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2008年10月 3日 (金)

むなしさ/血を吐くような胡弓の音色

詩集「在りし日の歌」の「秋の歌」は
以上のほかにも見つかるかもしれませんが
ここでも深追いはしません。

 

中也の文学的な出発が
短歌にあったことは
よく知られたことだから、
ひょっとして、詩の制作においても
季節感の演出のようなものがあり
それは、短歌制作で得た
一つの詩法であるかもしれない
などと、ふと思うだけに止めます。

 

さて、冒頭の「含羞」の次の
「むなしさ」へと進んでいきます。

 

この作品は
大正15年(1926年)の作とされ
「在りし日の歌」の集中で最も古いものであるという点に
注目されますし、
1935年(昭和10年)3月に「四季」に掲載された点でも
注目されるものです。

 

「後記」にある「最も古いのでは大正14年のもの」が
どの作品をさすのか不明ですが
「月」大正14、15年
「春」大正14年
「夏の夜」大正14年
などとともに「最も古い」作品には違いありません。

 

これを詩人は
詩集2番目にレイアウトしました。

 

1番目の「含羞」と
制作年が10年以上も隔たっているにもかかわらず
詩法には類似するものがあって
詩人はここ2番目に置いたと考えられます。

 

文語詩であり、
フランス象徴詩の作風を取り入れ、
五七調ソネットであり、
定型の中に破調をはさみ、
七七、七五、字余りを混入し……
ダダイズムからの脱皮を
図ろうとしていたこのころ。

 

大正15年は、
中也19歳です。
大正14年には
長谷川泰子と連れ立って
東京の生活をはじめました。

 

第1連から
ショッキングな展開で
戯女(たわれめ)とは遊女のことか
江戸なら夜鷹か
現代なら、ストリートガールか
コールガールか

 

年末の巷を臘祭(らふさい)の夜に擬して、
その巷に堕ちた女に私を見立て
心臓はよじれ
乳房あらわな
寄る辺のない私が
先祖霊への生贄にでもなるイメージが
歌われる

 

幻想的というべきか
荘厳というべきか

 

せつなくて、泣くこともできず
暗闇を孕んでいる
遠い空では、電線がうなり
海峡の岸では、冬の朝風

 

白バラの
造花のような花びらは
凍りついて、生きているようではない
明けき日とは、年が明けての意味か
元日に集う乙女らは
みな、私の古い友達

 

ひん曲がった菱形(偏菱形)のような
胡弓の音色が
やむことなく聞こえている

 

戯女は悲しみではなく
戯女はむなしい

 

難解ですが
血を吐くような
胡弓の音が
耳をつんざいてくる感じが
わかるようです

 

 *
 むなしさ

 

臘祭(らふさい)の夜の 巷(ちまた)に堕(お)ちて
 心臓はも 条網に絡(から)み
脂(あぶら)ぎる 胸乳(むなち)も露(あら)は
 よすがなき われは戯女(たはれめ)

 

せつなきに 泣きも得せずて
 この日頃 闇を孕(はら)めり
遐(とほ)き空 線条に鳴る
 海峡岸 冬の暁風

 

白薔薇(しろばら)の 造化の花瓣(くわべん)
 凍(い)てつきて 心もあらず
明けき日の 乙女の集(つど)ひ
 それらみな ふるのわが友

 

偏菱形(へんりようけい)=聚接面(しゆうせつめん)そも
 胡弓の音 つづきてきこゆ

 

*臘祭 一二月に行われる祭。もとは古代中国の風俗で、猟の獲物を先祖の霊にささげる行事。
(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)

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