カテゴリー

2024年1月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »

2008年12月

2008年12月29日 (月)

大晦日の囚人/除夜の鐘

年も押し迫って
どうしても、今、年の明ける前に
読んでおきたい作品が
これ、「除夜の鐘」です。

 

いつ読んだっていいんだよ、と、
中也は穏やかな笑みを見せて
言うかもしれません。

 

俺の詩は、
季節を入り口にしているものが多いけれど
季節そのものを歌っているものは少ないのさ
季節の感情をきっかけにして
その向こうに目を向けている。

 

とはいうものの、
「除夜の鐘」は、
今、この時、読むのにぴったりですから
静かな心構えになって
読んでみよう。

 

近頃は、騒がしい年の瀬ですから
除夜の鐘に耳を澄ますなんてことは
あまりしなくなりましたが、
小学生くらいまで
それが鳴りはじめるのを待つ時間が、
大晦日にあったことを思い出します。

 

小さいとき、何度か引越しをしましたが
どんな土地へ行っても
大晦日に除夜の鐘が聞こえてくるのだ、と
知った時、
幼心に不思議な気持ちを抱いたことも
いま、思い出しました。

 

その音は
千万年も前の昔から、
つまり、ずーっとずーっと昔の、
暗ーい遠ーい空からやってきて、
この古びた時間が堆積した夜の空気を
震わせて、聞こえてきます。

 

それは寺院の森の
霧でかすんだような冬の夜の空のあたりで
鳴って、そこから響いてくるのだ

 

その時、子供たちは父や母の膝元で
年越しそばを食べていることだろう
その時、銀座や浅草は、
人出で大賑わいだろう
みんな、思い思いに
年越しを感謝し、祈り、喜んでいることだろう……

 

でも、年越そばを食べる家族たちや、
銀座、浅草の人波に揉まれている人々に
除夜の鐘は聞こえていないかもしれない。

 

私は、ふと思う。
除夜の鐘が鳴る、その時、
監獄の囚人たちは、
どんな気持ちでいるのだろうか、と。
どんなことを考えたりしているだろうか、と。

 

暗ーい遠ーい空から
鳴り響いてくる、この鐘の音を、
どんな気持ちで聞いていることだろう。

 

 *
 除夜の鐘

 

除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
千万年も、古びた夜(よる)の空気を顫(ふる)はし、
除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

 

それは寺院の森の霧つた空……
そのあたりで鳴つて、そしてそこから響いて来る。
それは寺院の森の霧つた空……

 

その時子供は父母の膝下(ひざもと)で蕎麦(そば)を食うべ、
その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出、
その時子供は父母の膝下で蕎麦を食うべ。

 

その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出。
その時囚人は、どんな心持だらう、どんな心持だらう、
その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出。

 

除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
千万年も、古びた夜(よる)の空気を顫(ふる)はし、
除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

 

*霧つた 「けむつた」「もやつた」という読み方が考えられる。古語では「きりつた」。
*食うべ 古語では「とうべ」と読み、昭和初年代の東京郊外の方言では「くうべ」。初出の「四季」1936年1月号では、「食べ」と表記。誤植の可能性もあるが、原本の詩集「在りし日の歌」の本文のままとした。

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)

2008年12月26日 (金)

サーカス/山羊の歌・再読


サーカス

幾時代かがありまして
  茶色い戦争ありました

幾時代かがありまして
  冬は疾風吹きました

幾時代かがありまして
  今夜此処(ここ)での一(ひ)と殷盛(さか)り
    今夜此処での一と殷盛り

サーカス小屋は高い梁(はり)
  そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ

頭倒(さか)さに手を垂れて
  汚れ木綿の屋蓋(やね)のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

それの近くの白い灯が
  安値(やす)いリボンと息を吐き

観客様はみな鰯
  咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

     屋外(やぐわい)は真ッ闇(くら) 闇(くら)の闇(くら)
     夜は劫々(こふこふ)と更けまする
     落下傘奴(らくかがさめ)のノスタルヂアと
     ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)


幾時代かがありまして、
茶色い戦争がありました
僕ときたら
よくまあ、戦ってきたものです。
冬には、疾風(はやて)も吹いたというのに。

幾時代かがありまして、
こうして今宵、盛り上がり
賑わしく、一人酒といきましょう。

しばらく、やっていましたら、
現れたるは、サーカス小屋。
高い梁にブランコがかかって、
見えないけれど
見えるのです

二人の男女の空中ブランコ。
逆さづりの状態で、
手を地面に向けて広げています。
汚れたシートの屋根の下で
ゆやーんと右に揺れ
ゆよーんと左に揺れて、
真ん中にきて
ゆやゆよんと
からまります

暗闇に、白い光線が、
何本か、よぎっている。
それは、安っぽいリボンのようです。

観客は、みんな同じに、
鰯のような顔を並べて、
見上げています。
喉を大きく開けて、
ゴロゴロ鳴らしている。
牡蠣の殻が犇(ひし)めいているみたい。

屋外といえば
真っ黒、まっくら、
こうこうと、更けていきます
落下傘っちゅう戦争ノスタルジーとともに。

ゆあーんゆよーんゆやゆよん

春の日の夕暮/山羊の歌・再読


春の日の夕暮

トタンがセンベイ食べて
春の日の夕暮は穏かです
アンダースローされた灰が蒼ざめて
春の日の夕暮は静かです

吁(ああ)! 案山子(かかし)はないか——あるまい
馬嘶(いなな)くか——嘶きもしまい
ただただ月の光のヌメランとするまゝに
従順なのは 春の日の夕暮か

ポトホトと野の中に伽藍(がらん)は紅く
荷馬車の車輪 油を失ひ
私が歴史的現在に物を云へば
嘲る嘲る 空と山とが

瓦が一枚 はぐれました
これから春の日の夕暮は
無言ながら 前進します
自(みづか)らの 静脈管の中へです

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)


日没のいめーじ。
トタン屋根の密集する町。
電柱電線など、雑多な風景がシルエットになっている。
その風景のバックに巨大なまん丸の太陽。
まさに、トタンがセンベイを食べている光景です。
春の夕暮れは、穏やかです。

アンダースローされた灰とは、
太陽の向こうか周辺か、
靄とか煙みたいなもの(灰)が
青黒く(青白く)、
ただよっている。
静かな感じです。

そんなに穏やかで静かな春の夕暮れならばさあ
案山子はいるかい?
いやしまい。いないだろ。
そんじゃ、馬は嘶いているかい?
嘶いていやしないだろーよ。
ただ、東の空の月の光だけが、
ヌメッとして従順な
春の夕暮れなのです

ホトホトって感じで
伽藍のような、広い野原は
夕日で真っ赤に染まっているよ。
そこを、荷馬車がギシギシと、
油ぎれした車輪の音を立てて
通っていくよ

ぼくが、
歴史的現在、というのは、政治や世の中のことなのだが、
それについて発言すれば、
バカにされるは、バカにされるは!
てんで、相手になってくれない。

おーっと、瓦が1枚、
向こうの屋根からはがれました
これからです。
これから、静かに静かに、
春の夕暮れが進みます。
頂点をむかえます。
全部、ぼくの、
静脈の中へ入っていきます。

詩人の孤独/或る男の肖像

「或る男の肖像」は、
はじめ、「或る夜の幻想」の一部でした。

 

「或る夜の幻想」は、
はじめは、6章仕立てで、
1 彼女の部屋
2 村の時計
3 彼女
4〜6 或る男の肖像
という構成でしたが、
中也は、
2を独立させ、4〜6も独立させ、
3個の作品としました。

 

したがって、
もととなった作品「或る夜の幻想」は
その1と3が残って、
これも独立した作品になったという経緯があります。

 

一つの作品が、
このような改竄(ざん)を受けたことを知るのは
「料理の裏側」を見るような驚きがあり、
創作の現場というもの、
詩人の現場での息づかいというもの、
創意と工夫と苦悩と悦楽と……
生誕の秘密と……

 

要するに
作品以前を垣間見ることができて
それなりに楽しいのですが、
それだけのことでもあります。
要するに、
そんなこと知っていても
知らなくてもOKです。
そんなことが、
素朴な読者のハンディであってはなりません。

 

「或る男の肖像」は、
詩人が、独立した作品としたのですから、
その作品を味わえばよい、
その歌を聴けばよい。

 

何かごそっと抜けたような感じとか
飛躍とか省略とか欠落とか……
もし、そのような感じがするのなら、
その飛躍とか省略とか欠落とかを味わえばよい
これらは、言い換えれば
ダイナミズムでもあります。
躍動感の源です。
何かしら、動的な詩になっている理由です。

 

1は、
ある洒落男、これは伊達男(ダテおとこ)と言えば分かりやすいか、の、
描写。
すでに死んでいる。
わずか5行で、ありありと、
その洒落振り、伊達振りが表される。
しかし、歳をとってもの洒落振りゆえに、
その男、あわれである。

 

2は、
その男の「在りし日」。
髪を撫でつけ、さっそうと遊びに出て行く男の
すーすーと風が吹き抜けていくような暮らし。

 

3は、
男の恋人が登場。
彼女は、「壁の中へ」去ってしまい、
だから、男は一人っきりで、
汚れの一つもない部屋の
真ん中にあるテーブルを拭いている。

 

この、立ち上ってくるような孤独。
きっと、ここに
詩人がいます。

 

 

 

 *
 或る男の肖像

 

   1

 

洋行帰りのその洒落者(しやれもの)は、
齢(とし)をとつても髪に緑の油をつけてた。

 

夜毎喫茶店にあらはれて、
其処(そこ)の主人と話してゐる様(さま)はあはれげであつた。

 

死んだと聞いてはいつそうあはれであつた。

 

   2

 

      ——幻滅は鋼(はがね)のいろ。
髪毛の艶(つや)と、ラムプの金との夕まぐれ
庭に向つて、開け放たれた戸口から、
彼は戸外に出て行つた。

 

