芥川賞作家・町田康の中也読み/神に愛された詩人
3回目になって、
町田康が乗ってきたな、という感じです。
一つは、中原中也が献辞をつけて、
友人らに贈った詩、
すなわち献呈詩を読む中での発言です。
中也の献呈詩は、よくあるものとは異なり、
相手を選んで、
その相手にわかってほしい
という願いを込めた詩が多いのではないか、
と、とらえる件(くだり)です。
それは、
神への告白みたいなところもあった、
と考えるのです。
「あなたにすべてを告白します」
だから、ぼくを、わかってください、と。
そして、ポイントは、
この人は神に愛された人だったんだな、と感じることがあります。必ずしも比喩的な意味ではなくて、ほんとうに神に愛されてしまった人なんじゃないかと思うことがある。
そうとしか思えないような詩がいっぱいありますよね。
全能の神によって与えられた感性ですべて感じ取り、そうやって書いた詩を、また、神に告白するように友人に捧げていたのかもしれないですね。
と、語るところです。
ここに唸りませんか。
ここは、鋭く、深い理解ではないですか。
芥川賞や谷崎賞を受賞した作家の読みが
ここにあるとは思いませんか。
普通、神を見た、とか、神に導かれた、とか……。
そのように、言うことはあります。
中也の若き日の「見神」は、
よく言われることでもあります。
そこのところを、
神を愛した、と言わず、
逆に、神に愛された、と言うのですから、
ハッとさせられますし、
ちょっと、考えてから、
ハタと手を打って、パチパチパチです。
納得しちゃいます。
河上徹太郎、
内海誓一郎、
阿部六郎、
関口隆克、
安原喜弘、
小林秀雄、
青山二郎、
大岡昇平
……
中也に詩を献じられた友人たちは、
いかに詩を読み、向き合い、
そして、その後
いかなる気持ちで、
詩人と対面したのでしょうか。
テキストでは、
安原喜弘宛の「羊の歌」、
関口隆克宛の「修羅街輓歌」を掲載し、
番組中に、朗読します。
大岡昇平宛の「玩具の賦」は、
テキストに、大岡批判の詩として記され、
番組中、一部を、町田康が朗読します。
NHK教育テレビ「知るを楽しむ」
「中原中也 口惜しき人」「第3回 去りゆく友への告白」
10月21日22時25分~22時50分放送。
*
玩具の賦
昇平に
どうともなれだ
俺には何がどうでも構はない
どうせスキだらけぢやないか
スキの方を減(へら)さうなんてチャンチャラ可笑(をか)しい
俺はスキの方なぞ減らさうとは思はぬ
スキでない所をいつそ放りつぱなしにしてゐる
それで何がわるからう
俺にはおもちやが要るんだ
おもちやで遊ばなくちやならないんだ
利権と幸福とは大体は混(まざ)る
だが究極では混りはしない
俺は混ざらないとこばつかり感じてゐなけあならなくなつてるんだ
月給が増(ふ)えるからといつておもちやが投げ出したくはないんだ
俺にはおもちやがよく分つてるんだ
おもちやのつまらないとこも
おもちやがつまらなくもそれを弄(もてあそ)べることはつまらなくはないことも
俺にはおもちやが投げ出せないんだ
こつそり弄べもしないんだ
つまり余技ではないんだ
おれはおもちやで遊ぶぞ
おまへは月給で遊び給へだ
おもちやで俺が遊んでゐる時
あのおもちやは俺の月給の何分の一の値段だなぞと云ふはよいが
それでおれがおもちやで遊ぶことの値段まで決まつたつもりでゐるのは
滑稽だぞ
俺はおもちやで遊ぶぞ
一生懸命おもちやで遊ぶぞ
贅沢(ぜいたく)なぞとは云ひめさるなよ
おれ程おまへもおもちやが見えたら
おまへもおもちやで遊ぶに決つてゐるのだから
文句なぞを云ふなよ
それどころか
おまへはおもちやを知つてないから
おもちやでないことも分りはしない
おもちやでないことをただそらんじて
それで月給の種なんぞにしてやがるんだ
それゆゑもしも此(こ)の俺がおもちやも買へなくなった時には
写字器械奴(め)!
云はずと知れたこと乍(なが)ら
おまへが月給を取ることが贅沢だと云つてやるぞ
行つたり来たりしか出来ないくせに
行つても行つてもまだ行かうおもちや遊びに
何とか云へるものはないぞ
おもちやが面白くもないくせに
おもちやを商ふことしか出来ないくせに
おもちやを面白い心があるから成立つてゐるくせに
おもちやを遊んでゐらあとは何事だ
おもちやで遊べることだけが美徳であるぞ
おもちやで遊べたら遊んでみてくれ
おまえに遊べる筈はないのだ
おまへにはおもちやがどんなに見えるか
おもちやとしか見えないだろう
俺にはあのおもちやこのおもちやと、おもちやおもちやで面白いんぞ
おれはおもちや以外のことは考へてみたこともないぞ
おれはおもちやが面白かつたんだ
しかしそれかと云つておまへにはおもちや以外の何か面白いことといふのがあるのか
ありそうな顔はしとらんぞ
あると思ふのはそれや間違ひだ
北叟笑(にやあツ)とするのと面白いのとは違ふんぞ
ではおもちやを面白くしてくれなんぞと云ふんだろう
面白くなれあ儲かるんだといふんでな
では、ああ、それでは
やつぱり面白くはならない写字器械奴(め)!
――こんどは此のおもちやの此処(ここ)ンところをかう改良(なほ)して来い!
トットといつて云つたやうにして来い!
(1934.2.)
(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』角川文庫クラシックスより)
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