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2008年11月

2008年11月29日 (土)

長男文也の死をめぐって<6>/春日狂想5

「春日狂想」の最終章である3は、
オクターブが上がった感じで、
もはや、いっさいの沈鬱さが失せます。
明るく、快活な調子で、簡潔に、

 

喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テムポ正しく、握手をしませう。

 

と、呼びかけるのです。
僕に向ける内省ではなく、
皆さんに向かっての呼びかけとなります。

 

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に——

 

どこか、独り芝居の空気がただよう感じに
一種、狂気を嗅ぎ取る人もありますが、
詩人は、ちゃんと、
タイトルを「狂想」としています。
狂気が感じられてもおかしくありませんが、
それは詩人によって
あらかじめ意識されたことです。

 

この詩を歌って10か月も経たない
10月22日に
詩人は亡くなります。

 

(この稿つづく)

 

 *
 春日狂想

 

   1

 

愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。

 

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

 

けれどもそれでも、業(ごふ)(?)が深くて、
なほもながらふことともなつたら、

 

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

 

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

 

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

 

奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない。

 

   2

 

奉仕の気持になりはなつたが、
さて格別の、ことも出来ない。

 

そこで以前(せん)より、本なら熟読。
そこで以前より、人には丁寧。

 

テムポ正しき散歩をなして
麦稈真田(ばくかんさなだ)を敬虔(けいけん)に編み——

 

まるでこれでは、玩具(おもちや)の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

 

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)へば、につこり致し、

 

飴売爺々(あめうりぢぢい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

 

まぶしくなつたら、日蔭に這入(はひ)り、
そこで地面や草木を見直す。

 

苔はまことに、ひんやりいたし、
いはうやうなき、今日の麗日。

 

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

 

    ((まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。))

 

空に昇つて、光つて、消えて——
やあ、今日は、御機嫌いかが。

 

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましよ。

 

勇んで茶店に這入(はひ)りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

 

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、——

 

戸外(そと)はまことに賑やかなこと!
——ではまたそのうち、奥さんによろしく、

 

外国(あつち)に行つたら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

 

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

 

まぶしく、美(は)しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

 

それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

 

   3

 

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テムポ正しく、握手をしませう。

 

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

 

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に——
テムポ正しく、握手をしませう。

 

*麦稈真田 麦わらを、真田紐のように平たく編んだもの。これで麦わら帽を作る。

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」より)
* 原文のルビは、( )内に表記しました。

2008年11月28日 (金)

長男文也の死をめぐって<5>/春日狂想4

「春日狂想」の2の最終6行

 

ああ、馬車も通る電車も通る
人生は、花嫁御寮よ

 

この2行からはじまる6行は、
僕というより、詩人が語る
小説で言えば、地の文に近いものです。
それまで、詩に登場していた僕より、
少し、引いたところで
まことに人生というのは花嫁御寮ですな、
と歌っています。

 

この起伏というか、
詩の流れというか、が
味わいどころです。

 

愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。

 

というはじまりから、
七七調で通し、時に八七をはさんで、
リズミカルに行進してきた詩が、
2の真ん中あたりで

 

まことに人生、一瞬の夢、
   ゴム風船の、美しさかな。

 

と、詩人の思いを表明し、
2の終わりでも、
同じように、詩人の思いを表明します。
人生の2字が、どちらにも入っています。

 

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

 

まぶしく、美(は)しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

 

それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

 

花嫁は、まぶしく、美しく、俯きかげん。
でも、話をさせたら、うんざりかもね
でも、心がぼーっとすることは確実
ああ、人生は花嫁御寮さ。

 

まことに、人生、花嫁御寮。
この行だけがリフレインします。

 

「春日狂想」は、
神経衰弱状態を知った母フクの導きで、
昭和12年、1937年1月9日、
千葉市の中村古峡療養所に入院した詩人が、
療養中途に自らの意志で退院を決行(同2月15日)した後、
鎌倉に引っ越し、それから幾日かして
歌った作品ですが、

 

詩人がよく作るお道化風の軽快さの底に
文也の死からくる悲しみ、
詩人自身の病からくる苦痛……が
沈んでいるような作品になっていることが
感じられます。

 

こうして、
最終コーナーを回り
3へ進んでいきます。

 

(この稿つづく)

 

 *
 春日狂想

 

   1

 

愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。

 

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

 

けれどもそれでも、業(ごふ)(?)が深くて、
なほもながらふことともなつたら、

 

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

 

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

 

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

 

奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない。

 

   2

 

奉仕の気持になりはなつたが、
さて格別の、ことも出来ない。

 

そこで以前(せん)より、本なら熟読。
そこで以前より、人には丁寧。

 

テムポ正しき散歩をなして
麦稈真田(ばくかんさなだ)を敬虔(けいけん)に編み——

 

まるでこれでは、玩具(おもちや)の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

 

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)へば、につこり致し、

 

飴売爺々(あめうりぢぢい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

 

まぶしくなつたら、日蔭に這入(はひ)り、
そこで地面や草木を見直す。

 

苔はまことに、ひんやりいたし、
いはうやうなき、今日の麗日。

 

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

 

    ((まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。))

 

空に昇つて、光つて、消えて——
やあ、今日は、御機嫌いかが。

 

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましよ。

 

勇んで茶店に這入(はひ)りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

 

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、——

 

戸外(そと)はまことに賑やかなこと!
——ではまたそのうち、奥さんによろしく、

 

外国(あつち)に行つたら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

 

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

 

まぶしく、美(は)しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

 

それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

 

   3

 

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テムポ正しく、握手をしませう。

 

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

 

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に——
テムポ正しく、握手をしませう。

 

*麦稈真田 麦わらを、真田紐のように平たく編んだもの。これで麦わら帽を作る。

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」より)
* 原文のルビは、( )内に表記しました。

長男文也の死をめぐって<4>/春日狂想3

麦稈真田は、麦の茎をぺったんこ平らにしたもので、
麦わら帽子やかごなどを作ります。
一本一本を編む、根気のいる作業ですが、
できあがりも、碁盤の目のような四角形の整列模様になり、
なんともつましい、敬虔(けいけん)な営みの
課程であり、結果です。

 

特別に何かに奉仕する活動ができるわけでもない僕は
これまでよりも、少しだけ、努力することからはじめます。
ほかに、どんなことをしたのでしょうか。

 

以前より、本を熟読し
以前より、人に丁寧にし、
テンポよく散歩し、
麦稈真田で帽子を編み、
おもちゃの兵隊のように、
毎日が日曜日のように、
神社の日向をゆったり歩き、
知人に会えばにっこり、
飴売りのじいさんと仲良くなり、
鳩に豆を撒いてやり、
まぶしくなれば日陰に入り、
地面や草木を眺めてみたり、
苔のひんやりしたたたずまいに感じ入り、
佳い日だな、今日はと思い、

 

いはうやうなき、今日の麗日。は、
言おうにも言えない、なんとも麗しい今日。
の意味でしょうか。

 

参詣の人々がぞろぞろいても、
腹が立たない。

 

腹が立たない僕になったのです。

 

まことに人生、一瞬の夢、
ゴム風船の、美しさかな。

 

ここで、転調というか、場面転換。
そして、僕は、ゴム風船になります。
あるいは、ゴム風船は文也の面影かもしれません。
詩人もしくは文也が、
ゴム風船に乗っかって、
空に消えていくかのようですが、
実際、そんなことはなく、消えていくのはゴム風船なのです。
でも、僕が、ゴム風船になって空に消えてゆき、
消えたところで、ぱーっと出てくる感じです。
上手!
やあ、今日は、御機嫌いかが。
と、再び、地上に現れます。

 

すると、途端に、奉仕の人とは別人の僕が、
友だちと久しぶりにばったり会って、
どこかでお茶しましょ、となって、
喫茶店に入って、積もり積もった話をしようとしたけど、
意外に、話すことなどなく、
タバコをクサクサ吹かしながら、
なんとも言いがたい覚悟をするように、
お茶をやめて、外へ出ると、
なんとも賑やかな街が息づいていて、
じゃあね、またそのうち、奥さんにもよろしく、
あっちへ行ったら、便りをください、
お酒はほどほどにしたほうがいいよ、
なんて言って、別れます。

 

ここで、また、転調というか、場面転換というか、
詩人が、顔を出します。
突然のようで、ピタッとはまった2行。

 

ああ、馬車も通る電車も通る
人生は、花嫁御寮よ

 

ああ、と言い、よ、と言うのは、
僕である詩人です。

 

(この稿つづく)

 

 *
 春日狂想

 

   1

 

愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。

 

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

 

けれどもそれでも、業(ごふ)(?)が深くて、
なほもながらふことともなつたら、

 

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

 

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

 

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

 

奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない。

 

   2

 

奉仕の気持になりはなつたが、
さて格別の、ことも出来ない。

 

そこで以前(せん)より、本なら熟読。
そこで以前より、人には丁寧。

 

テムポ正しき散歩をなして
麦稈真田(ばくかんさなだ)を敬虔(けいけん)に編み——

 

まるでこれでは、玩具(おもちや)の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

 

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)へば、につこり致し、

 

飴売爺々(あめうりぢぢい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

 

まぶしくなつたら、日蔭に這入(はひ)り、
そこで地面や草木を見直す。

 

苔はまことに、ひんやりいたし、
いはうやうなき、今日の麗日。

 

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

 

    ((まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。))

 

空に昇つて、光つて、消えて——
やあ、今日は、御機嫌いかが。

 

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましよ。

 

勇んで茶店に這入(はひ)りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

 

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、——

 

戸外(そと)はまことに賑やかなこと!
——ではまたそのうち、奥さんによろしく、

 

外国(あつち)に行つたら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

 

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

 

まぶしく、美(は)しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

 

それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

 

   3

 

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テムポ正しく、握手をしませう。

 

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

 

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に——
テムポ正しく、握手をしませう。

 

*麦稈真田 麦わらを、真田紐のように平たく編んだもの。これで麦わら帽を作る。

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」より)
* 原文のルビは、( )内に表記しました。

2008年11月27日 (木)

長男文也の死をめぐって<3>/春日狂想2

「春日狂想」の1の第3連

 

けれどもそれでも、業(ごふ)(?)が深くて、
なほもながらふことともなつたら、

 

これを、訳せば、
死ななきゃならないけれど
業(ごう)が深いからか、死ねなくて、
生きながらえることにでもなったなら、
となりますが、
この「?」は、
ちょっと気にしておいたほうがよいところです。

 

詩人は、
業が深いから死ねなかったというケースだけではなく、
ほかにも、死ねなかった親があり、
むしろ、我が子が死んだからといって、
そう簡単に、親は死ななきゃならないわけがありませんし、
業というような方面の問題でもないことくらい知っています。

 

これは、自己にだけ向けた詩人の悲しみの表現です。
だから、「?」をつけたのです。

 

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、ならなけあならない。

 

と、終わるための、
前振りの中の
ちょっとしたこだわりとでも言っておきましょうか。

 

2は、白眉といって過言ではない
詩の高まりというようなもの、
この「在りし日の歌」という詩集の、
山にかかっての絶唱とでも言いたくなる

 

いや、なんと言えばよいのか

 

奉仕の気持ちをもっていても
特別に何かをできるわけではない僕は、
これまで通り、普通に暮らし、
麦稈真田を編むような、
規則正しく、テンポ正しい散歩をして……

 

神社を歩き
飴売りのじいさんと話し
鳩に豆をあげ……
何にも腹の立たない
夢のように穏やかな日を送ります、

 

と、以上のような暮らしを、

 

