空の歌・憔悴
季節を表す詩句が見られなかったり
あっても、春夏秋冬のどれかに入れることができなかったり
便宜的に「季節のない歌」とした詩も多様ですが、
便宜的に「空の歌」とした詩も
さまざまにあります。
「空」という文字がある詩を
便宜的にすべて「空の歌」として、
しかし、いかにも「空の歌」である
といった作品が見つかることもあり
偶然ながら、
まんざらでもありません。
というわけで、
「空の歌」というアングルで
通り過ぎてはもったいない作品が
いくつかあり、
その一つ「憔悴」を
あげておきます。
6章建ての長詩の5、
その第6、7連目に、
青空を喫(す)ふ 閑(ひま)を嚥(の)む
蛙さながら水に泛(うか)んで
夜(よる)は夜(よる)とて星をみる
あゝ 空の奥、空の奥。
と、あります。
また、最終章6の最終連に、
あゝ 空の歌、海の歌、
ぼくは美の、核心を知つてゐるとおもふのですが
それにしても辛いことです、怠惰を逭(のが)れるすべがない!
と、あり、
この作品を終わっています。
なんと!
「空の歌」という詩句そのものが
ここに登場します。
「海の歌」と並置した
詩人の意図が
思いやられますし、
この、「述志の詩」といわれる作品を
その「述志」という方向に沿って
味わうだけでは
もったいなくはありませんか。
あゝ 空の奥、空の奥。
の、「空の奥」も意味深長といいましょうか
これと似た表現は、
あちこちで見られるのですが、
宗教性につながっていくものでしょう。
(つづく)
*
憔悴
Pour tout homme, il vient une èpoque
où l'homme languit. ―Proverbe.
Il faut d'abord avoir soif……
――Cathèrine de Mèdicis.
私はも早、善い意志をもつては目覚めなかつた
起きれば愁(うれ)はしい 平常(いつも)のおもひ
私は、悪い意志をもつてゆめみた……
(私は其処(そこ)に安住したのでもないが、
其処を抜け出すことも叶(かな)はなかつた)
そして、夜が来ると私は思ふのだつた、
此の世は、海のやうなものであると。
私はすこししけてゐる宵の海をおもつた
其処を、やつれた顔の船頭は
おぼつかない手で漕ぎながら
獲物があるかあるまいことか
水の面(おもて)を、にらめながらに過ぎてゆく
2
昔 私は思つてゐたものだつた
恋愛詩なぞ愚劣なものだと
今私は恋愛詩を詠み
甲斐あることに思ふのだ
だがまだ今でもともすると
恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい
その心が間違つてゐるかゐないか知らないが
とにかくさういふ心が残つてをり
それは時々私をいらだて
とんだ希望を起させる
昔私は思つてゐたものだつた
恋愛詩なぞ愚劣なものだと
けれどもいまでは恋愛を
ゆめみるほかに能がない
3
それが私の堕落かどうか
どうして私に知れようものか
腕にたるむだ私の怠惰
今日も日が照る 空は青いよ
ひよつとしたなら昔から
おれの手に負へたのはこの怠惰だけだつたかもしれぬ
真面目な希望も その怠惰の中から
憧憬(しようけい)したのにすぎなかつたかもしれぬ
あゝ それにしてもそれにしても
ゆめみるだけの 男にならうとはおもはなかつた!
4
しかし此の世の善だの悪だの
容易に人間に分りはせぬ
人間に分らない無数の理由が
あれをもこれをも支配してゐるのだ
山蔭の清水(しみづ)のやうに忍耐ぶかく
つぐむでゐれば愉(たの)しいだけだ
汽車からみえる 山も 草も
空も 川も みんなみんな
やがては全体の調和に溶けて
空に昇つて 虹となるのだらうとおもふ……
5
さてどうすれば利するだらうか、とか
どうすれば哂(わら)はれないですむだらうか、とかと
要するに人を相手の思惑に
明けくれすぐす、世の人々よ、
僕はあなたがたの心も尤(もつと)もと感じ
一生懸命郷(がう)に従つてもみたのだが
今日また自分に帰るのだ
ひつぱつたゴムを手離したやうに
さうしてこの怠惰の窗(まど)の中から
扇のかたちに食指をひろげ
青空を喫(す)ふ 閑(ひま)を嚥(の)む
蛙さながら水に泛(うか)んで
夜(よる)は夜(よる)とて星をみる
あゝ 空の奥、空の奥。
6
しかし またかうした僕の状態がつづき、
僕とても何か人のするやうなことをしなければならないと思ひ、
自分の生存をしんきくさく感じ、
ともすると百貨店のお買上品届け人にさへ驚嘆する。
そして理窟はいつでもはつきりしてゐるのに
気持の底ではゴミゴミゴミゴミ懐疑の小屑(をくづ)が一杯です。
それがばかげてゐるにしても、その二つつが
僕の中にあり、僕から抜けぬことはたしかなのです。
と、聞えてくる音楽には心惹かれ、
ちよつとは生き生きしもするのですが、
その時その二つつは僕の中に死んで、
あゝ 空の歌、海の歌、
ぼくは美の、核心を知つてゐるとおもふのですが
それにしても辛いことです、怠惰を逭(のが)れるすべがない!
(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)
*ローマ数字を、アラビア数字に変えました。(編者)
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