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2009年2月

2009年2月26日 (木)

中原中也関連の新刊情報

『少女の友』創刊100周年記念号 明治・大正・昭和ベストセレクション 『少女の友』創刊100周年記念号 明治・大正・昭和ベストセレクション

販売元:実業之日本社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

発売日: 2009/3/13

内容紹介
  日本の女の子たちに、いちばん長く愛された伝説の少女雑誌が、1号だけ復活!
「少女にこそ一流の作品を」 のモットーのもと、川端康成、吉屋信子、中原中也らが筆をふるい、若き中原淳一が表紙画家として活躍した雑誌、『少女の友』。明治41(1908)年に創 刊、昭和30(1955)年の終刊まで48年間続いた月刊誌です。これは日本の出版史上、もっとも長きにわたり刊行された少女雑誌であり、この記録はいま なお破られていません。『少女の友』の誕生から100周年という節目を記念して、“幻の雑誌”が「1号だけ復活」します。

(amazon.co.jpより転載)

2009年2月25日 (水)

詩の入り口について/凄じき黄昏<3>

歴史を題材にした作品、
であるからといって
歴史そのものを歌って
それで終わり、とは
到底、言えないのが
中原中也の詩であることは
言うまでもありません。

「凄じき黄昏」は、
最終連の2行、

家々は、賢き陪臣(ばいしん)、
ニコチンに、汚れたる歯を押匿す。

が、肝腎(かんじん)です。
この2行がなければ、
単なる、歴史の歌になってしまいますし、
ここを、読まなければ
詩人が、ここにいるよ〜って言っているのに
通り過ぎてしまうようなことになります。

戦を遠景でとらえ
まるで
戦場をサッカー試合を
観覧席から俯瞰しているかのように描き
行軍の様子をパンし、
屍(しかばね)の山を描き、
中世の戦の残酷さを歌った最後に
アップで
ニコチンで汚れた歯の家来(けらい)を
とらえる仕方は
映画的といってよいほどですが、
この、家来の気味悪さ!
を、言う前に
この、2行の意味を
どう解したらよいでしょうか……。

家々とは、
戦闘に加わらない民家、
農民のたちの家のことで
表面、どちらかの側に属し、
それなりに忠実を誓っている人々のことと取れるのですが
彼らは、賢い家来であり、
狡(ず)る賢い家来でもありますから、
ニコチンで汚れた歯を隠すようにして、
風向きを見ては、
どちらにもへつらいながら、
要領よく、
戦争の中を生き延びている
泳いでいる人々です。

ニコチンですから、
煙草のニコチンとしか取れず
戦国時代に煙草を吸うことは考えられませんから、
つまりは、現在のことを言い表している、
と考えられ
中世の非戦闘農民を歌いながら
現代人のことを歌っている
ということがわかります。

それでは、
この家来
この、賢き陪臣(ばいしん)とは、
だれのことを指すのでしょうか。

詩人は、
戦いの場に参じることができない
あわれな家来を、
自分に見立て
へりくだってみせたのでしょうか。
それとも
賢き陪臣は、詩人の嫌う
「お調子もの」の類(たぐい)で
批判したのでしょうか……。

どちらにでもとれる、
という、このような読みでは
詩の入り口から
すでに、詩の中の奥深い所へ
辿りついてしまって
もはや、迷子になっている
といえる状態であり、
詩から遠ざかっていることになるでしょうか……。

 *
 凄じき黄昏

捲き起る、風も物憂き頃ながら、
草は靡(なび)きぬ、我はみぬ、
遐(とほ)き昔の隼人(はやと)等を。

銀紙(ぎんがみ)色の竹槍の、
汀(みぎは)に沿ひて、つづきけり。
——雑魚(ざこ)の心を俟(たの)みつつ。

吹く風誘はず、地の上の
敷きある屍(かばね)——
空、演壇に立ちあがる。

家々は、賢き陪臣(ばいしん)、
ニコチンに、汚れたる歯を押匿す。

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』」角川文庫クラシックスより)

中原中也関連のイベント情報

舞台
GaiaDaysFunctionBand presents
『中也が愛した女』

前売開始 2月14日
2009年4月15日(水)~19日(日)
赤坂RED/THEATER

作・演出: 古城十忍
CAST:山田キヌヲ、池上リョヲマ、溝渕隆之介

詳細は以下の公式サイトを参照して下さい。
http://www.chuyagaaishitaonna.com/top/index.html

Photo

2009年2月24日 (火)

詩の入り口について/凄じき黄昏<2>

薩摩隼人の戦といえば、
たとえば
耳川の戦い。

ネットでは、
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に、
以下の記述が見つかります。

耳川の戦い(みみかわのたたかい)とは、天正6年(1578年)に、九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(宮崎県木城町)を主戦場として激突した合戦。正確には「高城川の戦い」「高城川原の戦い」とも言う。

合戦の背景と概要

天正5年(1577年)、日向の大名伊東義祐が島津氏に敗北。日向を追われ、友好関係にあった大友氏に身を寄せた。これをうけ翌年、大友宗麟・義統は宿敵・島津氏との決着をつけるため三万とも四万ともいわれる大軍を率いて日向への遠征を決定する。

しかし、大友家内部では宗麟の狂信的なキリスト教への傾倒などから家臣団との間に不協和が生じていた。立花道雪らは開戦に時期尚早と強く反対していた。また、合戦直前の大友軍の軍議で田北鎮周は交戦を主張していたが、大将の田原親賢は裏で島津軍との和睦交渉を進めていたためこれに応じなかった。田北鎮周がこれを不服として島津軍に攻撃を仕掛けたため大友軍はこれを放置するわけにもいかず、やむなく島津軍と戦うことになった。また、大友軍の軍師角隈石宗は「血塊の雲が頭上を覆っている時は戦うべきでない」と主張するも結局交戦に至り、やむなく秘伝の奥義書を焼いて敵中に突入し戦死している。

当初は大友軍が島津軍を兵力の差で押していたが、徐々に大友軍の兵士に疲労の色が見え始め、また大友軍は追撃により陣形が長く伸びきっており、そこを島津軍が突いたことによって戦況は一転し、大友軍は敗走する。大友軍は3000人近い人数が戦死したが、これの大半は敗走後に急流の耳川を渡りきれず溺死した者や、そこを突かれて島津軍の兵士に殺されたものだという。

