春の歌を拾う<4-1>思ひ出(前)
「思ひ出」は、
昭和11年(1936年)の
「文学界」8月号に発表された作品で、
かなりの長詩です。
中也全詩を調べていませんが、
「在りし日の歌」では、
「春日狂想」と肩を並べる長さです。
シュールっぽく
幻想的でもある
「春と赤ン坊」「雲雀」に比べて
こちらは、リアルな感じがあります。
菜の花畑が走ったり(「春と赤ン坊」)
あの山この山が歩いたり(「雲雀」)
とは違って、
煉瓦工場が、
廃れ、朽ち、
死んでいく
という物語があり、
それをモチーフにして、
思い出を歌うのです。
こちらは、春の海が舞台です。
晴れた日の、
春の海の沖合を眺めると
金や銀に光っている
なんと、綺麗なんだ、と歌いはじまり、
少しでも近くで見てみよう、と
岬の端までやってきますが、
金や銀に輝く沖は
近づくでもなく、
いよいよ遠のくばかり
そこで、
煉瓦工場を見つけます。
工場の庭には煉瓦が干されてあり
赤々と、レンガ色が鮮やかだった
しかも、そこはしーんと静まりかえっていた
そこで、私は腰を下ろし、
しばらくタバコを吹かし、
ぼんやりしていると、
頭の中までぼんやりしてきて
沖の波が聞こえてくるばかりでした
……
ポカポカ陽気の工場で
そうやって
陽を浴び、
鳥の声を聴いていた……が、
ふと、
煉瓦工場は音一つ立てず
ビクリともせずジッとしているのに気づきました
窓ガラスは陽を受けているのに
ちっとも暖かそうではなかったのです
ここまでが前半。
(つづく)
*
思ひ出
お天気の日の、海の沖は
なんと、あんなに綺麗なんだ!
お天気の日の、海の沖は
まるで、金や、銀ではないか
金や銀の沖の波に、
ひかれひかれて、岬(みさき)の端に
やつて来たれど金や銀は
なほもとほのき、沖で光つた。
岬の端には煉瓦工場が、
工場の庭には煉瓦干されて、
煉瓦干されて赫々(あかあか)してゐた
しかも工場は、音とてなかつた
煉瓦工場に、腰をば据ゑて、
私は暫く煙草を吹かした。
煙草吹かしてぼんやりしてると、
沖の方では波が鳴つてた。
沖の方では波が鳴らうと、
私はかまはずぼんやりしてゐた。
ぼんやりしてると頭も胸も
ポカポカポカポカ暖かだつた
ポカポカポカポカ暖かだつたよ
岬の工場は春の陽をうけ、
煉瓦工場は音とてもなく
裏の木立で鳥が啼(な)いてた
鳥が啼いても煉瓦工場は、
ビクともしないでジッとしてゐた
鳥が啼いても煉瓦工場の、
窓の硝子は陽をうけてゐた
窓の硝子は陽をうけてても
ちつとも暖かさうではなかつた
春のはじめのお天気の日の
岬の端の煉瓦工場よ!
* *
* *
煉瓦工場は、その後廃(すた)れて、
煉瓦工場は、死んでしまつた
煉瓦工場の、窓も硝子(ガラス)も、
今は毀(こは)れてゐようといふもの
煉瓦工場は、廃れて枯れて、
木立の前に、今もぼんやり
木立に鳥は、今も啼くけど
煉瓦工場は、朽ちてゆくだけ
沖の波は、今も鳴るけど
庭の土には、陽が照るけれど
煉瓦工場に、人夫は来ない
煉瓦工場に、僕も行かない
嘗(かつ)て煙を、吐いてた煙突も、
今はぶきみに、たゞ立つてゐる
雨の降る日は、殊にもぶきみ
晴れた日だとて、相当ぶきみ
相当ぶきみな、煙突でさへ
今ぢやどうさへ、手出しも出来ず
この尨大(ぼうだい)な、古強者(ふるつはもの)が
時々恨む、その眼は怖い
その眼は怖くて、今日も僕は
浜へ出て来て、石に腰掛け
ぼんやり俯(うつむ)き、案じてゐれば
僕の胸さへ、波を打つのだ
(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」より)
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