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2009年3月

2009年3月31日 (火)

「曇天」までのいくつかの詩<1>

この時期は盛んな「在りし日」の氾濫があったらしい。

 

と、大岡昇平が
「在りし日の歌」(1966年)で記す
「この時期」とは、
「月下の告白」や「秋岸清凉居士」が
書かれた1934年(昭和9年)以降を
指しているようです。

 

「別離」
「初恋集」
「雲」
「青い瞳」
「坊や」
「童女」
「山上のひととき」
「むなしさ」
「冬の夜」
「寒い!」
「我がヂレンマ」
「春と赤ン坊」
「白夜とポプラ」
「幻影」

 

を、この時期に発表されたり、
制作された作品としてあげて、
大岡昇平は
一つ一つに簡単な評言を与えた後、
「曇天」へと辿りつきます。

 

「在りし日の歌」は、
大岡昇平自ら、
「作品分析が主となっています」と、
中原中也に関する評論を集大成した
「中原中也」のあとがきで述べているように
作品論に重心をおいたものですが、

 

「完成度」「文学性」「作品性」などの観点から、
さして見るべき作品はなかった、
と、「曇天」へと、先を急いで、
この時期の作品を
軽く斥(しりぞ)けた、という感じがあります。

 

それに、
異論をはさむつもりではありませんが
なかなか佳(よ)い詩は多く、 
ここでは、そのすべての作品を
味わってみることにします。

 

 

 

 *
 別離

 

   1

 

さよなら、さよなら!
  いろいろお世話になりました
  いろいろお世話になりましたねえ
  いろいろお世話になりました

 

さよなら、さよなら!
  こんなに良いお天気の日に
  お別れしてゆくのかと思ふとほんとに辛い
  こんなに良いお天気の日に

 

さよなら、さよなら!
  僕、午睡(ひるね)の夢から覚めてみると
  みなさん家を空(あ)けておいでだつた
  あの時を妙に思ひ出します

 

さよなら、さよなら!
  そして明日(あした)の今頃は
  長の年月見馴れてる
  故郷の土をば見てゐるのです

 

さよなら、さよなら!
  あなたはそんなにパラソルを振る
  僕にはあんまり眩(まぶ)しいのです
  あなたはそんなにパラソルを振る

 

さよなら、さよなら!
さよなら、さよなら!

 

   2

 

 僕、午睡から覚めてみると、
みなさん、家を空けてをられた
 あの時を、妙に、思ひ出します

 

 日向ぼつこをしながらに、
爪(つめ)摘んだ時のことも思ひ出します、
 みんな、みんな、思ひ出します

 

芝庭のことも、思ひ出します
 薄い陽の、物音のない昼下り
あの日、栗を食べたことも、思ひ出します

 

干された飯櫃(おひつ)がよく乾き
裏山に、烏(からす)が呑気(のんき)に啼(な)いてゐた
あゝ、あのときのこと、あのときのこと……

 

 僕はなんでも思ひ出します
僕はなんでも思ひ出します
 でも、わけて思ひ出すことは

 

わけても思ひ出すことは……
――いいえ、もうもう云へません
決して、それは、云はないでせう

 

   3

 

忘れがたない、虹と花
  忘れがたない、虹と花
  虹と花、虹と花
どこにまぎれてゆくのやら
  どこにまぎれてゆくのやら
  (そんなこと、考へるの馬鹿)
その手、その脣(くち)、その唇(くちびる)の、
  いつかは、消えて、ゆくでせう
  (霙(みぞれ)とおんなじことですよ)
あなたは下を、向いてゐる
  向いてゐる、向いてゐる
  さも殊勝らしく向いてゐる
いいえ、かういつたからといつて
  なにも、怒つてゐるわけではないのです、
怒つてゐるわけではないのです

 

忘れがたない、虹と花
  虹と花、虹と花
  (霙とおんなじことですよ)

 

   4

 

 何か、僕に、食べさして下さい。
何か、僕に、食べさして下さい。
 きんとんでもよい、何でもよい、
 何か、僕に食べさして下さい。

 

いいえ、これは、僕の無理だ、
  こんなに、野道を歩いてゐながら
  野道に、食物(たべもの)、ありはしない。
  ありません、ありはしません!

 

   5

 

向ふに、水車が、見えてゐます、
  苔(こけ)むした、小屋の傍、
ではもう、此処(ここ)からお帰りなさい、お帰りなさい
  僕は一人で、行けます、行けます、
僕は、何を云つてるのでせう
  いいえ、僕とて文明人らしく
もつと、他の話も、すれば出来た
  いいえ、やつぱり、出来ません出来ません。

 

 *
 初恋集

 

 すずえ

 

それは実際あつたことでせうか
 それは実際あつたことでせうか
僕とあなたが嘗(かつ)ては愛した?
 あゝそんなことが、あつたでせうか。

 

あなたはその時十四でした
 僕はその時十五でした
冬休み、親戚で二人は会つて
 ほんの一週間、一緒に暮した

 

あゝそんなことがあつたでせうか
 あつたには、ちがひないけど
どうもほんとと、今は思へぬ
 あなたの顔はおぼえてゐるが

 

あなたはその後遠い国に
 お嫁に行つたと僕は聞いた
それを話した男といふのは
 至極(しごく)普通の顔付してゐた

 

それを話した男といふのは
 至極普通の顔してゐたやう
子供も二人あるといつた
 亭主は会社に出てるといつた

 

 むつよ

 

あなたは僕より年が一つ上で
あなたは何かと姉さんぶるのでしたが
実は僕のほうがしつかりしてると
僕は思つてゐたのでした

 

ほんに、思へば幼い恋でした
僕が十三で、あなたが十四だつた。
その後、あなたは、僕を去つたが
僕は何時まで、あなたを思つてゐた……

 

それから暫(しばら)くしてからのこと、
野原に僕の家(うち)の野羊(やぎ)が放してあつたのを
あなたは、暫く遊んでゐました

 

僕は背戸(せど)から、見てゐたのでした。
僕がどんなに泣き笑ひしたか、
野原の若草に、夕陽が斜めにあたつて
それはそれは涙のやうな、きれいな夕方でそれはあつた。
         (一九三五・一・一一)

 

 終歌

 

噛んでやれ、叩いてやれ。
吐き出してやれ。
吐き出してやれ!

 

噛んでやれ。(マシマロやい。)
噛んでやれ。
吐き出してやれ!

