詩の入り口について/凄じき黄昏<2>
薩摩隼人の戦といえば、
たとえば
耳川の戦い。
ネットでは、
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に、
以下の記述が見つかります。
耳川の戦い(みみかわのたたかい)とは、天正6年(1578年)に、九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(宮崎県木城町)を主戦場として激突した合戦。正確には「高城川の戦い」「高城川原の戦い」とも言う。
合戦の背景と概要
天正5年(1577年)、日向の大名伊東義祐が島津氏に敗北。日向を追われ、友好関係にあった大友氏に身を寄せた。これをうけ翌年、大友宗麟・義統は宿敵・島津氏との決着をつけるため三万とも四万ともいわれる大軍を率いて日向への遠征を決定する。
しかし、大友家内部では宗麟の狂信的なキリスト教への傾倒などから家臣団との間に不協和が生じていた。立花道雪らは開戦に時期尚早と強く反対していた。また、合戦直前の大友軍の軍議で田北鎮周は交戦を主張していたが、大将の田原親賢は裏で島津軍との和睦交渉を進めていたためこれに応じなかった。田北鎮周がこれを不服として島津軍に攻撃を仕掛けたため大友軍はこれを放置するわけにもいかず、やむなく島津軍と戦うことになった。また、大友軍の軍師角隈石宗は「血塊の雲が頭上を覆っている時は戦うべきでない」と主張するも結局交戦に至り、やむなく秘伝の奥義書を焼いて敵中に突入し戦死している。
当初は大友軍が島津軍を兵力の差で押していたが、徐々に大友軍の兵士に疲労の色が見え始め、また大友軍は追撃により陣形が長く伸びきっており、そこを島津軍が突いたことによって戦況は一転し、大友軍は敗走する。大友軍は3000人近い人数が戦死したが、これの大半は敗走後に急流の耳川を渡りきれず溺死した者や、そこを突かれて島津軍の兵士に殺されたものだという。
ここでは、大友軍の敗北が記されていますが、
薩摩隼人の死者も甚大であったことは
容易に想像できます。
この記述を、読んでいて
「凄まじき黄昏」の場面だ! と、
詩を再読することになりました。
この種の歴史書を
中原中也が読んだことも
容易に推測できます。
「凄じき黄昏」第3連の、
敷きある屍(かばね)――
空、演壇に立ちあがる。
は、累々たる死体が
天に昇る様子を歌ったものではないか……。
ある日、突然、詩が、
初めて読んだ時とは違って
見えてくる、
ということがある例です。
*
凄じき黄昏
捲き起る、風も物憂き頃ながら、
草は靡(なび)きぬ、我はみぬ、
遐(とほ)き昔の隼人(はやと)等を。
銀紙(ぎんがみ)色の竹槍の、
汀(みぎは)に沿ひて、つづきけり。
――雑魚(ざこ)の心を俟(たの)みつつ。
吹く風誘はず、地の上の
敷きある屍(かばね)――
空、演壇に立ちあがる。
家々は、賢き陪臣(ばいしん)、
ニコチンに、汚れたる歯を押匿す。
(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』」角川文庫クラシックスより)
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