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2008年11月10日 (月)

元パンクの小説家・町田康の中也読み/エラン・ヴィタールの詩人

「エラン・ヴィタール」というのは、哲学者のベルクソンが提唱した概念で、「生の躍動」といった言葉で訳されていますが、中也にとってはまさにぴったりくる言葉だったんじゃないでしょうか。早いうちから、この言葉を自分の人生に重ね合わせていますよ。

 

と、語った後で、町田康は、
中原中也20歳の日記を紹介します。
「中原中也 口惜しき人」最終回で、

 

二十歳のときの日記にこうあります。
「我はエラン・ヴィタール!/
かく言ふを嗤(わら)ふものは我が書を読まざれ。/
嗤はざる素朴の者は熟読せよ」

 

と。

 

中也は、ベルクソンを
富永太郎や小林秀雄や
河上徹太郎や
辰野隆らを通じて知ったのでしょうか、
後に、小林秀雄がベルクソン論を
著わし、未完のままで終わるのですが、
20歳の中也の周辺で
ベルクソンは
見過ごせない存在のようではありました。

 

それは、盛んに読まれていながら
実践するものでは到底ありえなかった
「哲学」に過ぎませんでしたが、
中也は、それを、「実践」する人になってゆくのです。

 

ゆうがた、空の下で、
身一点に感じられれば、
万事において文句はないのだ
と、「いのちの声」で、歌う詩人のことです。

 

エラン・ヴィタールに、
中也の目が向けられないわけがない、
とは、中也の読者ならば、
誰しも思うに違いないのですが、
そこのところを、町田康は、
中也には「ぴったりくる」
と、語ります。
「ぴったりくる」のです。

 

さて、
このエラン・ヴィタールという言葉が
再び登場するのは
中也が死の直前に、
親友・安原喜弘に書き送った
手紙の中でのことでした。

 

(この稿つづく)

 

NHK教育テレビ「知るを楽しむ」
「中原中也 口惜しき人」「第4回 詩人という人生」
10月28日22時25分~22時50分放送。

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