 

(懐かしや。恨めしや。)
今度会つたら、
どうしよか?
噛んでやれ。噛んでやれ。
叩いて、叩いて、
叩いてやれ!
     (一九三五・一・一一)

 

 *
 雲

 

山の上には雲が流れてゐた

 

あの山の上で、お辨当を食つたこともある……
  女の子なぞといふものは
  由来桜の花瓣(はなびら)のやうに、
  欣んで散りゆくものだ

 

  近い過去も遠いい過去もおんなじこつた
  近い過去はあんまりまざまざ顕現するし
  遠い過去はあんまりもう手が届かない

 

山の上に寝て、空を見るのも
此処(ここ)にゐて、あの山をみるのも
所詮は同じ、動くな動くな

 

あゝ枯草を背に敷いて
やんわりむくもつてゐることは
空の青が、少し冷たくみえることは
煙草を喫ふなぞといふことは
世界的幸福である

 

 

 

 *
 青い瞳

 

1 夏の朝
かなしい心に夜が明けた、
  うれしい心に夜が明けた、
いいや、これはどうしたといふのだ?
  さてもかなしい夜の明けだ!

 

青い瞳は動かなかつた、
  世界はまだみな眠つてゐた、
さうして『その時』は過ぎつつあつた、
  あゝ、遐(とほ)い遐いい話。

 

青い瞳は動かなかつた、
  ――いまは動いてゐるかもしれない……
青い瞳は動かなかつた、
  いたいたしくて美しかつた!

 

私はいまは此処(ここ)にゐる、黄色い灯影に。
  あれからどうなつたのかしらない……
あゝ、『あの時』はあゝして過ぎつゝあつた!
  碧(あを)い、噴き出す蒸気のやうに。

 

2 冬の朝
それからそれがどうなつたのか……
それは僕には分らなかつた
とにかく朝霧罩(こ)めた飛行場から
機影はもう永遠に消え去つてゐた。

 

あとには残酷な砂礫(されき)だの、雑草だの
頬を裂(き)るやうな寒さが残つた。
――こんな残酷な空寞(くうばく)たる朝にも猶(なほ)
人は人に笑顔を以て対さねばならないとは

 

なんとも情ないことに思はれるのだつたが
それなのに其処(そこ)でもまた
笑ひを沢山湛(たた)へた者ほど
優越を感じてゐるのであつた。

 

陽は霧に光り、草葉の霜は解け、
遠くの民家に鶏(とり)は鳴いたが、
霧も光も霜も鶏も
みんな人々の心には沁(し)まず、
人々は家に帰つて食卓についた。
     (飛行機に残つたのは僕、
      バットの空箱(から)を蹴つてみる)
 *
 坊や

 

山に清水が流れるやうに
その陽の照った山の上の
硬い粘土の小さな溝を
山に清水が流れるやうに

 

何も解せぬ僕の赤子(ぼーや)は
今夜もこんなに寒い真夜中
硬い粘土の小さな溝を
流れる清水のやうに泣く

 

母親とては眠いので
目が覚めたとて構ひはせぬ
赤子(ぼーや)は硬い粘土の溝を
流れる清水のやうに泣く

 

その陽の照った山の上の
硬い粘土の小さな溝を
さらさらさらと流れるやうに清水のやうに
寒い真夜中赤子(ぼーや)は泣くよ
          一九三五・一・九

 

 *
 童女

 

眠れよ、眠れ、よい心、
おまへの肌へは、花粉だよ。

 

飛行機虫の夢をみよ、
クリンベルトの夢をみよ。

 

眠れよ、眠れ、よい心、
おまへの眼(まなこ)は、昆蟲(こんちゅう)だ。

 

皮肉ありげな生意気な、
奴等の顔のみえぬひま、

 

眠れよ、眠れ、よい心、
飛行機虫の、夢をみよ。

 

 *
 山上のひととき

 

いとしい者の上に風が吹き
私の上にも風が吹いた

 

いとしい者はたゞ無邪気に笑つてをり
世間はたゞ遥か彼方で荒くれてゐた

 

いとしい者の上に風が吹き
私の上にも風が吹いた

 

私は手で風を追ひかけるかに
わづかに微笑み返すのだつた

 

いとしい者はたゞ無邪気に笑つてをり
世間はたゞ遥か彼方で荒くれてゐた
      (一九三五・九・一九)

 

 *
 むなしさ

 

臘祭(らふさい)の夜の 巷(ちまた)に堕(お)ちて
 心臓はも 条網に絡(から)み
脂(あぶら)ぎる 胸乳(むなち)も露(あら)は
 よすがなき われは戯女(たはれめ)

 

せつなきに 泣きも得せずて
 この日頃 闇を孕(はら)めり
遐(とほ)き空 線条に鳴る
 海峡岸 冬の暁風

 

白薔薇(しろばら)の 造化の花瓣(くわべん)
 凍(い)てつきて 心もあらず
明けき日の 乙女の集(つど)ひ
 それらみな ふるのわが友

 

偏菱形(へんりようけい)=聚接面(しゆうせつめん)そも
 胡弓の音 つづきてきこゆ

 

 *
 冬の夜

 

みなさん今夜は静かです
薬鑵(やくわん)の音がしてゐます
僕は女を想つてる
僕には女がないのです

 

それで苦労もないのです
えもいはれない弾力の
空気のやうな空想に
女を描いてみてゐるのです

 

えもいはれない弾力の
澄み亙(わた)つたる夜の沈黙(しじま)
薬鑵の音を聞きながら
女を夢みてゐるのです

 

かくて夜は更(ふ)け夜は深まつて
犬のみ覚めたる冬の夜は
影と煙草と僕と犬
えもいはれないカクテールです

 

   2

 

空気よりよいものはないのです
それも寒い夜の室内の空気よりもよいものはないのです
煙よりよいものはないのです
煙より 愉快なものもないのです
やがてはそれがお分りなのです
同感なさる時が 来るのです

 

空気よりよいものはないのです
寒い夜の痩せた年増女(としま)の手のやうな
その手の弾力のやうな やはらかい またかたい
かたいやうな その手の弾力のやうな
煙のやうな その女の情熱のやうな
炎(も)えるやうな 消えるやうな

 

冬の夜の室内の 空気よりよいものはないのです

 

 * 
 寒い!

