは短歌を書いていた。
短歌というのは特に定型的ですから、
一度徹底的に破壊する必要が
あったんじゃないでしょうか。

 

NHK教育テレビ「知るを楽しむ」
「中原中也 口惜しき人」
10月7日22時25分~50分放送。

 

中原中也のダダイズムへの接近を
元パンクロッカーが
自らのパンクへの接近と離反(?)にからめて
語るのは
すっごく説得力がありますね。

 

 

2008年10月 8日 (水)

早春の風・その2/青き女

  青き女(をみな)の顎(あぎと)かと
 岡に梢のとげとげし
今日一日また金の風……

 

この詩句は、いかに読んだらよいのでしょうか?

 

1日考えて、

 

少女のあごかと思えるような、
早春の山野の樹木は、
まだ新芽もふくらんでおらず、
枯れ枝ばかりでとげとげしく立っていて、
そこにも光をまぶしたような
金色の風が吹いている

 

と、解釈してみました。

 

すると、第4、5連も、
すっきりと読めてきます。

 

  枯草の音のかなしくて
 煙は空に身をすさび
日影たのしく身を嫋(なよ)ぶ

 

立ち枯れした草を撫でつける風の音は悲しく
雲は空にちぎれちぎれに飛んでいき
木と木の間の陰を楽しそうに通りぬける

 

  鳶色(とびいろ)の土かをるれば
 物干竿は空に往き
登る坂道なごめども

 

鳶の色をした土が香ばしい空気を漂わせ
民家の物干し竿も空高く浮かんでいる
ぼくが登っていく坂道は穏やかでも……

 

山のてっぺんの、樹と樹とのすき間をとおして雲の流れてゆくのがみえます。
(煙は空に身を慌(すさ)び、日陰怡しく身を嫋ぶ)昔の歌。

 

と、中原中也が記した
第4連を読み直し、
素直にヒントにすれば、
それほどピントはずれでもなさそうな
解釈ができます。

 

それにしても
青き女(をみな)の謎は
消えないのです。
成熟した女性のイメージではなく
ただの少女を
中也は「青き女」としたのでしょうか。

 

故郷の山河を愛した詩人の
自然賛歌であることに
なんら不服ではないものの
ここは気にかかったままです。

 

 *
 早春の風

 

  けふ一日(ひとひ)また金の風
 大きい風には銀の鈴
けふ一日また金の風

 

  女王の冠さながらに
 卓(たく)の前には腰を掛け
かびろき窓にむかひます

 

  外吹く風は金の風
 大きい風には銀の鈴
けふ一日また金の風

 

  枯草の音のかなしくて
 煙は空に身をすさび
日影たのしく身を嫋(なよ)ぶ

 

  鳶色(とびいろ)の土かをるれば
 物干竿は空に往き
登る坂道なごめども

 

  青き女(をみな)の顎(あぎと)かと
 岡に梢のとげとげし
今日一日また金の風……

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)

2008年10月 7日 (火)

元パンクの中也読み/町田康の中也論1

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町田康が、こう語りだした。

 

音楽的で、
調子がいい、
リズムがいい。
目で読むよりも、
耳で聴くほうがふさわしい
言葉がきれいだし、
メルヘン的でもある

 

でも、
よく味わってみると、
その底に、
ダークで、不気味なものが
潜んでいたりするんです

 

みずみずしいものと、
砂漠みたいにドライなものが
二重になっている

 

明るく美しい風景の上に、
狂気とか殺伐とした風景とかが
二重写しになっていたりする

 

そのあたりは、
若いころには気づかなかったことです。

 

NHK教育テレビ「知るを楽しむ」
「中原中也 口惜しき人」
今日10月7日22時25分~50分放送。

 

語呂がよくて、
透明で、
心地よい……

 

「早春の風」を読んでいて、
素朴に過ぎる受け止め方に
立ち止まったばかりでしたから、
町田康に拍手!
元パンクの中也読みに拍手!