まことに人生、一瞬の夢、
ゴム風船の、美しさかな。

 

と歌いあげます。
ここには、揶揄(やゆ)だとか、
イロニーだとかはありません
人が生きることは
一瞬

ゴム風船のように
美しいばかりです

 

そう、僕は、ゴム風船になります
空に昇つて、光つて、消えて——
そして、語りかけます
やあ、今日は、御機嫌いかが。

 

そして、この詩の「肝」である

 

まことに、人生、花嫁御寮。

 

の1行にたどり着きます。

 

(この稿つづく)

 

 *
 春日狂想

 

   1

 

愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。

 

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

 

けれどもそれでも、業(ごふ)(?)が深くて、
なほもながらふことともなつたら、

 

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

 

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

 

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

 

奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない。

 

   2

 

奉仕の気持になりはなつたが、
さて格別の、ことも出来ない。

 

そこで以前(せん)より、本なら熟読。
そこで以前より、人には丁寧。

 

テムポ正しき散歩をなして
麦稈真田(ばくかんさなだ)を敬虔(けいけん)に編み——

 

まるでこれでは、玩具(おもちや)の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

 

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)へば、につこり致し、

 

飴売爺々(あめうりぢぢい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

 

まぶしくなつたら、日蔭に這入(はひ)り、
そこで地面や草木を見直す。

 

苔はまことに、ひんやりいたし、
いはうやうなき、今日の麗日。

 

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

 

    ((まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。))

 

空に昇つて、光つて、消えて——
やあ、今日は、御機嫌いかが。

 

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましよ。

 

勇んで茶店に這入(はひ)りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

 

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、——

 

戸外(そと)はまことに賑やかなこと!
——ではまたそのうち、奥さんによろしく、

 

外国(あつち)に行つたら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

 

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

 

まぶしく、美(は)しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

 

それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

 

   3

 

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テムポ正しく、握手をしませう。

 

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

 

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に——
テムポ正しく、握手をしませう。

 

*麦稈真田 麦わらを、真田紐のように平たく編んだもの。これで麦わら帽を作る。

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」より)
* 原文のルビは、( )内に表記しました。

2008年11月26日 (水)

長男文也の死をめぐって<2>/春日狂想

「在りし日の歌」の後部3分の1ほどは
「永訣の秋」としてくくられて、
16篇の詩が選ばれています。
詩集全体に、「死」をテーマにしたものが多いのですが、
「永訣の秋」の「死」の密度は、
よりいっそう濃い、と言えそうなほどに、
どの作品にも、「死」がからまっています。

 

その中に、
文也追悼の詩はあります。
考証・研究が終了したわけでもなく、
議論の余地は残されているものの、
「月夜の浜辺」
「また来ん春……」
「月の光 その一」
「月の光 その二」
「冬の長門峡」
「春日狂想」
「蛙声」
の7篇は、直接・間接に、文也の死を悼んだ詩と言えるものです。

 

その一つ、「春日狂想」は
「文学界」昭和12年(1937年)5月号に掲載され、
制作は、同年3月と推定されている作品です。
冒頭の、強烈な詩句に
誰しも、息をのむような、衝撃を受けることでしょう。

 

愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。

 

この、自殺しなけあ、は
現代表記すれば、
自殺しなきゃあ、となりますが、
自殺せねばならないMust kill myselfの意味を含みながら、
死ななきゃあね、といったお道化調も感じられます。
中也の時代の国語表記が
なおさら、強烈さを倍加している感じになっています。

 

文也の死(昭和11年11月10日)から4か月が経ち、
多少なりとも、詩人の悲しみは緩和されたなどとは、
到底、誰も言えませんし、
むしろ、いやましに深まっていた悲しみかもしれません。

 

ということの言える以上は
3章に分けられた詩の1です。

 

死ななきゃならないけれど
業(ごう)が深いからか、死ねなくて、
生きながらえることにでもなったなら、

 

奉仕の気持に、なることなんです。

 

奉仕の気持に、ならなけあならない。

 

と、終わります。

 

(この稿つづく)

 

 *
 春日狂想

 

   1

 

愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。

 

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

 

けれどもそれでも、業(ごふ)(?)が深くて、
なほもながらふことともなつたら、

 

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

 

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

 

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

 

奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない。

 

   2

 

奉仕の気持になりはなつたが、
さて格別の、ことも出来ない。

 

そこで以前(せん)より、本なら熟読。
そこで以前より、人には丁寧。

 

テムポ正しき散歩をなして
麦稈真田(ばくかんさなだ)を敬虔(けいけん)に編み——

 

まるでこれでは、玩具(おもちや)の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

 

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)へば、につこり致し、

 

飴売爺々(あめうりぢぢい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

 

まぶしくなつたら、日蔭に這入(はひ)り、
そこで地面や草木を見直す。

 

苔はまことに、ひんやりいたし、
いはうやうなき、今日の麗日。

 

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

 

    ((まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。))

 

空に昇つて、光つて、消えて——
やあ、今日は、御機嫌いかが。

 

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましよ。

 

勇んで茶店に這入(はひ)りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

 

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、——

 

戸外(そと)はまことに賑やかなこと!
——ではまたそのうち、奥さんによろしく、

 

外国(あつち)に行つたら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

 

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

 

まぶしく、美(は)しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

 

それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

 

   3

 

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テムポ正しく、握手をしませう。

 

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

 

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に——
テムポ正しく、握手をしませう。

 

*麦稈真田 麦わらを、真田紐のように平たく編んだもの。これで麦わら帽を作る。

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」より)
* 原文のルビは、( )内に表記しました。

長男文也の死をめぐって<1>/また来ん春

中原中也が、長男文也の死を悼んで
歌った詩はいくつかありますが、
詩集「在りし日の歌」に、
その大半が取り上げられています。
(大半であるということは、残りの大半が存在するということでもありまして、その残りとは、未発表詩篇にあります。)

 

「在りし日の歌」は、
「亡き児文也の霊に捧ぐ」と、
副題を付せられているように、
詩集の、大きな目的みたいなものでしたから、
集中に文也追悼の詩がたくさんあって当然です。

 

色々な追悼詩があるのですが、
「また来ん春……」は、中でも、
文也その子が詩の中に実際に登場する作品だからか、
印象深く、人口に膾炙(かいしゃ)している作品です。

 

この詩は、
「文学界」の昭和12年(1937年)2月号に発表されたことから、
昭和11年(1936年)11月中旬から12月中旬に制作された
と、推定されています。
文也の死(昭和11年11月10日)から
「文学界」の原稿締切日の間に
作られたということがわかるわけです。

 

象を見せても猫(にやあ)といひ
鳥を見せても猫(にやあ)だつた
というフレーズは、
世の親ならば、我が子の子育てで
きっと同じような経験があるはずで、
そのことを思い出しつつ、
その子が死んでしまって、
もう、この世にはいない、という詩なのだ、
と、あらためて、詩に向かうと、
作者詩人の悲しみに触る思いになることでしょう。

 

我が子を失うことは、
そう多くの人が経験することではありませんが、
だれにも通じる、
普遍性のようなことがらを感じる詩です。

 

最後に見せた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた

 

おさなごが、世界(鹿)を知って、驚いて、
食らいつくように凝視している
その眼差しは、いま、この世にないのです。

 

「来ん」は、「こん」と読みます。
カ行変格活用「こ・き・く・くる・くれ・こよ」の
未然形「こ」に
推量の助動詞「む」が
「ん」に変じて連なったものです。

 

 

 

 

 

 

 

 *
 また来ん春……

 

また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るぢやない

 

おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫(にやあ)といひ
鳥を見せても猫(にやあ)だつた

 

最後に見せた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた

 

ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが……

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」より)
* 原文のルビは、( )内に表記しました。

2008年11月24日 (月)

冬の長門峡/永遠の一瞬

長男文也が死んだ
1936年11月10日から数えて
「49日」近くの時間が経過した
12月24日に、
中原中也は、追悼詩「夏の夜の博覧会はかなしからずや」を書き、
続けて、「冬の長門峡」を書きます。

 

この間、
12月12日の日記には、
「文也の一生」が書かれています。
追悼詩としては、年内12月24日作の、
「夏の夜の博覧会はかなしからずや」は、
「また来ん春……」に次いで
早いものと推定されています。

 

* 「また来ん春……」「月の光 その一」「月の光 その二」「月夜の浜辺」「暗い公園」などの作品が、文也の追悼詩であるかどうかの議論の対象になっていますが、追悼詩としてはっきりしているのは「また来ん春……」だけです。
結論は出ていない模様です。制作日の記載がない作品は、推定するしか、方法がないのです。
* 中でも、1936年11月17日の日付のある「暗い公園」という作品が、注目されます。この作品は、「夏の夜の博覧会はかなしからずや」よりも前に作られていて、その内容は、文也の死と関係のなさそうなものですが、無関係とも断定もできないものです。

 

「夏の夜の博覧会はかなしからずや」は、
1936年12月24日、
クリスマス・イブの日に作られたものですから、
文也を溺愛した詩人が、この日、
つい最近のように記憶している
博覧会での乗り物遊びのことを思い出しているさまが
髣髴(ほうふつ)としてくる内容になっています。

 

孝子夫人も、
われも三人(みたり)飛行機にのりぬ
例の廻旋する飛行機にのりぬ
と、めずらしく、詩に登場します。

 

さて、この詩を書き終えて、
同じ日、12月24日に、
詩人が続けて書いたのが
「冬の長門峡」でした。

 

「夏の夜の博覧会はかなしからずや」とは、
色々な面で異なる作品です。

 

1連が2行で、計6連12行の
簡潔な詩です。
簡潔ゆえに、
繰り返し読んでいると
深い味わいが出てくる、といった詩です。
寒い寒い日なりき。
というリフレインも利いています。

 

ここでは、文也の死は
直接に歌われてはいません。
歌われていないかもしれません。
しかし、
同じ日に歌われたという状況を知ると、

 

たとえば、
水は、恰(あたか)も魂あるものの如く、
流れ流れてありにけり。
の、「魂」に文也がかぶさります。
かぶさっても、おかしくはありません。

 

たとえ、
文也追悼詩として読まなくても、
詩人の境涯を少しでも知る読者は
この詩が、
単に長門峡の自然美を称揚したものでないことぐらい
理解するはずです。

 

一人酒、
せせらぎ、
寒い寒い日……
ほかに客のいない旅館、
……
そこへ
思いがけず、現れた
あったかい、あったかい
蜜柑色オレンジ色の夕日
寒い寒い1日の
一瞬ながら、
欄干にこぼれ落ち、
みなぎる陽の光。

 

永遠の一瞬……。
ですが、

 

ああ! ――そのやうな時もありき、
寒い寒い 日なりき。

 

と、もはや、そこにはいない詩人です。
12月24日に、
長門峡の、その日没を歌うのです。

 

 

 

 *
 冬の長門峡

 

長門峡に、水は流れてありにけり。
寒い寒い日なりき。

 

われは料亭にありぬ。
酒酌(く)みてありぬ。

 

われのほか別に、
客とてもなかりけり。

 

水は、恰(あたか)も魂あるものの如く、
流れ流れてありにけり。

 

やがても密柑(みかん)の如き夕陽、
欄干(らんかん)にこぼれたり。

 