ここでは、大友軍の敗北が記されていますが、
薩摩隼人の死者も甚大であったことは
容易に想像できます。

この記述を、読んでいて
「凄まじき黄昏」の場面だ! と、
詩を再読することになりました。

この種の歴史書を
中原中也が読んだことも
容易に推測できます。

「凄じき黄昏」第3連の、
敷きある屍(かばね)――
空、演壇に立ちあがる。
は、累々たる死体が
天に昇る様子を歌ったものではないか……。

ある日、突然、詩が、
初めて読んだ時とは違って
見えてくる、
ということがある例です。

 *
 凄じき黄昏

捲き起る、風も物憂き頃ながら、
草は靡(なび)きぬ、我はみぬ、
遐(とほ)き昔の隼人(はやと)等を。

銀紙(ぎんがみ)色の竹槍の、
汀(みぎは)に沿ひて、つづきけり。
――雑魚(ざこ)の心を俟(たの)みつつ。

吹く風誘はず、地の上の
敷きある屍(かばね)――
空、演壇に立ちあがる。

家々は、賢き陪臣(ばいしん)、
ニコチンに、汚れたる歯を押匿す。

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』」角川文庫クラシックスより)

2009年2月20日 (金)

詩の入り口について/凄じき黄昏<1>

捲き起る、風も物憂き頃ながら、
草は靡(なび)きぬ、我はみぬ、
遐(とほ)き昔の隼人(はやと)等を。

これは、「山羊の歌」の中の
「凄まじき黄昏」という詩の
第1連です。

中原中也は、
書物とか歴史とかの「教養的なもの」から
1篇の詩を歌いあげることを
一つの詩法としていたことは
いくつかの例もあることですから、
まちがいはなく、
「ためいき」を
その詩法で作った作品という見方を
否定するものはありません。

と、記しながら、
この「凄じき黄昏」という作品が
思い出されていました。

この詩を読んだときの
苦闘がよみがえり、
「ためいき」を作っている詩人の視線と
「凄じき黄昏」を作っている詩人の視線は
どこかしら似ているものを
感じたのであります。
それは、
どこからくるのでしょうか。

ためいきは夜の沼へゆき、と、
捲き起る、風も物憂き頃ながら、という、
始まり方が、似ています。
二つの詩は、前ぶれもなく、
突如、読者を状況に投げ出す感じです。
いきなり、読者はその中にいますが、
その中とはどこか、
どこにいるのだろう、と
訝(いぶか)しがらざるを得ない状況です。
ここは、どこ? って感じになります。

詩人が
立っている場所が
イメージしにくい、というか、
どこか現実離れした感じがあり、
一瞬、どこにいるのかが
わからないのです。

「凄まじき黄昏」で、
詩人は、広々とした草原を眼下に見ている、
とすれば、それは、
芭蕉が、夏草やつわものどもが夢の跡、
と、詠んだような、
古戦場跡にでも立っているのだろうか、と
それをイメージしてみるのですが、
どうも、そこに実際立っているとは
感じにくいものがあります。

その理由を、
「中原中也のイメージは教養的なもの」と、
河上徹太郎のように
とらえられるのなら、
この「凄じき黄昏」も、
リアリズム(写実)ではなく、
詩人は、
その場所に、実際には、おらず、
歴史で学んだ事象を
詩作品に歌ったのではないか、と
考えられもしてくるのです。

風がビュービュー吹き
いい加減、うんざりするほどに吹き止まない
草々は横倒しに吹きつけられるままだ
こうも荒涼とした風景につつまれては
自ずと遠き時代の薩摩隼人らの
戦が思いだされる。

薩摩隼人の戦、
という「教養」から
この詩は出発しているようです。
薩摩隼人の歴史を繙(ひもと)けば
たとえば、
豊後の大友宗麟との戦いで、
何千人もの死者を出した
薩摩の行軍の様子が
浮かんできます。

(つづく)

 *
 凄じき黄昏

捲き起る、風も物憂き頃ながら、
草は靡(なび)きぬ、我はみぬ、
遐(とほ)き昔の隼人(はやと)等を。

銀紙(ぎんがみ)色の竹槍の、
汀(みぎは)に沿ひて、つづきけり。
――雑魚(ざこ)の心を俟(たの)みつつ。

吹く風誘はず、地の上の
敷きある屍(かばね)――
空、演壇に立ちあがる。

家々は、賢き陪臣(ばいしん)、
ニコチンに、汚れたる歯を押匿す。

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』」角川文庫クラシックスより」

2009年2月16日 (月)

詩の入り口について/ためいき<9>

中原のイメージは
決して生得環境的なものではなくて、
いわば教養的なもの……と、
河上徹太郎は認めたうえで、
「ためいき」の風景を、
19世紀ロシア文学、
そのなかのチェホフあたりの風物を日本の田園に翻訳して得たもの、
とほぼ断じています。

チェホフの短編小説だか戯曲だか
特定の作品の一場面を指示するわけではなく
河上徹太郎の中には、
それは具体的にあったのでしょうが
チェホフ的世界の風物を
中野、杉並、世田谷あたりのことでしょうか
それも指示しませんが
日本の田園に翻訳した、
置き換えた、
というのですから、
ギョッとしますし、
目が覚めますし、
モヤモヤは吹きとんでしまいます。

中也の生まれ故郷・山口の
どこかの風景なのかな、などとも
想像していたところ、
そもそも
中原のイメージは
決して生得環境的なものではなくて、
いわば教養的なもの……
と、いうところにさしかかり、
えっ? と驚き、
幼少年時を過ごした山口が
「原風景」ですらないとでもいわんばかりの、
この、河上の指摘に耳をそばだてたばかりなのです。

実にユニークではないですか!