剃りたての、頚条(うなじ)も手頸(てくび)も
どこもかしこもそはそはと、
寒かつた。

 

開け放たれた戸口から
悔恨は、風と一緒に容赦なく
吹込んでゐた。

 

読書も、しむみりした恋も、
あたたかいお茶も黄昏(たそがれ)の空とともに
風とともにもう其処にはなかつた。

 

   3

 

彼女は
壁の中へ這入(はひ)つてしまつた。
それで彼は独り、
部屋で卓子(テーブル)を拭いてゐた。

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」より)

2008年12月25日 (木)

もう一度会いたい女性/米子

「永訣の秋」16篇には、
女性の出てくる詩が
いくつかあります。

 

「ゆきてかへらぬ——京都——」
「あばずれ女の亭主が歌つた」
「或る男の肖像」
「米子」の4作。

 

「米子」は、女性の名前yonekoヨネコで、
「よなご」ではありません。

 

28歳の女性は、
肺病を病んでいて
ふくらはぎは細かった
(腓は、「こむら」と読み、
「ふくらはぎ」のこと。)
ポプラのように
舗道に立っていた。

 

ポプラという比喩が
病んだ女のひょろっとした
背の高い感じを表していて
中也独特です。
腓が細く、ととらえる
リアルな眼差しで細部を表し、
全体を、ポプラと鷲づかみにする、
表現力に強さがあります。

 

よねこという名前だった。
夏には、顔が、汚れて見えたが
秋冬になると、すっきりきれいになった
かぼそい声だった。

 

結婚すれば、
病気など、治ってしまうさ、
と、彼女を見ると、私はいつも思っていたが、
そう言ったことはなかった。
なぜだか、言えなかった。

 

雨上がりの午後の舗道に立っていた
あの女性のかぼそい声を
もう一度、聞いてみたい、と
このごろ
しんみりと、そんなことを思います。

 

「あばずれ女の亭主が歌つた」の

 

佳い香水のかをりより、
病院の、あはい匂ひに慕ひよる。

 

と似たような感情が
ここでも、歌われています。

 

もう一度会いたい女性を歌い、
失われた過去、過ぎ去りし日に思いを馳せ、
そして、
さらば青春!と、
失われた青春を惜しむ気持ちも託されているような作品です。

 

 *
 米子

 

二十八歳のその処女(むすめ)は、
肺病やみで、腓(ひ)は細かつた。
ポプラのやうに、人も通らぬ
歩道に沿つて、立つてゐた。

 

処女(むすめ)の名前は、米子と云つた。
夏には、顔が、汚れてみえたが、
冬だの秋には、きれいであつた。
——かぼそい声をしてをつた。

 

二十八歳のその処女(むすめ)は、
お嫁に行けば、その病気は
癒(なほ)るかに思はれた。と、さう思ひながら
私はたびたび処女(むすめ)をみた……

 

しかし一度も、さうと口には出さなかつた。
別に、云ひ出しにくいからといふのでもない
云つて却(かへ)つて、落胆させてはと思つたからでもない、
なぜかしら、云はずじまひであつたのだ。

 

二十八歳のその処女(むすめ)は、
歩道に沿つて立つてゐた、
雨あがりの午後、ポプラのやうに。
——かぼそい声をもう一度、聞いてみたいと思ふのだ……

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」より)

2008年12月24日 (水)

止まった時間/村の時計

「四季」の昭和12年(1937年)3月号に載り、
昭和8年10月10日に制作されたことがわかっている
「村の時計」は
これが作られた、
なんらかの背景とか、状況とかを
探したって、意味のないことでしょう。

 

この村が、どこそこの村であるとか、
その村には、時計塔があるだの、ないだの、
そんな詮索をしたって、
無駄です。

 

大きな古びた時計がありました、
ひっきりなしに休む間もなく
その時計は動いていました、
というだけの事実を
ただ記録しているだけの詩であるかの
まるで叙景詩のようなこの詩のあじわいは、
時計は絶え間なく動いているのに、
止まってしまったかのような時間そのもの……
にあるのではないか。

 

どうして時間が止まった感じになるのか
わかりません。

 

文字板のペンキはつやがない
小さなひびがたくさんある
夕陽が当たっているけれどもおとなしい色
ぜいぜいと鳴る

 

これらが
静止した時間を
感じさせるのでしょうか

 

いかなる物語も
見当たりませんが、
数多の物語があった過去
過ぎ去りし日々を
思わせもします。

 

 *
 村の時計

 

村の大きな時計は、
ひねもす動いてゐた

 

その字板のペンキは
もう艶(つや)が消えてゐた

 

近寄つてみると、
小さなひびが沢山にあるのだつた

 

それで夕陽が当つてさへが、
おとなしい色をしてゐた

 

時を打つ前には、
ぜいぜいと鳴つた

 

字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか
僕にも誰にも分らなかつた

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)

言葉なき歌/詩論の詩

「在りし日の歌」の「永訣の秋」を読んでいると
この章の作品の選択や配列や編集に、
詩人が込めた様々な思いや
豊富な試み、実験、たくらみ……
様々な意匠=デザインに出会うことになり、
圧倒されます。

 

ここには、
終わりであることによって、
始まりを意味しようとする
編集上の意思のようなものが
くっきり現れます。

 

文也の死を悼む詩を中心に
その周りに、
女たちへの惜別の歌
都会の風景、田舎の風景を歌った詩
詩人の肖像や履歴を歌った詩
詩論や思想を盛り込んだ歌
これらのどれにも属さない「一つのメルヘン」……

 

中也詩の多様な流れが
ここにきて、
一所に集まり、
それぞれが、静かに声を挙げている。
そんなおもむきがあります。

 

東京滞在13年の生活に別れを告げ、
詩人は、
生地・山口に下る決意を固めていました。
そこで一区切りつけるための詩集の刊行でした。
原稿を、いまや、「文学界」の編集に携わっていた
小林秀雄に託します。

 

「言葉なき歌」は、
詩人の表現論の基底に流れる
独自の詩論を述べたもので、
「名辞以前の世界」
「身一点に感じる」
「エラン・ヴィタール」など
詩が伝えようするもの——あれが、

 

遠いところにあり、
遠いところではあるけれど、
夕陽にけぶっていて、
フィトルの音のようにか弱く、
煙突のけむりのように、
あかねの空にたなびいて……

 

なかなか容易にはとらえられないもので
しかし、あせらずに、
じっと、ここで待っていなくてはならないものだ、と
詩人のスタンスを述べ、
詩論を展開したものです。

 

「いのちの声」の
ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。
の系譜にある作品
ということができるでしょう。

 

 *
 言葉なき歌

 

あれはとほいい処にあるのだけれど
おれは此処(ここ)で待つてゐなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼(あを)く
葱(ねぎ)の根のやうに仄(ほの)かに淡(あは)い

 

決して急いではならない
此処で十分待つてゐなければならない
処女(むすめ)の眼(め)のやうに遥かを見遣(みや)つてはならない
たしかに此処で待つてゐればよい

 

それにしてもあれはとほいい彼方(かなた)で夕陽にけぶつてゐた
号笛(フイトル)の音(ね)のやうに太くて繊弱だつた
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待つてゐなければならない

 

さうすればそのうち喘(あへ)ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違ひない
しかしあれは煙突の煙のやうに
とほくとほく いつまでも茜(あかね)の空にたなびいてゐた

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」より)

2008年12月22日 (月)

狐と狸/あばずれ女の亭主が歌つた

「永訣の秋」のトップが、
「ゆきてかへらぬ――京都――」で、
京都といえば、
中原中也が長谷川泰子と出会った地であり、
それならば、

 

 女たちは、げに慕はしいのではあつたが、一度とて、会ひに行かうと思はなかつた。夢みるだけで沢山だつた。

 

と、ある「女たち」は、
「たち」と、複数形ではありますが、
長谷川泰子のことであり、
ほかに、中也の交際した女があったとしても、
泰子が含まれていることは間違いなく、

 

1937年(昭和12年)という、
詩人が、この世から去る年になっても、
泰子がここに登場するということに
驚く人がいるかもしれませんが、
それほど、驚くべきことではありません。

 

中也と泰子の関係は、
そのようなものだった、と、
余計なことを考えないで、
受け止めた方が自然というものです。

 

「ゆきてかへらぬ」の次の次にある
「あばずれ女の亭主が歌つた」には、
もっともっとヴィヴィッドに
泰子は登場しますし、
このタイトルの、
あばずれ女が泰子で、
亭主が中也であることは、
もはや、定説です。

 

そのような考証が行われてきたのですが、
これらのことを離れても
詩は読めるのだ、ということは、
強調されて過ぎることはありません。

 

あばずれ女がいたんだな、と、
読者は、まず、思い思いに、
あばずれ女をイメージし、
その亭主の口を借りて歌われている詩なのだな、と、
詩句を読み進めながら、
そのイメージを訂正したり、
ふくらませたりしていけば、
作品に近づくことになります。

 

ここに歌われている
あばずれ女とその亭主は、
その辺によくみかける
普通の男と女です。
「狐と狸」に比すことができそうに
俗っぽい男と女です。
ほとんど、普遍化された
男と女の関係です。

 

中也はそのように、
泰子との関係を思いなしたかったという
希望であると同時に
その関係の終わりを歌ったものでもありましょう。

 

 *
 あばずれ女の亭主が歌つた

 

おまへはおれを愛してる、一度とて
おれを憎んだためしはない。
おれもおまへを愛してる。前世から
さだまつていることのやう。

 

そして二人の魂は、不識(しらず)に温和に愛し合ふ
もう長年の習慣だ。

 

それなのにまた二人には、
ひどく浮気な心があつて、

 

いちばん自然な愛の気持を、
時にうるさく思ふのだ。

 