ああ! ――そのやうな時もありき、
寒い寒い 日なりき。

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」より)
* 原文のルビは、( )内に表記しました。

タイトルに「夏」のある詩について<14>

タイトルに「夏」の字がある作品で、
長男文也が死んだ
1936年11月10日以降の作品は、
二つあります。

1936年12月24日、クリスマス・イブの日に作られた
「夏の夜の博覧会はかなしからずや」と、
1937年7月の作の「夏と悲運」です。

「夏の夜の博覧会はかなしからずや」は、
文也の死の直後というより、
「49日」近くの時間が経過し、
ようやく、悲しみを「客体化」できるようになった詩人の
そうであるが故の、
深い悲しみの表れた作品です。

「夏と悲運」は、「千葉療養日誌」以後の
詩人自らの死の3か月前に作られました。
文也の死を含めての
詩人が辿ってきた境涯の悲運について歌われますが
ここでも、冷静を保とうとしている口ぶりに、
かえって、胸が塞(ふさ)がる思いがします。

二つの作品を、
繰り返し読み、同時に読んでみると、
詩人自ら「悲しみ呆け」と言った
二重三重の悲しみの中に
入り込むような感覚になります。

 *
 夏の夜の博覧会はかなしからずや
     1
夏の夜の、博覧会は、哀しからずや
雨ちよつと降りて、やがてもあがりぬ
夏の夜の、博覧会は、哀しからずや

女房買物をなす間、かなしからずや
象の前に僕と坊やとはゐぬ、
二人蹲んで(しやがんで)ゐぬ、かなしからずや、やがて女房きぬ

三人博覧会を出でぬ、かなしからずや
不忍ノ池(しのばずのいけ)の前に立ちぬ、坊や眺めてありぬ

そは坊やの見し、水の中にて最も大なるものなりき、かなしからずや、
髪毛風に吹かれつ
見てありぬ、見てありぬ、かなしからずや
それより手を引きて歩きて
広小路に出でぬ、かなしからずや

広小路にて玩具を買ひぬ、兎の玩具かなしからずや

     2
その日博覧会入りしばかりの刻(とき)は
なほ明るく、昼の明(あかり)ありぬ、

われも三人(みたり)飛行機にのりぬ
例の廻旋する飛行機にのりぬ

飛行機の夕空にめぐれば、
四囲の燈光また夕空にめぐりぬ
      
夕空はは、紺青(こんじやう)の色なりき
燈光は、貝釦(かひボタン)の色なりき
      
その時よ、坊や見てありぬ
その時よ、めぐる釦を
その時よ、坊や見てありぬ

   (一九三六・一二・二四)

 *
 夏と悲運

とど、俺としたことが、笑ひ出さずにやゐられない。

思へば小学校の頃からだ。
例へば夏休みも近づかうといふ暑い日に、
唱歌教室で先生が、オルガン弾いてアーエーイー、
すると俺としたことが、笑ひ出さずにやゐられなかつた。
格別、先生の口唇が、鼻腔が可笑しいといふのではない、
起立して、先生の後から歌ふ生徒等が、可笑しいといふのでもない、
それどころか俺は大体、此の世に笑ふべきものが存在(ある)とは思つてもゐなかつた。
それなのに、とど、笑ひ出さずにやゐられない、
すると先生は、俺を廊下に出して立たせるのだ。
俺は風のよく通る廊下で、淋しい思ひをしたもんだ。
俺としてからが、どう解釈のしやうもなかつた。
別に邪魔になる程に、大声で笑つたわけでもなかつたし、
然(しか)し先生がカンカンになつてゐることも事実だつたし、
先生自身何をそんなに怒るのか知つてゐぬことも事実だつたし、
俺としたつて意地やふざけで笑つたわけではなかつたのだ。
俺は廊下に立たされて、何がなし、「運命だ」と思ふのだつた。

大人となつた今日でさへ、さうした悲運はやみはせぬ。
夏の暑い日に、俺は庭先の樹の葉を見、蝉を聞く。
やがて俺は人生が、すつかり自然と游離してゐるやうに感じだす。
すると俺としたことが、もう何もする気も起らない。
格別俺は人生が、どうのかうのと云ふのではない。
理想派でも虚無派でもあるわけではとんとない。
孤高を以て任じてゐるなぞといふのでは尚更(なおさら)ない。
しかし俺としたことが、とど、笑ひ出さずにやゐられない。

どうしてそれがさうなのか、ほんとの話が、俺自身にも分らない。
しかしそれが結果する悲運ときたらだ、いやといふほど味はつてゐる。
                      (一九三七・七)

(角川文庫ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

(この稿つづく)

番組情報

2008/12/02 10:05~10:30 NHK総合

知るを楽しむ選 私のこだわり人物伝 -中原中也 口惜(くや)しき人-(1)
▽30年の短い生涯でわずか2冊の詩集しか残していないにも関わらず、今なお根強い人気を持つ詩人・中原中也。作家・町田康さんがその足跡を訪ね、詩の魅力を見つめ直す。
第1回「落ちつけない故郷」【コメンテーター】作家…町田康,【朗読】伊藤淳史,【語り】福島泰樹
出演 【コメンテーター】作家…町田康,【朗読】伊藤淳史,【語り】福島泰樹

2008/12/03 10:05~10:30 NHK総合

知るを楽しむ選 私のこだわり人物伝 -中原中也 口惜(くや)しき人-(2)
▽詩人・中原中也の足跡を作家・町田康さんが訪ね、詩の魅力を見つめ直すシリーズ。第2回は、17歳の時に同棲した3歳年上の恋人、長谷川泰子との出会いと別れについて。

2008/12/04 10:05~10:30 NHK総合

知るを楽しむ選 私のこだわり人物伝 -中原中也 口惜(くや)しき人-(3)
詩人・中原中也の作品には題名に友人の名前を冠したものが多い。そこにどんな思いを込めたのか。第3回は、詩に全てを献げた中也の青春時代を作家・町田康さんが読み解く。

2008/12/05 10:05~10:30 NHK総合

知るを楽しむ選 私のこだわり人物伝-中原中也 口惜(くや)しき人- (4)
▽詩人・中原中也の足跡を作家・町田康さんが訪ね、詩の魅力を見つめ直すシリーズ。第4回は、愛児の文也を失った悲しみのため、心の均衡を崩した中也の晩年に光を当てる。

タイトルに「夏」のある詩について<13>

安原喜弘宛の手紙の幾つかの中に
中原中也が帰省中の山口から出したものがあり、
その中の幾つかに
「甲子園を聞いた」ことが散見されます。

昭和7年 手紙47 8月16日(はがき) 山口市湯田
(略)毎日甲子園聞いてゐます、退屈です。上京したく、茂つぽにもあひたいですが、二十二三日迄は立てないやうです(略)

昭和9年 手紙77 8月25日(封書) 山口市湯田
御手紙有難うございました 御変りもなくて何よりです 僕はブラブラと暮らしてゐます 甲子園がある間は毎日聞いてゐました(略)

と、いったふうに。

「夏の夜に覚めてみた夢」は
夏の夜の寝入りばなに、
野球の試合の夢を見たことを歌った作品で、
詩集「在りし日の歌」の26番目にあります。

「四季」昭和10年(1935年)10月号に発表され、
同年8月ごろに制作されたと推定されています。
(吉田凞生編、学燈社「中原中也必携」より)
中也は28歳です。
詩人生活の安定期です。
同人誌、雑誌などからの注文が
多く来ましたし、
それに応じています。

甲子園野球のほかに
昭和10年当時、どんな野球が見られたのか、
プロ野球や、早慶戦など大学野球とか
都市対抗野球などもあったのか、
中也は、それらを、東京在住の期間に観戦することがあったのか、
わかりませんが、
甲子園野球を、ラジオで聞いていたことだけは確実なのです。

ラジオから聞こえる実況中継の音声だけを通じて、
この詩は作られたのだろうか

第2連
狡(ずる)さうなピッチャは相も変らず
お調子者のセカンドは
相も変らぬお調子ぶりの

など、
まるで、テレビで見たような
あるいは、映画館のニュースフィルムで見たような
リアルなイメージ
また、全体を通じても
白黒の画面の中の
白ユニホームの動きが
手に取るようにくっきり、
妙に鮮烈なのは
どこからやってくるのでしょうか。

そんなことを考えながら読むだけでも
面白い作品です。


 夏の夜に覚めてみた夢

眠らうとして目をば閉ぢると
真ッ暗なグランドの上に
その日昼みた野球のナインの
ユニホームばかりほのかに白く――

ナインは各々守備位置にあり
狡(ずる)さうなピッチャは相も変らず
お調子者のセカンドは
相も変らぬお調子ぶりの

扨(さて)、待つてゐるヒットは出なく
やれやれと思つてゐると
ナインも打者も悉(ことごと)く消え
人ッ子一人ゐはしないグランドは

忽(たちま)ち暑い真昼(ひる)のグランド
グランド繞(めぐ)るポプラ竝木(なみき)は
蒼々として葉をひるがへし
ひときはつづく蝉しぐれ
やれやれと思つてゐるうち……眠(ね)た

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」より)
* 原文のルビは、( )内に表記しました。

2008年11月23日 (日)

タイトルに「夏」のある詩について<12>

詩集「在りし日の歌」の29番目に
「初夏の夜」はあります。
29番目は、「蛙声」が58番目で最後ですから、
丁度、真ん中に置かれた詩ということになります。

「文学界」の昭和10年(1935年)8月号に発表され、
制作は、同年6月6日であることがわかっています。
(吉田凞生編、学燈社「中原中也必携」より)

この日付の前後に詩人は、
東京に出てから何回目かになる
引越しをしていますから、
その状況が、詩に反映されているのかもしれません。
しかし、そんな状況を知らなくても、
作品は十分に味わうことが可能です。

回想されては、すべてがかなしい

第7行の、この1行に
この詩は、向かい、
周りを回り、ぐるっと回って、
また、戻ってくる、
そういう形の詩です。
散文詩といっていいかもしれません。

冒頭の1~3行
また今年(こんねん)も夏が来て、
夜は、蒸気で出来た白熊が、
沼をわたつてやつてくる。

この中の
蒸気で出来た白熊、とは
回想の中身のことです。
色々、思い出されて、かなしいのですが、
その色々の中身のことを、
蒸気で出来た白熊、と表現したのです。
なんと、シュールな表現でしょう!

