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2008年10月18日 (土)

中原中也と小林秀雄/大岡昇平の友情論

20080713_015

 

 

 

NHKの番組から離れて
もう少し、長谷川泰子事件について、
見ておきます。
参照するのは、当然、大岡昇平です。

 

大岡昇平は、
中也「我が生活」の、

 

友に裏切られたことは、見も知らぬ男に裏切られたより悲しい――というふのは誰でも分る。しかし、立去った女が自分の知ってる男の所にゐる方が、知らぬ所に行ったといふことよりよかつたと思ふ感情が、私にはあるのだつた。それを私は告白します。それは、私が卑怯だからだろうか? 

 

さうかも知れない。しかし私には人が憎みきれない底の、かの単なる多血質の人間の嗤ふに足る或る心の力――十分勇気を持つてゐて、而も馬鹿者か軟弱だと見誤る所のもの、かのレアリテがあるものでないと、誰が証言し得よう?

 

が、そんなことなど棄てて置いて、とも角も、私は口惜しかつた!

 

というくだりに、注目します。

 

中原中也が、
人を憎み切れない
多血質の人間が笑って軽蔑する心、
つまり、勇気があって、バカとか軟弱とかと、間違われる……
レアリテのある
などと、自身の性格を分析している部分を、
立ち直りととらえるのです。

 

そして、続けます。

 

しかし「口惜しき人」だけは、この断片が書かれた昭和3年には、既に消滅していたと私は思う。書き継がれなかったのは、実際それがなかったからである。(略) 

 

小林と中原の文通は大正15年11月に再開される。恐らく富永太郎の1周忌が機縁であったろう。そして中原の手紙には、まるで昨日別れた人に対するような、親愛の情が見られるのである。

 

中原が小林に「朝の歌」を見せるのは、この年のうちである。

 

立ち直りの例証として
1、「口惜しき人」という語句が、以後、現れないこと。
2、小林秀雄との文通が、事件の1年後には、再開されていること。
3、「朝の歌」が書かれ、小林秀雄に見せられていること。
の、3点があげられています。

 

大岡昇平は、
長谷川泰子の出奔によって
中也の受けた傷が深く、
晩年になっても、この傷を弄ぶ詩人の心境を
他のところでは記すのですが、
ここ、「友情」では、
詩人の立ち直りは
意外に早かったことを指摘するのです。

 

なによりも、それは、
「朝の歌」の誕生によって証明された、
という評伝へと
展開されていくことになります。

 

詩人とか文学者の
実人生というよりも
作品という地平において、
中原中也と小林秀雄は、
詩と散文というジャンルの違いはあるものの、
認め合う部分があった、
という解釈でしょうか。

 

二人の文学者の亀裂は、
終生消えなかったかもしれませんが、
中也は、小林秀雄以外に、
第2詩集「在りし日の歌」を託すほかにはなく、
小林秀雄は、その出版に力を注ぎました。

 

「朝の歌」を
載せておきます。

 

 *

 

 朝の歌

 

天井に 朱(あか)きいろいで
  戸の隙を 洩れ入る光、
鄙(ひな)びたる 軍楽の憶(おも)ひ
  手にてなす なにごともなし。

 

小鳥らの うたはきこえず
  空は今日 はなだ色らし、
倦(う)んじてし 人のこころを
  諫(いさ)めする なにものもなし。

 

樹脂(じゆし)の香に 朝は悩まし
  うしなひし さまざまのゆめ、
森竝は 風に鳴るかな

 

ひろごりて たひらかの空、
  土手づたひ きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

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