中原中也の同時代人/吉田秀和
加藤周一が1919年(大正8年)生まれで、
中原中也の同時代人と言い得るのは、
生年が近いというだけでないことは、
言うまでもないことでしょう。
簡単に言えば、同じ時代に生きていたのですが
同じ時代とは、一口に言って、
昭和初期に青春だった、
昭和初期に青春を過ごした、
ということでしょうか。
大正から昭和初期といったほうが近いかもしれません。
ということで
すぐさま思い出す人が、
1913年(大正2年)生まれの吉田秀和です。
こちらは、
中也の5歳下ということになります。
「白痴群」の同人だった阿部六郎が、
成城高校で教師をしていたとき、
吉田秀和はその生徒でした。
先生と生徒という関係だったのですが、
吉田は、阿部が下宿していた同じ家に
間借りしたのです。
阿部の部屋へ
しょっちゅう足を運んだ中也と吉田は、
こうして、必然的に、出会うことになります。
その吉田秀和が、
中也とのなれそめを記している一つが
「中原中也のこと」で、
講談社文芸文庫「ソロモンの歌/一本の木」で読めます。
以下、引用すると、
移ってつぎの日曜の午後、隣りに人がきて、夜になるまで話し声がしていた。その声は少し嗄れて低かった。ひとしきりしゃべったあとで、二人は出ていった。つぎの日曜にも同じ人がきた。話し声は、もっぱら訪問者のそれで、阿部さんの声はほとんどきこえない。これは、別に不思議でも何でもない。
阿部先生ときたら、われわれがお邪魔して、夕方から夜おそくまでねばりにねばって青くさい議論をしていても、まるで黙りこくったまま、バットばかり立てつづけにふかしていたものだ。机に横向きにかえた椅子の上に座蒲団をしいて(張った布が切れてマットが顔を出してしまったからである)、その上に正座したなり、こちらの話しをきいているのか、きいていないのか。とにかく私は、一生、あんなに相手にしゃべらせ放しにしゃべらせる人に、二度と会ったことがない。
私の友人は「あの人は海綿みたいに何でも吸いとってしまう」といっていたが、何も吸いとられるほどのこともいえない私に対しても、こうだった。ただ、あの人の前だと、やたらと話しがしたくなり、しかも、ふだんはっきり考えてたわけでもない考えが、急に形をとって出てくるのだ。そんな私が何をいっても、先生は反駁も何もしない。ただときどき、前歯のかけた口をあけて、くすぐったそうに笑ったっけ。
(*改行を加えてあります。編者)
と、中也は、はじめ、「隣りにきた人」として登場します。
(この稿つづく)
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