終わりのほうで、
遠いい物音、とあるのも、
回想の中身を、聴覚的に表したものでしょう

それら、色々な回想が、
6月、初夏の夜の、
心地よい風に乗って運ばれてくるのではありますが、
なんだか悲しいのは
今、行ったばかりの列車の轟音が
消えていって、鉄橋の向うの、上の空が
うっすら青黒く、あまりに美しい色合いだからです……。

 *
 初夏の夜

また今年(こんねん)も夏が来て、
夜は、蒸気で出来た白熊が、
沼をわたつてやつてくる。
――色々のことがあつたんです。
色々のことをして来たものです。
嬉しいことも、あつたのですが、
回想されては、すべてがかなしい
鉄製の、軋音(あつおん)さながら
なべては夕暮迫るけはひに
幼年も、老年も、青年も壮年も、
共々に余りに可憐な声をばあげて、
薄暮の中で舞ふ蛾の下で
はかなくも可憐な顎(あご)をしてゐるのです。
されば今夜(こんや)六月の良夜(あたらよ)なりとはいへ、
遠いい物音が、心地よく風に送られて来るとはいへ、
なにがなし悲しい思ひであるのは、
消えたばかしの鉄橋の響音、
大河(おおかは)の、その鉄橋の上方に、空はぼんやりと石盤色であるのです。

*良夜 可惜夜(あたらよ)。朝が来るのが惜しく思われるほど美しい夜。 
*石盤色 青みがかった黒色。石盤は、石を薄い板に加工したもので、蝋石などで筆記する道具。
(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」より)
* 原文のルビは、( )内に表記しました

タイトルに「夏」のある詩について<11>

1937年5月14日に作られた二つの詩
「蛙声」と「初夏の夜に」。
「初夏の夜に」は、生前発表作品ですが、
「蛙声」は、「在りし日の歌」の掉尾(とうび)を飾っています。

「在りし日の歌」には、
「後記」が最も最後に置かれていますが、
詩作品としては「蛙声」が最後尾にあるのです。

第一詩集「山羊の歌」の
掉尾を飾る作品「いのちの声」に
詩人が与えたのと同じような役割が、
ここにも託されていることが
想像に難くはありません。

ですから、蛙(かえる)には、
詩人が擬(ぎ)せられている、と
解するのが、この詩を、
素直に鑑賞したということになるでしょう。

天蓋(てんがい)という言葉があります。
仏像などの頭上に懸垂された蓋を指し、
転じて、貴人の頭上を守る傘の意味のある仏教の言葉です。
中也は、その言葉を
連想させようとしているのか、わかりませんが、

また、抜山蓋世という四字熟語があります、
「史記」の、楚の項羽が漢の劉邦に包囲される中で、
虞美人と最後の酒を交わした時に歌った詩で有名ですが、
これを中也は念頭に入れているのか、わかりませんが、

天は地を蓋(おお)い、
その地には、たまたま池があり、
その池で今夜も蛙が鳴いている
あれは、何を鳴いている、
何を歌っているのだろう、と
蛙の歌の中身へと読者を誘い……
蛙すなわち詩人を登場させるのです。

ですから、第3連の、
よし此の地方(くに)が湿潤に過ぎるとしても、
疲れたる我等が心のためには、
柱は猶(なほ)、余りに乾いたものと感(おも)はれ、

この3行を、
中也詩の社会性……。
ほとんど省みられることのない社会的関心、
社会の動きへの眼差し……、
といったものへの表明であることを見失い、
だれも気づこうとしません。

「それにしても私は憎む
対外意識にだけ生きる人々を。」
(「修羅街挽歌」)などにより
中原中也という詩人は
いつのまにか、
政治嫌いのレッテルを貼られたまま定着し、
ああ、また、政治批判がはじまった、などと
この3行を、読みもしないで、
早合点する傾向が支配的です

詩人自身、
頭は重く、肩は凝るのだ。
と、相変わらず、真意を韜晦(とうかい)し、
政治的関心なんぞ、てんでありません、と
言っている振りをしていますから
読者はますます、真意から遠ざかります

これは目くらましです。
この目くらましに気づかねばなりません。

逆に言えば、
第3連のこの3行は、
中也の政治への発言、
と言ってもよいほどの詩句
と解するのが妥当です。

にもかかわらず、
「蛙声」全体には、
文也の死を悼む響きがにじみます。
そのようにも捉えることのできる
ダブル・ミーニング、トリプル・ミーニング。
そこに、この詩の卓抜さはあります。

「いのちの声」の有名なフレーズ、
ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於いて文句はないのだ。
の、そのものズバリ、モロ直球とは
異なった詩境がここに開かれました。
その卓抜さです。

最終連冒頭行の、
頭は重く、肩は凝るのだ。
は、実際、詩人を襲っていた
神経の病と繋がっているようで
作品の中の韜晦とは別次元の
リアルなものだったのかもしれないことを
付け加えておきます。

(この稿つづく)
 *
 蛙声
天は地を蓋(おほ)ひ、
そして、地には偶々(たまたま)池がある。
その池で今夜一と夜さ蛙は鳴く……
——あれは、何を鳴いてるのであらう?
その声は、空より来り、
空へと去るのであらう?
天は地を蓋(おほ)ひ、
そして蛙声は水面に走る。
よし此の地方(くに)が湿潤に過ぎるとしても、
疲れたる我等が心のためには、
柱は猶(なほ)、余りに乾いたものと感(おも)はれ、
頭は重く、肩は凝るのだ。
さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、
その声は水面に走つて暗雲に迫る。

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」より)
 *原文のルビは、( )内に表記しました。

2008年11月21日 (金)

タイトルに「夏」がある詩について<10>

詩集「在りし日の歌」を
一つひとつ読む作業が
先に進みませんが、
寄り道こそが人生さ、とばかり、
もう少し、「夏」の歌に、立ち止まります。

「初夏の夜に」は、
昭和12年(1937年)、つまり
中也が亡くなる年のことですが、
この年の5月14日に作られました。
詩の末尾に、(一九三七・五・一四)と
記されています。

オヤ、蚊が鳴いてる、もう夏か——

と、はじまる、あれです。

死んだ子供等は、彼の世(あのよ)の磧(かはら)から、此の世の僕等を看守つてるんだ
彼の世の磧は何時でも初夏の夜、どうしても僕はさう想へるんだ。

と、続けられる、あれです。

死んだ子どもたちは、みんな、
あの世の河原で、
この世の僕たちを見守ってくれているんだ、
初夏の夜になると、
いつも、そういう思いに満たされ、
僕は、確信する……。

哀切です……。
長男文也を、前年11月に亡くしている詩人です。
詩人は、ショックから
立ち直ろうとしています。

一度読んだら、もう、忘れられない、
記憶の中のどこかに残っている
なんだか、生々しく、懐かしくもある詩ですよね。

この作品の作られた同じ日、
「在りし日の歌」の最後に置かれている
「蛙声」が作られました。
「蛙声」も、文也の死を悼んだ作品
と解することが可能です。

梅雨に入る前の5月。
蛙(カエル)と蚊(カ)……。

文也の死を歌った詩は
他にも、いくつか作られましたが、
ここに、二つの詩を
載せておきます。

(この稿つづく)

 *
 初夏の夜に

オヤ、蚊が鳴いてる、もう夏か——
死んだ子供等は、彼の世(あのよ)の磧(かはら)から、此の世の僕等を看守つてるんだ
彼の世の磧は何時でも初夏の夜、どうしても僕はさう想へるんだ。
行かうとしたつて、行かれはしないが、あんまり遠くでもなささうぢやないか。
窓の彼方の、笹藪の此方(こちら)の、月のない初夏の宵の、空間……其処に、
死児等は茫然、佇み僕等を見てるが、何にも咎めはしない。
罪のない奴等が、咎めもせぬから、こつちは尚更(なほさら)、辛いこつた。
いつそほんとは、奴等に棒を与へ、なぐつて貰いたいくらゐのもんだ。
それにしてもだ、奴等の中にも、十歳もゐれば、三歳もゐる。
奴等の間にも、競争心が、あるかどうか僕は全然知らぬが、
あるとしたらだ、何れにしてもが、やさしい奴等のことではあつても、
三歳の奴等は、十歳の奴等より、たしかに可哀想と僕は思ふ。
なにさま暗い、あの世の磧の、ことであるから小さい奴等は、
大きい奴等の、腕の下をば、すりぬけてどうにか、遊ぶとは思ふけれど、
それにしてもが、三歳の奴等は、十歳の奴等より、可哀想だ……
——オヤ、蚊が鳴いてる、またもう夏か……

 *
 蛙声

天は地を蓋(おほ)ひ、
そして、地には偶々(たまたま)池がある。
その池で今夜一と夜さ蛙は鳴く……
——あれは、何を鳴いてるのであらう?

その声は、空より来り、
空へと去るのであらう?
天は地を蓋(おほ)ひ、
そして蛙声は水面に走る。

よし此の地方(くに)が湿潤に過ぎるとしても、
疲れたる我等が心のためには、
柱は猶(なほ)、余りに乾いたものと感(おも)はれ、

頭は重く、肩は凝るのだ。
さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、
その声は水面に走つて暗雲に迫る。

2008年11月20日 (木)

番組情報

2008年11月24日24:35〜24:45 NHK教育
10min.ボックス(現代文)「サーカス(中原中也)」
【朗読】加賀美幸子

2008年11月18日 (火)

タイトル中に「夏」がある詩について<9>

さてさて、ようやく
「在りし日の歌」の中の「夏の夜」へ
戻って来ました。

ここで、もう一度、
作品を読みますと、
何か、変わったでしょうか。

難解であることは変わりませんが、
ポロリと
何かが見えたような気になりませんか?

一つの一貫した物語を組み立てようとすると
迷路に入り込むみたいだから、
大まかに、

疲れた僕の胸を
桜色の女が
通り抜けていった!

そのことで、
色々なことを思い出させられ
あれやこれや昔のことが蘇えってくる
ああ、暑い夜だこと!

と、これぐらいの理解に
止めておくことにしたほうがよい、

何よりも
第1連の詩句、

あゝ 疲れた胸の裡(うち)を
桜色の 女が通る
女が通る。

を、口ずさんでみるだけで、
この詩のほとんどを
味わったことになる!
と、考えたほうがよい。

この詩が、ダダであるとか
新感覚派っぽいとか
あるいは、
フランス象徴詩に影響されているとか……
そんなことは
二の次でよいのです。

味わおう! 味わおう!
口ずさもう! 口ずさもう!

桜色の 女が通る! のです。

桜色は、おそらく、肌の色……。
女体の肌の色……。
着物の色じゃない。

こんな、想像が広がっても来ます。

 *
 夏の夜

あゝ 疲れた胸の裡(うち)を
桜色の 女が通る
女が通る。

夏の夜の水田(すいでん)の滓(おり)、
怨恨は気が遐(とほ)くなる
——盆地を繞(めぐ)る山は巡るか?

裸足(らそく)はやさしく 砂は底だ、
開いた瞳は おいてきぼりだ、
霧の夜空は 高くて黒い。

霧の夜空は高くて黒い、
親の慈愛はどうしやうもない、
——疲れた胸の裡を 花瓣(くわべん)が通る。

疲れた胸の裡を 花瓣が通る
ときどき銅鑼(ごんぐ)が著物に触れて。
靄(もや)はきれいだけれども、暑い!