佳い香水のかをりより、
病院の、あはい匂ひに慕ひよる。

 

そこでいちばん親しい二人が、
時にいちばん憎みあふ。

 

そしてあとでは得態(えたい)の知れない
悔の気持に浸るのだ。

 

あゝ、二人には浮気があつて、
それが真実(ほんと)を見えなくしちまふ。

 

佳い香水のかをりより、
病院の、あはい匂ひに慕ひよる。

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」より)

2008年12月20日 (土)

薄命そうなピエロ/幻影

「ゆきてかへらぬ」(四季)
「一つのメルヘン」(文芸汎論)
「幻影」(文学界)
「あばずれ女の亭主が歌った」(歴程)

 

「永訣の秋」冒頭の4作品は、
1937年11月の文芸誌に発表されている、
という共通点があり、
制作日時も同じころであろう、
と推測され、
各誌の原稿締切日が分かれば、
順番もある程度は明らかになってくるではないか、
という想定で、
考証され、研究されてきました。

 

原稿締切日は、
だいたいが、発行日の2か月前、
ということになっています。

 

ということで、
「幻影」は、
「文学界」1937年11月号に掲載されたのですから、
同年9月以前の制作ということになります。
ということは、
長男文也の死以前の作ということになります。

 

この作品で、
詩人は、自らをピエロになぞらえて
詩人のイメージを語るのですが、
第1連、
私の頭の中には、いつの頃からか、
薄命さうなピエロがひとり棲んでゐて、

 

と、そのピエロが、
薄命そうであることが、
のっけに歌われると、
ギクリとせざるをえません。
中也は、この時点で、死を予感していたのではないか、
などと、性急な読者のだれかが、思っても、
仕方のないことかもしれません。

 

元気のなさそうな
詩人のイメージは、
この詩を作っていた時点で、
単に体調が思わしくなかったことからくるのか、
すでに、死に至る病に冒されていたことからくるのか、
もっと、ほかのことからくるのか、
わからないことですが、
このピエロは、弱々しげです。

 

紗は、薄く透き通った絹織物のことで、
それで作られた服を着たピエロが、
月光を一身に浴びて、
パントマイムでもしているのですが、
そのパントマイムが伝わらないで、
観客に、あわれげに思われるだけだった

 

身振り手振りで、
くちびるを動かしてしゃべっている振りまでしているのだけど、
まるで、古い影絵を見ているようで、
音も出さないマイムなので
何を言っているのかが伝わりません

 

あやしく明るい霧の中に
浮かび上がるその姿は
ゆるやかに動いていて、
でも、
眼差しには、
なんともいえない
やさしさがこもっているのがわかりました。

 

この、最後の1行に
ピエロ=詩人への肯定があり、
その肯定は、オマージュとなっているのですが、
それも、まぼろしだったのか……。

 

 *
 幻影

 

私の頭の中には、いつの頃からか、
薄命さうなピエロがひとり棲んでゐて、
それは、紗(しや)の服なんかを着込んで、
そして、月光を浴びてゐるのでした。

 

ともすると、弱々しげな手付をして、
しきりと 手真似をするのでしたが、
その意味が、つひぞ通じたためしはなく、
あわれげな 思ひをさせるばつかりでした。

 

手真似につれては、唇(くち)も動かしてゐるのでしたが、
古い影絵でも見てゐるやう——
音はちつともしないのですし、
何を云つてるのかは 分りませんでした。

 

しろじろと身に月光を浴び、
あやしくもあかるい霧の中で、
かすかな姿態をゆるやかに動かしながら、
眼付ばかりはどこまでも、やさしさうなのでした。

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」より)

2008年12月19日 (金)

京都回想/ゆきてかへらぬ

詩集「在りし日の歌」の
「永訣の秋」に戻ります。

 

「永訣の秋」16篇中に、
中也は、
長男文也の死を悼んだ作品を
意識して、集めたようです。
しかし、それらは、
文也の死を固有に歌ったものとは限らず
文也の死に、必ずしも、結びつけなくても読める
普遍性をもった作品でもありました。

 

その上、
「永訣の秋」は
もちろん、
「死一色」では、
ありません。

 

冒頭の4作、
「ゆきてかへらぬ」(四季)
「一つのメルヘン」(文芸汎論)
「幻影」(文学界)
「あばずれ女の亭主が歌った」(歴程)

 

は、1937年11月の文芸誌に発表されている、
という共通点があり、
一括りにみることができますが、
これらは、「死」を歌っているとはかぎりませんし、
少なくとも、直接的には歌いませんし、
内容もそれぞれです。

 

各誌に見合った作品を発表したことがわかり、
バラエティーに富んでいます。

 

「ゆきてかへらぬ」は、
「往きて帰らぬ」で、往き去って帰らない。
「京都」とあるのは、
「京都にて」ではなくて、
「京都で過ごした青春」
ほどに受け取ったほうがよいでしょう。

 

山口中学を落第し、
京都の立命館中学へ転入した「詩人の卵」は、
親元を離れたことで、
自由を謳歌するように、
京都で暮らします。

 

詩集「ダダイスト新吉の詩」にふれ、
長谷川泰子と出会い、
富永太郎を知った京都です。

 

中也は、
16歳から約3年間、京都にいました。
その京都を、
約15年後に、30歳の詩人が
振り返るのです。

 

 *
 ゆきてかへらぬ
     ――京都――

 

 僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒(そそ)ぎ、風は花々揺(ゆす)つてゐた。

 

 木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々(あかあか)と、風車を付けた乳母車(うばぐるま)、いつも街上に停(とま)つてゐた。

 

 棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者(みより)なく、風信機(かざみ)の上の空の色、時々見るのが仕事であつた。

 

 さりとて退屈してもゐず、空気の中には蜜があり、物体ではないその蜜は、常住食すに適してゐた。

 

 煙草くらゐは喫つてもみたが、それとて匂ひを好んだばかり。おまけに僕としたことが、戸外でしか吹かさなかつた。

 

 さてわが親しき所有品(もちもの)は、タオル一本。枕は持つてゐたとはいへ、布団(ふとん)ときたらば影だになく、歯刷子(はぶらし)くらゐは持つてもゐたが、たつた一冊ある本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだつた。

 

 女たちは、げに慕はしいのではあつたが、一度とて、会ひに行かうと思はなかつた。夢みるだけで沢山だつた。

 

 名状しがたい何物かゞ、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴つてゐた。

 

           *             *
                  *

 

 林の中には、世にも不思議な公園があつて、不気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩してゐて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情してゐた。

 

 さてその空には銀色に、蜘蛛(くも)の巣が光り輝いてゐた。

2008年12月18日 (木)

長男文也の死をめぐって/中原中也の死

「草稿詩篇」(1937年)6篇のうち、
「夏と悲運」だけは、
 (一九三七・七)と
制作日が記されています。
中也が亡くなるのは
10月22日ですから、
死の約4か月前の作です。

 

小学校の音楽の授業で
オルガンを弾く先生が
アアアアアアアと音程練習をさせる光景は、
だれでも経験することでしょうが、
あの、なんとも言えない滑稽さに
少年は吹き出してしまって、
廊下に立たされた。

 

誰が見たって
可笑しいのに
なんでぼくが罰をうけなあきゃならないんだよ

 

遠い昔の
悲運を
詩人は
この時になって
思い出し……

 

30年生きてきたけれど
思えば、悲運ばかりが続いた……
と、あれこれ思い出す中に
文也の死がないわけがありません。

 

「少女と雨」の
最終行、

 

花畑を除く一切のものは
みんなとつくに終つてしまつた 夢のやうな気がしてきます

 

「秋の夜に、湯に浸り」の
冒頭行、

 

秋の夜に、独りで湯に這入(はい)ることは、
淋しいぢやないか。

 

このあたりにも
文也の死を
心の芯で受け止めている
詩人があります。

 

「秋の夜に、湯に浸り」と「四行詩」との間には
どれほどの時間が流れたことでしょうか。

 

おまえはもう
静かな部屋に
帰るがよい。

 

おまへはもう
郊外の道を
辿(たど)るがよい。

 

心の呟(つぶや)きを、
ゆつくりと聴くがよい。

 

あたかも、
自らの死に
したがうかのようでありながら、

 

自分の生存への
エールのような
うたを
きざみ……

 

その何日か後に
亡くなりました。

 

 *
 少女と雨

 

少女がいま校庭の隅に佇んだのは
其処(そこ)は花畑があつて菖蒲(しょうぶ)の花が咲いてるからです

 

菖蒲の花は雨に打たれて
音楽室から来るオルガンの 音を聞いてはゐませんでした

 

しとしとと雨はあとからあとから降つて
花も葉も畑の土ももう諦めきつてゐます

 

その有様をジッと見てると
なんとも不思議な気がして来ます

 

山も校舎も空の下(もと)に
やがてしづかな回転をはじめ

 

花畑を除く一切のものは
みんなとつくに終つてしまつた 夢のやうな気がしてきます

 

 *
 夏と悲運

 

とど、俺としたことが、笑ひ出さずにやゐられない。

 

思へば小学校の頃からだ。
例へば夏休みも近づかうといふ暑い日に、
唱歌教室で先生が、オルガン弾いてアーエーイー、
すると俺としたことが、笑ひ出さずにやゐられなかつた。
格別、先生の口唇が、鼻腔が可笑しいといふのではない、
起立して、先生の後から歌ふ生徒等が、可笑しいといふのでもない、
それどころか俺は大体、此の世に笑ふべきものが存在(ある)とは思つてもゐなかつた。
それなのに、とど、笑ひ出さずにやゐられない、
すると先生は、俺を廊下に出して立たせるのだ。
俺は風のよく通る廊下で、淋しい思ひをしたもんだ。
俺としてからが、どう解釈のしやうもなかつた。
別に邪魔になる程に、大声で笑つたわけでもなかつたし、
然(しか)し先生がカンカンになつてゐることも事実だつたし、
先生自身何をそんなに怒るのか知つてゐぬことも事実だつたし、
俺としたつて意地やふざけで笑つたわけではなかつたのだ。
俺は廊下に立たされて、何がなし、「運命だ」と思ふのだつた。

 

大人となつた今日でさへ、さうした悲運はやみはせぬ。
夏の暑い日に、俺は庭先の樹の葉を見、蝉を聞く。
やがて俺は人生が、すつかり自然と游離してゐるやうに感じだす。
すると俺としたことが、もう何もする気も起らない。
格別俺は人生が、どうのかうのと云ふのではない。
理想派でも虚無派でもあるわけではとんとない。
孤高を以て任じてゐるなぞといふのでは尚更(なおさら)ない。
しかし俺としたことが、とど、笑ひ出さずにやゐられない。

 

どうしてそれがさうなのか、ほんとの話が、俺自身にも分らない。
しかしそれが結果する悲運ときたらだ、いやといふほど味はつてゐる。
                      (一九三七・七)
 *
 秋の夜に、湯に浸り

 

秋の夜に、独りで湯に這入(はい)ることは、
淋しいぢやないか。

 

秋の夜に、人と湯に這入ることも亦(また)、
淋しいぢやないか。

 

話の駒が合つたりすれば、
その時は楽しくもあらう

 

然しそれといふも、何か大事なことを
わきへ置いといてのことのやうには思はれないか?

