長男文也の死をめぐって/中原中也の死
「草稿詩篇」(1937年)6篇のうち、
「夏と悲運」だけは、
(一九三七・七)と
制作日が記されています。
中也が亡くなるのは
10月22日ですから、
死の約4か月前の作です。
小学校の音楽の授業で
オルガンを弾く先生が
アアアアアアアと音程練習をさせる光景は、
だれでも経験することでしょうが、
あの、なんとも言えない滑稽さに
少年は吹き出してしまって、
廊下に立たされた。
誰が見たって
可笑しいのに
なんでぼくが罰をうけなあきゃならないんだよ
遠い昔の
悲運を
詩人は
この時になって
思い出し……
30年生きてきたけれど
思えば、悲運ばかりが続いた……
と、あれこれ思い出す中に
文也の死がないわけがありません。
「少女と雨」の
最終行、
花畑を除く一切のものは
みんなとつくに終つてしまつた 夢のやうな気がしてきます
「秋の夜に、湯に浸り」の
冒頭行、
秋の夜に、独りで湯に這入(はい)ることは、
淋しいぢやないか。
このあたりにも
文也の死を
心の芯で受け止めている
詩人があります。
「秋の夜に、湯に浸り」と「四行詩」との間には
どれほどの時間が流れたことでしょうか。
おまえはもう
静かな部屋に
帰るがよい。
おまへはもう
郊外の道を
辿(たど)るがよい。
心の呟(つぶや)きを、
ゆつくりと聴くがよい。
あたかも、
自らの死に
したがうかのようでありながら、
自分の生存への
エールのような
うたを
きざみ……
その何日か後に
亡くなりました。
*
少女と雨
少女がいま校庭の隅に佇んだのは
其処(そこ)は花畑があつて菖蒲(しょうぶ)の花が咲いてるからです
菖蒲の花は雨に打たれて
音楽室から来るオルガンの 音を聞いてはゐませんでした
しとしとと雨はあとからあとから降つて
花も葉も畑の土ももう諦めきつてゐます
その有様をジッと見てると
なんとも不思議な気がして来ます
山も校舎も空の下(もと)に
やがてしづかな回転をはじめ
花畑を除く一切のものは
みんなとつくに終つてしまつた 夢のやうな気がしてきます
*
夏と悲運
とど、俺としたことが、笑ひ出さずにやゐられない。
思へば小学校の頃からだ。
例へば夏休みも近づかうといふ暑い日に、
唱歌教室で先生が、オルガン弾いてアーエーイー、
すると俺としたことが、笑ひ出さずにやゐられなかつた。
格別、先生の口唇が、鼻腔が可笑しいといふのではない、
起立して、先生の後から歌ふ生徒等が、可笑しいといふのでもない、
それどころか俺は大体、此の世に笑ふべきものが存在(ある)とは思つてもゐなかつた。
それなのに、とど、笑ひ出さずにやゐられない、
すると先生は、俺を廊下に出して立たせるのだ。
俺は風のよく通る廊下で、淋しい思ひをしたもんだ。
俺としてからが、どう解釈のしやうもなかつた。
別に邪魔になる程に、大声で笑つたわけでもなかつたし、
然(しか)し先生がカンカンになつてゐることも事実だつたし、
先生自身何をそんなに怒るのか知つてゐぬことも事実だつたし、
俺としたつて意地やふざけで笑つたわけではなかつたのだ。
俺は廊下に立たされて、何がなし、「運命だ」と思ふのだつた。
大人となつた今日でさへ、さうした悲運はやみはせぬ。
夏の暑い日に、俺は庭先の樹の葉を見、蝉を聞く。
やがて俺は人生が、すつかり自然と游離してゐるやうに感じだす。
すると俺としたことが、もう何もする気も起らない。
格別俺は人生が、どうのかうのと云ふのではない。
理想派でも虚無派でもあるわけではとんとない。
孤高を以て任じてゐるなぞといふのでは尚更(なおさら)ない。
しかし俺としたことが、とど、笑ひ出さずにやゐられない。
どうしてそれがさうなのか、ほんとの話が、俺自身にも分らない。
しかしそれが結果する悲運ときたらだ、いやといふほど味はつてゐる。
(一九三七・七)
*
秋の夜に、湯に浸り
秋の夜に、独りで湯に這入(はい)ることは、
淋しいぢやないか。
秋の夜に、人と湯に這入ることも亦(また)、
淋しいぢやないか。
話の駒が合つたりすれば、
その時は楽しくもあらう
然しそれといふも、何か大事なことを
わきへ置いといてのことのやうには思はれないか?
ーー秋の夜に湯に這入るには……
独りですべきか、人とすべきか?
所詮は何も、
決ることではあるまいぞ。
さればいつそ、潜つて死にやれ!
それとも汝、熱中事を持て!
*
四行詩
おまえはもう静かな部屋に帰るがよい。
煥発(かんぱつ)する都会の夜々の燈火を後(あと)に、
おまへはもう、郊外の道を辿(たど)るがよい。
そして心の呟(つぶや)きを、ゆつくりと聴くがよい。
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
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