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」より)
 *原文のルビは、( )内に表記しました。

2008年11月17日 (月)

タイトル中に「夏」がある詩について<8>

タイトルに「夏」の字がある作品が、
「草稿詩篇」(1933-1936)には、
4篇あり、終わりにあるのが、
「夏の夜の博覧会はかなしからずや」です。

これは、1936年12月24日に作られました。
長男文也が死んだのは11月10日でした。

「草稿詩篇」(1937)には、
「夏と悲運」があります。
これは、1937年7月の作で、
詩人の死の直前の作品です。
中也の全詩の中でも、
最終作に数えられるものです。

以上で、
タイトルに「夏」の字がある詩を
一通り見たことになります。

未発表詩篇は、
考証・研究が進んでいて、
制作順に整理されていますから、
これを追うだけで、
詩人を時系列で辿ることが可能です。

「夏」にちなんだ詩を、
ここでは、見てきたわけですが、
それだけでも、
詩人の魂の軌跡を
垣間見ることができたように思えます。

 *
 夏の夜の博覧会はかなしからずや
     1
夏の夜の、博覧会は、哀しからずや
雨ちよつと降りて、やがてもあがりぬ
夏の夜の、博覧会は、哀しからずや

女房買物をなす間、かなしからずや
象の前に僕と坊やとはゐぬ、
二人蹲んで(しやがんで)ゐぬ、かなしからずや、やがて女房きぬ

三人博覧会を出でぬ、かなしからずや
不忍ノ池(しのばずのいけ)の前に立ちぬ、坊や眺めてありぬ

そは坊やの見し、水の中にて最も大なるものなりき、かなしからずや、
髪毛風に吹かれつ
見てありぬ、見てありぬ、かなしからずや
それより手を引きて歩きて
広小路に出でぬ、かなしからずや

広小路にて玩具を買ひぬ、兎の玩具かなしからずや

     2
その日博覧会入りしばかりの刻(とき)は
なほ明るく、昼の明(あかり)ありぬ、

われも三人(みたり)飛行機にのりぬ
例の廻旋する飛行機にのりぬ

飛行機の夕空は、紺青(こんじやう)の色なりき
燈光は、貝釦(かひボタン)の色なりき

その時よ、坊や見てありぬ
その時よ、めぐる釦を
その時よ、坊や見てありぬ
その時よ、紺青の空!
      (一九三六・一二・二四)
 *
 夏と悲運

とど、俺としたことが、笑ひ出さずにやゐられない。

思へば小学校の頃からだ。
例へば夏休みも近づかうといふ暑い日に、
唱歌教室で先生が、オルガン弾いてアーエーイー、
すると俺としたことが、笑ひ出さずにやゐられなかつた。
格別、先生の口唇が、鼻腔が可笑しいといふのではない、
起立して、先生の後から歌ふ生徒等が、可笑しいといふのでもない、
それどころか俺は大体、此の世に笑ふべきものが存在(ある)とは思つてもゐなかつた。
それなのに、とど、笑ひ出さずにやゐられない、
すると先生は、俺を廊下に出して立たせるのだ。
俺は風のよく通る廊下で、淋しい思ひをしたもんだ。
俺としてからが、どう解釈のしやうもなかつた。
別に邪魔になる程に、大声で笑つたわけでもなかつたし、
然(しか)し先生がカンカンになつてゐることも事実だつたし、
先生自身何をそんなに怒るのか知つてゐぬことも事実だつたし、
俺としたつて意地やふざけで笑つたわけではなかつたのだ。
俺は廊下に立たされて、何がなし、「運命だ」と思ふのだつた。

大人となつた今日でさへ、さうした悲運はやみはせぬ。
夏の暑い日に、俺は庭先の樹の葉を見、蝉を聞く。
やがて俺は人生が、すつかり自然と游離してゐるやうに感じだす。
すると俺としたことが、もう何もする気も起らない。
格別俺は人生が、どうのかうのと云ふのではない。
理想派でも虚無派でもあるわけではとんとない。
孤高を以て任じてゐるなぞといふのでは尚更(なおさら)ない。
しかし俺としたことが、とど、笑ひ出さずにやゐられない。

どうしてそれがさうなのか、ほんとの話が、俺自身にも分らない。
しかしそれが結果する悲運ときたらだ、いやといふほど味はつてゐる。
                      (一九三七・七)

(角川文庫ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

(この稿つづく)

2008年11月16日 (日)

タイトル中に「夏」がある詩について<7>

タイトルに「夏」の字がある作品が、
「草稿詩篇」(1933-1936)には、
4篇あります。

そのうちの3篇は、
この期間の前期、1933年に作られました。
「夏過けて、友よ、秋とはなりました」と
「夏の記臆」は、同日の作であることが注目されます。

中也26歳。
「山羊の歌」の刊行がうまくいかず、
苦しい日々を送っていた詩人ですが、
年末には、上野孝子と結婚、
四谷・花園アパートでの暮らしを始めます。

長男文也は翌1934年10月に生れ、
1936年11月に亡くなります。
この間、1934年12月に、
ようやく、「山羊の歌」は発行されました。

この3作品は、いずれも、結婚以前の作であり、
長男文也の死以前の作であることを
記憶しておきましょう。

 *
 夏

なんの楽しみもないのみならず
悲しく懶(ものう)い日は日毎続いた。
目を転ずれば照り返す屋根、
木々の葉はギラギラしてゐた。

雲はとほく、ゴボゴボと泡立つて重なり、
地平の上に、押詰まつていた。
海のあるのは、その雲の方だらうと思へば
いぢくねた憧れが又一寸(ちょっと)擡頭(たいとう)する真似をした。

このやうな夏が何年も何年も続いた。
心は海に、帆をみることがなかつた。
漁師町の物の臭(にお)ひと油紙(あぶらがみ)と、
終日陽を受ける崖とは私のものであつた。
可愛い少女の絨毛(わくげ)だの、パラソルだの、
すべて綺麗でサラサラとしたものが、
もし私の目の前を通り過ぎたにせよ、そのために
私の眼が美しく光つたかどうかは甚(はなは)だ疑はしい。
 

――今は天気もわるくはないし、暴風の来る気配も見えぬ、
よつぽど突発的な何事かの起こらぬ限り、
だから夕方までには濱に着かうこの小舟。
天心に陽は熾(さか)り、櫓の軋(きし)る音、鈍い音。
偶々(たまたま)に、過ぎゆく汽船の甲板からは
私の舟にころがつたたつた一つの風呂敷包みを、
さも面白さうに眺めてござる
エー、眺めているのではないかいな。

          波々や波の眼や、此の櫂や
          遠に重なる雲と雲、
          忽然と吹く風の族、
          エー、風の族、風の族。

                (1933・8・15)

 *
 夏過けて、友よ、秋とはなりました

友達よ、僕が何処にゐたか知つてゐるか?
僕は島にゐた、島の小さな漁村にゐた。
其処で僕は散歩をしたり、舟で酒を呑んだりしてゐた。
又沢山の詩も読んだ、何にも煩はされないで。

時に僕はひどく退屈した、君達に会ひたかつた。
しかし君達との長々しい会合、その終りにはだれる会合、
飲みたくない酒を飲み、話したくないことを話す辛さを思ひ出して
僕は僕の惰弱な心を、ともかくもなんとか制(お)さへてゐた。

それにしてもそんな時には勉強は出来なかつた、散歩も出来なかつた。
僕は酒場に出掛けた、青と赤の濁つた酒場で、
僕はジンを呑んで、しまひにはテーブルに俯伏(うつぷ)してゐた。

或る夜は浜辺で舟に凭(すが)つて、波に閃(きらめ)く月を見てゐた。
遠くの方の物凄い空。舟の傍らでは虫が鳴いてゐた。
思ひきりのんびり夢をみてゐた。
浪の音がまだ耳に残つてゐる。

   2

暗い庭で虫が鳴いてゐる、雨気含んだ風が吹いてゐる。
茲(ここ)は僕の書斎だ、僕はまた帰つて来てゐる。
島の夜が思ひ出される、いつたいどうしたものか夏の旅は、
死者の思ひ出のやうに心に沁みる、毎年々々、

秋が来て、今夜のやうに虫の鳴く夜は、
靄(もや)に乗つて、死人は、地平の方から僕の窓の下まで来て、
不憫にも、顔を合はすことを羞(はづか)しがつてゐるやうに思へてならぬ。
それにしても、死んだ者達は、あれはいつたいどうしたのだらうか?

過ぎし夏よ、島の夜々よ、おまへは一種の血みどろな思ひ出、
それなのにそれはまた、すがすがしい懐かしい思ひ出、
印象は深く、それなのに実際なのかと、疑つてみたくなるやうな思ひ出、
わかってゐるのに今更のやうに、ほんとだつたと驚く思ひ出!……
             (1933・8・21)

 *
 夏の記臆

温泉町のほの暗い町を、
僕は歩いてゐた、ひどく俯(うつむ)いて。
三味線の音や、女達の声や、
走馬燈(まはりどうろ)が目に残つてゐる。

其処(そこ)は直ぐそばに海もあるので、
夏の賑ひは甚だしいものだつた。
銃器を掃除したボロギレの親しさを、
汚れた襟(えり)に吹く、風の印象を受けた。

闇の夜は、海辺(ばた)に出て、重油のやうな思ひをしてゐた。
太つちよの、船頭の女房は、かねぶんのやうな声をしてゐた。
最初の晩は町中歩いて、歯ブラシを買つて、
宿に帰つた。――暗い電気の下で寝た。
          (1933・8・21)

(角川文庫ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

(この稿つづく)

タイトル中に「夏」がある詩について<6>

タイトルに「夏」の字がある作品を
「未発表詩篇」から、
ざーっと見ています。

今回は、5篇を載せます。
「草稿詩篇」(1925年―1928年)から「夏の夜」1篇、
その他は、「ノート小年時」(1928年―1930年)から4篇です。

  *
 夏の夜

   一
暗い空に鉄橋が架かつて、
男や女がその上を通る。
その一人々々が夫々(それぞれ)の生計(なりわい)の形をみせて、
みんな黙って頷いて歩るく。

吊られてゐる赤や緑の薄汚いラムプは、
空いつぱいの鈍い風があたる。
それは心もなげに燈つてゐるのだが、
燃え尽した愛情のやうに美くしい。

泣きかゝかる幼児を抱いた母親の胸は、
掻乱(かきみだ)されてはゐるのだが、
「この子は自分が育てる子だ」とは知ってゐるやうに、

その胸やその知つてゐることや、夏の夜の人通りに似て、
はるか遥かの暗い空の中、星の運行そのまゝなのだが、
それが私の憎しみやまた愛情にかゝはるのだ……。

  二
私の心は腐つた薔薇(ばら)のやうで、
夏の夜の靄(もや)では淋しがって啜(すすりな)く、
若い士官の母指(おやゆび)の腹や、
四十女の腓腸筋(ひちようきん)を慕ふ。

それにもまして好ましいのは、
オルガンのある煉瓦の館(やかた)。
蔦蔓(つたかづら)が黝々(くろぐろ)と匐ひのぼつてゐる、
埃りがうつすり掛かつてゐる。

その時広場は汐(な)ぎ亙(わた)つてゐるし、
お濠(ほりの水はさゞ波たてゝる。
どんな馬鹿者だつてこの時は殉教者の顔付をしてゐる。

私の心はまづ人間の生活のことについて燃えるのだが、
そして私自身の仕事については一生懸命練磨するのだが、
結局私は薔薇色の蜘蛛だ、夏の夕方は紫に息づいてゐる。

 *
 夏は青い空に……

夏は青い空に、白い雲を浮ばせ、
  わが嘆きをうたふ。
わが知らぬ、とほきとほきとほき深みにて
  青空は、白い雲を呼ぶ。

わが嘆きわが悲しみよ、かうべを昴げよ。
 ——記憶も、去るにあらずや……
湧き起こる歓喜のためには
 人の情けも、小さきものとみゆるにあらずや

ああ、神様、これがすべてでございます。
 尽くすなく尽くさるるなく、
心のままにうたへる心こそ
 これがすべてでございます!

