冬の詩を読む<7>頑是ない歌
わざわざ「冬の歌」にピックアップする
必要はなかったかもしれませんが、
春夏秋冬のいずれかに分類し、
分類できないものは、
季節のない歌として分類する、
そうと決めた、その時から、
無理を押しても、
いずれにか入れてしまおう、
という意思が働くことは
予想していたことでした。
冒頭の
思へば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
この2行で、
この「頑是ない歌」を
一応、「冬の詩」に入れました。
12歳の冬を回想しているのだから
現在も、冬であろう、という推定です。
「在りし日の歌」31番目の歌。
「北の海」に続きます。
昭和10年(1935年)12月、
詩人28歳の時の制作で、
「文芸汎論」の昭和11年1月号に掲載されました。
頑是ない、とは、
聞き分けのない、の意味。
聞き分けのできないことを含み、
無邪気な、イノセントな、
という意味に転じることもあります。
聞き分けのない歌、か、
聞き分けのない者の歌、か、
イノセントな歌、か、
イノセントな者の歌、か
いろいろにとれます。
12歳の冬に聞き、見た
どこかの港の空で鳴った
船の汽笛、その蒸気を
28歳の詩人が
思い出として歌い出します。
冒頭の
思えば遠く来たもんだ、と
末尾の
汽笛の湯気や今いづこ
始めと終わりの2行で、
鮮烈に印象に残る作品。
ああ、これは、中也の詩だったのか、
などと、感慨深く読む読者が
たくさん存在することでしょう。
(つづく)
*
頑是ない歌
思へば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気(ゆげ)は今いづこ
雲の間に月はゐて
それな汽笛を耳にすると
竦然(しようぜん)として身をすくめ
月はその時空にゐた
それから何年経つたことか
汽笛の湯気を茫然と
眼で追ひかなしくなつてゐた
あの頃の俺はいまいづこ
今では女房子供持ち
思へば遠く来たもんだ
此の先まだまだ何時までか
生きてゆくのであらうけど
生きてゆくのであらうけど
遠く経て来た日や夜(よる)の
あんまりこんなにこひしゆては
なんだか自信が持てないよ
さりとて生きてゆく限り
結局我(が)ン張る僕の性質(さが)
と思へばなんだか我ながら
いたはしいよなものですよ
考へてみればそれはまあ
結局我ン張るのだとして
昔恋しい時もあり そして
どうにかやつてはゆくのでせう
考へてみれば簡単だ
畢竟(ひつきやう)意志の問題だ
なんとかやるより仕方もない
やりさへすればよいのだと
思ふけれどもそれもそれ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気や今いづこ
(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」より)
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