長男文也の死をめぐって<7>文也の一生1
長男文也が死んだのは、
1936年11月10日。
それから数えて約1か月後の、
12月12日の日記に、
中也は、「文也の一生」を書きました。
文庫の詩集には、
これを見つけることが困難ですが、
「中也を読む 詩と鑑賞」(中村稔、青土社)にありましたから、
ここに孫引きしておきます。
中也が毛筆で
日記帳に書いた
8ページほどの記録です。
以下、とりあえず、半分くらいまで。
漢数字を洋数字にし、改行を入れるなど、
手を入れてあります。
*
日記(1936年)文也の一生
昭和9年(1934)8月 春よりの孝子の眼病の大体癒つたによつて帰省。9月末小生一人上京。文也9月中に生れる予定なりしかば、待つてゐたりしも生れぬので小生一人上京。
10月18日生れたりとの電報をうく。八白先勝みづのえといふ日なりき。その午後1時山口市後河原田村病院(院長田村旨達氏の手によりて)にて生る。生れてより全国天気一か月余もつゞく。
昭和9年12月10日小生帰省。午後日があたつてゐた。客間の東の6畳にて孝子に負はれたる文也に初対面。小生をみて泣く。
それより祖母(中原コマ)を山口市新道の新道病院に思郎に伴はれて面会にゆく。祖母ヘルニヤ手術後にて衰弱甚だし。
(12月9日午後詩集山羊の歌出来。それを発送して午後8時頃の下関行にて東京に立つ。小澤、高森、安原、伊藤近三見送る。駅にて長谷川玖一と偶然一緒になる。玖一を送りに藤堂高宣、佐々木秀光来てゐる。)手術後長くはないとの医者の言にもかゝかはらず祖母2月3日まで生存。その間小生はランボオの詩を訳す。
1月の半ば頃高森文夫上京の途寄る。たしか3泊す。二人で玉をつく。高森滞在中は坊やと孝子オ部屋の次の次の8畳の間に寝る。
祖母退院の日は好晴、小生坊やを抱いて祖母のフトンの足の方に立つてゐたり、東の8畳の間。
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