空のもと林の中に、たゆけくも
 仰ざまに眼をつむり、
白き雲、汝が胸の上を流れもゆけば、
 はてもなき平和の、汝がものとなるにあらずや。

 *
 夏の海
 
輝(かがや)く浪の美しさ
空は静かに慈しむ、
耀く浪の美しさ。
人なき海の夏の昼。

心の喘(あえ)ぎしづめとや
浪はやさしく打寄する、
古き悲しみ洗へとや
浪は金色、打寄する。

そは和やかに穏やかに
昔に聴きし声なるか、
あまりに近く響くなる
この物云はぬ風景は、

見守りつつは死にゆきし
父の眼(まなこ)とおもはるる
忘れゐたりしその眼
今しは見出で、なつかしき。

耀く浪の美しさ
空は静かに慈しむ、
耀く浪の美しさ。
人なき海の夏の昼。

(一九二九・七・一〇)

 *
 夏

血を吐くやうな 倦(もの)うさ、たゆけさ
今日の日も畑に陽は照り、麦に陽は照り
睡るがやうな悲しさに、み空をとほく
血を吐くやうな倦うさ、たゆけさ

空は燃え、畑はつづき
雲浮び、眩しく光り
今日の日も陽は炎(も)ゆる、地は睡る
血を吐くやうなせつなさに。

嵐のやうな心の歴史は
終焉つてしまつたもののやうに
そこから繰(たぐ)れる一つの緒(いとぐち)もないもののやうに
燃ゆる日の彼方(かなた)に眠る。

私は残る、亡骸(なきがら)として、
血を吐くやうなせつなさかなしさ。

(一九二九・八・二〇)

 *
 夏と私

真ッ白い嘆かひのうちに、
海を見たり。鴎(かもめ)を見たり。

高きより、風のただ中に、
思ひ出の破片の翻転するをみたり。

夏としなれば、高山に、
真ッ白い嘆きを見たり。

燃ゆる山路を、登りゆきて
頂上の風に吹かれたり。

風に吹かれつ、わが来し方に
茫然としぬ、………涙しぬ。

はてしなき、そが心
母にも、……もとより友にも明さざりき。

しかすがにのぞみのみにて、
拱(こまぬ)きて、そがのぞみに圧倒さるる。

わが身を見たり、夏としなれば、
そのやうなわが身を見たり。

(一九三〇・六・一四)

(角川文庫ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

(この稿つづく)

2008年11月12日 (水)

元パンクの小説家・町田康の中也読み/エラン・ヴィタールの詩人<3>

中原中也が死んだ1週間後、
安原喜弘は、中也からの手紙を受け取ります。
「発病の前日最後に綴られた由にて」
投函されなかったものを、死後に、母親フクが見つけ、
投函した中也の手紙でした。

 

10月5日付けの手紙でした。
安原を訪れた翌日です。
それは、こんなふうに書き出されています。

 

昨日は失禮しました。(序で乍ら失禮といへば却て失禮になるというふやうな場合、どんな語法があるのでせうか)
ですが安さんには、相手に観念運動を起させ過ぎるといふくせがあると思ひます 観念運動とは相手をジーッとみてゐて急に手を上げると相手もフト手を上げかけるといふあれです
(安原喜弘編著「中原中也の手紙」より)

 

きのうの話の延長という流れなのですが
それは、続きというよりも、
中也が語れなかった話を
ここで初めて話している、
という感じの書き出しです。

 

中也は、続けて、書きます

 

相手に観念運動を起させ過ぎるといふ一つのくせは、生活的以外にはあんまり物を考へなさ過ぎるといふことに該当すると思ひます (略)
安さんの生活の見方は、現在的で持続的でもあると思ひますが、つまり安さんの時々刻々の観察を統制しているものはあまりに現世的知識に限られてはゐますまいか。言葉が不十分だと思ひますが、エラン・ヴィタールに乏しいです。

 

「白痴群」廃刊後、孤立を深める中也を
献身的にサポートした安原喜弘。
中也の第一詩集「山羊の歌」の刊行は、
安原なくしては成功しなかったといわれるほどに
骨身を削って中也を助けました。

 

中也は、その安原の寡黙さに苛立ち、
もっと喋ってくれよ、と思いつつも、
その寡黙さ故に安らぐところもあったらしく、
たいへん有り難い友だちと考えていたようです。

 

その安原を、「相手に観念運動を起させ過ぎる」と指摘し、
そういう人は「生活的以外」のことを考えない、
つまり、生活のことばかりを考えている、そして、
ついには、「エラン・ヴィタールに乏しい」と評しました。

その言葉が届けられた時、
詩人はこの世に存在しませんでした。

 

町田康は、
「すでに命が尽きかけていたのに、主張は相変わらずだったわけです。」
と、20歳の詩人が説いた「エラン・ヴィタール」が
死を間近にした詩人によっても
(といっても、中也が死を意識していたことを意味してはいません)
主張されていることに目を向けました。

 

エラン・ヴィタール!

 

今や懐かしく、
忘れかけていた言葉、
この古びた言葉が
中也もろともに、
よみがえります。

 

新たな命を吹き込んだ
町田康という詩人の眼差しにも、乾杯です。

 


NHK教育テレビ「知るを楽しむ」
「中原中也 口惜しき人」「第4回 詩人という人生」
10月28日22時25分~22時50分放送。

 

 

元パンクの小説家・町田康の中也読み/エラン・ヴィタールの詩人<2>

中原中也が、
安原喜弘の横浜の住まいを訪ねたのは
昭和12年1937年10月4日土曜日。
亡くなるのは、10月22日午前零時10分でした。

 

安原喜弘編著の「中原中也の手紙」(玉川大学出版部)には、
合計99通の、
中也の手紙・葉書が載せられていますが、
同年9月28日付け、98通目のはがきへのコメントは、
中也が安原を訪れた10月4日から
中也の臨終にいたる
20日間ほどの消息に言い及んでいます。

 

番組テキストでも若干触れていますが
ここのところを少し詳しく、引いておきます。

 

十月四日土曜日。詩人は横浜の私の家を訪ねた。出した酒も手をつけようとせず、帰郷の決意を語つたりした。しきりに頭痛を訴え、視力の困難を述べ、乱視の気味があると言い、頭痛もそのせいかもしれぬと語つた。電線などがハッキリ二つに見え、往来の歩行も不確かであるとのことだつた。熱もあるとのことだつた。暮れてから私は弘明寺終点のバスの乗場まで彼を送つて行つた。詩人はバスの窓から振り返えり振り返えり、やがて鎌倉の方に去つて行つた。私は今も窓ガラスの向うに浮いた詩人の白い顔を想い出すのである。これが私の健康な詩人を見た最後であつた。
詩人はこの翌々日病の床に就き、そして再び立上れなかつたのである。私が報せにより彼を見舞つたとき、彼は鎌倉駅の近くの病院にベッドの人となつていた。急性脳膜炎ということであつた。眼球は異様に膨れ上り、最早正常な意識はなかつた。しきりと囈言を言つていた。側に付添った関口が、詩人の耳に口を寄せ、私が来たことを告げたとき「安原か、あいつは……」とかすかに言つたがその言葉もあとは判断し難かつた。
(前掲書から)

 

さて、エラン・ヴィタールという言葉が
中也の手紙の中に登場するのは
死の直前に安原に書き送った
99番目の手紙の中でのことになります。
(この稿つづく)

 

NHK教育テレビ「知るを楽しむ」
「中原中也 口惜しき人」「第4回 詩人という人生」
10月28日22時25分~22時50分放送。

2008年11月10日 (月)

元パンクの小説家・町田康の中也読み/エラン・ヴィタールの詩人

「エラン・ヴィタール」というのは、哲学者のベルクソンが提唱した概念で、「生の躍動」といった言葉で訳されていますが、中也にとってはまさにぴったりくる言葉だったんじゃないでしょうか。早いうちから、この言葉を自分の人生に重ね合わせていますよ。

 

と、語った後で、町田康は、
中原中也20歳の日記を紹介します。
「中原中也 口惜しき人」最終回で、

 

二十歳のときの日記にこうあります。
「我はエラン・ヴィタール!/
かく言ふを嗤(わら)ふものは我が書を読まざれ。/
嗤はざる素朴の者は熟読せよ」

 

と。

 

中也は、ベルクソンを
富永太郎や小林秀雄や
河上徹太郎や
辰野隆らを通じて知ったのでしょうか、
後に、小林秀雄がベルクソン論を
著わし、未完のままで終わるのですが、
20歳の中也の周辺で
ベルクソンは
見過ごせない存在のようではありました。

 

それは、盛んに読まれていながら
実践するものでは到底ありえなかった
「哲学」に過ぎませんでしたが、
中也は、それを、「実践」する人になってゆくのです。

 

ゆうがた、空の下で、
身一点に感じられれば、
万事において文句はないのだ
と、「いのちの声」で、歌う詩人のことです。

 

エラン・ヴィタールに、
中也の目が向けられないわけがない、
とは、中也の読者ならば、
誰しも思うに違いないのですが、
そこのところを、町田康は、
中也には「ぴったりくる」
と、語ります。
「ぴったりくる」のです。

 

さて、
このエラン・ヴィタールという言葉が
再び登場するのは
中也が死の直前に、
親友・安原喜弘に書き送った
手紙の中でのことでした。

 

(この稿つづく)

 

NHK教育テレビ「知るを楽しむ」
「中原中也 口惜しき人」「第4回 詩人という人生」
10月28日22時25分~22時50分放送。

2008年11月 9日 (日)

タイトル中に「夏」がある詩について<5>

「山羊の歌」にも「在りし日の歌」にも
「生前発表詩篇」にも入らない作品は
「未発表詩篇」として分類され、
この「未発表詩篇」は、さらに、
制作年順に整理され、

「ダダ手帖」      (1923-1924)
「ノート1924」               (1924-1928)
「草稿詩篇」      (1925-1928)
「ノート小年時」    (1928-1930)
「早大ノート」     (1930-1937)
「草稿詩篇」      (1931-1932)
「ノート翻訳詩」    (1933)
「草稿詩篇」      (1933-1936)
「療養日記・千葉寺雑記」(1937)
「草稿詩篇」      (1937)

と、
残されたノートの題などから
それぞれに分類名が付けられ、
研究や解釈などに
便宜が図られるようになっています。
 
タイトルに「夏」の字がある作品を
ざーっと見て、
「在りし日の歌」の難解詩「夏の夜」の
読みの助けにしてみよう、と考え、
いま、「未発表詩篇」にたどりつきました。
12作品ほどが、ここにあります。

以下に、そのうちの2篇を載せます。
「ノート1924」にある作品で、
どちらも、ダダイズムの色濃い詩です。

 *
 初夏

扇子と香水ーー
君、新聞紙を絹風呂敷には包みましたか
夕の月が風に泳ぎます
アメリカの国旗とソーダ水とが
恋し始める頃ですね

 *
 真夏昼思索
 
化石にみえる
錯覚と網膜の衝突
充足理由律の欠乏した野郎
記臆力の無能ばかりみたくせに
物識りになつたダダイスト
午睡(ヒルネ)から覚めました
ケチな充実の欲求のバイプレーにヂレッタニズム
両面から同時にみて価値のあるものを探す天才ヒステリーの言草
矛盾の存在が当然なんですよ
ヂラ以上の権威をダダイズトは認めませぬ
畳をぽんとケサンでたゝいたら蝿が逃げて
声楽家が現れた

(角川文庫ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

(この稿つづく)

タイトル中に「夏」がある詩について<4>

「山羊の歌」「在りし日の歌」の2詩集に載せていない作品で
雑誌とか詩誌とか新聞とかに公表したものは
「生前発表詩篇」と分類されますが
その中に、「夏」の字がタイトルにある詩は
以下の5篇です。

