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2008年12月 6日 (土)

長男文也の死をめぐって<10>文也の一生4

「文也の一生」は、
昭和9年(1934)8月 春よりの孝子の眼病の大体癒つたによつて帰省。
と書き出されます。

 

このことから、詩人が、「文也の一生」を、
日記の一こまとして書いたということがわかります。
妻孝子が、当時患っていた眼病のことから
書き起こすのは、とても自然のことでした。

 

「文也の一生」を書きながら、
詩人は、それまでのように、普段通り、
自身の一生の日記を記していたのですから。

 

10月18日生れたりとの電報をうく。
生れてより全国天気一か月余もつゞく。
孝子に負はれたる文也に初対面。小生をみて泣く。
それより祖母(中原コマ)を山口市新道の新道病院に思郎に伴はれて面会にゆく。
12月9日午後詩集山羊の歌出来。それを発送して午後8時頃の下関行にて東京に立つ。小澤、高森、安原、伊藤近三見送る。駅にて長谷川玖一と偶然一緒になる。玖一を送りに藤堂高宣、佐々木秀光来てゐる。
その間小生はランボオの詩を訳す。
1月の半ば頃高森文夫上京の途寄る。たしか3泊す。二人で玉をつく。
9月ギフの女を傭ふ。
拾郎早大入試のため3月10日頃上京。
拾郎合格。
小生一人青山を訪ねたりしも不在。すぐに帰る。
7月敦夫君他へ下宿す。

 

以上のように、ざっと見ても、
「文也の一生」の半分近くが
詩人中原中也の日常の記述です。
その中に
長男文也の成長の記録が
挟まれているといってもよいくらいなことがわかります。

 

そして、
その年の6月、7月、8月……と日を追い、
また、書き忘れたことを思い出して、
7月に戻って、
7月末日万国博覧会にゆきサーカスをみる。
と、書き足します。

 

そして、
飛行機にのる。坊や喜びぬ。帰途不忍池を貫く路を通る。上野の夜店をみる。
と、書いたところで、記録はプツンと切れてしまいます。

 

 *
 日記(1936年)文也の一生

 

昭和9年(1934)8月 春よりの孝子の眼病の大体癒つたによつて帰省。9月末小生一人上京。文也9月中に生れる予定なりしかば、待つてゐたりしも生れぬので小生一人上京。

 

10月18日生れたりとの電報をうく。八白先勝みづのえといふ日なりき。その午後1時山口市後河原田村病院(院長田村旨達氏の手によりて)にて生る。生れてより全国天気一か月余もつゞく。

 

 昭和9年12月10日小生帰省。午後日があたつてゐた。客間の東の6畳にて孝子に負はれたる文也に初対面。小生をみて泣く。

 

それより祖母(中原コマ)を山口市新道の新道病院に思郎に伴はれて面会にゆく。祖母ヘルニヤ手術後にて衰弱甚だし。
(12月9日午後詩集山羊の歌出来。それを発送して午後8時頃の下関行にて東京に立つ。小澤、高森、安原、伊藤近三見送る。駅にて長谷川玖一と偶然一緒になる。玖一を送りに藤堂高宣、佐々木秀光来てゐる。)手術後長くはないとの医者の言にもかゝかはらず祖母2月3日まで生存。その間小生はランボオの詩を訳す。

 

1月の半ば頃高森文夫上京の途寄る。たしか3泊す。二人で玉をつく。高森滞在中は坊やと孝子オ部屋の次の次の8畳の間に寝る。

 

祖母退院の日は好晴、小生坊やを抱いて祖母のフトンの足の方に立つてゐたり、東の8畳の間。

 

9月ギフの女を傭ふ。12月23日夕暇をとる。

 

坊や上京四五日にして匍ひはじむ。「ウマウマ」は山口にゐる頃既に云ふ。9月10日頃障子をもつて起つ。9月20日頃立つて一二歩歩く。間もなく歩きだし、間もなく階段を登る。降りることもぢきに覚える。

 

拾郎早大入試のため3月10日頃上京。間もなく宇太郎君上京、同じく早大入試のため。

 

坊や此の頃誰を呼ぶにも「アウチヤン」なり。

 

拾郎合格。宇太郎君山高合格。

 

8月の10日頃階段中程より顚落。そのずつと前エンガハより庭土の上に顚落。

 

7月10日拾郎帰省の夜は坊やと孝子と拾郎と小生4人にて谷町交番より円タクにて新宿にゆく。ウチハや風鈴を買ふ。新宿一丁目にて拾郎に別れ、同所にて坊やと孝子江戸川バスに乗り帰る。小生一人青山を訪ねたりしも不在。すぐに帰る。坊やねたばかりの所なりし。

 

春暖き日坊やと二人で小澤を番衆会館アパートに訪ね、金魚を買ってやる。

 

同じ頃動物園にゆき、入園した時森にとんできた烏を坊や「ニヤーニヤー」と呼ぶ。大きい象はなんとも分からぬらしく子供の象をみて「ニヤーニヤー」といふ。豹をみても鶴をみても「ニヤーニヤー」なり。

 

やはりその頃昭和館にて猛獣狩をみす。一心にみる。

 

6月頃四谷キネマに夕より敦夫君と坊やをつれてゆく。ねむさうなればおせんべいをたべさせながらみる。

 

7月敦夫君他へ下宿す。

 

8月頃靴を買ひに坊やと二人で新宿を歩く。春頃親子3人にて夜店をみしこともありき。

 

8月初め神楽坂に3人にてゆく。

 

7月末日万国博覧会にゆきサーカスをみる。飛行機にのる。坊や喜びぬ。帰途不忍池を貫く路を通る。上野の夜店をみる。

 

* 「中也を読む 詩と鑑賞」(中村稔、青土社)からの孫引きです。
* 漢数字を洋数字にし、改行を入れるなど、手を入れてあります。

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0021はじめての中原中也/長男文也の死と詩人の死」カテゴリの記事

コメント

3日からの「長男文也の死をめぐって」についてのことで、おそらく「中也を読む 詩と鑑賞」(中村稔、青土社)の誤植だと思うのですが、書き出しの「春よりの泰子の眼病の大体癒つたによつて帰省。」は「春よりの孝子の眼病の大体癒つたによつて帰省。」の間違いです。この時期妻の孝子さんは眼病を患っていて、中也がサングラスをかけた孝子の手を引いて歩いたという話があります。新潮文学アルバムの「文也の一生」の原稿の写真も見ましたが、「孝子」となっていました。さしでがましいこととは存じますが、これは重要なことなのでコメントいたします。

「文也の一生」冒頭の引用の間違いのご指摘、ありがとうございました。「中也を読む」(中村稔、青土社)の引用そのものが、間違っていることがわかりました。ここに「泰子」が登場することは、はじめ発見でした。そして、あのようなコメントを加えましたが、その部分はすべて誤解ですので削除し、文を整えたものを、再度、アップしました。
 自宅パソコンが損傷中で使える状況になく、コメントを読むのが遅れ、このコメントも遅れました。そのうち、青土社へも連絡しておこうと思います。

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