 

 

2008年10月 6日 (月)

早春の風/浴衣の売出し

詩集「在りし日の歌」で
4番目にレイアウトされた「早春の風」は、
多くの一般読者に好かれ、
人気のある詩であり、
支持のされ方もさまざまで、
作品にまつわるエピソードも色々です。

 

初出は帝都大学新聞、昭和10年5月13日号。
現在の、東京大学新聞のことか?
作られたのは、昭和3年、1928年と推定されています。

 

安原喜弘へ宛てた中也の、
昭和7年3月7日付けのはがきに、

 

(略)この葉書をかきながら、窓外をみると、山のてっぺんの、樹と樹とのすき間をとおして雲の流れてゆくのがみえます。(煙は空に身を慌(すさ)び、日陰怡しく身を嫋ぶ)昔の歌。(略)

 

と、この詩の1節、第4連2、3行を書き付けています。

 

昭和3年に作り、
どこにも発表していない昭和7年に安原宛葉書で紹介し、
昭和10年に帝大新聞に掲載された、
という履歴をもつ詩というわけです。

 

この葉書でいう窓外とは、
中也が東京から山口へ帰郷する途次、
京都に住んでいた安原を訪ね、
その後、汽車で向かった
車中から見た広島あたりの景色のことであります。

 

「早春の風」が、
この、窓外の景色を歌ったものとはかぎりません。
この時、中也は昔作った歌を思い出して、
安原宛葉書に書き留めたのです。
金の風、銀の鈴……と、
思い出させるに充分な風景が、
この時、窓の外にあったのでしょう。

 

イメージだけでぐんぐん押してくる
透明な、童謡のような詩……。

 

けれども、そんなふうにばかりこの詩を
素朴に読んでいいものでしょうか

 

春の風を歌いつつ
終連

 

  青き女(をみな)の顎(あぎと)かと
 岡に梢のとげとげし
今日一日また金の風……

 

にぶつかるとき、
この詩句が孕む
ドラマを感じないわけにはいきません

 

帝都大学新聞へ、この作品を送ったとき、学生が、
もう時季が早春ではないから何とか変えてくれ、と、
タイトルの変更を申し入れてきたことを、
詩人は、
「帝都大学新聞が詩を浴衣の売出しかなんかのように心得ているとはけしからん。文化の程度が低いのである」

 

と、掲載紙の切り抜きを貼った
スクラップブックに書き込んだことが、
「中原中也必携」に紹介されています。

 

このエピソードと関係するわけではありませんが、
この詩が、春という季節を
歌ったばかりのものではないのなら、

 

若い女性の顎(あご)かと思える
岡の樹の梢のとんがった形

 

とは、何を意味するのでしょうか。
立ち止まり、ひっかかり、
明瞭な答はすぐには出てきません。

 

金の風、銀の鈴……の
イメージばかりが
吹き抜けていきます

 

 *
早春の風

 

  けふ一日(ひとひ)また金の風
 大きい風には銀の鈴
けふ一日また金の風

 

  女王の冠さながらに
 卓(たく)の前には腰を掛け
かびろき窓にむかひます

 

  外吹く風は金の風
 大きい風には銀の鈴
けふ一日また金の風

 

  枯草の音のかなしくて
 煙は空に身をすさび
日影たのしく身を嫋(なよ)ぶ

 

  鳶色(とびいろ)の土かをるれば
 物干竿は空に往き
登る坂道なごめども

 

  青き女(をみな)の顎(あぎと)かと
 岡に梢のとげとげし
今日一日また金の風……

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)

2008年10月 5日 (日)

夜更の雨/ヴェルレーヌ

第3番の「夜更の雨」は、
ヴェルレーヌの「巷に雨の降る如く」が下敷になっている、
と、推測する解釈が流布しています。

 

中也は、勉強家ですし、
京都で、高橋新吉のダダイズムを知り、
富永太郎を、1924年(大正12年)に知って以来、
小林秀雄を、1925年、
河上徹太郎を、1927年、などと、
周辺に、トウダイフツブン(=東大仏文)の学生はもとより、
仏文の教官であった辰野隆らとの交友をも広め、
原語で
マラルメ、ランボー、ヴェルレーヌ、ボードレール……を読み、
いずれは、ランボーやネルバルらの翻訳をするほどの
先進的なポジションにありました。

 

2008年の今日、
堀口大学の訳で有名な、

 

巷に雨の降るごとく
われの心に涙ふる。
かくも心ににじみ入る
この悲しみは何やらん?