 * 
 夏と私

真ッ白い嘆かひのうちに、
海を見たり。鴎(かもめ)を見たり。

高きより、風のただ中に、
思ひ出の破片の翻転するをみたり。

夏としなれば、高山に、
真ッ白い嘆きを見たり。

燃ゆる山路を、登りゆきて
頂上の風に吹かれたり。

風に吹かれつ、わが来し方に
茫然としぬ、………涙しぬ。

はてしなき、そが心
母にも、……もとより友にも明さざりき。

しかすがにのぞみのみにて、
拱(こまぬ)きて、そがのぞみに圧倒さるる。

わが身を見たり、夏としなれば、
そのやうなわが身を見たり。

 *
 夏の明方(あけがた)年長妓(としま)が歌つた
              ――小竹の女主人(ばばあ)に捧ぐ

うたひ歩いた揚句の果は
空が白むだ、夏の暁(あけ)だよ
随分馬鹿にしてるわねえ
一切合切(いつさいがつさい)キリガミ細工
銹(さ)び付いたやうなところをみると
随分鉄分には富んでるとみえる
林にしたつて森にしたつて
みんな怖(お)づ怖づしがみついてる
夜露が下りてゐるとこなんぞ
だつてま、しほらしいぢやあないの
棄(す)てられた紙や板切れだつて
あんなに神妙、地面にへたばり
植えられたばかりの苗だつて
ずいぶんつましく風にゆらぐ
まるでこつちを見向きもしないで
あんまりいぢらしい小娘みたい
あれだつて都に連れて帰つて
みがきをかければなんとかならうに
左程々々(さうさう)こつちもかまつちやられない
――随分馬鹿にしてるわねえ
うたひ歩いた揚句の果は
空が白むで、夏の暁(あけ)だと
まるでキリガミ細工ぢやないか
昼間(ひるま)は毎日あんなに暑いに
まるでぺちやんこぢやあないか

 *
 夏

僕は卓子(テーブル)の上に、
ペンとインキと原稿紙のほかなんにも載せないで、
毎日々々、いつまでもジツとしてゐた。

いや、そのほかにマッチと煙草と、
吸取紙くらゐは載つかつてゐた。
いや、時とするとビールを持つて来て、
飲んでゐることもあつた。

戸外(そと)では蝉がミンミン鳴いた。
風は岩にあたつて、ひんやりしたのがよく吹込んだ。
思ひなく、日なく月なく時は過ぎ、

とある朝、僕は死んでゐた。
卓子(テーブル)に載つかつてゐたわづかの品は、
やがて女中によつて瞬く間に片附けられた。
――さつぱりとした。さつぱりとした。

 *
 初夏の夜に

オヤ、蚊が鳴いてる、またもう夏か――
死んだ子供等は、彼〈あ〉の世の磧(かわら)から、此の世の僕等を看守(みまも)つてるんだ。
彼の世の磧は何時でも初夏の夜、どうしても僕はさう想へるんだ。
行かうとしたつて、行かれはしないが、あんまり遠くでもなささうぢやないか。
窓の彼方(かなた)の、笹藪の此方(こちら)の、月のない初夏の宵の、空間……其処(そこ)に、
死児等は茫然、佇(たたず)み僕等を見てるが、何にも咎(とが)めはしない。
罪のない奴等が、咎めもせぬから、こつちは尚更、辛いこつた。
いつそほんとは、奴等に棒を与へ、なぐつて貰ひたいくらゐのもんだ。
それにしてもだ、奴等の中にも、十歳もゐれば、三歳もゐる。
奴等の間にも、競走心が、あるかどうか僕は全然知らぬが、
あるとしたらだ、何(いず)れにしてもが、やさしい奴等のことではあつても、
三歳の奴等は、十歳の奴等より、たしかに可哀想と僕は思ふ。
なにさま暗い、あの世の磧の、ことであるから小さい奴等は、
大きい奴等の、腕の下をば、すりぬけてどうにか、遊ぶとは想ふけれど、
それにしてもが、三歳の奴等は、十歳の奴等より、可哀想だ……
――オヤ、蚊が鳴いてる、またもう夏か……
(一九三七・五・一四)

 *
 夏日静閑

暑い日が毎日つづいた。
隣りのお嫁入前のお嬢さんの、
ピアノは毎日聞こえてゐた。
友達はみんな避暑地に出掛け、
僕だけが町に残つてゐた。
撒水車が陽に輝いて通るほか、
日中は人通りさへ殆(ほと)んど絶えた。
たまに通る自動車の中には
用務ありげな白服の紳士が乗つてゐた。
みんな僕とは関係がない。
偶々(たまたま)買物に這入(はい)つた店でも
怪訝な顔をされるのだつた。
こんな暑さに、おまへはまた
何条買ひに来たものだ?
店々の暖簾(のれん)やビラが、
あるとしもない風に揺れ、
写真屋のショウヰンドーには
いつもながらの女の写真(かほ)。
(一九三七、八、五)

(角川文庫ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

(この稿つづく)

2008年11月 8日 (土)

タイトル中に「夏」がある詩について<3>

20080829_064

ここで、タイトルに「夏」の字がある
「在りし日の歌」中の他の詩に、
目を通しておきます。

26番目の「夏の夜に覚めてみた夢」と
29番目の「初夏の夜」の2作ですが
さーっと読むだけです。

「夏の夜」とは異なり
さーっと読める作品だということを
知っておきたいからです。

難解な詩句に
頭をひねらなくてもよい作品と
「夏の夜」の違いは
どこからやってくるのでしょうか。

 *
 夏の夜に覚めてみた夢

眠らうとして目をば閉ぢると
真ッ暗なグランドの上に
その日昼みた野球のナインの
ユニホームばかりほのかに白く――

ナインは各々守備位置にあり
狡(ずる)さうなピッチャは相も変らず
お調子者のセカンドは
相も変らぬお調子ぶりの

扨(さて)、待つてゐるヒットは出なく
やれやれと思つてゐると
ナインも打者も悉(ことごと)く消え
人ッ子一人ゐはしないグランドは

忽(たちま)ち暑い真昼(ひる)のグランド
グランド繞(めぐ)るポプラ竝木(なみき)は
蒼々として葉をひるがへし
ひときはつづく蝉しぐれ
やれやれと思つてゐるうち……眠(ね)た

 *
 初夏の夜

また今年(こんねん)も夏が来て、
夜は、蒸気で出来た白熊が、
沼をわたつてやつてくる。
――色々のことがあつたんです。
色々のことをして来たものです。
嬉しいことも、あつたのですが、
回想されては、すべてがかなしい
鉄製の、軋音(あつおん)さながら
なべては夕暮迫るけはひに
幼年も、老年も、青年も壮年も、
共々に余りに可憐な声をばあげて、
薄暮の中で舞ふ蛾の下で
はかなくも可憐な顎(あご)をしてゐるのです。
されば今夜(こんや)六月の良夜(あたらよ)なりとはいへ、
遠いい物音が、心地よく風に送られて来るとはいへ、
なにがなし悲しい思ひであるのは、
消えたばかしの鉄橋の響音、
大河(おおかは)の、その鉄橋の上方に、空はぼんやりと石盤色であるのです。

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」より)
 *原文のルビは、( )内に表記しました。

(この稿つづく)

山羊の歌―中原中也詩集 (角川文庫―角川文庫クラシックス) 山羊の歌―中原中也詩集 (角川文庫―角川文庫クラシックス)

著者:中原 中也
販売元:角川書店
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2008年11月 7日 (金)

タイトル中に「夏」がある詩について<2>

ここで、すでに読んだ「山羊の歌」から
タイトルに「夏」の字のある作品を
読み直しておきましょう。

 *
 都会の夏の夜

月は空にメダルのやうに、
街角(まちかど)に建物はオルガンのやうに、
遊び疲れた男どち唱ひながらに帰つてゆく。  
――イカムネ・カラアがまがつてゐる――

その脣(くちびる)は胠(ひら)ききつて
その心は何か悲しい。
頭が暗い土塊になつて、
ただもうラアラア唱つてゆくのだ。

商用のことや祖先のことや
忘れてゐるといふではないが、
都会の夏の夜(よる)の更(ふけ)――

死んだ火薬と深くして
眼に外燈の滲みいれば
ただもうラアラア唱つてゆくのだ。

 *
 逝く夏の歌

並木の梢が深く息を吸つて、
空は高く高く、それを見てゐた。
日の照る砂地に落ちてゐた硝子(ガラス)を、
歩み来た旅人は周章(あわ)てて見付けた。

山の端は、澄んで澄んで、
金魚や娘の口の中を清くする。
飛んでくるあの飛行機には、
昨日私が昆虫の涙を塗つておいた。

風はリボンを空に送り、
私は嘗(かつ)て陥落した海のことを 
その浪のことを語らうと思ふ。

騎兵聯隊や上肢の運動や、
下級官吏の赤靴のことや、
山沿ひの道を乗手(のりて)もなく行く
自転車のことを語らうと思ふ。

 *
 夏の日の歌

青い空は動かない、
雲片(ぎれ)一つあるでない。
  夏の真昼の静かには
  タールの光も清くなる。

夏の空には何かがある、
いぢらしく思はせる何かがある、
  焦げて図太い向日葵(ひまはり)が
  田舎の駅には咲いてゐる。

上手に子供を育てゆく、
母親に似て汽車の汽笛は鳴る。
  山の近くを走る時。

山の近くを走りながら、
母親に似て汽車の汽笛は鳴る。
  夏の真昼の暑い時。

 *
 夏

血を吐くやうな 倦(もの)うさ、たゆけさ
今日の日も畑に陽は照り、麦に陽は照り
睡るがやうな悲しさに、み空をとほく
血を吐くやうな倦うさ、たゆけさ

空は燃え、畑はつづき
雲浮び、眩しく光り
今日の日も陽は炎(も)ゆる、地は睡る
血を吐くやうなせつなさに。

嵐のやうな心の歴史は
終焉(をは)つてしまつたもののやうに
そこから繰(たぐ)れる一つの緒(いとぐち)もないもののやうに
燃ゆる日の彼方(かなた)に睡る。

私は残る、亡骸(なきがら)として――
血を吐くやうなせつなさかなしさ。

*たゆけさ 緩んでしまりのない状態。だるさ。

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』」より)

(この稿つづく)

タイトル中に「夏」がある詩について<1>

難解な「夏の夜」を読むために
「夏」という字が
タイトルの中に見える詩を
拾ってみました。

すると、あります、あります

<山羊の歌>
都会の夏の夜
逝く夏の歌
夏の日の歌

<在りし日の歌>
夏の夜
青い瞳 1 夏の朝
夏の夜に覚めてみた夢
初夏の夜

<生前発表詩篇>
夏と私
夏の明方年長妓が歌つた

<未発表詩篇>
初夏の夜に
夏日静閑
初夏
真夏昼思索
夏の夜(暗い空に鉄橋が架かつて)
夏は青い空に……
夏の海
夏(血を吐くやうな、倦うさ、たゆけさ)
夏と私
夏(なんの楽しみもないのみならず)
夏過けて、友よ、秋とはなりました
夏の記憶
夏の夜の博覧会はかなしからずや
夏と悲運

以上は、「中原中也全詩集」(角川ソフィア文庫)から
拾ったものです。

「夏」「夏の夜」「夏と私」のように、
二つ以上あるものは、
まったく別の作品である場合と
異文のある作品である場合があります。

タイトル部に
「夏」の字があるものだけを拾ったもので、
詩句中に夏の字があるものや、
夏の字がなくとも詩内容の季節が夏である詩を
集めてはいません。
当然、タイトルの無い草稿からも拾っていません。

(この稿つづく)

夏の夜/桜色の女

12番目「夏の夜」は、
難解な作品です。
昭和4年1929年、
「生活者」9月号に発表されました。
制作は、大正14年1925年あたり、
と推定されていますが、
上京以前か以後かは
わかりません。

 

第1連は、
夏の夜の
眠れないほどの暑さの中で
ある女性が思い出されます。
この作品が、女を歌った詩だ、
と、これで分かります。

 

桜色は、ピンクではないですよね。
それにしても、桜色の女とは、
なんだか色っぽい。
この女性が
長谷川泰子であるか否かに
こだわる必要はありません。

 

そして、2連、
夏の夜の水田(すいでん)の滓(おり)、
怨恨は気が遐(とほ)くなる

 

水田の滓、とは何だ
怨恨は気が遠くなる、とは何だ
さらに、
——盆地を繞(めぐ)る山は巡るか?
に、立ち止まります。

 

女と怨恨なのだから、
なにやらドロドロした物語か?と
ぼんやり受け止めておきます。

 

3連に進み、
裸足(らそく)はやさしく 砂は底だ、
開いた瞳は おいてきぼりだ、
で、また、立ち往生します。

 

ここは、ダダの名残(なごり)か
あるいは、横光利一とか川端康成ら
新感覚派の表現の摂取か
などと、考えあぐねもするところです。

 

ま、色々な影響を受けたり、
模倣したりは、
創作の基本ですから、などと、
思いめぐらすものの、やっぱり、
これは、ダダと見なします。

 

裸足(らそく)はやさしく、は
女の裸足(はだし)は、優しい、美しいものさ

 

砂は底だ、は
砂というものは、底があるから、砂なのさ、か
砂には、必ず、底がある、か
怨恨や女にからんだ、ダダ的表現……。

 

女を思い
その怨恨に気が遠くなり
気が遠くなって大きく開けた目は
置き去りにされます。
霧深い夜空の、高くて黒い、闇の中に……。

 

その闇の中に
親父が現れても、
どうしようもないのです。

 

……。

 

靄(もや)はきれいだけれども、暑い!
ああ、暑い暑い
夏の夜です。

 

 *
 夏の夜

 

あゝ 疲れた胸の裡(うち)を
桜色の 女が通る
女が通る。

 

夏の夜の水田(すいでん)の滓(おり)、
怨恨は気が遐(とほ)くなる
——盆地を繞(めぐ)る山は巡るか?