 

ーー秋の夜に湯に這入るには……
独りですべきか、人とすべきか?
所詮は何も、
決ることではあるまいぞ。

 

さればいつそ、潜つて死にやれ!
それとも汝、熱中事を持て!

 

 *
 四行詩

 

おまえはもう静かな部屋に帰るがよい。
煥発(かんぱつ)する都会の夜々の燈火を後(あと)に、
おまへはもう、郊外の道を辿(たど)るがよい。
そして心の呟(つぶや)きを、ゆつくりと聴くがよい。

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

長男文也の死をめぐって/草稿詩篇1937年

「草稿詩篇」(1937年)は、
中也最晩年の作品6篇が
まとめられています。

 

「春と恋人」
「少女と雨」
「夏と悲運」
「(嘗てはラムプを、とぼしてゐたものなんです)」
「秋の夜に、湯に浸り」
「四行詩」

 

の、6篇ですが、
「夏と悲運」は、
すでに、「タイトルに夏のある詩」で読みました。
いずれも、
中也の「最終詩」です。
「四行詩」は、
中也「最期の詩」です。

 

以下に作品を載せます。
「(嘗てはラムプを、とぼしてゐたものなんです)」
「四行詩」の2作品を除いて、
文也の死の影が落ちているような、
そうとも断定できないような、
喪失感とか、悲運とか……
絶望とか、諦念とか……が、
感じられます。

 

 *
 春と恋人そこ
美しい扉の親しさに
私が室(へや)で遊んでゐる時、
私にかまはず実つてた
新しい桃があつたのだ……

 

街の中から見える丘、
丘に建つてたオベリスク、
春には私に桂水くれた
丘に建つてたオベリスク……

 

蜆(しじみ)や鰯(いわし)を商ふ路次の
びしょ濡れの土が歌つてゐる時、
かの女は何処(どこ)かで笑つてゐたのだ

 

港の春の朝の空で
私がかの女の肩を揺つたら、
真鍮(しんちゅう)の、盥(たらひ)のやうであつたのだ……

 

以来私は木綿の夜曲?
はでな処(とこ)には行きたかない……

 

*オベリスク 古代エジプトで神殿の左右に建てた、四角い尖った石柱。
*桂水 「桂」は、香木の名。匂いの良い水の意か。

 

 *
 少女と雨

 

少女がいま校庭の隅に佇んだのは
其処(そこ)は花畑があつて菖蒲(しょうぶ)の花が咲いてるからです

 

菖蒲の花は雨に打たれて
音楽室から来るオルガンの 音を聞いてはゐませんでした

 

しとしとと雨はあとからあとから降つて
花も葉も畑の土ももう諦めきつてゐます

 

その有様をジッと見てると
なんとも不思議な気がして来ます

 

山も校舎も空の下(もと)に
やがてしづかな回転をはじめ

 

花畑を除く一切のものは
みんなとつくに終つてしまつた 夢のやうな気がしてきます

 

 *
 夏と悲運

 

とど、俺としたことが、笑ひ出さずにやゐられない。

 

思へば小学校の頃からだ。
例へば夏休みも近づかうといふ暑い日に、
唱歌教室で先生が、オルガン弾いてアーエーイー、
すると俺としたことが、笑ひ出さずにやゐられなかつた。
格別、先生の口唇が、鼻腔が可笑しいといふのではない、
起立して、先生の後から歌ふ生徒等が、可笑しいといふのでもない、
それどころか俺は大体、此の世に笑ふべきものが存在(ある)とは思つてもゐなかつた。
それなのに、とど、笑ひ出さずにやゐられない、
すると先生は、俺を廊下に出して立たせるのだ。
俺は風のよく通る廊下で、淋しい思ひをしたもんだ。
俺としてからが、どう解釈のしやうもなかつた。
別に邪魔になる程に、大声で笑つたわけでもなかつたし、
然(しか)し先生がカンカンになつてゐることも事実だつたし、
先生自身何をそんなに怒るのか知つてゐぬことも事実だつたし、
俺としたつて意地やふざけで笑つたわけではなかつたのだ。
俺は廊下に立たされて、何がなし、「運命だ」と思ふのだつた。

 

大人となつた今日でさへ、さうした悲運はやみはせぬ。
夏の暑い日に、俺は庭先の樹の葉を見、蝉を聞く。
やがて俺は人生が、すつかり自然と游離してゐるやうに感じだす。
すると俺としたことが、もう何もする気も起らない。
格別俺は人生が、どうのかうのと云ふのではない。
理想派でも虚無派でもあるわけではとんとない。
孤高を以て任じてゐるなぞといふのでは尚更(なおさら)ない。
しかし俺としたことが、とど、笑ひ出さずにやゐられない。

 

どうしてそれがさうなのか、ほんとの話が、俺自身にも分らない。
しかしそれが結果する悲運ときたらだ、いやといふほど味はつてゐる。
                      (一九三七・七)

 

*とど とどのつまり。結局。

 

 *
 「(嘗てはラムプを、とぼしてゐたものなんです)」

 

嘗(かつ)てはラムプを、とぼしてゐたものなんです
今もう電燈(でんき)の、ない所は殆どない。
電燈もないやうな、しづかな村に、
旅をしたいと、僕は思ふけれど、
卻々(なかなか)それも、六ヶ敷(むつかし)いことなんです。

 

吁(ああ)、科学……
こいつが俺には、どうも気に食はぬ。
ひどく愚鈍な奴等までもが、
科学ときけばにつこりするが、
奴等にや精神(こころ)の、何事も分らぬから、
科学とさへ聞きや、につこりするのだ。

 

汽車が速いのはよろしい、許す!
汽船が速いのはよろしい、許す!
飛行機が速いのはよろしい、許す!
電信、電話、許す!
其(そ)の他はもう、我慢がならぬ。
知識はすべて、悪魔であるぞ。
やんがて貴様等にも、そのことが分る。

 

エエイッ、うるさいではないか電車自働車と、
ガタガタガタガタ、朝から晩まで。
いつそ音のせぬのを発明せい、
音はどうも、やりきれぬぞ。

 

エエイッ、音のないのを発明せい、
音のするのはみな叩き潰(つぶ)せい!

 

 *
 秋の夜に、湯に浸り

 

秋の夜に、独りで湯に這入(はい)ることは、
淋しいぢやないか。

 

秋の夜に、人と湯に這入ることも亦(また)、
淋しいぢやないか。

 

話の駒が合つたりすれば、
その時は楽しくもあらう

 

然しそれといふも、何か大事なことを
わきへ置いといてのことのやうには思はれないか?

 

ーー秋の夜に湯に這入るには……
独りですべきか、人とすべきか?
所詮は何も、
決ることではあるまいぞ。

 

さればいつそ、潜つて死にやれ!
それとも汝、熱中事を持て!

 

 *
 四行詩

 

おまえはもう静かな部屋に帰るがよい。
煥発(かんぱつ)する都会の夜々の燈火を後(あと)に、
おまへはもう、郊外の道を辿(たど)るがよい。
そして心の呟(つぶや)きを、ゆつくりと聴くがよい。

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2008年12月17日 (水)

長男文也の死をめぐって/暗い公園

文也の死の11月10日から
7日後の日付の記された作品に、
「暗い公園」という詩があります。

 

「夏の夜の博覧会はかなしからずや」と同じく、
「在りし日の歌」にも選ばれず、
雑誌などにも発表されなかった作品です。
これらは、
「草稿詩篇(1933年~1936年)」と
分類されている中にあり、
この中では、この2作品だけが、
文也死後の作品と推定されているのです。

 

文也死後に、
中原中也が書き残した未発表詩篇は、
この他に、
「療養日誌・千葉寺雑記」(1937年)の中の詩篇と、
「草稿詩篇(1937年)」があります。
この中に、
文也追悼の詩があるとは断定できませんが、
ないとも断定できません。

 

そもそも、
中也のこの頃の作品は特に、
死をあつかったものがほとんどといってよく、
死と生の間の距離がなくなっていたりする作品さえありますから、
それが、文也の死と無関係かどうか、
容易には断定できません。

 

「暗い公園」は、
「ハタハタ」というオノマトペ(擬音語)にさしかかって、
ただちに、「曇天」を思い出させる作品です。

 

最終行の、
けれど、あゝ、何か、何か……変つたと思つてゐる。

 

ここに文也の死をあえて見る必要はありませんが、
見ることも可能です。

 *
 暗い公園

 