 

毎日寒くてやりきれぬ。
瓦もしらけて物云はぬ。
小鳥も啼かないくせにして
犬なぞ啼きます風の中。

 

飛礫(つぶて)とびます往還は、
地面は乾いて艶(つや)もない。
自動車の、タイヤの色も寒々と
僕を追ひ越し走りゆく。

 

山もいたつて殺風景、
鈍色(にびいろ)の空にあつけらかん。
部屋は籠(こも)れば僕なぞは
愚痴つぽくなるばかりです。

 

かう寒くてはやりきれぬ。
お行儀のよい人々が、
笑はうとなんとかまはない
わめいて春を呼びませう……

 

 *
 我がヂレンマ

 

僕の血はもう、孤独をばかり望んでゐた。
それなのに僕は、屡々(しばしば)人と対坐してゐた。
僕の血は為(な)す所を知らなかつた。
気のよさが、独りで勝手に話をしてゐた。

 

後では何時でも後悔された。
それなのに孤独に浸ることは、亦(また)怖いのであつた。
それなのに孤独を棄(す)てることは、亦出来ないのであつた。
かくて生きることは、それを考へみる限りに於て苦痛であつた。

 

野原は僕に、遊べと云つた!
遊ばうと、僕は思つた。--しかしさう思ふことは僕にとつて、
既に余りに社会を離れることを意味してゐるのであつた。

 

かくて僕は野原にゐることもやめるのであつたが、
又、人の所にもゐなかつた……僕は書斎にゐた。
そしてくされる限りにくさつてゐた、そしてそれをどうすることも出来なかつた。
                   ――二・一九三五――

 

 *
 春と赤ン坊

 

菜の花畑で眠つてゐるのは……
菜の花畑で吹かれてゐるのは……
赤ン坊ではないでせうか?

 

いいえ、空で鳴るのは、電線です電線です
ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です
菜の花畑に眠つてゐるのは、赤ン坊ですけど

 

走つてゆくのは、自転車々々々
向ふの道を、走つてゆくのは
薄桃色の、風を切つて……

 

薄桃色の、風を切つて
走つてゆくのは菜の花畑や空の白雲(しろくも)
――赤ン坊を畑に置いて

 

 

 

 *
 月夜とポプラ

 

木の下かげには幽霊がゐる
その幽霊は、生まれたばかりの
まだ翼(はね)弱い蝙蝠(かうもり)に似て、
而も(しかも)それが君の命を
やがては覘はう(ねらはう)待構へてゐる
(木の下かげには、かうもりがゐる。)
そのかうもりを君が捕つて
殺してしまへばいいやうなものの
それは、影だ、手にはとられぬ
而も時偶(ときたま)見えるに過ぎない。
僕はそれを捕つてやらうと、
長い歳月考へあぐむだ。
けれどもそれは遂に捕れない、
捕れないと分つた今晩それは、
なんともかんとありありと

 

 *
 幻影

 

私の頭の中には、いつの頃からか、
薄命さうなピエロがひとり棲んでゐて、
それは、紗(しや)の服なんかを着込んで、
そして、月光を浴びてゐるのでした。

 

ともすると、弱々しげな手付をして、
しきりと 手真似をするのでしたが、
その意味が、つひぞ通じたためしはなく、
あわれげな 思ひをさせるばつかりでした。

 

手真似につれては、唇(くち)も動かしてゐるのでしたが、
古い影絵でも見てゐるやう――
音はちつともしないのですし、
何を云つてるのかは 分りませんでした。

 

しろじろと身に月光を浴び、
あやしくもあかるい霧の中で、
かすかな姿態をゆるやかに動かしながら、
眼付ばかりはどこまでも、やさしさうなのでした。

2009年3月30日 (月)

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(Amazon.co.jpから転載)

2009年3月29日 (日)

大岡昇平の「月下の告白」論

「月下の告白」に関しての
大岡昇平の記述を、
「在りし日の歌」(1966年)の中から
ひろってみますと、

まず、

亡弟を主題とした詩は七篇書かれた。昭和六年「秋の日曜」と同じノートに書かれた「ポロリ、ポロリと死んでゆく」にはじまり、十月九日附安原喜弘に送られた「疲れやつれた美しい顔」「死別の翌日」「梅雨と弟」(「少女の友」昭和十二年八月号)「蝉」(昭和八年8月十四日)「秋岸清涼居士」(昭和九年十月二十日夜)「月下の告白」(同日)である。いづれも死者の霊への呼びかけを動機としている点で、十一年の暮長男文也を失った後の作品と共通点を持つ。

これが、はじめ。
次に、

「死の観念」に囚われていた中原には、弟への追懐に耽る自分の「怠惰」についての自己主張がある。それは特に青山二郎に宛てた「月下の告白」に著しい。とにかく彼が意識的に自分の幻想に固執し、それを詩法としていることに注意したい。

次に、

しかし私は彼の魂に大きな穴が開いていたことには気がつかなかった。九年十月、彼は「月下の告白」という短い詩を、青山二郎に捧げている。

ここで、「月下の告白」を全詩句、引用し、

劃然(かくぜん)とした石の稜(りよう)
あばた面(づら)なる墓の石
蟲鳴く秋の此の夜さ一と夜
月の光に明るい墓場に
エジプト遺跡もなんのその
いとちんまりと落居(おちい)てござる
この僕は、生きながらへて
此の先何を為すべきか
石に腰かけ考へたれど
とんと分らぬ、考へともない
足の許(もと)なる小石や砂の
月の光に一つ一つ
手にとるやうにみゆるをみれば
さてもなつかしいたはししたし
さてもなつかしいたはししたし

再び亡弟洽三である。中原の心の中には、いつも郷里吉敷の中原家累代の墓が、時空を超えて「劃然として」立っていたことをわれわれは知る。それは家業を継ごうとして倒れた謹直清純な洽三の墓であると共に、むろん無頼な長男たる彼自身の墓でもある。もはやそのような自己のほか、何者でもありたくないという宣言である。或いはここには中原家の子供たちすべての宿命が見据えられているともいえよう。

と、踏み込んだ論評を加えています。
さらに、続け、

「月下の告白」はおそらく前夜の青山としたなにかの議論の返事として書かれたものであろう。この頃小林秀雄に「お前が怠け者になるのもならないのも今が境ふだ」といわれたという記事が、安原宛の手紙にあるから(二月十日附)そんな話だったかもしれない。中原の詩稿としては珍しく、固苦しい楷書で書かれている。同じ日に書いて、筐底にしまっておいたのは、次のような道化歌である。