 

裸足(らそく)はやさしく 砂は底だ、
開いた瞳は おいてきぼりだ、
霧の夜空は 高くて黒い。

 

霧の夜空は高くて黒い、
親の慈愛はどうしやうもない、
——疲れた胸の裡を 花瓣(くわべん)が通る。

 

疲れた胸の裡を 花瓣が通る
ときどき銅鑼(ごんぐ)が著物に触れて。
靄(もや)はきれいだけれども、暑い!

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」より)
 *原文のルビは、( )内に表記しました。

2008年11月 6日 (木)

春の日の歌/空の思想

11番目「春の日の歌」は、
昭和11年(1936)の「文学界」5月号に
発表されました。
制作は、その2か月前と推定されています。
中原中也29歳。

 

流れ、ながれ、とは何か
嬌羞、きょうしゅう、とは……。
心と、どう異なり、どうつながるのか。

 

空とは、空の国とは、
空のうえ、とは……。

 

中也ならではの語彙に満ち
思想の盛られた詩。
宗教性という人もいます。
単に自然を歌った、という
作品ではありません。

 

例によって
4-4-3-3のソネット
七五調。
流麗であり、
文語まじりの口語体が
荘重感を生み出します。

 

その中に、
うわあ うわあと 涕(な)くなるか
という激情。
少年時代のギロギロの眼(まなこ)に
これは、つながっていくものか。

 

納屋、白い倉、水車……と、
ながれは、たどりにたどり、
故郷の景色へと結んでいきます。

 

空には、
詩人独特の天の意味が込められ、
死の響きも少し感じられますが、
全体がなまめかしさを漂わせるのは
嬌羞の一語があるからでしょうか。

 

 * 
  春の日の歌

 

流(ながれ)よ、淡(あは)き 嬌羞(けうしう)よ、
ながれて ゆくか 空の国?
心も とほく 散らかりて、
ヱヂプト煙草 たちまよふ。

 

流よ、冷たき 憂ひ秘め、
ながれて ゆくか 麓までも?
まだみぬ 顔の 不可思議の
咽喉(のんど)の みえる あたりまで……

 

午睡の 夢の ふくよかに、
野原の 空の 空のうへ?
うわあ うわあと 涕(な)くなるか

 

黄色い 納屋や、白の倉、
水車の みえる 彼方(かなた)まで、
ながれ ながれて ゆくなるか?

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」より)
 *原文のルビは、( )内に表記しました。

2008年11月 5日 (水)

春/幸せおバカ

「六月の雨」「雨の日」と
雨の詩を続けて配した後で
10番目「春」
11番目「春の日の歌」と、
こんどは、春が連続して配置されました。

 

「春」は、
昭和4年(1929)の「生活者」9月号に
発表されています。
制作は、特定されていませんが、
初期のものらしい。

 

悲しみの詩人にも
こんなひとときがあったのだ、と
ほっとする思いで読める作品です。

 

第3連
私は呆気(ほうけ)てしまふ、バカになつてしまふ
は、自己への諧謔と読めなくはありませんが、
ここは、
幸福な時間を読むだけでよしとします。
瓦屋根(かわらやね)ですら、今朝は、不平がないのです。

 

第4連の猫は
猫であると同時に
詩人の姿が重なっています。
鈴をころばしている
ころばして、それを見ている。

 

遊んでいて
遊んでいることを見ている詩人がいます。

 

ころがす、ではなく、ころばす、としていますが
この差異にはこだわらないほうがよいでしょう

 

 * 
 春

 

春は土と草とに新しい汗をかゝせる。
その汗を乾かさうと、雲雀は空に隲(あが)る。
瓦屋根今朝不平がない、
長い校舎から合唱は空にあがる。

 

あゝ、しづかだしづかだ。
めぐり来た、これが今年の私の春だ。
むかし私の胸|摶(う)つた希望は今日を、
厳(いか)めしい紺青(こあを)となつて空から私に降りかゝる。

 

そして私は呆気(ほうけ)てしまふ、バカになつてしまふ
——薮かげの、小川か銀か小波(さざなみ)か?
薮かげの小川か銀か小波か?

 

大きい猫が頸ふりむけてぶきつちよに
一つの鈴をころばしてゐる、
一つの鈴を、ころばして見てゐる。

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」より)
 *原文のルビは、( )内に表記しました。

2008年11月 4日 (火)

雨の日/思い出の呼び水

「在りし日の歌」9番目の作品は
「雨の日」。
雨が、「六月の雨」に続きます。

 

1、2連は、迸(ほとばし)る詩句を
そのまま活かしたのか、
韻律を無視し
3、4連で、七五調を現わします。

 

各連の間を※で仕切り
それぞれの独立性を強めたのか
少し、取っ付きにくい
実験的とでもいえそうな作品です。

 

詩人の中には
眼前にしている雨と
回想とが入り交じり
回想の途切れに
雨は降り続き
降りしきる雨を見ていると
また思い出が立ち上がり……と
繰り返しています。

 

雨が、回想を誘う
呼び水になっているのです。

 

腰板とは、
①男の袴(はかま)の腰に当ててある板
②壁、障子、垣などの腰部に張った板
の意味があり(広辞苑)、
ここでは②で使われています。

 

その腰板を打ちつける雨を
ことごとく吸い込んでしまうほどの
古びた民家の景色。
そこに住まう人々の
普段なら、愚弄するような眼は、
いま、いつになく謙虚で
淑やかですらあります

 

わたくしは
花びらの夢を見ながら
眠りから覚めました。

 

2連は、
突如、舌足らずだった
幼友達(おさなともだち)の
四角張った額を
思い出すわたくし。

 

鳶の色とは、
濃い焦げ茶色。
古びた刀を包んでいる鞘が
雨の中に現れるのは
詩人が幼時に
友達と遊んだ雨の日の
納戸とか物置などの思い出でしょう。

 

幼時の思い出は
次々に甦(よみがえ)ってきます

 

第3連は、
ヤスリを研ぐ音
だみ声の父親が……
あるいは、やさしく語る母親の声が……
遠くの方で聞こえています

 

第4連。
煉瓦色のの憔心、
これは、雨を見ている
現在の詩人の心でしょうか
雨の空が
ときおり、赤茶けた色に
染まることがあるのでしょうか

 

賢い少女の黒髪、
慈愛あふれる父の首

 

ああ、
色々と思い出されてくるよ
懐かしい
ああ、懐かしい!

 

 *
 雨の日

 

通りに雨は降りしきり、
家々の腰板古い。
もろもろの愚弄の眼(まなこ)は淑(しと)やかとなり、
わたくしは、花瓣(くわべん)の夢をみながら目を覚ます。
     ※
鳶色(とびいろ)の古刀の鞘(さや)よ、
舌あまりの幼な友達、
おまへの額は四角張つてた。
わたしはおまへを思ひ出す。
     ※
鑢(やすり)の音よ、だみ声よ、
老い疲れたる胃袋よ、
雨の中にはとほく聞け、
やさしいやさしい唇を。
     ※
煉瓦の色の憔心(せうしん)の
見え匿(かく)れする雨の空。
賢(さかし)い少女の黒髪と、
慈父の首(かうべ)と懐かしい……

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」より)
 *原文のルビは、( )内に表記しました。

2008年11月 1日 (土)

元パンクの小説家・町田康の中也読み/信念の詩人

200807062_002

 

 

 

「中原中也 口惜しき人」最終回での
町田康の発言は、
聞き流すと、ありきたりのようですが、
じっくり聞き耳を立てると、
そうだ、そうだ、と合点し、
合点どころか脱帽させられるものが
幾つかありました。

 

その一つ。
中原中也が、早い時期に自分の生き方を決め、
その生き方に沿って、その通りに生きた、
その結果、あのような詩が生れた、
と話すくだり。
最終回の番組の最終部で語られる部分です。

 

こう語ります。

 

中也という人は、人生のかなり早い時期に、かなり厳密に、「自分はこういう人間である」と決めてしまったような気がするんです。そして、こういう人間であると決めたことに、ものすごく忠実に生きた。(略)

 

それは、たいへんな困難とともにあった。なぜなら、自分はこうである、というのはなかなか決められないことであって、普通は周囲の人間とか両親とか環境とかによって決められる。もっと言えば、宇宙とか神様とかによって決められることかもしれない。

 

しかし、中也の場合は自分で決めて、そのとおりに生きた。あるいは生きようとした。これはすごい信念ですよ。

 

その結果、あのような詩が生れた。(略)

 

と、以上のように、
中也が、人生の早い時期に
自分の生き方を自分一人で決め、
ふつうなら、
周囲、両親、環境……
宇宙、神様……が決めるところなのに、
ときたから、
運命という言葉が
飛び出すのかと思ったところを、
そうは言わず、

 

自分で自分の生き方を決めて、
その通りに生き、または、生きようとした
それは、信念によるものだ

 

信念! と断じたのです。
すごい信念ですよ、というのです。

 

信念の詩人、中原中也の誕生! 
です。

 

こんなこと、これまでに、誰も、
言わなかったんじゃないでしょうか。

 

いまだに、無視し、黙殺し、排斥し続ける
というか、
許容できない、包容できない現代詩壇はおろか
中也党といわれる理解者たちも
こんな言い方はしなかった
のではないでしょうか。

 

曇りのない眼差し
既成の評論に左右されない解釈
詩壇文壇の色眼鏡を通さない素直な読み
若い世代の中也像
……
大げさですが
そんな感じの捉え方が生れているようです。

 

あらためて
元パンクの小説家・町田康に
心から、拍手を送ります。

 

パチパチパチパチパチパチパチ。

 

NHK教育テレビ「知るを楽しむ」
「中原中也 口惜しき人」「第4回 詩人という人生」
10月28日22時25分~22時50分放送。

 

中也の作品で、もっともポピュラーと思われる詩をここに載せておきます。

 

 *
 汚れつちまつた悲しみに……

 

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

 

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘(かはごろも)
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

 

汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢む

 

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気(おぢけ)づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』」より)

 

 

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