タイトル中に「夏」がある詩について<7>
タイトルに「夏」の字がある作品が、
「草稿詩篇」(1933-1936)には、
4篇あります。
そのうちの3篇は、
この期間の前期、1933年に作られました。
「夏過けて、友よ、秋とはなりました」と
「夏の記臆」は、同日の作であることが注目されます。
中也26歳。
「山羊の歌」の刊行がうまくいかず、
苦しい日々を送っていた詩人ですが、
年末には、上野孝子と結婚、
四谷・花園アパートでの暮らしを始めます。
長男文也は翌1934年10月に生れ、
1936年11月に亡くなります。
この間、1934年12月に、
ようやく、「山羊の歌」は発行されました。
この3作品は、いずれも、結婚以前の作であり、
長男文也の死以前の作であることを
記憶しておきましょう。
*
夏
なんの楽しみもないのみならず
悲しく懶(ものう)い日は日毎続いた。
目を転ずれば照り返す屋根、
木々の葉はギラギラしてゐた。
雲はとほく、ゴボゴボと泡立つて重なり、
地平の上に、押詰まつていた。
海のあるのは、その雲の方だらうと思へば
いぢくねた憧れが又一寸(ちょっと)擡頭(たいとう)する真似をした。
このやうな夏が何年も何年も続いた。
心は海に、帆をみることがなかつた。
漁師町の物の臭(にお)ひと油紙(あぶらがみ)と、
終日陽を受ける崖とは私のものであつた。
可愛い少女の絨毛(わくげ)だの、パラソルだの、
すべて綺麗でサラサラとしたものが、
もし私の目の前を通り過ぎたにせよ、そのために
私の眼が美しく光つたかどうかは甚(はなは)だ疑はしい。
――今は天気もわるくはないし、暴風の来る気配も見えぬ、
よつぽど突発的な何事かの起こらぬ限り、
だから夕方までには濱に着かうこの小舟。
天心に陽は熾(さか)り、櫓の軋(きし)る音、鈍い音。
偶々(たまたま)に、過ぎゆく汽船の甲板からは
私の舟にころがつたたつた一つの風呂敷包みを、
さも面白さうに眺めてござる
エー、眺めているのではないかいな。
波々や波の眼や、此の櫂や
遠に重なる雲と雲、
忽然と吹く風の族、
エー、風の族、風の族。
(1933・8・15)
*
夏過けて、友よ、秋とはなりました
友達よ、僕が何処にゐたか知つてゐるか?
僕は島にゐた、島の小さな漁村にゐた。
其処で僕は散歩をしたり、舟で酒を呑んだりしてゐた。
又沢山の詩も読んだ、何にも煩はされないで。
時に僕はひどく退屈した、君達に会ひたかつた。
しかし君達との長々しい会合、その終りにはだれる会合、
飲みたくない酒を飲み、話したくないことを話す辛さを思ひ出して
僕は僕の惰弱な心を、ともかくもなんとか制(お)さへてゐた。
それにしてもそんな時には勉強は出来なかつた、散歩も出来なかつた。
僕は酒場に出掛けた、青と赤の濁つた酒場で、
僕はジンを呑んで、しまひにはテーブルに俯伏(うつぷ)してゐた。
或る夜は浜辺で舟に凭(すが)つて、波に閃(きらめ)く月を見てゐた。
遠くの方の物凄い空。舟の傍らでは虫が鳴いてゐた。
思ひきりのんびり夢をみてゐた。
浪の音がまだ耳に残つてゐる。
2
暗い庭で虫が鳴いてゐる、雨気含んだ風が吹いてゐる。
茲(ここ)は僕の書斎だ、僕はまた帰つて来てゐる。
島の夜が思ひ出される、いつたいどうしたものか夏の旅は、
死者の思ひ出のやうに心に沁みる、毎年々々、
秋が来て、今夜のやうに虫の鳴く夜は、
靄(もや)に乗つて、死人は、地平の方から僕の窓の下まで来て、
不憫にも、顔を合はすことを羞(はづか)しがつてゐるやうに思へてならぬ。
それにしても、死んだ者達は、あれはいつたいどうしたのだらうか?
過ぎし夏よ、島の夜々よ、おまへは一種の血みどろな思ひ出、
それなのにそれはまた、すがすがしい懐かしい思ひ出、
印象は深く、それなのに実際なのかと、疑つてみたくなるやうな思ひ出、
わかってゐるのに今更のやうに、ほんとだつたと驚く思ひ出!……
(1933・8・21)
*
夏の記臆
温泉町のほの暗い町を、
僕は歩いてゐた、ひどく俯(うつむ)いて。
三味線の音や、女達の声や、
走馬燈(まはりどうろ)が目に残つてゐる。
其処(そこ)は直ぐそばに海もあるので、
夏の賑ひは甚だしいものだつた。
銃器を掃除したボロギレの親しさを、
汚れた襟(えり)に吹く、風の印象を受けた。
闇の夜は、海辺(ばた)に出て、重油のやうな思ひをしてゐた。
太つちよの、船頭の女房は、かねぶんのやうな声をしてゐた。
最初の晩は町中歩いて、歯ブラシを買つて、
宿に帰つた。――暗い電気の下で寝た。
(1933・8・21)
(角川文庫ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
(この稿つづく)
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