と書き、「秋岸清凉居士」を、
「改行なし(一部略)」で引用して以降、
「月下の告白」への言及はしていません。

以上、大岡昇平は、評伝「在りし日の歌」で
中原中也の、生からの離脱、
つまりは、死への関心が、
「山羊の歌」の後期の作品、
「羊の歌・祈り」や「盲目の秋」などに見られ、
これは、もっと古い時代、
尋常小学校5年、6年の頃に作った短歌に
遡(さかのぼ)ることができる、
などと、書き出した後に続けて、
弟・洽三が死んだ頃から、
深夜に詩人を襲った幻想を、
詩の源泉としてはぐくんだ形跡がある、
と分析してみせる過程で
「月下の告白」を
論じていることをみてきました。

大きな流れとしては、
「幻想」を詩作の源泉としていた
という論の中で
「月下の告白」は登場しているということです。

少しは、すっきりしてきましたか……。

なぜ、青山二郎に献じたのか
という点は、
大岡の推測以外に
具体的な理由は見つかりそうにありません。

中原中也が
東京・四谷区(現在の新宿区)の
花園アパートに住みはじめたのは
昭和8年(1933年)の暮れで、
四谷・谷町へ引っ越すまで、
約1年半、そこで暮らしたとういうことです。

2009年3月28日 (土)

「秋岸清凉居士」と「月下の告白」の謎

中原中也が青山二郎に
献じた詩「月下の告白」に関する
大岡昇平の記述を、
もう少し、こだわって
見ておきましょう。

「月下の告白」はおそらく前夜の青山としたなにかの議論の返事として書かれたものであろう。この頃小林秀雄に「お前が怠け者になるのもならないのも今が境ふだ」といわれたという記事が、安原宛の手紙にあるから(二月十日附)そんな話だったかもしれない。

と、大岡昇平は、
中也の評伝の一つである「在りし日の歌」の6に記しました。
これに続けて、

中原の詩稿としては珍しく、固苦しい楷書で書かれている。同じ日に書いて、筐底にしまっておいたのは、次のような道化歌である。

と書き、「秋岸清凉居士」を、
「改行なしの送り文(一部略)」で引用しているのです。
そして、続けて、次のような批評を加えています。

こういう道化た調子も中原の生得のものであった。「はた君が果たされぬ憧憬であるかも知れず」という句には、世の馬鹿者向けの邪悪な姿勢が現れている。

こんな読みができるのは
詩人の近くにいた友人であるからであって
素朴な読者には
到底、思い及ばない解釈ですね。

とりあえず、ここで、
「秋岸清凉居士」を
角川ソフィア文庫の「中原中也全詩集」から
引いておきます。
「月下の告白」と同じ日、
(一九三四・一〇・二〇)と、
詩の末尾に付されていますから、
「月下の告白」もあわせて
読んでみてください。

「月下の告白」の謎は
まだまだ残っています。
というより、
ますます深まるばかりです。
まだうまく書けていませんので
もう少し、こだわります。
(つづく)
 *
 秋岸清凉居士
消えていつたのは、
あれはあやめの花ぢやろか?
いいえいいえ、消えていつたは、
あれはなんとかいふ花の紫の莟(つぼ)みであつたぢやろ
冬の来る夜に、省線の
遠音とともに消えていつたは
あれはなんとかいふ花の紫の莟みであつたぢやろ
     ※
とある侘(わ)びしい踏切のほとり
草は生え、すゝきは伸びて
その中に、
焼木杭(やけぼつくひ)がありました
その木杭に、その木杭にですね、
月は光を灑(そそ)ぎました
木杭は、胡麻塩頭の塩辛声(しよつかれごえ)の、
武家の末裔(はて)でもありませうか?
それとも汚ないソフトかぶつた
老ルンペンででもありませうか
風は繁みをさやがせもせず、
冥府(あのよ)の温風(ぬるかぜ)さながらに
繁みの前を素通りしました
繁みの葉ッパの一枚々々

伺ふやうな目付して、

こつそり私を瞶(みつ)めてゐました
月は半月(はんかけ)  鋭く光り
でも何時もより
可なり低きにあるやうでした
蟲(むし)は草葉の下で鳴き、
草葉くぐつて私に聞こえ、
それから月へと昇るのでした
ほのぼのと、煙草吹かして懐(ふところ)で、
手を暖(あつた)めてまるでもう
此処(ここ)が自分の家のやう
すつかりと落付きはらひ路の上(へ)に
ヒラヒラと舞ふ小妖女(フエアリー)に
だまされもせず小妖女(フエアリー)を、
見て見ぬ振りでゐましたが
やがてして、ガツクリとばかり
口開(あ)いて後ろに倒れた
頸(うなじ) きれいなその男
秋岸清涼居士といひ——僕の弟、
月の夜とても闇夜ぢやとても
今は此の世に亡い男
今夜侘びしい踏切のほとり
腑抜(ふぬけ)さながら彳(た)つてるは
月下の僕か弟か
おほかた僕には違ひないけど
死んで行つたは、
——あれはあやめの花ぢやろか
いいえいいえ消えて行つたは、
あれはなんとかいふ花の紫の莟ぢやろ
冬の来る夜に、省線の
遠音とともに消えていつたは
あれはなんとかいふ花の紫の莟か知れず
あれは果されなかつた憧憬に窒息しをつた弟の
弟の魂かも知れず
はた君が果されぬ憧憬であるかも知れず
草々も蟲の音も焼木杭も月もレ−ルも、
いつの日か手の掌(ひら)で揉んだ紫の朝顔の花の様に
揉み合はされて悉皆(しつかい)くちやくちやにならうやもはかられず
今し月下に憩(やす)らへる秋岸清凉居士ばかり
歴然として一基の墓石
石の稜(りょう) 劃然(かくぜん)として
世紀も眠る此の夜さ一と夜
——蟲が鳴くとははて面妖(めんよう)な
エヂプト遺蹟もかくまでならずと
首を捻(ひね)つてみたが何
ブラリブラリと歩き出したが
どつちにしたつておんなしことでい
さてあらたまつて申上まするが
今は三年の昔の秋まで在世
その秋死んだ弟が私の弟で
今ぢや秋岸清凉居士と申しやす、ヘイ。
 *
 月下の告白
    青山二郎に
劃然(かくぜん)とした石の稜(りよう)
あばた面(づら)なる墓の石
蟲鳴く秋の此の夜さ一と夜
月の光に明るい墓場に
エジプト遺跡もなんのその
いとちんまりと落居(おちい)てござる
この僕は、生きながらへて
此の先何を為すべきか
石に腰かけ考へたれど
とんと分らぬ、考へともない
足の許(もと)なる小石や砂の
月の光に一つ一つ
手にとるやうにみゆるをみれば
さてもなつかしいたはししたし
さてもなつかしいたはししたし
  (一九三四・一〇・二〇)
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年3月27日 (金)

