詩の入り口について/ためいき<3>
わかったような
わからないような
モヤモヤが残りますが
一度、その詩世界へ入ると
なにかに触ります。
触ったものこそ詩そのものなのですが
これがなんであるのか
その詩以外の言葉で
言い替えることができないものが詩ですから
モヤモヤは大切なものです。
ですから、
モヤモヤしたものを
楽しめれば
詩を楽しむことができるということを
このことが示しています。
わからないことはわからないままにでよいのですが
だからといって
わからないものをわからないままにしてよいということでもなく、
わからないことを心の中で気に止めていると
いつか、あるとき、それがわかる、
というようなことが起こります。
知らない街を歩いて
迷子になって
ギロギロした眼で
その街のありさまを見つめ直していると
その街が分かってきて
段々、親しみがもてるようになってくる。
そのようなことを、
予想して、試みる、
というような方法といえるでしょうか。
たとえば、
このようにして
人は、ある一つの詩を読みます。
迷子になるのですから、
やっかいといえばやっかいですが、
詩を読まないのと読むのとでは
迷子にならないか、迷子になったか、
の違いほどの違いがあります。
迷子になったことのあるほうが
より豊かな時間を過ごした、と
言えることに間違いはないはずです。
「ためいき」は、
一読して、不思議さの残る詩ですが、
何度も繰り返して読んでいるうちに
名作であることに気づくような詩でもあります。
というわけで、もう少し、
この詩の中に分け入っていきます。
まずは、この詩に現れる風景(場所、場面)を
見てみると、
詩に現れる順に、
夜の沼、
地平線
窓
荷車をひいた百姓
町
丘
野原
松
気層の底
魚を捕っている
イナゴの瞳
砂土
……と、なります。
これらの風景のそれぞれが
相互にどのような関係なのか
有機的な関係が、そもそもあるのか、
または、これらの風景と、
ためいきという主格との関係を知れば
この詩が、少し、近づくでしょうか。
東京の、
石神井池とか、井の頭池とかの
夜の池を思わせる
「夜の沼」が、
なぜ、いつしか
イナゴが砂土から目を出す、
ロシアへ
飛んでいくのか?
こんな疑問が
湧いてきませんか?
(つづく)
*
ためいき
河上徹太郎に
ためいきは夜の沼にゆき、
瘴気(しやうき)の中で瞬きをするであらう。
その瞬きは怨めしさうにながれながら、パチンと音をたてるだらう。
木々が若い学者仲間の、頸すぢのやうであるだらう。
夜が明けたら地平線に、窓が開(あ)くだらう。
荷車を挽いた百姓が、町の方へ行くだらう。
ためいきはなほ深くして、
丘に響きあたる荷車の音のやうであるだらう。
野原に突出た山ノ端の松が、私を看守(みまも)つてゐるだらう。
それはあつさりしてても笑はない、叔父さんのやうであるだらう。
神様が気層の底の、魚を捕つてゐるやうだ。
空が曇つたら、蝗螽(いなご)の瞳が、砂土の中に覗くだらう。
遠くに町が、石灰みたいだ。
ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光つてゐる。
*瘴気 熱病を起させる毒気。
*ピョートル大帝 ロシア皇帝ピョートル一世(1672―1724)。西欧文化を積極的に取り入れ、絶対主義帝政を確立した。
(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』角川文庫クラシックスより)
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