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2009年2月25日 (水)

詩の入り口について/凄じき黄昏<3>

歴史を題材にした作品、
であるからといって
歴史そのものを歌って
それで終わり、とは
到底、言えないのが
中原中也の詩であることは
言うまでもありません。

「凄じき黄昏」は、
最終連の2行、

家々は、賢き陪臣(ばいしん)、
ニコチンに、汚れたる歯を押匿す。

が、肝腎(かんじん)です。
この2行がなければ、
単なる、歴史の歌になってしまいますし、
ここを、読まなければ
詩人が、ここにいるよ〜って言っているのに
通り過ぎてしまうようなことになります。

戦を遠景でとらえ
まるで
戦場をサッカー試合を
観覧席から俯瞰しているかのように描き
行軍の様子をパンし、
屍(しかばね)の山を描き、
中世の戦の残酷さを歌った最後に
アップで
ニコチンで汚れた歯の家来(けらい)を
とらえる仕方は
映画的といってよいほどですが、
この、家来の気味悪さ!
を、言う前に
この、2行の意味を
どう解したらよいでしょうか……。

家々とは、
戦闘に加わらない民家、
農民のたちの家のことで
表面、どちらかの側に属し、
それなりに忠実を誓っている人々のことと取れるのですが
彼らは、賢い家来であり、
狡(ず)る賢い家来でもありますから、
ニコチンで汚れた歯を隠すようにして、
風向きを見ては、
どちらにもへつらいながら、
要領よく、
戦争の中を生き延びている
泳いでいる人々です。

ニコチンですから、
煙草のニコチンとしか取れず
戦国時代に煙草を吸うことは考えられませんから、
つまりは、現在のことを言い表している、
と考えられ
中世の非戦闘農民を歌いながら
現代人のことを歌っている
ということがわかります。

それでは、
この家来
この、賢き陪臣(ばいしん)とは、
だれのことを指すのでしょうか。

詩人は、
戦いの場に参じることができない
あわれな家来を、
自分に見立て
へりくだってみせたのでしょうか。
それとも
賢き陪臣は、詩人の嫌う
「お調子もの」の類(たぐい)で
批判したのでしょうか……。

どちらにでもとれる、
という、このような読みでは
詩の入り口から
すでに、詩の中の奥深い所へ
辿りついてしまって
もはや、迷子になっている
といえる状態であり、
詩から遠ざかっていることになるでしょうか……。

 *
 凄じき黄昏

捲き起る、風も物憂き頃ながら、
草は靡(なび)きぬ、我はみぬ、
遐(とほ)き昔の隼人(はやと)等を。

銀紙(ぎんがみ)色の竹槍の、
汀(みぎは)に沿ひて、つづきけり。
——雑魚(ざこ)の心を俟(たの)みつつ。

吹く風誘はず、地の上の
敷きある屍(かばね)——
空、演壇に立ちあがる。

家々は、賢き陪臣(ばいしん)、
ニコチンに、汚れたる歯を押匿す。

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』」角川文庫クラシックスより)

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