それを、しかも、
ロシアの平原のノスタルジア、と
展開してゆき、
リルケとの比較です。
ここで、その行方を追うことをしませんが、
中原中也は、
書物とか歴史とかの「教養的なもの」から
1篇の詩を歌いあげることを
一つの詩法としていたことは
いくつかの例もあることですから、
まちがいはなく、
「ためいき」を
その詩法で作った作品という見方を
否定するものはありません。

それにしても
チェホフあたりの風物、とは
河上徹太郎が直感したものなのでしょうか?
中也からの手紙とか、会話とかに
なんらかの示唆があって
そう断言しているのでしょうか。
ドストエフスキーではなく
チェホフだったのは、
なにか理由があるのでしょうか。

この読みは、
たとえば
「中原中也必携」(吉田凞生編、学燈社)も
「中也を読む 詩と鑑賞」(中村稔、青土社)も、
そのまま踏襲し、
それ以降の読みも、
太田静一の読みのような
例外はあるものの、
おおよそ支持され、
現在にいたっている様子です。

詩は
色々な読みができるのだから
ここにも
よい読みがあるということの証でして、
先に読んじゃった者が勝ち!
ということがいえますが、
徒手空拳の
素朴な読者大衆は
こんなふうに読めるわけはなく
ためいきが
ふーっと漏れてしまいます。

(つづく)

 *
 ためいき
   河上徹太郎に
ためいきは夜の沼にゆき、
瘴気(しやうき)の中で瞬きをするであらう。
その瞬きは怨めしさうにながれながら、パチンと音をたてるだらう。
木々が若い学者仲間の、頸すぢのやうであるだらう。

夜が明けたら地平線に、窓が開(あ)くだらう。
荷車を挽いた百姓が、町の方へ行くだらう。
ためいきはなほ深くして、
丘に響きあたる荷車の音のやうであるだらう。

野原に突出た山ノ端の松が、私を看守(みまも)つてゐるだらう。
それはあつさりしてても笑はない、叔父さんのやうであるだらう。
神様が気層の底の、魚を捕つてゐるやうだ。

空が曇つたら、蝗螽(いなご)の瞳が、砂土の中に覗くだらう。
遠くに町が、石灰みたいだ。
ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光つてゐる。

*瘴気 熱病を起させる毒気。
*ピョートル大帝 ロシア皇帝ピョートル一世(1672―1724)。西欧文化を積極的に取り入れ、絶対主義帝政を確立した。

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』」角川文庫クラシックスより)

2009年2月14日 (土)

詩の入り口について/ためいき<8>

「ためいき」は、
チェホフあたりの風物を日本の田園に翻訳して得たものに違いない。 
とか、
この舞台は正しくロシアの平原のノスタルジアである。
とかと、
胸のすくような、
意表を衝くような読みが
どのようにして可能なのか。

これは、やはり、
中原中也という詩人と生の交流があり、
手紙などの言葉のやりとりもあり、
なおかつ、
詩というものを理解できる感性……
そして知性もあるような友人にしか
言えないコメントではないでしょうか。

こう、言われてしまうと
ああ、そうだそうだ、
どうも、日本離れした匂いが漂っている
などと、
かすかに異国のイメージを抱いたものの正体を
言い当てられたようで
妙に納得がいくものです。

詩を贈られた
本人である河上徹太郎が
作品としての、その詩へ、
オマージュを返した、
ということなのですが
それが、単に、
一個の詩へのオマージュにとどまらず、
「日本のアウトサイダー」の
起点になるような批評へと
展開していくのですから
ただごとではありません。

音楽でいったらアンダンティーノ八分の六拍子とでもいいたいリズムの揺れ方は無類である。

このあたりからはじまる
オマージュは、

この舞台は正しくロシアの平原のノスタルジアである。
というあたりから、
ライナー・マリア・リルケを引き合いにして
どうやら
カトリック詩人としての
中原中也を描くことに向かっていきますが、
ここでは
そんなこともどうでもいいことにします。

ここでは
「ためいき」の読みだけが関心の的(まと)です。

その読みは、
「日本のアウトサイダー」所収の
「中原中也」にあり、
河上徹太郎が昭和34年(1959年)に刊行したものです。

その中の
「ためいき」に関わるコメントだけを
ここに、引用しておきます。
わかりやすくするために
改行や行空きを加えてあります。

(以下引用)
(略)従って中原のイメージは決して生得環境的なものではなくて、いわば教養的なものである。

例えば彼は時の文学青年の常として十九世紀のロシア文学に負う所が多いが、
次の私に親しい詩も実はチェホフあたりの風物を日本の田園に翻訳して得たものに違いない。 

ためいきは夜の沼にゆき、
瘴気(しやうき)の中で瞬きをするであらう。
その瞬きは怨めしさうにながれながら、パチンと音をたてるだらう。
木々が若い学者仲間の、頸すぢのやうであるだらう。

夜が明けたら地平線に、窓が開(あ)くだらう。
荷車を挽いた百姓が、町の方へ行くだらう。
ためいきはなほ深くして、
丘に響きあたる荷車の音のやうであるだらう。

野原に突出た山ノ端の松が、私を看守(みまも)つてゐるだらう。
それはあつさりしてても笑はない、叔父さんのやうであるだらう。……

これは「ためいき」という彼が二十歳の時の詩だが、この、音楽でいったらアンダンティーノ八分の六拍子とでもいいたいリズムの揺れ方は無類である。

ここにあって可見のイメージはすべて手なずけられて、一律に戦いでいる。 

ほとんど風景の書割だけで出来ているような、こんな叙情的な詩は中原の全作品の中で珍しいのである。

ところで、この舞台は正しくロシアの平原のノスタルジアである。(以下略)

(つづく)

 *
 ためいき
   河上徹太郎に
ためいきは夜の沼にゆき、
瘴気(しやうき)の中で瞬きをするであらう。
その瞬きは怨めしさうにながれながら、パチンと音をたてるだらう。
木々が若い学者仲間の、頸すぢのやうであるだらう。

夜が明けたら地平線に、窓が開(あ)くだらう。
荷車を挽いた百姓が、町の方へ行くだらう。
ためいきはなほ深くして、
丘に響きあたる荷車の音のやうであるだらう。

野原に突出た山ノ端の松が、私を看守(みまも)つてゐるだらう。
それはあつさりしてても笑はない、叔父さんのやうであるだらう。
神様が気層の底の、魚を捕つてゐるやうだ。