雨を含んだ暗い空の中に
大きいポプラは聳(そそ)り立ち、
その天頂(てつぺん)は殆んど空に消え入つてゐた。

 

六月の宵、風暖く、
公園の中に人気はなかつた。
私はその日、なほ少年であつた。

 

ポプラは暗い空に聳り立ち、
その黒々と見える葉は風にハタハタと鳴つてゐた。
仰ぐにつけても、私の胸に、希望は鳴つた。

 

今宵も私は故郷(ふるさと)の、その樹の下に立つてゐる。
其(そ)の後十年、その樹にも私にも、
お話する程の変りはない。

 

けれど、あゝ、何か、何か……変つたと思つてゐる。
(1936.11.17)

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2008年12月16日 (火)

中原中也関連の番組情報

2008年12月22日24:35〜24:45 NHK教育
10min.ボックス(現代文)「サーカス(中原中也)」
【朗読】加賀美幸子

2008年12月15日 (月)

中原中也の同時代人/吉田秀和2

吉田秀和が、
中也とのなれそめを記している
「中原中也のこと」
(講談社文芸文庫「ソロモンの歌/一本の木」所収)から、
以下、引用を続けると、

二回目の日曜は、しかし、夕食ですよと呼ばれて、私が下の茶の間におりてゆくと、この規則正しい訪問者(中原は、人を訪ねるのを日課みたいにしてる男だったが、このころは日曜というと、阿部さんのところに、まるで学校にでも出るように、きちんとやってくるのだった)もすでに座っていて、いっしょに食事をした。

背が低く、角ばった顔。ことに顎が小さいのが目についた。色白の皮膚には、ニキビの跡の凸凹がたくさんあったが、そのくせ脂っこいどころか、妙にカサカサして艶がわるかった。ぎょろっとした目は黒くて、よく光った。

私はそれをみんな一目でみたわけではない。これは、その後の印象のいくつかを足したものだ。初対面では、むしろ、低いが優しい口のきき方と、私のいうことを、そのまま正直に、まっすぐうけとろうという態度が印象的だった。
(*改行を加えてあります。編者)

と、二人が、
2回目に会った時のことが書かれています。

このときは、起居している隣の部屋から声を聞いただけでなく、
中也と一緒に食事に呼ばれているのだから、
初めて顔を合わせて、言葉も交わしたのでしょう。
しかし、

中原が、その晩どんなことを話したか、それを具体的にいうことは、とても私の手にはおえない。

と、吉田は記します。
そう記す意味には、
さまざまなことが込められているようで、
推測する以外にありません。

ただ、ほかのところで、

私は、たしかに中原に会ったことがあるにはちがいないが、本当に彼を見、彼の言葉をきいていただろうか? こういう魂とその肉体については、小林秀雄のような天才だけが正確に思い出せ、大岡昇平のような無類の散文家だけが記録できるのである。私には、死んだ中原の歌う声しかきこえやしない。

と、書いているのには、大いに耳を傾けておきたいものです。

吉田のような、超一流の音楽評論家ではなく、
素朴な読者でしかない「われわれ」は、
小林秀雄のようにでもなく、
大岡昇平のようにでもなく、
詩人の歌う歌をきくことができればOKなのですが、
それが、なかなか、容易ではないのです。
学問しても
詩を読めるわけでもありませんし……。

このとき以来の二人の交流は、
次第に頻繁になり、
そして、
次第に疎遠になっていきはするものの、
中也が鎌倉で死去するまで、
続けられました。

中也の肉声を聞き、
談論し、酒を酌み交わしたことのある
数少ない同時代人の健在に
心おきない拍手!
そして、乾杯です。

中原中也の同時代人/吉田秀和

加藤周一が1919年(大正8年)生まれで、
中原中也の同時代人と言い得るのは、
生年が近いというだけでないことは、
言うまでもないことでしょう。

簡単に言えば、同じ時代に生きていたのですが
同じ時代とは、一口に言って、
昭和初期に青春だった、
昭和初期に青春を過ごした、
ということでしょうか。
大正から昭和初期といったほうが近いかもしれません。

ということで
すぐさま思い出す人が、
1913年(大正2年)生まれの吉田秀和です。
こちらは、
中也の5歳下ということになります。

「白痴群」の同人だった阿部六郎が、
成城高校で教師をしていたとき、
吉田秀和はその生徒でした。
先生と生徒という関係だったのですが、
吉田は、阿部が下宿していた同じ家に
間借りしたのです。

阿部の部屋へ
しょっちゅう足を運んだ中也と吉田は、
こうして、必然的に、出会うことになります。

その吉田秀和が、
中也とのなれそめを記している一つが
「中原中也のこと」で、
講談社文芸文庫「ソロモンの歌/一本の木」で読めます。
以下、引用すると、

移ってつぎの日曜の午後、隣りに人がきて、夜になるまで話し声がしていた。その声は少し嗄れて低かった。ひとしきりしゃべったあとで、二人は出ていった。つぎの日曜にも同じ人がきた。話し声は、もっぱら訪問者のそれで、阿部さんの声はほとんどきこえない。これは、別に不思議でも何でもない。

阿部先生ときたら、われわれがお邪魔して、夕方から夜おそくまでねばりにねばって青くさい議論をしていても、まるで黙りこくったまま、バットばかり立てつづけにふかしていたものだ。机に横向きにかえた椅子の上に座蒲団をしいて(張った布が切れてマットが顔を出してしまったからである)、その上に正座したなり、こちらの話しをきいているのか、きいていないのか。とにかく私は、一生、あんなに相手にしゃべらせ放しにしゃべらせる人に、二度と会ったことがない。

私の友人は「あの人は海綿みたいに何でも吸いとってしまう」といっていたが、何も吸いとられるほどのこともいえない私に対しても、こうだった。ただ、あの人の前だと、やたらと話しがしたくなり、しかも、ふだんはっきり考えてたわけでもない考えが、急に形をとって出てくるのだ。そんな私が何をいっても、先生は反駁も何もしない。ただときどき、前歯のかけた口をあけて、くすぐったそうに笑ったっけ。
(*改行を加えてあります。編者)

と、中也は、はじめ、「隣りにきた人」として登場します。

(この稿つづく)

2008年12月12日 (金)

加藤周一/中也の同時代人

「大知識人の微笑とまなざし 加藤周一さんのこと」
と題して、大江健三郞が、
朝日新聞12月7日朝刊文化面で追悼する中に、
中原中也がいました。

 

加藤周一の大知識人ぶりを実証・賞揚する
いくつかのエピソードの一つに、
大江健三郞がベルリン自由大学で、
加藤の「日本文学史序説」に関して、
3人の国籍の異なる学生相手に
課外授業を行ったときに、
同書の最終章「工業化の時代」を読んだことにふれ、
そこで言われていることを要約し紹介するくだりで、

 

 宮沢賢治、中原中也、渡辺一夫、林達夫、石川淳、小林秀雄。著者がほぼ同時代に生きることのあったこれら文学者たちへの、批判もこめられて情熱的な論述の、波状攻撃のような繰り返しが結びにいたる。

 

と記し、つづけて、
「九条の会」へ言い及んでいきます。
ここでは、その本題には深入りしません。

 

「日本文学史序説」を読んだ
ベルリン自由大学での経験を
大江は、新聞の行数で26行にまとめ、
同書から7行を引用しています。

 

中也は、大江のまとめの中に出てきます。
宮沢賢治、渡辺一夫、林達夫、石川淳、小林秀雄の
6人と肩を並べています。
そのように、加藤が評価していた、
ということがわかります。

 

中也論を書いた加藤周一は、
中村真一郎、福永武彦とともに
「マチネー・ポエチック」を起こして
「詩」に発言した人ですし、
はじめは詩を書いていました。

 

1919年生まれですから、
12歳ほど中也より年下です。
大江健三郞が言うように
中原中也と加藤周一は、
「ほぼ同時代に生きることのあった文学者」
の一人であったことは確かなことです。

2008年12月11日 (木)

長男文也の死をめぐって/月の光2

「月の光」は、
「その一」「その二」とを
独立した作品としていますが、
内容は、連続していて、
二つに分けた
中也の意図がみえません。

 

その一の「お庭」「草叢」
その二の「庭」「芝生」「森」……
これらは、みんな、あの世のものでしょう。

 

あの世の「庭」の「草叢」に
死んだ子供が「隠れている」
まだ、あの世にも慣れていないのでしょうか。
死んだばかりの子どもは控え目です。

 

そこへ
チルシスとアマントが「出て来てる」。
どこからか「出て来てる」のが、
あの世的な感じがします。
その、どこかが、不気味です。

 

持ってきたギターは放り出されたまま……
この、無音の情景! 沈黙の世界!
チルシスとアマントも
こそこそと
話しているのです。

 

その間、
森の中では死んだ子が
蛍のやうに
蹲んでいるのです。

 

 *
 月の光 その一

 

月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた

 

  お庭の隅の草叢(くさむら)に
  隠れてゐるのは死んだ児だ

 

月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた

 

  おや、チルシスとアマントが
  芝生の上に出て来てる

 

ギタアを持つては来てゐるが
おつぽり出してあるばかり

 

  月の光が照つてゐた
  月の光が照つてゐた

 

 *
 月の光 その二

 

おゝチルシスとアマントが
庭に出て来て遊んでる

 

ほんに今夜は春の宵(よひ)
なまあつたかい靄(もや)もある

 

月の光に照らされて
庭のベンチの上にゐる

 

ギタアがそばにはあるけれど
いつかう弾き出しさうもない

 

芝生のむかふは森でして
とても黒々してゐます

 

おゝチルシスとアマントが
こそこそ話してゐる間

 

森の中では死んだ子が
蛍のやうに蹲(しやが)んでる

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)

長男文也の死をめぐって/月の光

詩集「在りし日の歌」の章「永訣の秋」の16篇の、
発表メディア、制作年を見ておきます。

 

