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2008年11月21日 (金)

タイトルに「夏」がある詩について<10>

詩集「在りし日の歌」を
一つひとつ読む作業が
先に進みませんが、
寄り道こそが人生さ、とばかり、
もう少し、「夏」の歌に、立ち止まります。

「初夏の夜に」は、
昭和12年(1937年)、つまり
中也が亡くなる年のことですが、
この年の5月14日に作られました。
詩の末尾に、(一九三七・五・一四)と
記されています。

オヤ、蚊が鳴いてる、もう夏か——

と、はじまる、あれです。

死んだ子供等は、彼の世(あのよ)の磧(かはら)から、此の世の僕等を看守つてるんだ
彼の世の磧は何時でも初夏の夜、どうしても僕はさう想へるんだ。

と、続けられる、あれです。

死んだ子どもたちは、みんな、
あの世の河原で、
この世の僕たちを見守ってくれているんだ、
初夏の夜になると、
いつも、そういう思いに満たされ、
僕は、確信する……。

哀切です……。
長男文也を、前年11月に亡くしている詩人です。
詩人は、ショックから
立ち直ろうとしています。

一度読んだら、もう、忘れられない、
記憶の中のどこかに残っている
なんだか、生々しく、懐かしくもある詩ですよね。

この作品の作られた同じ日、
「在りし日の歌」の最後に置かれている
「蛙声」が作られました。
「蛙声」も、文也の死を悼んだ作品
と解することが可能です。

梅雨に入る前の5月。
蛙(カエル)と蚊(カ)……。

文也の死を歌った詩は
他にも、いくつか作られましたが、
ここに、二つの詩を
載せておきます。

(この稿つづく)

 *
 初夏の夜に

オヤ、蚊が鳴いてる、もう夏か——
死んだ子供等は、彼の世(あのよ)の磧(かはら)から、此の世の僕等を看守つてるんだ
彼の世の磧は何時でも初夏の夜、どうしても僕はさう想へるんだ。
行かうとしたつて、行かれはしないが、あんまり遠くでもなささうぢやないか。
窓の彼方の、笹藪の此方(こちら)の、月のない初夏の宵の、空間……其処に、
死児等は茫然、佇み僕等を見てるが、何にも咎めはしない。
罪のない奴等が、咎めもせぬから、こつちは尚更(なほさら)、辛いこつた。
いつそほんとは、奴等に棒を与へ、なぐつて貰いたいくらゐのもんだ。
それにしてもだ、奴等の中にも、十歳もゐれば、三歳もゐる。
奴等の間にも、競争心が、あるかどうか僕は全然知らぬが、
あるとしたらだ、何れにしてもが、やさしい奴等のことではあつても、
三歳の奴等は、十歳の奴等より、たしかに可哀想と僕は思ふ。
なにさま暗い、あの世の磧の、ことであるから小さい奴等は、
大きい奴等の、腕の下をば、すりぬけてどうにか、遊ぶとは思ふけれど、
それにしてもが、三歳の奴等は、十歳の奴等より、可哀想だ……
——オヤ、蚊が鳴いてる、またもう夏か……

 *
 蛙声

天は地を蓋(おほ)ひ、
そして、地には偶々(たまたま)池がある。
その池で今夜一と夜さ蛙は鳴く……
——あれは、何を鳴いてるのであらう?

その声は、空より来り、
空へと去るのであらう?
天は地を蓋(おほ)ひ、
そして蛙声は水面に走る。

よし此の地方(くに)が湿潤に過ぎるとしても、
疲れたる我等が心のためには、
柱は猶(なほ)、余りに乾いたものと感(おも)はれ、

頭は重く、肩は凝るのだ。
さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、
その声は水面に走つて暗雲に迫る。

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