詩の入り口について/サーカス
そもそも「詩集」は 詩人が選び 配列を考えて あるひとまとまりの表現を試みたものですから、 はじめからおわりまでを 並べられた順序に従って 読んでいけばよいのですが そうとばかりもいっていられません。 読者は、 神様のようなもので 詩は、きっと、その読者、 神様のような読者のために作られるものですから 読者はどのように詩(集)を読んだって 自由であるということになっています。 こういうことを暗黙の前提としているから たとえば、 詩集には、制作年月日が明記されませんし、 制作年月日順に作品が配列されるだけでもありませんし、 余計な説明はなく 読者には ただ作品が差し出されるだけです。 作品だけを読んでくれ 詩だけを読んでください、と 詩人は考えて 何ら詩を読むための手がかりを明らかにしないで 詩集を編むことになっているようです。 少なくとも 文庫本化される前の詩集、 つまり、その詩集が世に生まれた時には たまに、あいさつのようなものがあるほか 詩以外に詩を読む手がかりは何もありません。 「山羊の歌」も 「在りし日の歌」も例外ではありませんでした。 「在りし日の歌」の「後記」は あいさつのようなものでした。 このような事情もあってか 詩人の決めた順序にしたがって 詩集を読むなどという読者は 読者のうちでも律儀な優等生ですが、 優等生ばかりが読者ではないのが当たり前ですから 優等生でもなんでもない 多様な人々が 詩を読むことができます。 こうして 素手で詩と向き合う 徒手空拳で詩と相対する なんの手がかりもなく詩を読む …… 読者はこのような場所に立たされます。 詩の入り口にいます。 この読者が あるとき 「サーカス」を読み ゆあーん ゆよーん というオノマトペに惹かれて 入り口を一歩踏み込んでいます
(つづく)
*
サーカス
幾時代かがありまして
茶色い戦争ありました
幾時代かがありまして
冬は疾風吹きました
幾時代かがありまして
今夜此処(ここ)での一(ひ)と殷盛(さか)り
今夜此処での一と殷盛り
サーカス小屋は高い梁(はり)
そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ
頭倒(さか)さに手を垂れて
汚れ木綿の屋蓋(やね)のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
それの近くの白い灯が
安値(やす)いリボンと息を吐き
観客様はみな鰯(いわし)
咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
屋外(やぐわい)は真ッ闇(くら) 闇(くら)の闇(くら)
夜は劫々と更けまする
落下傘奴(らくかがさめ)のノスタルヂアと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』」より)
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