ゆきてかへらぬ—京都—    四季、昭和11年11月号
                          11年9月?
一つのメルヘン      文芸汎論、昭和11年11月号
                          11年9月?
幻影               文学界、昭和11年11月号
                          11年9月?
あばずれ女の亭主が歌つた 歴程、昭和11年11月号
                          11年9月号
言葉なき歌           文学界、昭和11年12月号
                          11年10月?
月夜の浜辺          新女苑、昭和12年2月号
                          11年12月?
また来ん春……        文学界、昭和12年2月号
                                 11年11月中旬~12月下旬?
月の光 その一        文学界、昭和12年2月号 
                                 11年11月中旬~12月下旬?  
月の光 その二        文学界、昭和12年2月号
                                 11年11月中旬~12月下旬?
村の時計              四季、昭和12年3月号
                              8年10月10日
或る男の肖像           四季、昭和12年3月号
                            8年10月10日
冬の長門峡             文学界、昭和12年4月号
                             11年12月24日
米子                    ペン、昭和11年12月
                             11年10月中旬?
正午 丸ビル風景         文学界、昭和12年10月号
                             12年8月?
春日狂想               文学界、昭和12年5月号
                             12年3月
蛙声                   四季、昭和12年7月号
                              12年5月14日

 

 * 「中原中也必携」調べ、吉田煕生編、学燈社、1979年
 * ?のあるものは、推定を意味します。

 

それぞれが雑誌などに発表されましたが、
そのうち、
文也の死んだ昭和12年11月10日より後に
作られたものが、
追悼詩の可能性がありますが、
追悼詩ではないものも、当然、あります。

 

文也の死以前に制作されたものを除くと、
追悼詩であろうと推定されるのが、以下、

 

「月夜の浜辺」  
「また来ん春……」
「月の光 その一」
「月の光 その二」
「冬の長門峡」  
「春日狂想」   
「蛙声」     
の、7篇に絞られます。

 

この他に、詩集に載らなかった
未発表詩篇にも、
いくつかの追悼詩はあります。

 

(この稿、つづく)

 

 *
 月の光 その一

 

月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた

 

  お庭の隅の草叢(くさむら)に
  隠れてゐるのは死んだ児だ

 

月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた

 

  おや、チルシスとアマントが
  芝生の上に出て来てる

 

ギタアを持つては来てゐるが
おつぽり出してあるばかり

 

  月の光が照つてゐた
  月の光が照つてゐた

 

 *
 月の光 その二

 

おゝチルシスとアマントが
庭に出て来て遊んでる

 

ほんに今夜は春の宵(よひ)
なまあつたかい靄(もや)もある

 

月の光に照らされて
庭のベンチの上にゐる

 

ギタアがそばにはあるけれど
いつかう弾き出しさうもない

 

芝生のむかふは森でして
とても黒々してゐます

 

おゝチルシスとアマントが
こそこそ話してゐる間

 

森の中では死んだ子が
蛍のやうに蹲(しやが)んでる

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)

2008年12月 9日 (火)

長男文也の死をめぐって/月夜の浜辺

それ、と知らないで読んでいれば、
それなりに、いい詩だなあ、などと、
読んでいられるのですが……。

 

月夜の浜辺に落ちていたボタン、
となると、これは、
灰皿に落ちていた輪ゴム、
ほどの必然ではなく、
全くの偶然ですから、
そんな偶然は
文也以外の何者によってももたらされることはない、
と、詩人は思いたかったのでしょうから、
それは大事にしなければならない偶然です。

 

それを歌っているのですから、
やはり、これは、
文也の死を悼んだ詩であると思えます。

 

季節は暖かい頃のことでしょうか

 

 *
 月夜の浜辺

 

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

 

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂(たもと)に入れた。

 

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

 

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
   月に向つてそれは抛(はふ)れず
   浪に向つてそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。

 

月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁(し)み、心に沁みた。

 

月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)

2008年12月 8日 (月)

長男文也の死をめぐって<11>文也の一生5

サーカスをみる。
飛行機にのる。
坊や喜びぬ。
帰途不忍池を貫く路を通る。
上野の夜店をみる。

 

みる。のる。喜びぬ。通る。みる。
と、トントントンと、リズムを刻んで、
7月、親子3人で行った万国博覧会の思い出を綴っていた詩人は、
溢れてくる悲しみに耐えかねたのか、
それとも……
ほとばしる詩情に誘われたのか、
それとも……
記録に飽き足りなかったのか、

 

ここで、日記を中止します。
そして、約2週間後に、
一つの歌をつくりはじめます

 

夏の夜の、博覧会は、哀しからずや

 

と、詠みはじめたのです。
歌いはじめれば、とまりませんが……。

 

日記と詩の間に、
表面上の断絶はなく、
まっすぐに、繋がっていますが、
約2週間という長い時間を要したのであり、
深い断絶があったのです。

 

日記「文也の一生」は、
1936年12月12日に、
詩作品「夏の夜の博覧会はかなしからずや」は、
同12月24日に書かれました。

 

この2週間に
詩人が被(こうむ)った深い悲しみを
思わずにはいられません。

 

「夏の夜の博覧会はかなしからずや」を書き終えた後、
呼吸を整えた感じで、
今度は、「冬の長門峡」を歌いました。
同じ12月24日でした。

 

2作品を併せて載せておきます。

 

 *
 夏の夜の博覧会はかなしからずや
     1
夏の夜の、博覧会は、哀しからずや
雨ちよつと降りて、やがてもあがりぬ
夏の夜の、博覧会は、哀しからずや

 

女房買物をなす間、かなしからずや
象の前に僕と坊やとはゐぬ、
二人蹲んで(しやがんで)ゐぬ、かなしからずや、やがて女房きぬ

 

三人博覧会を出でぬ、かなしからずや
不忍ノ池(しのばずのいけ)の前に立ちぬ、坊や眺めてありぬ

 

そは坊やの見し、水の中にて最も大なるものなりき、かなしからずや、
髪毛風に吹かれつ
見てありぬ、見てありぬ、かなしからずや
それより手を引きて歩きて
広小路に出でぬ、かなしからずや

 

広小路にて玩具を買ひぬ、兎の玩具かなしからずや

 

     2
その日博覧会入りしばかりの刻(とき)は
なほ明るく、昼の明(あかり)ありぬ、

 

われも三人(みたり)飛行機にのりぬ
例の廻旋する飛行機にのりぬ

 

飛行機の夕空は、紺青(こんじやう)の色なりき
燈光は、貝釦(かひボタン)の色なりき

 

その時よ、坊や見てありぬ
その時よ、めぐる釦を
その時よ、坊や見てありぬ
その時よ、紺青の空!
      (一九三六・一二・二四)

 

 *
 冬の長門峡

 

長門峡に、水は流れてありにけり。
寒い寒い日なりき。

 

われは料亭にありぬ。
酒酌(く)みてありぬ。

 

われのほか別に、
客とてもなかりけり。

 

水は、恰(あたか)も魂あるものの如く、
流れ流れてありにけり。

 

やがても密柑(みかん)の如き夕陽、
欄干(らんかん)にこぼれたり。

 

ああ! ——そのやうな時もありき、
寒い寒い 日なりき。

2008年12月 6日 (土)

長男文也の死をめぐって<10>文也の一生4

「文也の一生」は、
昭和9年(1934)8月 春よりの孝子の眼病の大体癒つたによつて帰省。
と書き出されます。

 

このことから、詩人が、「文也の一生」を、
日記の一こまとして書いたということがわかります。
妻孝子が、当時患っていた眼病のことから
書き起こすのは、とても自然のことでした。

 

「文也の一生」を書きながら、
詩人は、それまでのように、普段通り、
自身の一生の日記を記していたのですから。

 

10月18日生れたりとの電報をうく。
生れてより全国天気一か月余もつゞく。
孝子に負はれたる文也に初対面。小生をみて泣く。
それより祖母(中原コマ)を山口市新道の新道病院に思郎に伴はれて面会にゆく。
12月9日午後詩集山羊の歌出来。それを発送して午後8時頃の下関行にて東京に立つ。小澤、高森、安原、伊藤近三見送る。駅にて長谷川玖一と偶然一緒になる。玖一を送りに藤堂高宣、佐々木秀光来てゐる。
その間小生はランボオの詩を訳す。
1月の半ば頃高森文夫上京の途寄る。たしか3泊す。二人で玉をつく。
9月ギフの女を傭ふ。
拾郎早大入試のため3月10日頃上京。
拾郎合格。
小生一人青山を訪ねたりしも不在。すぐに帰る。
7月敦夫君他へ下宿す。

 

以上のように、ざっと見ても、
「文也の一生」の半分近くが
詩人中原中也の日常の記述です。
その中に
長男文也の成長の記録が
挟まれているといってもよいくらいなことがわかります。

 

そして、
その年の6月、7月、8月……と日を追い、
また、書き忘れたことを思い出して、
7月に戻って、
7月末日万国博覧会にゆきサーカスをみる。
と、書き足します。

 

そして、
飛行機にのる。坊や喜びぬ。帰途不忍池を貫く路を通る。上野の夜店をみる。
と、書いたところで、記録はプツンと切れてしまいます。

 

 *
 日記(1936年)文也の一生

 

昭和9年(1934)8月 春よりの孝子の眼病の大体癒つたによつて帰省。9月末小生一人上京。文也9月中に生れる予定なりしかば、待つてゐたりしも生れぬので小生一人上京。

 

10月18日生れたりとの電報をうく。八白先勝みづのえといふ日なりき。その午後1時山口市後河原田村病院(院長田村旨達氏の手によりて)にて生る。生れてより全国天気一か月余もつゞく。

 

 昭和9年12月10日小生帰省。午後日があたつてゐた。客間の東の6畳にて孝子に負はれたる文也に初対面。小生をみて泣く。

 