 

で、はじまる「巷に雨の降るごとく」は、
大正末から昭和初期、
当時の文学青年や仏文科の学生が
こぞって、
むさぼるように
読んだことを、
大岡昇平がいうまでもなく
多くの研究者が記しています。

 

中也もその一人でしたが、
中也の非凡さは、
その摂取というレベルで
ベルレーヌをすでに自分のものにしてしまっている、
という一点です。
憧れのヴェルレーヌではなく、
すでに、ヴェル氏、なのです。

 

初出は、昭和11年8月、「四季」初秋号ですが、
制作は、昭和4年ごろ。
(「中原中也必携」吉田凞生編、1979年、学燈社)
「朝の歌」(大正15年)より後の制作です。

 

ヴェルレーヌは、
ランボーとのホモセクシャルな交友などで知られる
放蕩詩人です。
中也が、
富永太郎や小林秀雄や河上徹太郎や辰野隆らから聞き知り、
自らも原書などを通じて知った
フランス象徴詩の世界に、
はじめて触れた時の感動は
いかがなものであったか、
狭苦しい日本文壇、詩壇を唾棄していた詩人の
目の輝きが思われます。

 

中原中也にとって、
フランスは
活路でした。
死ぬまで、活路でした。

 

雨は今夜も降っている
昔ながらに、降っている。
だらだらだらだら降っている
時雨の秋の宵。
ふと見ると、
倉庫の路地を駆けてゆくのは
ヴェルレーヌじゃないか
大きな図体の背中を見せて。

 

ビニール製の合羽が反射している
泥炭の山が雨に打たれている
その路地を抜け出れば……
抜けさえできれば
わずかな希望があるというもんさ
そうだろ

 

自動車なぞいらんぞ
明るい街灯なぞもいらんぞ
酒場の灯の
腐った目玉のような明かるい光よ
遠くのほうでは
舎密(せいみ)も 鳴つてる。
新式の化学がはばをきかしているよ

 

舎密は、
世にはびこる
新しがりやのジレッタントへの
諧謔か、憎悪か

 

ダダを抜け出し
文語定型を抜け出そうとする
格闘が
ヴェル氏の格闘と重なるかのようです。

 

 *
 夜更の雨

 

――ヱ゛ルレーヌの面影――

 

雨は 今宵も 昔 ながらに、
  昔 ながらの 唄を うたつてる。
だらだら だらだら しつこい 程だ。
 と、見るヱ゛ル氏の あの図体(づうたい)が、
倉庫の 間の 路次を ゆくのだ。

 

倉庫の 間にや 護謨合羽(かつぱ)の 反射(ひかり)だ。
  それから 泥炭の しみたれた 巫戯(ふざ)けだ。
さてこの 路次を 抜けさへ したらば、
  抜けさへ したらと ほのかな のぞみだ……
いやはや のぞみにや 相違も あるまい?

 

自動車 なんぞに 用事は ないぞ、
  あかるい 外燈(ひ)なぞは なほの ことだ。
酒場の 軒燈(あかり)の 腐つた 眼玉よ、
  遐(とほ)くの 方では 舎密(せいみ)も 鳴つてる。

 

*舎密 化学の旧称で、オランダ語のchemicの音に字を当てたもの。幕末から明治初期に用いた。
(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)

2008年10月 4日 (土)

むなしさ/ダダ脱出

「在りし日の歌」集中2番目に置かれた「むなしさ」は
「山羊の歌」の中の
「臨終」
「秋の一日」
「港市の秋」
などとともに「横浜もの」と呼ばれます。

 

泰子が去った後、
中也は、しばしば、横浜に遊びました。
横浜は、母フクが少女時代を過した地でもあり、
遊興の地の娼婦館には、
なじみの女性もあったらしい。
「横浜もの」に出てくる女性は、
その娼婦のイメージを喚起させるものといわれています。

 

「むなしさ」が制作された
大正15年1926年とは、
昭和元年のことでもあります。
中也19歳。

 

