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2008年11月12日 (水)

元パンクの小説家・町田康の中也読み/エラン・ヴィタールの詩人<2>

中原中也が、
安原喜弘の横浜の住まいを訪ねたのは
昭和12年1937年10月4日土曜日。
亡くなるのは、10月22日午前零時10分でした。

 

安原喜弘編著の「中原中也の手紙」(玉川大学出版部)には、
合計99通の、
中也の手紙・葉書が載せられていますが、
同年9月28日付け、98通目のはがきへのコメントは、
中也が安原を訪れた10月4日から
中也の臨終にいたる
20日間ほどの消息に言い及んでいます。

 

番組テキストでも若干触れていますが
ここのところを少し詳しく、引いておきます。

 

十月四日土曜日。詩人は横浜の私の家を訪ねた。出した酒も手をつけようとせず、帰郷の決意を語つたりした。しきりに頭痛を訴え、視力の困難を述べ、乱視の気味があると言い、頭痛もそのせいかもしれぬと語つた。電線などがハッキリ二つに見え、往来の歩行も不確かであるとのことだつた。熱もあるとのことだつた。暮れてから私は弘明寺終点のバスの乗場まで彼を送つて行つた。詩人はバスの窓から振り返えり振り返えり、やがて鎌倉の方に去つて行つた。私は今も窓ガラスの向うに浮いた詩人の白い顔を想い出すのである。これが私の健康な詩人を見た最後であつた。
詩人はこの翌々日病の床に就き、そして再び立上れなかつたのである。私が報せにより彼を見舞つたとき、彼は鎌倉駅の近くの病院にベッドの人となつていた。急性脳膜炎ということであつた。眼球は異様に膨れ上り、最早正常な意識はなかつた。しきりと囈言を言つていた。側に付添った関口が、詩人の耳に口を寄せ、私が来たことを告げたとき「安原か、あいつは……」とかすかに言つたがその言葉もあとは判断し難かつた。
(前掲書から)

 

さて、エラン・ヴィタールという言葉が
中也の手紙の中に登場するのは
死の直前に安原に書き送った
99番目の手紙の中でのことになります。
(この稿つづく)

 

NHK教育テレビ「知るを楽しむ」
「中原中也 口惜しき人」「第4回 詩人という人生」
10月28日22時25分~22時50分放送。

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