それより祖母(中原コマ)を山口市新道の新道病院に思郎に伴はれて面会にゆく。祖母ヘルニヤ手術後にて衰弱甚だし。
(12月9日午後詩集山羊の歌出来。それを発送して午後8時頃の下関行にて東京に立つ。小澤、高森、安原、伊藤近三見送る。駅にて長谷川玖一と偶然一緒になる。玖一を送りに藤堂高宣、佐々木秀光来てゐる。)手術後長くはないとの医者の言にもかゝかはらず祖母2月3日まで生存。その間小生はランボオの詩を訳す。

 

1月の半ば頃高森文夫上京の途寄る。たしか3泊す。二人で玉をつく。高森滞在中は坊やと孝子オ部屋の次の次の8畳の間に寝る。

 

祖母退院の日は好晴、小生坊やを抱いて祖母のフトンの足の方に立つてゐたり、東の8畳の間。

 

9月ギフの女を傭ふ。12月23日夕暇をとる。

 

坊や上京四五日にして匍ひはじむ。「ウマウマ」は山口にゐる頃既に云ふ。9月10日頃障子をもつて起つ。9月20日頃立つて一二歩歩く。間もなく歩きだし、間もなく階段を登る。降りることもぢきに覚える。

 

拾郎早大入試のため3月10日頃上京。間もなく宇太郎君上京、同じく早大入試のため。

 

坊や此の頃誰を呼ぶにも「アウチヤン」なり。

 

拾郎合格。宇太郎君山高合格。

 

8月の10日頃階段中程より顚落。そのずつと前エンガハより庭土の上に顚落。

 

7月10日拾郎帰省の夜は坊やと孝子と拾郎と小生4人にて谷町交番より円タクにて新宿にゆく。ウチハや風鈴を買ふ。新宿一丁目にて拾郎に別れ、同所にて坊やと孝子江戸川バスに乗り帰る。小生一人青山を訪ねたりしも不在。すぐに帰る。坊やねたばかりの所なりし。

 

春暖き日坊やと二人で小澤を番衆会館アパートに訪ね、金魚を買ってやる。

 

同じ頃動物園にゆき、入園した時森にとんできた烏を坊や「ニヤーニヤー」と呼ぶ。大きい象はなんとも分からぬらしく子供の象をみて「ニヤーニヤー」といふ。豹をみても鶴をみても「ニヤーニヤー」なり。

 

やはりその頃昭和館にて猛獣狩をみす。一心にみる。

 

6月頃四谷キネマに夕より敦夫君と坊やをつれてゆく。ねむさうなればおせんべいをたべさせながらみる。

 

7月敦夫君他へ下宿す。

 

8月頃靴を買ひに坊やと二人で新宿を歩く。春頃親子3人にて夜店をみしこともありき。

 

8月初め神楽坂に3人にてゆく。

 

7月末日万国博覧会にゆきサーカスをみる。飛行機にのる。坊や喜びぬ。帰途不忍池を貫く路を通る。上野の夜店をみる。

 

* 「中也を読む 詩と鑑賞」(中村稔、青土社)からの孫引きです。
* 漢数字を洋数字にし、改行を入れるなど、手を入れてあります。

2008年12月 5日 (金)

長男文也の死をめぐって<9>文也の一生3

長男文也の死の直後、
それを認めることのできなかった中也は
文也の亡骸(なきがら)から離れず、
納棺しようとする家人を押しとどめ、
荼毘(だび)にふされることを拒んだほどでした。
それから数か月後、ようやく「文也の一生」を書いたのです。

 

せめて、記録に残すことで、
文也とともに在り続けようとしたのでしょうか。
あるいは、悲しみの心を落ち着けようとして、
記録しようとしたのでしょうか。

 

文也の成長の記録や、
遊びに連れて行った日のことなどを、
一つひとつ日記に書き連ねることで、
普段の、変わりない、詩人であることを
維持する必要があったのでしょう。

 

日記は、冷静に、事実を振り返ります。
そのように、読み取れます。

 

書き溜めた日記のページをめくりながらでしょうか、
思いつくままのすべてを、
記録にとどめることによって、
死を確認し、
そうすることで、
文也の在りし日を永遠に刻み、
死を受け入れようとしたのかもしれません。

 

そうした日記が、
昭和9年(1934)8月 春よりの孝子の眼病の大体癒つたによつて帰省。

 

と書き出されます。

 

 

 

 *

 

 日記(1936年)文也の一生

 

昭和9年(1934)8月 春よりの孝子の眼病の大体癒つたによつて帰省。9月末小生一人上京。文也9月中に生れる予定なりしかば、待つてゐたりしも生れぬので小生一人上京。

 

10月18日生れたりとの電報をうく。八白先勝みづのえといふ日なりき。その午後1時山口市後河原田村病院(院長田村旨達氏の手によりて)にて生る。生れてより全国天気一か月余もつゞく。

 

 昭和9年12月10日小生帰省。午後日があたつてゐた。客間の東の6畳にて孝子に負はれたる文也に初対面。小生をみて泣く。

 

それより祖母(中原コマ)を山口市新道の新道病院に思郎に伴はれて面会にゆく。祖母ヘルニヤ手術後にて衰弱甚だし。
(12月9日午後詩集山羊の歌出来。それを発送して午後8時頃の下関行にて東京に立つ。小澤、高森、安原、伊藤近三見送る。駅にて長谷川玖一と偶然一緒になる。玖一を送りに藤堂高宣、佐々木秀光来てゐる。)手術後長くはないとの医者の言にもかゝかはらず祖母2月3日まで生存。その間小生はランボオの詩を訳す。

 

1月の半ば頃高森文夫上京の途寄る。たしか3泊す。二人で玉をつく。高森滞在中は坊やと孝子オ部屋の次の次の8畳の間に寝る。

 

祖母退院の日は好晴、小生坊やを抱いて祖母のフトンの足の方に立つてゐたり、東の8畳の間。

 

9月ギフの女を傭ふ。12月23日夕暇をとる。

 

坊や上京四五日にして匍ひはじむ。「ウマウマ」は山口にゐる頃既に云ふ。9月10日頃障子をもつて起つ。9月20日頃立つて一二歩歩く。間もなく歩きだし、間もなく階段を登る。降りることもぢきに覚える。

 

拾郎早大入試のため3月10日頃上京。間もなく宇太郎君上京、同じく早大入試のため。

 

坊や此の頃誰を呼ぶにも「アウチヤン」なり。

 

拾郎合格。宇太郎君山高合格。

 

8月の10日頃階段中程より顚落。そのずつと前エンガハより庭土の上に顚落。

 

7月10日拾郎帰省の夜は坊やと孝子と拾郎と小生4人にて谷町交番より円タクにて新宿にゆく。ウチハや風鈴を買ふ。新宿一丁目にて拾郎に別れ、同所にて坊やと孝子江戸川バスに乗り帰る。小生一人青山を訪ねたりしも不在。すぐに帰る。坊やねたばかりの所なりし。

 

春暖き日坊やと二人で小澤を番衆会館アパートに訪ね、金魚を買ってやる。

 

同じ頃動物園にゆき、入園した時森にとんできた烏を坊や「ニヤーニヤー」と呼ぶ。大きい象はなんとも分からぬらしく子供の象をみて「ニヤーニヤー」といふ。豹をみても鶴をみても「ニヤーニヤー」なり。

 

やはりその頃昭和館にて猛獣狩をみす。一心にみる。

 

6月頃四谷キネマに夕より敦夫君と坊やをつれてゆく。ねむさうなればおせんべいをたべさせながらみる。

 

7月敦夫君他へ下宿す。

 

8月頃靴を買ひに坊やと二人で新宿を歩く。春頃親子3人にて夜店をみしこともありき。

 

8月初め神楽坂に3人にてゆく。

 

7月末日万国博覧会にゆきサーカスをみる。飛行機にのる。坊や喜びぬ。帰途不忍池を貫く路を通る。上野の夜店をみる。

 

* 「中也を読む 詩と鑑賞」(中村稔、青土社)からの孫引きです。
* 漢数字を洋数字にし、改行を入れるなど、手を入れてあります。

2008年12月 3日 (水)

長男文也の死をめぐって<8>文也の一生2

以下、「文也の一生」の、後半です。

 

1行1行読み進んでいくと、
これを書いている詩人の呼吸が、
聞こえてきます。

 

あんなこともあった
こんなこともした……

 

文也との短い時間を、
一つひとつ思い出しては、
書き付けようとしている詩人……、

 

万国博覧会の日までたどりつき、
突然、筆は折られます。

 

 *
 「文也の一生」(後半)

 

9月ギフの女を傭ふ。12月23日夕暇をとる。

 

坊や上京四五日にして匍ひはじむ。「ウマウマ」は山口にゐる頃既に云ふ。9月10日頃障子をもつて起つ。9月20日頃立つて一二歩歩く。間もなく歩きだし、間もなく階段を登る。降りることもぢきに覚える。

 

拾郎早大入試のため3月10日頃上京。間もなく宇太郎君上京、同じく早大入試のため。

 

坊や此の頃誰を呼ぶにも「アウチヤン」なり。

 

拾郎合格。宇太郎君山高合格。

 

8月の10日頃階段中程より顚落。そのずつと前エンガハより庭土の上に顚落。

 

7月10日拾郎帰省の夜は坊やと孝子と拾郎と小生4人にて谷町交番より円タクにて新宿にゆく。ウチハや風鈴を買ふ。新宿一丁目にて拾郎に別れ、同所にて坊やと孝子江戸川バスに乗り帰る。小生一人青山を訪ねたりしも不在。すぐに帰る。坊やねたばかりの所なりし。

 

春暖き日坊やと二人で小澤を番衆会館アパートに訪ね、金魚を買ってやる。

 