京都時代に知った詩人・富永太郎が
前年大正14年11月に亡くなり、
長谷川泰子が小林秀雄のもとへと去ったのも
同年同月……。
この年、1925年大正14年は、
東京生活12年の、
はじまりにして、
詩人に孤立無援の試練を与えるのです。

 

ダダイズムからの脱出というテーマは、
この孤絶した詩人、
不羈の詩人、
まつろわぬ詩人の、
詩風上の問題ばかりでなく、
詩人を生きていく上で、
差し迫った課題になったのかもしれません。

 

富永太郎や小林秀雄らから啓発されて、
フランス象徴詩の研究に没頭し、
詩作の上でも
「むなしさ」のような、
もろにベルレーヌを題材とし、
象徴詩の影響を受けた作品が作られます。

 

「むなしさ」は、
これに加えて、
偏菱形(へんりようけい)=聚接面(しゆうせつめん)そも
などの詩句に見られる難解な漢語使いを
宮沢賢治に(富永太郎にも)学び、
文語定型詩の形を岩野泡鳴から取り入れる、などの、
ダダ脱出の試みが、
果敢に行われているのです。

 

 *
 むなしさ

 

臘祭(らふさい)の夜の 巷(ちまた)に堕(お)ちて
 心臓はも 条網に絡(から)み
脂(あぶら)ぎる 胸乳(むなち)も露(あら)は
 よすがなき われは戯女(たはれめ)

 

せつなきに 泣きも得せずて
 この日頃 闇を孕(はら)めり
遐(とほ)き空 線条に鳴る
 海峡岸 冬の暁風

 

白薔薇(しろばら)の 造化の花瓣(くわべん)
 凍(い)てつきて 心もあらず
明けき日の 乙女の集(つど)ひ
 それらみな ふるのわが友

 

偏菱形(へんりようけい)=聚接面(しゆうせつめん)そも
 胡弓の音 つづきてきこゆ

 

*臘祭 一二月に行われる祭。もとは古代中国の風俗で、猟の獲物を先祖の霊にささげる行事。
(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)

2008年10月 3日 (金)

むなしさ/血を吐くような胡弓の音色

詩集「在りし日の歌」の「秋の歌」は
以上のほかにも見つかるかもしれませんが
ここでも深追いはしません。

 

中也の文学的な出発が
短歌にあったことは
よく知られたことだから、
ひょっとして、詩の制作においても
季節感の演出のようなものがあり
それは、短歌制作で得た
一つの詩法であるかもしれない
などと、ふと思うだけに止めます。

 

さて、冒頭の「含羞」の次の
「むなしさ」へと進んでいきます。

 

この作品は
大正15年(1926年)の作とされ
「在りし日の歌」の集中で最も古いものであるという点に
注目されますし、
1935年(昭和10年)3月に「四季」に掲載された点でも
注目されるものです。

 

「後記」にある「最も古いのでは大正14年のもの」が
どの作品をさすのか不明ですが
「月」大正14、15年
「春」大正14年
「夏の夜」大正14年
などとともに「最も古い」作品には違いありません。

 

これを詩人は
詩集2番目にレイアウトしました。

 

1番目の「含羞」と
制作年が10年以上も隔たっているにもかかわらず
詩法には類似するものがあって
詩人はここ2番目に置いたと考えられます。

 

文語詩であり、
フランス象徴詩の作風を取り入れ、
五七調ソネットであり、
定型の中に破調をはさみ、
七七、七五、字余りを混入し……
ダダイズムからの脱皮を
図ろうとしていたこのころ。

 

大正15年は、
中也19歳です。
大正14年には
長谷川泰子と連れ立って
東京の生活をはじめました。

 

第1連から
ショッキングな展開で
戯女(たわれめ)とは遊女のことか
江戸なら夜鷹か
現代なら、ストリートガールか
コールガールか

 

年末の巷を臘祭(らふさい)の夜に擬して、
その巷に堕ちた女に私を見立て
心臓はよじれ
乳房あらわな
寄る辺のない私が
先祖霊への生贄にでもなるイメージが
歌われる

 

