詩の入り口について/ためいき<9>
中原のイメージは
決して生得環境的なものではなくて、
いわば教養的なもの……と、
河上徹太郎は認めたうえで、
「ためいき」の風景を、
19世紀ロシア文学、
そのなかのチェホフあたりの風物を日本の田園に翻訳して得たもの、
とほぼ断じています。
チェホフの短編小説だか戯曲だか
特定の作品の一場面を指示するわけではなく
河上徹太郎の中には、
それは具体的にあったのでしょうが
チェホフ的世界の風物を
中野、杉並、世田谷あたりのことでしょうか
それも指示しませんが
日本の田園に翻訳した、
置き換えた、
というのですから、
ギョッとしますし、
目が覚めますし、
モヤモヤは吹きとんでしまいます。
中也の生まれ故郷・山口の
どこかの風景なのかな、などとも
想像していたところ、
そもそも
中原のイメージは
決して生得環境的なものではなくて、
いわば教養的なもの……
と、いうところにさしかかり、
えっ? と驚き、
幼少年時を過ごした山口が
「原風景」ですらないとでもいわんばかりの、
この、河上の指摘に耳をそばだてたばかりなのです。
実にユニークではないですか!
それを、しかも、
ロシアの平原のノスタルジア、と
展開してゆき、
リルケとの比較です。
ここで、その行方を追うことをしませんが、
中原中也は、
書物とか歴史とかの「教養的なもの」から
1篇の詩を歌いあげることを
一つの詩法としていたことは
いくつかの例もあることですから、
まちがいはなく、
「ためいき」を
その詩法で作った作品という見方を
否定するものはありません。
それにしても
チェホフあたりの風物、とは
河上徹太郎が直感したものなのでしょうか?
中也からの手紙とか、会話とかに
なんらかの示唆があって
そう断言しているのでしょうか。
ドストエフスキーではなく
チェホフだったのは、
なにか理由があるのでしょうか。
この読みは、
たとえば
「中原中也必携」(吉田凞生編、学燈社)も
「中也を読む 詩と鑑賞」(中村稔、青土社)も、
そのまま踏襲し、
それ以降の読みも、
太田静一の読みのような
例外はあるものの、
おおよそ支持され、
現在にいたっている様子です。
詩は
色々な読みができるのだから
ここにも
よい読みがあるということの証でして、
先に読んじゃった者が勝ち!
ということがいえますが、
徒手空拳の
素朴な読者大衆は
こんなふうに読めるわけはなく
ためいきが
ふーっと漏れてしまいます。
(つづく)
*
ためいき
河上徹太郎に
ためいきは夜の沼にゆき、
瘴気(しやうき)の中で瞬きをするであらう。
その瞬きは怨めしさうにながれながら、パチンと音をたてるだらう。
木々が若い学者仲間の、頸すぢのやうであるだらう。
夜が明けたら地平線に、窓が開(あ)くだらう。
荷車を挽いた百姓が、町の方へ行くだらう。
ためいきはなほ深くして、
丘に響きあたる荷車の音のやうであるだらう。
野原に突出た山ノ端の松が、私を看守(みまも)つてゐるだらう。
それはあつさりしてても笑はない、叔父さんのやうであるだらう。
神様が気層の底の、魚を捕つてゐるやうだ。
空が曇つたら、蝗螽(いなご)の瞳が、砂土の中に覗くだらう。
遠くに町が、石灰みたいだ。
ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光つてゐる。
*瘴気 熱病を起させる毒気。
*ピョートル大帝 ロシア皇帝ピョートル一世(1672―1724)。西欧文化を積極的に取り入れ、絶対主義帝政を確立した。
(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』」角川文庫クラシックスより)
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