空が曇つたら、蝗螽(いなご)の瞳が、砂土の中に覗くだらう。
遠くに町が、石灰みたいだ。
ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光つてゐる。

*瘴気 熱病を起させる毒気。
*ピョートル大帝 ロシア皇帝ピョートル一世(1672―1724)。西欧文化を積極的に取り入れ、絶対主義帝政を確立した。

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』角川文庫クラシックスより)

2009年2月13日 (金)

詩の入り口について/ためいき<7>

詩は、
ある特定の個人に向けて作られることがあり、
ラブレターになる場合や
この「ためいき」のように
献呈詩となる場合などがあります。

中原中也は
多くの「恋愛詩」を書きましたが
「献呈詩」もたくさん書きました。

このことをもって、
中也は、相手のいない詩を書かなかった、
などと批評する人もいるほどです。

そんなことは、
どうでもいいのですが
詩を贈られたり、
捧げられたりした人は、
どのような感情を抱くものか
悪い感情を抱くものでないことは明らかなのですが、
贈られ、捧げられて、
なお「作品」として
冷静に読むことができるものか
少し気になります。

詩を作った人と
贈られた人だけに通じる
いわば「秘め事」があり、
第三者が介入できない領域や、
想像できない
微妙なニュアンスなどが
こうした詩作品にあるとすれば
その当事者が勝ちです!

「ためいき」への、
河上徹太郎の批評が、
このようなものであるかどうかを
知り得ませんが
「日本のアウトサイダー」の
トップを飾る「中原中也」には、
「ためいき」を論じた
目の覚めるような
爽快なコメントがあり、
これを読まないでは、
「ためいき」の、ある重要なものを
読み過ごしてしまうのかもしれません。

「ためいき」には、
これを献呈された河上徹太郎本人による
他者の追随を許さない読みがあります。
この詩は、
この読みのように読む以外にない、とさえ、
広く受け入れられているようですから、
その、極めて有名な論考をみてみましょう。

「日本のアウトサイダー」は、
河上徹太郎が、昭和34年(1959年)に、
江湖に問うた論考集で、
序を含め全10章からなっています。
そのトップを飾るのが
「中原中也」で、
「日本のアウトサイダー」という書物自体が
「中原中也」を動機に構想された、
といわれるほど
中也は枢要な位置にあります。

中原中也と河上徹太郎は
小林秀雄を介して交友し、
「白痴群」ではともに、同人でした。
大岡昇平のあの冷たいような、
意地の悪いような物言いによると
「白痴群」は、
この二人だけが熱心だったのであり
ほかの同人は会費を払ってもらうための
数合わせみたいなものだった、
ということになる
車の両輪だったらしい。

中也は、「ためいき」を
昭和4年(1929)7月発行の
「白痴群」第2号に発表しました。
制作は、昭和2年(1927)もしくは3年とされているのは
まさしく、献呈された河上徹太郎が
そのように記憶し、
そのように記しているからですが、
断定できるものではなさそうです。

「白痴群」が解散・瓦解したのは、
昭和5年(1930)ですから、
まだ、同人の間に深い亀裂というようなものはなく、
意気揚々たる中也の姿が
彷彿としてくる時期。
河上徹太郎も、打ち込んでいた時期の作品といえるでしょうか。

(つづく)

 *
 ためいき
   河上徹太郎に
ためいきは夜の沼にゆき、
瘴気(しやうき)の中で瞬きをするであらう。
その瞬きは怨めしさうにながれながら、パチンと音をたてるだらう。
木々が若い学者仲間の、頸すぢのやうであるだらう。

夜が明けたら地平線に、窓が開(あ)くだらう。
荷車を挽いた百姓が、町の方へ行くだらう。
ためいきはなほ深くして、
丘に響きあたる荷車の音のやうであるだらう。

野原に突出た山ノ端の松が、私を看守(みまも)つてゐるだらう。
それはあつさりしてても笑はない、叔父さんのやうであるだらう。
神様が気層の底の、魚を捕つてゐるやうだ。

空が曇つたら、蝗螽(いなご)の瞳が、砂土の中に覗くだらう。
遠くに町が、石灰みたいだ。
ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光つてゐる。

*瘴気 熱病を起させる毒気。
*ピョートル大帝 ロシア皇帝ピョートル一世(1672―1724)。西欧文化を積極的に取り入れ、絶対主義帝政を確立した。

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』角川文庫クラシックスより)

2009年2月11日 (水)

詩の入り口について/ためいき<6>

ピョートル大帝の目玉、とは何か?
ここでは、歴史を研究しているのではありません
ピョートル大帝は、
18世紀ロシアの絶対君主で、
身長が2メートルほどあったといわれる巨体……
この歴史的人物が、
なぜ、「ためいき」に登場するのでしょうか?
なぜ、目玉、なのでしょうか?

最終連は、
起承転結の結のはずですから
ここで、ためいきの行方が
はっきり見えることになるのですが
それが、
ピョートル大帝の目玉が、
雲の中で光っている
で、終わるのですから、

ためいきにとって、ピョートル大帝の目玉、とは何か?

ということになります。

1行目の、
イナゴの瞳、の対照として
ピョートル大帝の目玉、が現れているのですから、
イナゴとピョートル大帝は対立語といえるかもしれません。

空が曇り、
というのは、
状況が悪化し、困難なときがくれば、
という意味でしょうから、
小心なイナゴたちは砂の中に隠れてしまうが
ピョートル大帝のような絶対権力者の目玉は
雲のただ中に在って、
びくともしないで、光り輝いているばかりだ

最終連を
このように読むことができますが、
ためいきは、どこへ行ったのか
イナゴとためいきの関係、
ピョートル大帝とためいきの関係は、
どのようなものかが
新たな問いとして現れます。

そもそも
ためいき、とは、
何か、といえば、
詩人の、嘆息、吐息……であり、
詩そのもののことととるのが自然です。
倦怠、閑寂、むなしさなどの流れの
中原中也の詩のテーマの一群に
この、ためいきはあり、
ここで
それを歌っているのですから
それは、詩そのものです。

その、詩=ためいきは、
どこへ行ったのでしょうか
第1連で、
夜の沼へ行ったためいき、
第2連で、
百姓の引く荷車の音のようであったためいき、
第3連で、
松に見守られている私……

最終連では、
イナゴの瞳へ行き
ピョートル大帝の目玉へ行った、
ということになり、
詩人のためいきは
イナゴの瞳のように、
砂土の中にいるものなのか、
ピョートル大帝の目玉のように、
雲の中で光っているものなのか
……

ここで、もう一度、
ためいきにとって、イナゴの瞳、とは何か?
ためいきにとって、ピョートル大帝の目玉、とは何か?
と、問うことにして、
ずっと、問い続けることを
答にしておきます。

このような解釈が、
もはや迷路に入っていることを
示しているのかもしれませんから。

(つづく)

 *
 ためいき
   河上徹太郎に

ためいきは夜の沼にゆき、
瘴気(しやうき)の中で瞬きをするであらう。
その瞬きは怨めしさうにながれながら、パチンと音をたてるだらう。
木々が若い学者仲間の、頸すぢのやうであるだらう。

夜が明けたら地平線に、窓が開(あ)くだらう。
荷車を挽いた百姓が、町の方へ行くだらう。
ためいきはなほ深くして、
丘に響きあたる荷車の音のやうであるだらう。

野原に突出た山ノ端の松が、私を看守(みまも)つてゐるだらう。
それはあつさりしてても笑はない、叔父さんのやうであるだらう。
神様が気層の底の、魚を捕つてゐるやうだ。

空が曇つたら、蝗螽(いなご)の瞳が、砂土の中に覗くだらう。
遠くに町が、石灰みたいだ。
ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光つてゐる。

*瘴気 熱病を起させる毒気。
*ピョートル大帝 ロシア皇帝ピョートル一世(1672—1724)。西欧文化を積極的に取り入れ、絶対主義帝政を確立した。

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』角川文庫クラシックスより)

2009年2月10日 (火)

詩の入り口について/ためいき<5>

第2連も、
ためいきはなほ深くして、
と、3行目にあるように、
第1連とつながっていまして、
夜の沼の風景は、
夜が明けて、
広々とした風景
地平線の見える風景へと変わりますが、
時が経過し
風景も変わったのだけれど
ためいきは深まっています。

しかし、視界がパッと開けます。
窓を開けると、地平線が見え、
荷車を引いた百姓が、
この百姓というのは、
詩人自らのことでありましょう、
百姓が、町の方へ、
懸命に、荷車を引いていく姿があり、
しんどそうに
ときおり、深いためいきをつきます。
そのためいきは、ほんとうに深いもので
まるで丘にぶつかって反響する
荷車の音のようです。

実際に、地平線が見える広い野原がどこか
そんなことは特定しなくてよいでしょうが
たとえばロシアの平原であってもかまいません
昭和初期の東京杉並や世田谷や中野や……だって
広々とした武蔵野の風景がありました
夜が明けても、なお
ためいきは百姓=詩人の口を漏れ
町へ行けば、きっとなにか
ためいきをまぎらわすこともあるかもしれない

第3連になって
百姓の姿は消え、
私が登場します。
百姓は、私=詩人のことだったのです。
ということは
ためいきの主体も
私=詩人ということです

町へ向かう百姓=私=詩人を
松の木が、サポートしてくれるでしょう
どんなふうにサポートしてくれるかというと
あっさり、しつこくなく、さりげなく
笑って、小馬鹿にしたりしない
肉親である、おじさんのように、です。
それは、まるで、
神様が、空気の層の底で、
魚を捕まえているように、
あますところなく、
ぬかりなく、
ゆきとどいていることでしょう。

最終連は、難解というべきか……。
それとも、醍醐味といべきか……。

詩人は
ピョートル大帝を
どのようにイメージしているのか
それを判断する材料は
この詩の中にしかなく、
それゆえ、
この詩へのまったく異なった読みが生じるほどの
分岐点となります。

百姓は、まだ、
町へ向かう野原の道にいます。
空がかき曇ったら
イナゴたちは、いっせいに、砂の中にもぐり込み、
雨を避ける体勢です。
石造建築で密集する、
遠くの町が、俄然、石灰のように白っぽくなりました。
雲の中で
ピョートル大帝の、
いかめしい目玉がギラギラと光っている

ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光つてゐる。

この断定が利いています。
夜の沼にはじまる
ためいきの運命が
雲の中で光る大帝の目玉によって
にらみつけられていて、
いっそ、すがすがしい!

(つづく)

 *
 ためいき
   河上徹太郎に
ためいきは夜の沼にゆき、
瘴気(しやうき)の中で瞬きをするであらう。
その瞬きは怨めしさうにながれながら、パチンと音をたてるだらう。
木々が若い学者仲間の、頸すぢのやうであるだらう。

夜が明けたら地平線に、窓が開(あ)くだらう。
荷車を挽いた百姓が、町の方へ行くだらう。
ためいきはなほ深くして、
丘に響きあたる荷車の音のやうであるだらう。

野原に突出た山ノ端の松が、私を看守(みまも)つてゐるだらう。
それはあつさりしてても笑はない、叔父さんのやうであるだらう。
神様が気層の底の、魚を捕つてゐるやうだ。

空が曇つたら、蝗螽(いなご)の瞳が、砂土の中に覗くだらう。
遠くに町が、石灰みたいだ。
ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光つてゐる。

*瘴気 熱病を起させる毒気。
*ピョートル大帝 ロシア皇帝ピョートル一世(1672―1724)。西欧文化を積極的に取り入れ、絶対主義帝政を確立した。

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』角川文庫クラシックスより)

2009年2月 9日 (月)

詩の入り口について/ためいき<4>

第1連の4行、

ためいきは夜の沼にゆき、
瘴気(しやうき)の中で瞬きをするであらう。
その瞬きは怨めしさうにながれながら、パチンと音をたてるだらう。
木々が若い学者仲間の、頸すぢのやうであるだらう。

というのは、
夜、しばしば通う場所である沼があって
そこへ来たころに必ず湧いてくる感情、
それは、ためいきの出るような失望感で、
それが、
楠(くすのき)とか、杉の木とかの
樹木から発する、
樟脳のようなツンとした香り
現代では、フィトンチッドとでもいう
木の香に満ちた沼のほとりの
林にさしかかると
そのためいきは、目をさまし、疼(うづ)きはじめ、
怨めし気につきまとっているけれど、
もちこたえられずに、パチンとはじけてしまいますよ。
まわりの木々が、若い学者仲間の
首筋のようにほっそり伸びて、
ちいさな驚きの表情を見せるでしょう。

というほどに解釈すれば
すこしは近くなったでしょうか
詩はそれほど遠いものではないはずで
ためいきと夜の沼の
絶妙といえる組み合わせに
はたと、感心することになるでしょう。

なんといっても
ためいきは夜の沼にゆき、
という、冒頭の、この1行への
滑り込むような入り方!
いきなり
夜の沼へ引きずり込まれた
ためいきは
まばたきし
底なし沼へ溺れるというのではなく
パチンとはぜるのです。

ためいきが、
夜の沼へゆき
まばたきし
パチンと音たてる

その時の、
木々が、
若い学者仲間のくびすじのようであるだろう、
という、
なんとも、唐突のようで、
ピタッと決まった
おかしみもある
これは
直喩ではないでしょうか
若い学者のくびすじ、とは!

ためいきを抱えた詩人は
井の頭池あたりへさしかかり
フーッとそれを吐き出すと
あたりの木々が
さわさわと揺れて
知り合いの学者仲間のくびすじをふっと思い出したのです

(つづく)

 *
 ためいき
   河上徹太郎に
ためいきは夜の沼にゆき、
瘴気(しやうき)の中で瞬きをするであらう。
その瞬きは怨めしさうにながれながら、パチンと音をたてるだらう。
木々が若い学者仲間の、頸すぢのやうであるだらう。

夜が明けたら地平線に、窓が開(あ)くだらう。
荷車を挽いた百姓が、町の方へ行くだらう。
ためいきはなほ深くして、
丘に響きあたる荷車の音のやうであるだらう。

野原に突出た山ノ端の松が、私を看守(みまも)つてゐるだらう。
それはあつさりしてても笑はない、叔父さんのやうであるだらう。
神様が気層の底の、魚を捕つてゐるやうだ。

空が曇つたら、蝗螽(いなご)の瞳が、砂土の中に覗くだらう。
遠くに町が、石灰みたいだ。
ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光つてゐる。

*瘴気 熱病を起させる毒気。
*ピョートル大帝 ロシア皇帝ピョートル一世(1672―1724)。西欧文化を積極的に取り入れ、絶対主義帝政を確立した。

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』角川文庫クラシックスより)

2009年2月 6日 (金)

詩の入り口について/ためいき<3>

わかったような
わからないような
モヤモヤが残りますが
一度、その詩世界へ入ると
なにかに触ります。
触ったものこそ詩そのものなのですが
これがなんであるのか
その詩以外の言葉で
言い替えることができないものが詩ですから
モヤモヤは大切なものです。

ですから、
モヤモヤしたものを
楽しめれば
詩を楽しむことができるということを
このことが示しています。
わからないことはわからないままにでよいのですが
だからといって
わからないものをわからないままにしてよいということでもなく、
わからないことを心の中で気に止めていると
いつか、あるとき、それがわかる、
というようなことが起こります。

知らない街を歩いて
迷子になって
ギロギロした眼で
その街のありさまを見つめ直していると
その街が分かってきて
段々、親しみがもてるようになってくる。
そのようなことを、
予想して、試みる、
というような方法といえるでしょうか。

たとえば、
このようにして
人は、ある一つの詩を読みます。
迷子になるのですから、
やっかいといえばやっかいですが、
詩を読まないのと読むのとでは
迷子にならないか、迷子になったか、
の違いほどの違いがあります。
迷子になったことのあるほうが
より豊かな時間を過ごした、と
言えることに間違いはないはずです。

「ためいき」は、
一読して、不思議さの残る詩ですが、
何度も繰り返して読んでいるうちに
名作であることに気づくような詩でもあります。
というわけで、もう少し、
この詩の中に分け入っていきます。

まずは、この詩に現れる風景(場所、場面)を
見てみると、
詩に現れる順に、

夜の沼、
地平線

荷車をひいた百姓


野原

気層の底
魚を捕っている
イナゴの瞳
砂土
……と、なります。

これらの風景のそれぞれが
相互にどのような関係なのか
有機的な関係が、そもそもあるのか、
または、これらの風景と、
ためいきという主格との関係を知れば
この詩が、少し、近づくでしょうか。

東京の、
石神井池とか、井の頭池とかの
夜の池を思わせる
「夜の沼」が、
なぜ、いつしか
イナゴが砂土から目を出す、
ロシアへ
飛んでいくのか?

こんな疑問が
湧いてきませんか?

(つづく)

 *
 ためいき
   河上徹太郎に

ためいきは夜の沼にゆき、
瘴気(しやうき)の中で瞬きをするであらう。
その瞬きは怨めしさうにながれながら、パチンと音をたてるだらう。
木々が若い学者仲間の、頸すぢのやうであるだらう。

夜が明けたら地平線に、窓が開(あ)くだらう。
荷車を挽いた百姓が、町の方へ行くだらう。
ためいきはなほ深くして、
丘に響きあたる荷車の音のやうであるだらう。

野原に突出た山ノ端の松が、私を看守(みまも)つてゐるだらう。
それはあつさりしてても笑はない、叔父さんのやうであるだらう。
神様が気層の底の、魚を捕つてゐるやうだ。

空が曇つたら、蝗螽(いなご)の瞳が、砂土の中に覗くだらう。
遠くに町が、石灰みたいだ。
ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光つてゐる。

*瘴気 熱病を起させる毒気。
*ピョートル大帝 ロシア皇帝ピョートル一世(1672―1724)。西欧文化を積極的に取り入れ、絶対主義帝政を確立した。

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』角川文庫クラシックスより)

2009年2月 5日 (木)

詩の入り口について/ためいき<2>

ためいき、は、だれのだろう
若い学者仲間、とは、だれを指し、だれのだろう
荷車を挽いた百姓、とは、だれのことだろう
私、とは、詩人自身のことだろうか
ピョートル大帝、には、どんなメタファーが込められているのだろう

「ためいき」に出てくる人間たちの
まずは、位置関係を知ろうと、
ためいきを吐くのは、
詩人か、
この詩の献呈相手である河上徹太郎のことか、
そのどちらでもない、だれかのためいきか、
または、そんなことは特定しなくてもよいことか
手がかりのない状態で読んでみると……。

夜遅く散歩していると
ためいきが一つ出て
折しも通りかかった公園の沼のほとりの
フィトンチッドいっぱいの空気の中で
ためいきはまばたきして、
うらめしそうに流れては、
パチンと大きな音を立てるでしょう、

ためいきが瞬きする
それがパチンと音を立てる
なにやら、普通の溜息ではなくて、大きなためいき……、

それを
であろう、と、
未来・推測の意味をもたせて使い、
ためいきをはく本人が
だれであるかを明らかにしません。

それが止むとき、
パチンと音を立てるような
明快なためいきが漏れるでしょう、
夜の沼のほとり……。
森の木々は、
若い学者のお仲間たちの、
首筋のように、むさくるしさがなく
すっきり、ほっそりしていることでしょう

学者仲間となると、
中也の仲間の学者たちともとれるし
河上徹太郎の仲間ともとれるし
両者に共通の学者たちかもしれないし
学者を、文字通りの学者ととらず
お勉強好きなお友達、
くらいにとってもいいのでしょうか

第2連に進み
夜が明けると、地平線に窓が開く、
となると、これは、
新感覚派的な表現なのか
シュールなのか
夜が明けると、
地平線の見えるほどの広大な空間が
パッと眼前に開ける、という意味の
中也的な表現なのか

荷車をひいた百姓が
地平線の向こうのほうにある町へ
行くでしょう、と
ここでも、推測形です。
ためいきはなお深く、と
ここに出てきた百姓が吐く
ためいきであるかのように、
百姓がひく荷車の音のようである、と
ためいきが荷車の音に喩えられます。

第3連。
ここに、私、が登場します。
第3連は、起承転結の転にあたりますから
展開があるのでしょうか
私、が出てきたことが劇的な感じで、
広々とした野原に、
山の端っこから飛び出した松の木があって
その松が私を見守っていることでしょう、
その松は、あっさりしていて、無闇に笑わない、
父親の兄弟であるおじさんのようでしょう。

ここで、第3連3行、
神様が気層の底の、魚を捕つてゐるやうだ。
と、推測ではなく、
直喩で、そのおじさんを、
神様に喩(たと)えます。
その神様は、空気の底で、魚を捕まえているようです。

第4連1行は、
空が曇つたら、蝗螽(いなご)の瞳が、砂土の中に覗くだらう。
と、暗示的で謎めいて、
空が曇ると、イナゴの目が、地面から覗く、
という不可思議な情景をはさみ、

第4連3、4行も、
遠くに町が、石灰みたいだ。
ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光つてゐる。
と、だろう、を使わず、
推測ではありません。

遠くに見える町は、
石造建築だからでしょう
白くて、石灰のように見えます。
ロシアの町なのでしょう
ピョートル大帝の目玉が、
ギロギロと、雲の中から町を
見下ろしているのが見えます。

ここで、
雲の中で光つてゐる。
と、断定の現在形で、
この詩は終わるのです。

3次元で時系列に沿ったドラマを
組み立てようとするのは
無理なのかもしれません。
イメージの世界で、
一貫したストーリーを作ろうとすると
失敗するのかもしれません。

詩は、
数学ではありません。

(つづく)

 *
 ためいき
   河上徹太郎に

ためいきは夜の沼にゆき、
瘴気(しやうき)の中で瞬きをするであらう。
その瞬きは怨めしさうにながれながら、パチンと音をたてるだらう。
木々が若い学者仲間の、頸すぢのやうであるだらう。

夜が明けたら地平線に、窓が開(あ)くだらう。
荷車を挽いた百姓が、町の方へ行くだらう。
ためいきはなほ深くして、
丘に響きあたる荷車の音のやうであるだらう。

野原に突出た山ノ端の松が、私を看守(みまも)つてゐるだらう。
それはあつさりしてても笑はない、叔父さんのやうであるだらう。
神様が気層の底の、魚を捕つてゐるやうだ。

空が曇つたら、蝗螽(いなご)の瞳が、砂土の中に覗くだらう。
遠くに町が、石灰みたいだ。
ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光つてゐる。

*瘴気 熱病を起させる毒気。
*ピョートル大帝 ロシア皇帝ピョートル一世(1672―1724)。西欧文化を積極的に取り入れ、絶対主義帝政を確立した。

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』角川文庫クラシックスより)

2009年2月 3日 (火)

詩の入り口について/ためいき

「山羊の歌」
「在りし日の歌」を、
春の歌
夏の歌
秋の歌
冬の歌
海の歌
川の歌
山の歌
空の歌
月の歌
雪の歌
雨の歌
鳥の歌
風の歌
花の歌
植物の歌
蛙の歌
虫の歌
猫の歌
草の歌
雲の歌
星の歌
……と、
自分流に再分類していると、

花鳥風月
雪月花
飛花落葉
落花流水
行雲流水
森羅万象
天地玄黄
……
中原中也という詩人は、
色々な自然、
それも身近な自然を
折りあるごとに歌い、
その自然をモチーフにして
その自然よりも他の何かを
色々と歌っているのを
あらためて知ることになります。

この自然を
入り口に見立て
詩の中に入って
行かないという手はありません。

入り口は、そして、
自然ばかりではなく
ほかにも
思いつくだけで、

色がある歌
思い出を歌った歌
倦怠の歌
死の歌
恋愛を歌った歌
女の出てくる歌
長谷川泰子らしい女性の出てくる歌
お道化の歌
詩人論の歌
宗教的な歌
神の出てくる歌
喪失を歌った歌
疎外感を歌った歌
歴史的事件のある歌
歴史的人物が出てくる歌
地名のある歌
献辞のある歌
オノマトペのある歌
……
などと、
いくらでも、
見つけることができそうです。

文語調の歌
定型詩
口語自由詩
ダダイズムの詩
直喩を使った歌
隠喩を使った歌
擬人法を使った歌
七五調
五七調
歌謡調
俗謡調
漢文調
ソネット
北原白秋調
生田春月風
宮沢賢治的
ベルレーヌ風
ランボー的
ボードレール調
……。

「ためいき」は、
「山羊の歌」19番目の歌。
河上徹太郎への献辞が付された作品です。
この作品の入り口を
どこに見つけたらいいか、
あれやこれや、
考えていると、
すでにこの詩の世界に入っていることに
ふと気づき、驚きます。

(つづく)

 *
 ためいき
   河上徹太郎に

ためいきは夜の沼にゆき、
瘴気(しやうき)の中で瞬きをするであらう。
その瞬きは怨めしさうにながれながら、パチンと音をたてるだらう。
木々が若い学者仲間の、頸すぢのやうであるだらう。

夜が明けたら地平線に、窓が開(あ)くだらう。
荷車を挽いた百姓が、町の方へ行くだらう。
ためいきはなほ深くして、
丘に響きあたる荷車の音のやうであるだらう。

野原に突出た山ノ端の松が、私を看守(みまも)つてゐるだらう。
それはあつさりしてても笑はない、叔父さんのやうであるだらう。
神様が気層の底の、魚を捕つてゐるやうだ。

空が曇つたら、蝗螽(いなご)の瞳が、砂土の中に覗くだらう。
遠くに町が、石灰みたいだ。
ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光つてゐる。

*瘴気 熱病を起させる毒気。
*ピョートル大帝 ロシア皇帝ピョートル一世(1672―1724)。西欧文化を積極的に取り入れ、絶対主義帝政を確立した。

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』角川文庫クラシックスより)

2009年2月 2日 (月)

詩の入り口について/汚れつちまつた悲しみに……

「山羊の歌」は
「初期詩篇」
「少年時」
「みちこ」
「秋」
「羊の歌」
という五つの「章」に分けられ、

「在りし日の歌」も、
「在りし日の歌」
「永訣の秋」
という二つの「章」に分けられています。

章を立てることによって
詩人は、
その章ごとに共通するもの、
それをテーマと呼んでいいかは別として、
一括りにすることができる要素を
見出していたに違いありません。

これは
読者にとって、
重要な手がかりです。
詩の入り口に立つ者が
詩(集)の中へ入っていく時の
頼りがいのある目印です。
このような目印が
たくさんあれば
詩は読みやすく
詩の中へ入ってゆくことは
もう少し容易かもしれませんが
そうはいきません。

詩は
詩であることの要請から
説明というものを極力排するものですし、
そのことによって
普遍的であろうとするものが
詩であるから、
詩は詩の説明をしません。
制作年時さえ、
詩は詩の中に
許さないのが普通です。

詩は、
この他にも
さまざまな理由で
詩以外を解釈の手がかりにしないような仕掛けをもっていますが
そのことによって
多様な味わい方が生まれるのを助けてもいます。

「汚れつちまつた悲しみに……」のような詩が
読まれる時や場所や状況や時代や……
読む人の年齢や世代や性別や職業や……
……
さまざまな条件を越えてしまって
読まれ続けるのは
一つには
この普遍性、
この詩を説明するものは
この詩以外にない、という、
普遍性(=作品)があるからです。

(つづく)

 *
 汚れつちまつた悲しみに……

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘(かはごろも)
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気(おぢけ)づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』」より)

詩の入り口について/サーカス

そもそも「詩集」は 詩人が選び 配列を考えて あるひとまとまりの表現を試みたものですから、 はじめからおわりまでを 並べられた順序に従って 読んでいけばよいのですが そうとばかりもいっていられません。 読者は、 神様のようなもので 詩は、きっと、その読者、 神様のような読者のために作られるものですから 読者はどのように詩(集)を読んだって 自由であるということになっています。 こういうことを暗黙の前提としているから たとえば、 詩集には、制作年月日が明記されませんし、 制作年月日順に作品が配列されるだけでもありませんし、 余計な説明はなく 読者には ただ作品が差し出されるだけです。 作品だけを読んでくれ 詩だけを読んでください、と 詩人は考えて 何ら詩を読むための手がかりを明らかにしないで 詩集を編むことになっているようです。 少なくとも 文庫本化される前の詩集、 つまり、その詩集が世に生まれた時には たまに、あいさつのようなものがあるほか 詩以外に詩を読む手がかりは何もありません。 「山羊の歌」も 「在りし日の歌」も例外ではありませんでした。 「在りし日の歌」の「後記」は あいさつのようなものでした。 このような事情もあってか 詩人の決めた順序にしたがって 詩集を読むなどという読者は 読者のうちでも律儀な優等生ですが、 優等生ばかりが読者ではないのが当たり前ですから 優等生でもなんでもない 多様な人々が 詩を読むことができます。 こうして 素手で詩と向き合う 徒手空拳で詩と相対する なんの手がかりもなく詩を読む …… 読者はこのような場所に立たされます。 詩の入り口にいます。 この読者が あるとき 「サーカス」を読み ゆあーん ゆよーん というオノマトペに惹かれて 入り口を一歩踏み込んでいます

(つづく)

 *
 サーカス

幾時代かがありまして
  茶色い戦争ありました

幾時代かがありまして
  冬は疾風吹きました

幾時代かがありまして
  今夜此処(ここ)での一(ひ)と殷盛(さか)り
    今夜此処での一と殷盛り

サーカス小屋は高い梁(はり)
  そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ

頭倒(さか)さに手を垂れて
  汚れ木綿の屋蓋(やね)のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

それの近くの白い灯が
  安値(やす)いリボンと息を吐き

観客様はみな鰯(いわし)
  咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

屋外(やぐわい)は真ッ闇(くら) 闇(くら)の闇(くら)
夜は劫々と更けまする
落下傘奴(らくかがさめ)のノスタルヂアと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』」より)

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