幻想的というべきか
荘厳というべきか

 

せつなくて、泣くこともできず
暗闇を孕んでいる
遠い空では、電線がうなり
海峡の岸では、冬の朝風

 

白バラの
造花のような花びらは
凍りついて、生きているようではない
明けき日とは、年が明けての意味か
元日に集う乙女らは
みな、私の古い友達

 

ひん曲がった菱形(偏菱形)のような
胡弓の音色が
やむことなく聞こえている

 

戯女は悲しみではなく
戯女はむなしい

 

難解ですが
血を吐くような
胡弓の音が
耳をつんざいてくる感じが
わかるようです

 

 *
 むなしさ

 

臘祭(らふさい)の夜の 巷(ちまた)に堕(お)ちて
 心臓はも 条網に絡(から)み
脂(あぶら)ぎる 胸乳(むなち)も露(あら)は
 よすがなき われは戯女(たはれめ)

 

せつなきに 泣きも得せずて
 この日頃 闇を孕(はら)めり
遐(とほ)き空 線条に鳴る
 海峡岸 冬の暁風

 

白薔薇(しろばら)の 造化の花瓣(くわべん)
 凍(い)てつきて 心もあらず
明けき日の 乙女の集(つど)ひ
 それらみな ふるのわが友

 

偏菱形(へんりようけい)=聚接面(しゆうせつめん)そも
 胡弓の音 つづきてきこゆ

 

*臘祭 一二月に行われる祭。もとは古代中国の風俗で、猟の獲物を先祖の霊にささげる行事。
(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)

2008年10月 1日 (水)

老いたる者をして3/23歳の孤独

 「白痴群」の廃刊による
 交友関係の崩壊。
 小林秀雄との冷たい関係は復旧されておらず
 大岡昇平ら、「白痴群」同人のほとんどが、
 一時的ではあれ、中也に距離をおき、
 中也は一人、東京という異郷に投げ出された
 という状況。
 これが、昭和5年(1930年)後半、
 中也23歳です。
 
 長谷川泰子が
 この年末、出産したことも
 中也の孤独をいやましにしたはずです。
 泰子の子に、茂樹という名を付けるなど
 この子を可愛がる中也ですが
 そのことと
 詩人の孤独とは別物であります。
 
 幾人か、中也を労わりつづける友人もいました。
 安原喜弘、関口隆克……
 
 新しい友人もできました。
 吉田秀和、高森文夫……
 
 「スルヤ」は音楽集団ですから
 文学の戦場とは異なり
 中也の主戦場ではありません。
 決別自体がありませんから
 その後も、ゆるやかな関係が続きました。
 
 「老いたる者をして」は
 空しき秋二十数篇は散佚して今はなし。その第十二のみ、諸井三郎の作曲によりて残りしものなり。
 
 と、詩の末尾に注釈が詩人により加えられているとおり
 詩の一部です。
 全体は、20数篇だった、とか
 共同生活していた関口隆克が言うには
 16篇あった、とか
 様々な説が飛び交っています。
 その12番。
 
 老いたる者とは詩人のことか。
 老人という意味であるより
 軽薄であることの反意か……。
 
 その人を静かな環境においてあげてください
 静かにしてやってください
 その人を心ゆくまで悔いさせてあげるのです
 
 わたしも悔いることを望みます
 心ゆくまで悔いて本当に魂を休めたいのです
 
 果てしなく泣きたい
 父母兄弟友人……そばで見ている人のことなどすっかり忘れて
 泣きたい
 
 東雲の空、夕方の風のように
 小旗がはたはたたなびくように泣こう
 
 別れの言葉が、こだまして、雲の中に消えてゆき、
 野末に響き、海の上の風に混ざって、永遠に過ぎ去っていくように……
 
ああ以下の反歌が、
詩の要です
 
私たちは、長い間、臆病で意気地がないために
無駄なことばかりしてきて
泣くことを忘れてきたのだ
ああ
ほんとに大事なことを忘れてきたのだ

「涕く」は、涕泣(ていきゅう)の「涕」。
「泣く」と同じです。

泣くことが、大事だと
大事なことをしてこなかった
忘れてしまった、と
悔いているのですが……、

泣くこととは、
静かにして感じること、
とかの意味が込められているのでしょう。
涙を流して、泣いていればいいといものでもありません。

ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。

の、「感じる」に近い「涕く」に違いありません。

これらの詩句に
どんなメロディーがついたのか
いつか聴いてみたいものです。
 
 
 *
 老いたる者をして

 