「青山学院」時代の中原中也/月下の告白<3>

整然と並んだ墓石のくっきりした稜線、
あばたのような御影石の点々、
秋の虫がやかましい今夜という今夜だ。
月光で墓場はいやに明るい、
ピラミッドなんて知らないよ、とばかり、
ちんまりと構えていらっしゃるよ。
この僕は生き長らえて、
この先どうやって生きていったらいいものか、
墓石に腰かけて考えたけれど、
とんと答は出てこない、考えつかない。
足元の砂利が、
月光に照らし出され一つ一つが、
手に取るように見えるので、
懐かしくもいたわしくも親しく……
懐かしくもいたわしくも親しく……
(お前のことを思い出すのだよ)

中原中也が
青山二郎に献じた
「月下の告白」は、
直訳すれば、以上のように読める、
とある墓地での、
月光の燦々(さんさん)と降りしきる夜に
僕が一人考え込んでいる情景を
歌っています。

この詩が作られたのは
1934年(昭和9年)10月20日。
この2日前、18日には
第一子である文也が誕生しています。
なぜ、この時に、
亡弟の追悼詩が作られたのでしょうか。
なぜ、青山二郎に捧げられたのでしょうか。

文也は、山口の産院で生まれていますから
2日後の20日には
中也は知らなかったのかもしれません。
電報は1日以内で着いたはずですから、
どこかで飲んだくれて
住居へ帰らなかったとか。

このあたりのことは
日記とか書簡とか
友人知人の証言とかの、
詩作品以外の記録とか……を
丹念に読まないと見えてこないことかもしれません。
読んでも見えてこないのかもしれません。

大岡昇平の
精緻を極めた記録でさえ
このことを真正面でとらえてはいませんから。
もはや、
推測・推理の域のことになるのでしょうが
推理になるにしても、やはり、
大岡昇平の記録を元にするしかありません。

そこで
中原中也の花園アパート時代は
どんなふうだったのか、
という眼で、
大岡昇平や
河上徹太郎や
安原喜弘らが残した
記録にあたってみることになるのですが……。

「青山学院」時代の中也の
生き生きとしたイメージは、
あがってきません。
この頃、詩人としての評価が
次第に高まっているにもかかわらず、です。

 *
 月下の告白
    青山二郎に

劃然(かくぜん)とした石の稜(りよう)
あばた面(づら)なる墓の石
蟲鳴く秋の此の夜さ一と夜
月の光に明るい墓場に
エジプト遺跡もなんのその
いとちんまりと落居(おちい)てござる
この僕は、生きながらへて
此の先何を為すべきか
石に腰かけ考へたれど
とんと分らぬ、考へともない
足の許(もと)なる小石や砂の
月の光に一つ一つ
手にとるやうにみゆるをみれば
さてもなつかしいたはししたし
さてもなつかしいたはししたし
  (一九三四・一〇・二〇)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年3月25日 (水)

青山二郎との談論/月下の告白<2>

青山二郎に献じた詩「月下の告白」は
「草稿詩篇(1933ー1936年)」に収められ、
1934年10月20日の日付があります。
1931年(昭和6年)に亡くなった
中原中也の5歳下の弟恰三の死を悼んだ歌です。

死から3年を経て
どのような経緯で
青山二郎に
弟の追悼詩が献じられたのでしょうか。

という問いを大岡昇平に
ぶつけてみますと、
やはり答はありました。
中也に関する疑問は、
大岡昇平に聞けば
大概、氷解します。

「月下の告白」はおそらく前夜の青山としたなにかの議論の返事として書かれたものであろう。この頃小林秀雄に「お前が怠け者になるのもならないのも今が境ひだ」といわれたという記事が、安原宛の手紙にあるから(二月十日附)そんな話だったのかも知れない。

と、「在りし日の歌」の中で、
大岡昇平は、推測しています。

そもそも「青山学院」と、
世の中で初めて呼んだのは
大岡昇平らしいのですが、
「鬼の栖(すみか)」か
梁山泊か……、

そのようなものに似た
文学サロンで、
花園アパートはあったらしく、
そこには、

小林秀雄
河上徹太郎
大岡昇平

今日出海
吉田健一
永井龍雄

井伏鱒二
中島健蔵
瀧井孝作

坂本睦子
白州正子
三宅艶子
武原はん
……
らが、

入れ替わり立ち替わり、
現れては消え
消えては現れて

中心に、
青山二郎がいて、
中原中也は、
アパート2階に新婚所帯を構えるほどの
ファミリアーな時期もありました。

「月下の告白」が書かれた、
1934年10月20日という日付は、
長男文也誕生の2日後です。

大岡昇平は、
ここでは書いていないのですが、
この日の2日前の10月18日に
長男文也が出生している、
という日に、
「月下の告白」は書かれ、
そして、青山二郎に贈られたのです。

中也と青山二郎のやりとりが
うっすらながら
浮かび上がってきます。

中也は
言い足りなかったことを
吐き出したのでしょうか。

 *
 月下の告白
    青山二郎に

劃然(かくぜん)とした石の稜(りよう)
あばた面(づら)なる墓の石
蟲鳴く秋の此の夜さ一と夜
月の光に明るい墓場に
エジプト遺跡もなんのその
いとちんまりと落居(おちい)てござる
この僕は、生きながらへて
此の先何を為すべきか
石に腰かけ考へたれど
とんと分らぬ、考へともない
足の許(もと)なる小石や砂の
月の光に一つ一つ
手にとるやうにみゆるをみれば
さてもなつかしいたはししたし
さてもなつかしいたはししたし
  (一九三四・一〇・二〇)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)                                                                          

2009年3月23日 (月)

