青い瞳/ゴールデンバット
さて、「在りし日の歌」を
読み続けます。
6番目の作品「青い瞳」は、
外国人のことではありません。
「青」は、
第4番「早春の風」の
「青き女(をみな)」と同じように読むとよいのかもしれません。
とすると、
これは詩人自身のことになりますか。
昭和10年(1935年)10月頃の制作で、
中也28歳。
この年12月に「四季」同人になります。
「中原中也の手紙」の著者、安原喜弘は、
同書昭和10年「手紙91 6月5日(封書)」(四谷 花園町)の項で、
次のように記します。
「(略)この夏の頃から私たちの往き来は次第に稀になつていつた。私は多く旅に出て暮らし、彼を訪れるのも月に一度ぐらいであつたろうか。彼は詩壇の一角にその名を知られ、かなりに多忙な詩人生活であった。この年12月彼は詩誌「四季」の同人になつている。(略)私は次に、今手許に残された僅かの手紙により、私にとつてはまことに心重い彼の昇天に至る最後の2年間をあわただしく叙(のべ)り終ろうとする。
前年、長男文也が誕生、
第一詩集「山羊の歌」の出版がかない、
充実した詩人生活がはじまっていた時、
安原は、中也との往来を減らしていた。
安原は、中也の「四季」入りを
好ましく思っていなかったようでした。
「青い瞳」が、
この流れと直接に関係して
書かれたものではありませんが、
中也は、ようやく、
「一般読者」なるものを意識して詩作しはじめた、
というようなことは考えられます。
夏の朝は、
その時が過ぎつつあった、
あの時は過ぎつつあった、と、
いまや遠い日となった、
青い瞳の
喪失が歌われ……
冬の朝は、
それから日が経ち
飛行場で
消え去ってゆく飛行機を見送る
寒い朝の
作り笑顔のむなしさが歌われ……
飛行機に残つたのは僕、
バットの空箱(から)を蹴つてみる
と、孤独な僕が
ゴールデンバットの空箱を蹴ってみせるシーンで
締めくくります。
この、オチが利いています。
まことに
中也にはゴールデンバットが似合います。
*
青い瞳
1 夏の朝
かなしい心に夜が明けた、
うれしい心に夜が明けた、
いいや、これはどうしたといふのだ?
さてもかなしい夜の明けだ!
青い瞳は動かなかつた、
世界はまだみな眠つてゐた、
さうして『その時』は過ぎつつあつた、
あゝ、遐(とほ)い遐いい話。
青い瞳は動かなかつた、
――いまは動いてゐるかもしれない……
青い瞳は動かなかつた、
いたいたしくて美しかつた!
私はいまは此処(ここ)にゐる、黄色い灯影に。
あれからどうなつたのかしらない……
あゝ、『あの時』はあゝして過ぎつゝあつた!
碧(あを)い、噴き出す蒸気のやうに。
2 冬の朝
それからそれがどうなつたのか……
それは僕には分らなかつた
とにかく朝霧罩(こ)めた飛行場から
機影はもう永遠に消え去つてゐた。
あとには残酷な砂礫(されき)だの、雑草だの
頬を裂(き)るやうな寒さが残つた。
――こんな残酷な空寞(くうばく)たる朝にも猶(なほ)
人は人に笑顔を以て対さねばならないとは
なんとも情ないことに思はれるのだつたが
それなのに其処(そこ)でもまた
笑ひを沢山|湛(たた)へた者ほど
優越を感じてゐるのであつた。
陽は霧に光り、草葉の霜は解け、
遠くの民家に鶏(とり)は鳴いたが、
霧も光も霜も鶏も
みんな人々の心には沁(し)まず、
人々は家に帰つて食卓についた。
(飛行機に残つたのは僕、
バットの空箱(から)を蹴つてみる)
*バット ゴールデンバット。1906年から発売された国産煙草の銘柄。
(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)
*原文のルビは、( )内に表記しました。
« 中原中也と小林秀雄/大岡昇平の友情論 | トップページ | 三歳の記憶/回虫の歌 »
「0001はじめての中原中也」カテゴリの記事
- <再読>時こそ今は……/彼女の時の時(2011.06.13)
- <再読>生ひ立ちの歌/雪で綴るマイ・ヒストリー(2011.06.12)
- <再読>雪の宵/ひとり酒(2011.06.11)
- <再読>修羅街輓歌/あばよ!外面(そとづら)だけの君たち(2011.06.10)
- <再読> 秋/黄色い蝶の行方(2011.06.09)
コメント