タイトル中に「夏」がある詩について<8>
タイトルに「夏」の字がある作品が、
「草稿詩篇」(1933-1936)には、
4篇あり、終わりにあるのが、
「夏の夜の博覧会はかなしからずや」です。
これは、1936年12月24日に作られました。
長男文也が死んだのは11月10日でした。
「草稿詩篇」(1937)には、
「夏と悲運」があります。
これは、1937年7月の作で、
詩人の死の直前の作品です。
中也の全詩の中でも、
最終作に数えられるものです。
以上で、
タイトルに「夏」の字がある詩を
一通り見たことになります。
未発表詩篇は、
考証・研究が進んでいて、
制作順に整理されていますから、
これを追うだけで、
詩人を時系列で辿ることが可能です。
「夏」にちなんだ詩を、
ここでは、見てきたわけですが、
それだけでも、
詩人の魂の軌跡を
垣間見ることができたように思えます。
*
夏の夜の博覧会はかなしからずや
1
夏の夜の、博覧会は、哀しからずや
雨ちよつと降りて、やがてもあがりぬ
夏の夜の、博覧会は、哀しからずや
女房買物をなす間、かなしからずや
象の前に僕と坊やとはゐぬ、
二人蹲んで(しやがんで)ゐぬ、かなしからずや、やがて女房きぬ
三人博覧会を出でぬ、かなしからずや
不忍ノ池(しのばずのいけ)の前に立ちぬ、坊や眺めてありぬ
そは坊やの見し、水の中にて最も大なるものなりき、かなしからずや、
髪毛風に吹かれつ
見てありぬ、見てありぬ、かなしからずや
それより手を引きて歩きて
広小路に出でぬ、かなしからずや
広小路にて玩具を買ひぬ、兎の玩具かなしからずや
2
その日博覧会入りしばかりの刻(とき)は
なほ明るく、昼の明(あかり)ありぬ、
われも三人(みたり)飛行機にのりぬ
例の廻旋する飛行機にのりぬ
飛行機の夕空は、紺青(こんじやう)の色なりき
燈光は、貝釦(かひボタン)の色なりき
その時よ、坊や見てありぬ
その時よ、めぐる釦を
その時よ、坊や見てありぬ
その時よ、紺青の空!
(一九三六・一二・二四)
*
夏と悲運
とど、俺としたことが、笑ひ出さずにやゐられない。
思へば小学校の頃からだ。
例へば夏休みも近づかうといふ暑い日に、
唱歌教室で先生が、オルガン弾いてアーエーイー、
すると俺としたことが、笑ひ出さずにやゐられなかつた。
格別、先生の口唇が、鼻腔が可笑しいといふのではない、
起立して、先生の後から歌ふ生徒等が、可笑しいといふのでもない、
それどころか俺は大体、此の世に笑ふべきものが存在(ある)とは思つてもゐなかつた。
それなのに、とど、笑ひ出さずにやゐられない、
すると先生は、俺を廊下に出して立たせるのだ。
俺は風のよく通る廊下で、淋しい思ひをしたもんだ。
俺としてからが、どう解釈のしやうもなかつた。
別に邪魔になる程に、大声で笑つたわけでもなかつたし、
然(しか)し先生がカンカンになつてゐることも事実だつたし、
先生自身何をそんなに怒るのか知つてゐぬことも事実だつたし、
俺としたつて意地やふざけで笑つたわけではなかつたのだ。
俺は廊下に立たされて、何がなし、「運命だ」と思ふのだつた。
大人となつた今日でさへ、さうした悲運はやみはせぬ。
夏の暑い日に、俺は庭先の樹の葉を見、蝉を聞く。
やがて俺は人生が、すつかり自然と游離してゐるやうに感じだす。
すると俺としたことが、もう何もする気も起らない。
格別俺は人生が、どうのかうのと云ふのではない。
理想派でも虚無派でもあるわけではとんとない。
孤高を以て任じてゐるなぞといふのでは尚更(なおさら)ない。
しかし俺としたことが、とど、笑ひ出さずにやゐられない。
どうしてそれがさうなのか、ほんとの話が、俺自身にも分らない。
しかしそれが結果する悲運ときたらだ、いやといふほど味はつてゐる。
(一九三七・七)
(角川文庫ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
(この稿つづく)
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