弟洽三の死を悼んだ7篇の詩

1931年(昭和6年)に亡くなった
弟洽三を悼んだ作品、
と、大岡昇平が「在りし日の歌」で
列挙している7作品、

「ポロリ、ポロリと死んでゆく」
「疲れやつれた美しい顔」
「死別の翌日」
「梅雨と弟」
「蝉」
「秋岸清凉居士」
「月下の告白」

その全部を載せておきます。

 *
 ポロリ、ポロリと死んでゆく
      俺の全身(ごたい)よ、雨に濡れ、
      富士の裾野に倒れたれ
              読人不詳               

ポロリ、ポロリと死んでゆく。
みんな別れてしまふのだ。
呼んだつて、帰らない。
なにしろ、此の世とあの世とだから叶はない。

今夜にして、僕はやつとこ覚るのだ、
白々しい自分であつたこと。
そしてもう、むやみやたらにやりきれぬ、
(あの世からでも、僕から奪へるものでもあつたら奪つてくれ)

それにしてもが過ぐる日は、なんと浮はついてゐたことだ。
あますなきみじめな気持である時も、
随分いい気でゐたもんだ。
(おまへの訃報に遇ふまでを、浮かれてゐたとはどうもはや。)

風が吹く、
あの世も風は吹いてるか?
熱にほてつたその頬に、風をうけ、
正直無比な目を以つて、
おまへは私に話したがつているのかも知れない……

——その夜、私は目を覚ます。
障子は破れ、風は吹き、
まるでこれでは戸外に寝ているも同然だ。

それでも僕はかまはない。
それでも僕はかまはない。
どうなつたつてかまはない。
なんで文句を云ふものか……

 *
疲れやつれた美しい顔

疲れやつれた美しい顔よ、
私はおまへを愛す。
さうあるべきがよかつたかも知れない多くの元気な顔たちの中に、
私は容易におまへを見付ける。

それはもう、疲れしぼみ、
悔とさびしい微笑としか持つてはをらぬけれど、
それは此の世の親しみのかずかずが、
縺れ合ひ、香となつて蘢る壺なんだ。

そこに此の世の喜びの話や悲しみの話は、
彼のためには大きすぎる声で語られ、
彼の瞳はうるみ、
語り手は去つてゆく。

彼が残るのは、十分諦めてだ。
だが諦めとは思はないでだ。
その時だ、その壺が花を開く、
その花は、夜の部屋にみる、三色菫(さんしきすみれ)だ。

 *
 死別の翌日

生きのこるものはづうづうしく、
死にゆくものはその清純さを漂はせ
物云いたげな瞳を床にさまよはすだけで、
親を離れ、兄弟を離れ、
最初から独りであつたもののやうに死んでゆく。

さて、今日は良いお天気です。
街の片側は翳り(かげり)、片側は日射しをうけて、あつたかい
けざやかにもわびしい秋の午前です。

空は昨日までの雨に拭はれて、すがすがしく、
それは海の方まで続いてゐることが分ります。

その空をみながら、また街の中をみながら、
歩いてゆく私はもはや此の世のことを考へず、
さりとて死んでいつたもののことも考へてはゐないのです。
みたばかりの死に茫然(ぼうぜん)として、
卑怯にも似た感情を抱いて私は歩いてゐたと告白せねばなりません。

 *
 梅雨と弟

毎日々々雨が降ります
去年の今頃梅の実を持って遊んだ弟は
去年の秋に亡くなつて
今年の梅雨(つゆ)にはゐませんのです

お母さまが おつしやいました
また今年も梅酒をこさはうね
そしたらまた来年の夏も飲物があるからね
あたしはお答へしませんでした
弟のことを思ひ出してゐましたので

去年梅酒をこしらふ時には
あたしがお手伝ひしてゐますと
弟が来て梅を放つたり随分と邪魔をしました
あたしはにらんでやりましたが
あんなことをしなければよかつたと
今ではそれを悔んでをります……

 * 
 蝉

蝉が鳴いてゐる、蝉が鳴いてゐる
蝉が鳴いてゐるほかになんにもない!
うつらうつらと僕はする
……風もある……
松林を透いて空が見える
うつらうつらと僕はする。

『いいや、さうぢゃない、さうぢゃない!』と彼が云ふ
『ちがつてゐるよ』と僕が云ふ
『いいや、いいや!』と彼が云ふ
「ちがつてゐるよ』と僕が云ふ
と、目が覚める、と、彼はとつくに死んだ奴なんだ
それから彼の永眠してゐる、墓場のことなぞ目に浮ぶ……

それは中国のとある田舎の、水無河原(みづなしがはら)といふ
雨の日のほか水のない
伝説付の川のほとり、
藪蔭の土砂帯の小さな墓場、
——そこにも蝉は鳴いてゐるだろ
チラチラ夕陽も射してゐるだろ……

蝉が鳴いてゐる、蝉が鳴いてゐる
蝉が鳴いてゐるほかなんにもない!
僕の怠惰?僕は『怠惰』か?

僕は僕を何とも思はぬ!

蝉が鳴いてゐる、蝉が鳴いてゐる
蝉が鳴いてゐるほかなんにもない!

 *
 秋岸清凉居士

消えていつたのは、
あれはあやめの花ぢやろか?
いいえいいえ、消えていつたは、
あれはなんとかいふ花の紫の莟(つぼ)みであつたぢやろ
冬の来る夜に、省線の
遠音とともに消えていつたは
あれはなんとかいふ花の紫の莟みであつたぢやろ

     ※

とある侘(わ)びしい踏切のほとり
草は生え、すゝきは伸びて
その中に、
焼木杭(やけぼつくひ)がありました

その木杭に、その木杭にですね、
月は光を灑(そそ)ぎました

木杭は、胡麻塩頭の塩辛声(しよつかれごえ)の、
武家の末裔(はて)でもありませうか?
それとも汚ないソフトかぶつた
老ルンペンででもありませうか

風は繁みをさやがせもせず、
冥府(あのよ)の温風(ぬるかぜ)さながらに
繁みの前を素通りしました

繁みの葉ッパの一枚々々

伺ふやうな目付して、

こつそり私を瞶(みつ)めてゐました

月は半月(はんかけ)  鋭く光り
でも何時もより
可なり低きにあるやうでした

蟲(むし)は草葉の下で鳴き、
草葉くぐつて私に聞こえ、
それから月へと昇るのでした

ほのぼのと、煙草吹かして懐(ふところ)で、
手を暖(あつた)めてまるでもう
此処(ここ)が自分の家のやう
すつかりと落付きはらひ路の上(へ)に
ヒラヒラと舞ふ小妖女(フエアリー)に
だまされもせず小妖女(フエアリー)を、
見て見ぬ振りでゐましたが
やがてして、ガツクリとばかり
口開(あ)いて後ろに倒れた
頸(うなじ) きれいなその男
秋岸清涼居士といひ——僕の弟、
月の夜とても闇夜ぢやとても
今は此の世に亡い男