同じ頃動物園にゆき、入園した時森にとんできた烏を坊や「ニヤーニヤー」と呼ぶ。大きい象はなんとも分からぬらしく子供の象をみて「ニヤーニヤー」といふ。豹をみても鶴をみても「ニヤーニヤー」なり。

 

やはりその頃昭和館にて猛獣狩をみす。一心にみる。

 

6月頃四谷キネマに夕より敦夫君と坊やをつれてゆく。ねむさうなればおせんべいをたべさせながらみる。

 

7月敦夫君他へ下宿す。

 

8月頃靴を買ひに坊やと二人で新宿を歩く。春頃親子3人にて夜店をみしこともありき。

 

8月初め神楽坂に3人にてゆく。

 

7月末日万国博覧会にゆきサーカスをみる。飛行機にのる。坊や喜びぬ。帰途不忍池を貫く路を通る。上野の夜店をみる。

 

* 「中也を読む 詩と鑑賞」(中村稔、青土社)からの孫引きです。
* 漢数字を洋数字にし、改行を入れるなど、手を入れてあります。

長男文也の死をめぐって<7>文也の一生1

長男文也が死んだのは、
1936年11月10日。
それから数えて約1か月後の、
12月12日の日記に、
中也は、「文也の一生」を書きました。

 

文庫の詩集には、
これを見つけることが困難ですが、
「中也を読む 詩と鑑賞」(中村稔、青土社)にありましたから、
ここに孫引きしておきます。

 

中也が毛筆で
日記帳に書いた
8ページほどの記録です。

 

以下、とりあえず、半分くらいまで。
漢数字を洋数字にし、改行を入れるなど、
手を入れてあります。

 

 *
 日記(1936年)文也の一生

 

昭和9年(1934)8月 春よりの孝子の眼病の大体癒つたによつて帰省。9月末小生一人上京。文也9月中に生れる予定なりしかば、待つてゐたりしも生れぬので小生一人上京。

 

10月18日生れたりとの電報をうく。八白先勝みづのえといふ日なりき。その午後1時山口市後河原田村病院(院長田村旨達氏の手によりて)にて生る。生れてより全国天気一か月余もつゞく。

 

 昭和9年12月10日小生帰省。午後日があたつてゐた。客間の東の6畳にて孝子に負はれたる文也に初対面。小生をみて泣く。

 

それより祖母(中原コマ)を山口市新道の新道病院に思郎に伴はれて面会にゆく。祖母ヘルニヤ手術後にて衰弱甚だし。
(12月9日午後詩集山羊の歌出来。それを発送して午後8時頃の下関行にて東京に立つ。小澤、高森、安原、伊藤近三見送る。駅にて長谷川玖一と偶然一緒になる。玖一を送りに藤堂高宣、佐々木秀光来てゐる。)手術後長くはないとの医者の言にもかゝかはらず祖母2月3日まで生存。その間小生はランボオの詩を訳す。

 

1月の半ば頃高森文夫上京の途寄る。たしか3泊す。二人で玉をつく。高森滞在中は坊やと孝子オ部屋の次の次の8畳の間に寝る。

 

祖母退院の日は好晴、小生坊やを抱いて祖母のフトンの足の方に立つてゐたり、東の8畳の間。

 

 

2008年12月 2日 (火)

汚れつちまつた悲しみに……再4

「汚れつちまつた悲しみに……」という詩は、
噛めば噛むほどに味が出てくる
底の深い作品ですね。
口ずさんだり、暗唱したりしていると、
ふっと、新しい解釈が見えてきたりします。

反面、
噛んでも噛んでも
味わい尽くせない深みがあります。

それに、
繰り返し、口ずさんでいると
悲しみが乗り移ってくるようなこともあります。

ところが、
繰り返していると
あっ、わかったと思える瞬間が訪れますが、
それを換言しようとすると、
消えてなくなっている、ということもあります。

そういえば、エリック・ドルフィーが
これに似たことを言っていますねえ。
ジャズみたいなものですよ
詩作もそうですが、
解釈にも、そんな瞬間性があります。

詩人が、いろいろな言い方で主張している、
あの、
名辞以前の世界とか、
言葉なき世界とか……、
ということが
そこにあるからでしょうか

元来、詩とは、
ほかの言葉に置き換えられない言葉でつくられたものですから、
中也の詩だから、いっそう、そうですから、
詩の言葉が
容易に他の言葉に置き換えられるわけがありません。
つかまえた! と思った途端に逃げてしまいます。

第3連の、
汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠のうちに死を夢む

このあたりで、
以上のような感覚で
受け止めることが多いのですが

詩の最後は、
いたいたしくも怖気づき
なすところもなく日は暮れる……
と、傷つき、途方に暮れている青年の姿が現れ、
ストンと
その青年に共感している自分に出くわします。

このように、
この詩と出会った人々が
無数に存在するように思えてなりません。

 *
 汚れつちまつた悲しみに……

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日は風さえ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとえば狐の革裘
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる…

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

2008年12月 1日 (月)

汚れつちまつた悲しみに……再3

詩作品が、
ある特定の状況から生まれるものであるとすれば

長谷川泰子への失恋(小林秀雄との三角関係)、
同人誌の廃刊(同人との確執・離反)という
二つの事件は、大いに、
作品を生み出すきっかけ
になったことに違いありません。

「汚れつちまつた悲しみに……」は、
制作年月日の状況からいえば、
この二つの事件の影響下に歌われた、と、
考えるのがもっとも自然でしょう。

しかし、だからといって、
この詩を、
具体的な事件に結びつける決定的な証拠は、
ありません。

それどころか、
この詩が作られた時よりも、
ずーっと以前の詩人の経験を
元にしているのかも知れないのです。

この年23歳(4月29日誕生日)になる中原中也が、
それまで味わった悲しみの体験のすべてを
汚れつちまつた悲しみ、と、
歌ったのかも知れませんし、
もっと些細な、極く小さな出来事が
悲しみの元だったのかも知れません。

詩人は、ひょっとすると、
ある特定の経験をもとに、
この詩を歌ったのかも知れず、
その公算は大きいのですが、
それは、もはや、だれにもわからなくなってしまいました。

ここでは、
文学は学問じゃあないよ、と、
詩人が呼びかけているような気がしますから、
研究・考証や学問はしません。
文学もしないようにしておきますが……。

一つだけ。
汚れっちまった悲しみに……と
促音便の混じった詩句を、
冬の道を歩きながら口ずさんでいて、
「汚れ」は、どうも、
詩人のほうから、何事かを仕掛けて、
その結果、受けたもののように思えることを、
言っておくことにします。

どうも、他者から受けた
被害としての汚れではなくて、
だから、加害としての汚れが入っている、
とは言わないでおきますが、
自らすすんで何事かをした結果、
汚れてしまった、という
その悲しみが歌われているから、
その悲しみは深く透明だ、と
多くの読者が感じているのではないか、
と言っておきたいのです。

 *
 汚れつちまつた悲しみに……

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘(かはごろも)
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気(おぢけ)づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

汚れつちまつた悲しみに……再2

「汚れつちまつた悲しみに……」は、
「盲目の秋」
「わが喫煙」
「妹よ」
「更くる夜」
「つみびとの歌」
「雪の宵」
「生ひたちの歌」
「時こそ今は……」
などとともに、昭和5年(1930)1月から5月の間に
制作されたことがわかっています。

中也が中心になって発行されていた
文学同人誌「白痴群」は5号を出しましたが、
その打ち上げの同人会が
この年の1月に行われ、
その席での大岡昇平と中也の争いがもとで、
廃刊へと追い込まれてゆきます。

ようやく第6号が出せましたが、
原稿の集まりは、当然ながら、芳しくなく、
中也の作品が、
大半を占めました。

「白痴群」6号には、
「汚れつちまつた悲しみに……」をはじめ、
前記の作品のほかにも幾つかの作品が掲載され、
合計11作品が中也の詩でした。
それが一挙に掲載されたのです。
中也としては、ここは、がんばりどころでした。

東京に出てきた年である
1925年(大正14年)の11月には、
パートナーであった長谷川泰子が、
友人の小林秀雄の元へと去り、
大都会に一人投げ出される、
という孤立を強いられた詩人でした。

その孤立から立ち直る契機になった
文学同人誌の編集・発行……。
何よりも、自作の詩を自由に発表できる場をもった詩人は、
泰子を失った悲しみ・苦悩をまぎらわし、癒し、
それを題材にした詩を歌うこともあり、
それなりに充実した日々を送ることができていたのです。
その同人誌がポシャッてしまったのです。
わずか1年の短命でした。

詩人は、再び、大東京に
一人投げ出されることになりました。

(この稿つづく)

 *
 汚れつちまつた悲しみに……

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘(かはごろも)
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気(おぢけ)づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

汚れつちまつた悲しみに……再1

寒風の中を、
ポケットに両手を突っ込んで
急ぎ足で歩いていたら、
突然、汚れっちまった悲しみに……が、
口をついて出てきました。

それまで口笛を吹いていたのですが
口笛を吹くのにくたびれて、
それでも、くちびるがさびしくて
もてあそんでいた時のことでした。

早足で20分ほどは歩いたところでしたから
息が少しあがって、はあはあ言っていて、
その時に、汚れっちまった……と、
呟くような、低い声が、出てきて
あっ、これだっていう感じでした。

1日1回、30分ほどを歩く習慣があり、
その夜も、そうして歩いている時でしたが、
以来、汚れっちまった悲しみのフレーズとともに
歩く日が多くなりました。

繰り返し、繰り返して、
歩きながら、汚れっちまった悲しみに……と、
口ずさんでいて、
ようやく、この詩を味わっている自分に気づきます。

このようにして、浮かんできたことを、
少し、まとめてみました。

(この稿、つづく)

 *
 汚れつちまつた悲しみに……

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘(かはごろも)
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気(おぢけ)づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »