詩の入り口について/ためいき<7>
詩は、
ある特定の個人に向けて作られることがあり、
ラブレターになる場合や
この「ためいき」のように
献呈詩となる場合などがあります。
中原中也は
多くの「恋愛詩」を書きましたが
「献呈詩」もたくさん書きました。
このことをもって、
中也は、相手のいない詩を書かなかった、
などと批評する人もいるほどです。
そんなことは、
どうでもいいのですが
詩を贈られたり、
捧げられたりした人は、
どのような感情を抱くものか
悪い感情を抱くものでないことは明らかなのですが、
贈られ、捧げられて、
なお「作品」として
冷静に読むことができるものか
少し気になります。
詩を作った人と
贈られた人だけに通じる
いわば「秘め事」があり、
第三者が介入できない領域や、
想像できない
微妙なニュアンスなどが
こうした詩作品にあるとすれば
その当事者が勝ちです!
「ためいき」への、
河上徹太郎の批評が、
このようなものであるかどうかを
知り得ませんが
「日本のアウトサイダー」の
トップを飾る「中原中也」には、
「ためいき」を論じた
目の覚めるような
爽快なコメントがあり、
これを読まないでは、
「ためいき」の、ある重要なものを
読み過ごしてしまうのかもしれません。
「ためいき」には、
これを献呈された河上徹太郎本人による
他者の追随を許さない読みがあります。
この詩は、
この読みのように読む以外にない、とさえ、
広く受け入れられているようですから、
その、極めて有名な論考をみてみましょう。
「日本のアウトサイダー」は、
河上徹太郎が、昭和34年(1959年)に、
江湖に問うた論考集で、
序を含め全10章からなっています。
そのトップを飾るのが
「中原中也」で、
「日本のアウトサイダー」という書物自体が
「中原中也」を動機に構想された、
といわれるほど
中也は枢要な位置にあります。
中原中也と河上徹太郎は
小林秀雄を介して交友し、
「白痴群」ではともに、同人でした。
大岡昇平のあの冷たいような、
意地の悪いような物言いによると
「白痴群」は、
この二人だけが熱心だったのであり
ほかの同人は会費を払ってもらうための
数合わせみたいなものだった、
ということになる
車の両輪だったらしい。
中也は、「ためいき」を
昭和4年(1929)7月発行の
「白痴群」第2号に発表しました。
制作は、昭和2年(1927)もしくは3年とされているのは
まさしく、献呈された河上徹太郎が
そのように記憶し、
そのように記しているからですが、
断定できるものではなさそうです。
「白痴群」が解散・瓦解したのは、
昭和5年(1930)ですから、
まだ、同人の間に深い亀裂というようなものはなく、
意気揚々たる中也の姿が
彷彿としてくる時期。
河上徹太郎も、打ち込んでいた時期の作品といえるでしょうか。
(つづく)
*
ためいき
河上徹太郎に
ためいきは夜の沼にゆき、
瘴気(しやうき)の中で瞬きをするであらう。
その瞬きは怨めしさうにながれながら、パチンと音をたてるだらう。
木々が若い学者仲間の、頸すぢのやうであるだらう。
夜が明けたら地平線に、窓が開(あ)くだらう。
荷車を挽いた百姓が、町の方へ行くだらう。
ためいきはなほ深くして、
丘に響きあたる荷車の音のやうであるだらう。
野原に突出た山ノ端の松が、私を看守(みまも)つてゐるだらう。
それはあつさりしてても笑はない、叔父さんのやうであるだらう。
神様が気層の底の、魚を捕つてゐるやうだ。
空が曇つたら、蝗螽(いなご)の瞳が、砂土の中に覗くだらう。
遠くに町が、石灰みたいだ。
ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光つてゐる。
*瘴気 熱病を起させる毒気。
*ピョートル大帝 ロシア皇帝ピョートル一世(1672―1724)。西欧文化を積極的に取り入れ、絶対主義帝政を確立した。
(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』角川文庫クラシックスより)
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