今夜侘びしい踏切のほとり
腑抜(ふぬけ)さながら彳(た)つてるは
月下の僕か弟か
おほかた僕には違ひないけど
死んで行つたは、
——あれはあやめの花ぢやろか
いいえいいえ消えて行つたは、
あれはなんとかいふ花の紫の莟ぢやろ
冬の来る夜に、省線の
遠音とともに消えていつたは
あれはなんとかいふ花の紫の莟か知れず
あれは果されなかつた憧憬に窒息しをつた弟の
弟の魂かも知れず
はた君が果されぬ憧憬であるかも知れず
草々も蟲の音も焼木杭も月もレ−ルも、
いつの日か手の掌(ひら)で揉んだ紫の朝顔の花の様に
揉み合はされて悉皆(しつかい)くちやくちやにならうやもはかられず
今し月下に憩(やす)らへる秋岸清凉居士ばかり
歴然として一基の墓石
石の稜(りょう) 劃然(かくぜん)として
世紀も眠る此の夜さ一と夜
——蟲が鳴くとははて面妖(めんよう)な
エヂプト遺蹟もかくまでならずと
首を捻(ひね)つてみたが何
ブラリブラリと歩き出したが
どつちにしたつておんなしことでい
さてあらたまつて申上まするが
今は三年の昔の秋まで在世
その秋死んだ弟が私の弟で
今ぢや秋岸清凉居士と申しやす、ヘイ。

 *
 月下の告白
    青山二郎に

劃然(かくぜん)とした石の稜(りよう)
あばた面(づら)なる墓の石
蟲鳴く秋の此の夜さ一と夜
月の光に明るい墓場に
エジプト遺跡もなんのその
いとちんまりと落居(おちい)てござる
この僕は、生きながらへて
此の先何を為すべきか
石に腰かけ考へたれど
とんと分らぬ、考へともない
足の許(もと)なる小石や砂の
月の光に一つ一つ
手にとるやうにみゆるをみれば
さてもなつかしいたはししたし
さてもなつかしいたはししたし
  (一九三四・一〇・二〇)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)                       

青山二郎への献呈詩/月下の告白

東京・四谷区(現新宿区)花園のアパートで
繰り広げられた文学談義、芸術論議の
中心にいたのは
青山二郎です。

中原中也は
小林秀雄河上徹太郎らを通じて
青山二郎を知ったのですが、
難航していた「山羊の歌」の
出版社の決定を促したり、
中也が生前に手にすることのなかった
「在りし日の歌」の装丁を引き受けるなど、
中也に有益な役割を演じたとして
読者の前に登場します。

その青山二郎に献じた詩が
「月下の告白」で
「草稿詩篇(1933ー1936年)」に収められ、
1934年10月20日の日付があります。
1931年(昭和6年)に亡くなった
弟洽三を歌った作品です。

大岡昇平の「在りし日の歌」は
亡弟・洽三を歌った作品は

「ポロリポロリと死んでゆく」
「疲れやつれた美しい顔」
「死別の翌日」
「梅と弟」
「蝉」
「秋岸清涼居士」
「月下の告白」

とあり、
「霊」に語りかける、これらの歌は、
やがて、
詩人自らの死後の姿に呼びかける
「骨」へとつながってゆくもの、
という解釈を打ち出して、
「在りし日の歌」を
解きほぐす糸口にしています。

(つづく)

 *
 月下の告白
    青山二郎に

劃然(かくぜん)とした石の稜(りよう)
あばた面(づら)なる墓の石
蟲鳴く秋の此の夜さ一と夜
月の光に明るい墓場に
エジプト遺跡もなんのその
いとちんまりと落居(おちい)てござる
この僕は、生きながらへて
此の先何を為すべきか
石に腰かけ考へたれど
とんと分らぬ、考へともない
足の許(もと)なる小石や砂の
月の光に一つ一つ
手にとるやうにみゆるをみれば
さてもなつかしいたはししたし
さてもなつかしいたはししたし
  (一九三四・一〇・二〇)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)                                

2009年3月20日 (金)

「青山学院」時代の朝の歌

「未発表詩篇」にも
朝の歌は見つかります。
「中原中也全詩集」(角川ソフィア文庫)の
目次をながめるだけで
「草稿詩篇(1933年―1936年)」の中に
「朝」と題する3作品が
並んでいます。

3作とも、「朝」の題で、
3番目の「朝」には、
(一九三四・四・二二)、
と、制作日が付されています。
この日付と遠からぬ時に
3作とも作られたことが推測されます。

中也27歳。
前年12月に遠縁の上野孝子と結婚し、
東京・四谷の花園アパートで暮らしはじめて
半年近くが経過しています。

装丁家・青山二郎が住むこのアパートには、
小林秀雄、河上徹太郎ら文学仲間が集まり、
賑やかな芸術サロン
のような空気が作り出され、
「青山学院」と呼ばれていました。

 *
 朝

かゞやかしい朝よ、
紫の、物々の影よ、
つめたい、朝の空気よ、
灰色の、甍(いらか)よ、
水色の、空よ!
風よ!

なにか思い出せない……
大切な、こころのものよ、
底の方でか、遥(はる)か上方でか、
今も鳴る、失(な)くした笛よ、
短く!

