大晦日の囚人/除夜の鐘
年も押し迫って
どうしても、今、年の明ける前に
読んでおきたい作品が
これ、「除夜の鐘」です。
いつ読んだっていいんだよ、と、
中也は穏やかな笑みを見せて
言うかもしれません。
俺の詩は、
季節を入り口にしているものが多いけれど
季節そのものを歌っているものは少ないのさ
季節の感情をきっかけにして
その向こうに目を向けている。
とはいうものの、
「除夜の鐘」は、
今、この時、読むのにぴったりですから
静かな心構えになって
読んでみよう。
近頃は、騒がしい年の瀬ですから
除夜の鐘に耳を澄ますなんてことは
あまりしなくなりましたが、
小学生くらいまで
それが鳴りはじめるのを待つ時間が、
大晦日にあったことを思い出します。
小さいとき、何度か引越しをしましたが
どんな土地へ行っても
大晦日に除夜の鐘が聞こえてくるのだ、と
知った時、
幼心に不思議な気持ちを抱いたことも
いま、思い出しました。
その音は
千万年も前の昔から、
つまり、ずーっとずーっと昔の、
暗ーい遠ーい空からやってきて、
この古びた時間が堆積した夜の空気を
震わせて、聞こえてきます。
それは寺院の森の
霧でかすんだような冬の夜の空のあたりで
鳴って、そこから響いてくるのだ
その時、子供たちは父や母の膝元で
年越しそばを食べていることだろう
その時、銀座や浅草は、
人出で大賑わいだろう
みんな、思い思いに
年越しを感謝し、祈り、喜んでいることだろう……
でも、年越そばを食べる家族たちや、
銀座、浅草の人波に揉まれている人々に
除夜の鐘は聞こえていないかもしれない。
私は、ふと思う。
除夜の鐘が鳴る、その時、
監獄の囚人たちは、
どんな気持ちでいるのだろうか、と。
どんなことを考えたりしているだろうか、と。
暗ーい遠ーい空から
鳴り響いてくる、この鐘の音を、
どんな気持ちで聞いていることだろう。
*
除夜の鐘
除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
千万年も、古びた夜(よる)の空気を顫(ふる)はし、
除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
それは寺院の森の霧つた空……
そのあたりで鳴つて、そしてそこから響いて来る。
それは寺院の森の霧つた空……
その時子供は父母の膝下(ひざもと)で蕎麦(そば)を食うべ、
その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出、
その時子供は父母の膝下で蕎麦を食うべ。
その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出。
その時囚人は、どんな心持だらう、どんな心持だらう、
その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出。
除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
千万年も、古びた夜(よる)の空気を顫(ふる)はし、
除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
*霧つた 「けむつた」「もやつた」という読み方が考えられる。古語では「きりつた」。
*食うべ 古語では「とうべ」と読み、昭和初年代の東京郊外の方言では「くうべ」。初出の「四季」1936年1月号では、「食べ」と表記。誤植の可能性もあるが、原本の詩集「在りし日の歌」の本文のままとした。
(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)
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