  ――「空しき秋」第十二

 

老いたる者をして静謐(せいひつ)の裡(うち)にあらしめよ
そは彼等こころゆくまで悔いんためなり

 

吾は悔いんことを欲す
こころゆくまで悔ゆるは洵(まこと)に魂を休むればなり

 

あゝ はてしもなく涕(な)かんことこそ望ましけれ
父も母も兄弟(はらから)も友も、はた見知らざる人々をも忘れて

 

東明(しののめ)の空の如く丘々をわたりゆく夕べの風の如く
はたなびく小旗の如く涕かんかな

 

或(ある)はまた別れの言葉の、こだまし、雲に入り、野末にひびき
海の上(へ)の風にまじりてとことはに過ぎゆく如く……

 

   反歌

 

あゝ 吾等怯懦(けふだ)のために長き間、いとも長き間
徒(あだ)なることにかゝらひて、涕くことを忘れゐたりしよ、げに忘れゐたりしよ……

 

〔空しき秋二十数篇は散佚して今はなし。その第十二のみ、諸井三郎の作曲によりて残りしものなり。〕

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)
*原作第5連第2行「はたなびく」に傍点があります。(編者)

老いたる者をして2/音楽集団スルヤ

彼の詩が単行本になったのは、「山羊の歌」に先立つこと2年、昭和7年の「世界音楽全集」27巻「日本歌曲集」に収録された、諸井三郎作曲「朝の歌」「臨終」 内海誓一郎作曲「帰郷」「失せし希望」だったことは、象徴的である。

 

と、大岡昇平は、
「新潮」(1956年5月号「思想」)に記しています。

 

中原中也の詩が、
雑誌などへの単発ではなく、
1冊の単行本になった最初は
「山羊の歌」ではなく、

 

諸井三郎や内海誓一郎が作曲した
「朝の歌」や「帰郷」などを集めた「日本歌曲集」だった
ということは、中也を知る一つの手がかりではありましょう。

 

乱暴な言い方かもしれませんが
詩人としてより
作詞家としてのデビューが早かった、
というわけですし、
詩が評価されることがなかったことを物語るものです。

 

この、日本歌曲集が昭和7年、1932年、発行なのですが、
この2年前である、
昭和5年(1930年)6月、
「白痴群」が廃刊しました。
詩人の本拠地が崩れたのです。

 

詩を思う存分発表できる場を失っただけではなく
その原因となったものによってか
廃刊したことによってか、
交友関係が崩れ、
中原中也は、弧絶するのです。
一人ぼっちになるのです。

 

 
 *
 老いたる者をして

 

  ――「空しき秋」第十二

 

老いたる者をして静謐(せいひつ)の裡(うち)にあらしめよ
そは彼等こころゆくまで悔いんためなり

 

吾は悔いんことを欲す
こころゆくまで悔ゆるは洵(まこと)に魂を休むればなり

 

あゝ はてしもなく涕(な)かんことこそ望ましけれ
父も母も兄弟(はらから)も友も、はた見知らざる人々をも忘れて

 

東明(しののめ)の空の如く丘々をわたりゆく夕べの風の如く
はたなびく小旗の如く涕かんかな

 

或(ある)はまた別れの言葉の、こだまし、雲に入り、野末にひびき
海の上(へ)の風にまじりてとことはに過ぎゆく如く……

 

   反歌

 

あゝ 吾等怯懦(けふだ)のために長き間、いとも長き間
徒(あだ)なることにかゝらひて、涕くことを忘れゐたりしよ、げに忘れゐたりしよ……

 

〔空しき秋二十数篇は散佚して今はなし。その第十二のみ、諸井三郎の作曲によりて残りしものなり。〕

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)
*原作第5連第2行「はたなびく」に傍点があります。(編者)

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