冬の詩を読む<3-2>雪の賦
読みはじめて3日。
読みあぐねている、というか
頭の中が、詩を読む状態にない日が3日あった、
ということか。
読んでも、文字面(もじづら)をなめているだけで、
詩に込められた思いが立ち上がってこない
想像の翅(はね)が広がらない
感興がわかない状態でした。
こういうときには、
詩は読めないし、読まない方がよい。
ということを思えば思うほど
詩を読むことの
一回性というようなことがあるのだ、と
逆に、見えてくるものもあります。
雪が降ると、人生が
かなしく
うつくしい
憂愁に満ちたものに思えるのでした。
その、雪っていうのは、中世の、
戦国時代の城の塀にも降り
赤穂浪士・大高源吾の活躍したころにも降りました
いつであろうと、雪は降り
たくさんの孤児たちの手は
雪のためにかじかんできました、
きょうこの頃の、都会の夕べにあっても
詩人のこころを悲しくさせるのに十分でした
ロシア革命で揺れる
ロシアの田舎の別荘の
矢来の向こうに広がる
ツンドラ(凍土)の雪も、
うんざりするほど
凄まじく強大で、永遠になくなりそうにもありません
雪の降る日には
貴婦人たちも
愚痴の一つを口にしていますよ、きっと。
ああ、雪が降ると、
雪が降ると、
人生を思い、
かなしく
うつくしい
憂愁に満ちたものに思えるのでした。
(つづく)
*
雪の賦
雪が降るとこのわたくしには、人生が、
かなしくもうつくしいものに――
憂愁にみちたものに、思へるのであつた。
その雪は、中世の、暗いお城の塀にも降り、
大高源吾(おほたかげんご)の頃にも降つた……
幾多(あまた)々々の孤児の手は、
そのためにかじかんで、
都会の夕べはそのために十分悲しくあつたのだ。
ロシアの田舎の別荘の、
矢来の彼方(かなた)に見る雪は、
うんざりする程(ほど)永遠で、
雪の降る日は高貴の夫人も、
ちつとは愚痴でもあらうと思はれ……
雪が降るとこのわたくしには、人生が
かなしくもうつくしいものに――
憂愁にみちたものに、思へるのであつた。
* 大高源吾 吉良邸に討ち入った赤穂浪士の一人。
* 矢来 竹や丸太などを粗く組んで作った囲い。
(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」より)
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