風よ!
水色の、空よ、
灰色の、甍よ、
つめたい、朝の空気よ、
かゞやかしい朝
紫の、物々の影よ……

 *
 朝

雀が鳴いてゐる
朝日が照つてゐる
私は椿の葉を想ふ

雀が鳴いてゐる
起きよといふ
だがそんなに直ぐは起きられようか
私は潅木林の中を
走り廻る夢をみてゐたんだ

恋人よ、親達に距(へだ)てられた私の恋人、
君はどう思ふか……
僕は今でも君を懐しい、懐しいものに思ふ

雀が鳴いてゐる
朝日が照つてゐる
私は椿の葉を想ふ

雀が鳴いてゐる
起きよといふ
だがそんなに直ぐは起きられようか
私は潅木林の中を
走り廻る夢をみてゐたんだ

 *
 朝

雀の声が鳴きました
雨のあがつた朝でした
お葱(ねぎ)が欲しいと思ひました

ポンプの音がしてゐました
頭はからつぽでありました
何を悲しむのやら分りませんが、
心が泣いてをりました

遠い遠い物音を
多分は汽車の汽笛の音に
頼みをかけるよな気持

心が泣いてをりました
寒い風に、油煙まじりの
煙が吹かれてゐるやうに
焼木杭(やけぼつくい)や霜のやう僕の心は泣いてゐた

          (一九三四・四・二二)

2009年3月19日 (木)

悲しみの歌は聞こえない/聞こえぬ悲鳴

散文詩「かなしみ」の、
「悲しみ呆け」が、
「朝の歌」からは
遠く隔(へだ)たった地平を感じさせ、
ならば、
その異なり具合の変遷はどうだったのか、と、
「山羊の歌」
「在りし日の歌」
「生前発表詩篇」を
パラパラめくっているうち、
朝を歌った詩の変遷を辿ることになり
いくつかの発見がありました。

いったい
中原中也の詩に
「悲しみ」がないものの方が少なく、
「悲しみ」以外を歌っているものなどない
とまで言えるのではないか、などと、
思いあやまりそうになるほど
「悲しみ尽くし」です。

散文詩「かなしみ」は、

 白き敷布のかなしさよ夏の朝明け、なほ仄暗(ほのぐら)い一室に、時計の音〈おと〉のしじにする。

とはじまり、

はやいかな生計(なりはひ)の力もあらず此の朝け、祈る祈りは朝空よ、野辺の草露、汝(なれ)等呼ぶ淡(あは)き声のみ、咽喉(のど)もとにかそかに消ゆる。

で、終わっていました。

白き敷布のかなしさよ……
ではじまり、
淡(あは)き声のみ、咽喉(のど)もとにかそかに消ゆる。
で終わるのです。

悲しみにくたびれて
声が枯れて掠(かす)れて

ひどい悲しみなのだなあ
などとと思いながら
また、パラパラと詩集をめくっていて
これに似た作品「聞こえぬ悲鳴」にぶつかりました。
見過ごしていた朝の歌です。
悲しみの歌です。

こちらは、
悲しい夜更け、ではじまり
その悲しみは
朝まで続いた、という内容です。
悲しみの夜更けが続いて
夜が明けて、朝になってしまった、
という歌です。

第2連に
痩せた 大きな 露西亜の婦(をんな)?
と、「おんな」が出てくるだけましで
まだ、余裕がある
なんて思えるでしょうか。

タイトルが「聞こえぬ悲鳴」
であることを思い合わせると
グッとくるものがありますよね?

 *
 聞こえぬ悲鳴

悲しい 夜更が 訪れて
菫(すみれ)の 花が 腐れる 時に
神様 僕は 何を想出したらよいんでしよ?

痩せた 大きな 露西亜の婦(をんな)?
彼女の 手ですか? それとも横顔?
それとも ぼやけた フイルム ですか?
それとも前世紀の 海の夜明け?

あゝ 悲しい! 悲しい……
神様 あんまり これでは 悲しい
疲れ 疲れた 僕の心に……
いつたい 何が 想ひ出せましよ?

悲しい 夜更は 腐つた花弁(はなびら)——
   噛んでも 噛んでも 歯跡〈はあと〉もつかぬ
   それで いつまで 噛んではゐたら
   しらじらじらと 夜は明けた
           ——一九三五、四——

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年3月18日 (水)

生前発表詩篇の中の朝の歌

朝を歌った詩を
朝の歌、と呼ぶなら
朝の歌は、公刊詩集以外の
生前発表詩篇や
未発表詩篇の中にもあります。

生前発表詩篇の中の
朝の歌をながめておきます。
「かなしみ」を含めて
5作品が見つかります。

「夏の明方(あけがた)年長妓(としま)が歌つた」は、
第1連に、

うたひ歩いた揚句の果は
空が白むだ、夏の暁(あけ)だよ

「秋を呼ぶ雨」は、1の第1連、

秋を告げる雨は、夜明け前に降り出して、
窓が白む頃、鶏の声はそのどしやぶりの中に起つたのです。

散文詩「かなしみ」は、
冒頭行に、

 白き敷布のかなしさよ夏の朝明け、なほ仄暗(ほのぐら)い一室に、時計の音〈おと〉のしじにする。

「雨の朝」は、
詩句としての朝はありません。
タイトルそのものに朝はあるだけです。

「夏」は、
めずらしく、終連に、

とある朝、僕は死んでゐた。

とあり、
詩人は死んでしまいます。

 *
 夏の明方(あけがた)年長妓(としま)が歌つた
              ――小竹の女主人(ばばあ)に捧ぐ

うたひ歩いた揚句の果は
空が白むだ、夏の暁(あけ)だよ
随分馬鹿にしてるわねえ
一切合切(いつさいがつさい)キリガミ細工
銹(さ)び付いたやうなところをみると
随分鉄分には富んでるとみえる
林にしたつて森にしたつて
みんな怖(お)づ怖づしがみついてる
夜露が下りてゐるとこなんぞ
だつてま、しほらしいぢやあないの
棄(す)てられた紙や板切れだつて
あんなに神妙、地面にへたばり
植えられたばかりの苗だつて
ずいぶんつましく風にゆらぐ
まるでこつちを見向きもしないで
あんまりいぢらしい小娘みたい
あれだつて都に連れて帰つて
みがきをかければなんとかならうに
左程々々(さうさう)こつちもかまつちやられない
――随分馬鹿にしてるわねえ
うたひ歩いた揚句の果は
空が白むで、夏の暁(あけ)だと
まるでキリガミ細工ぢやないか
昼間(ひるま)は毎日あんなに暑いに
まるでぺちやんこぢやあないか

 *      
 秋を呼ぶ雨

   1

畳の上に、灰は撒(ま)き散らされてあつたのです。
僕はその中に、蹲(うずく)まつたり、坐つたり、寝ころんだりしてゐたのです。
秋を告げる雨は、夜明け前に降り出して、
窓が白む頃、鶏の声はそのどしやぶりの中に起つたのです。

僕は遠い海の上で、警笛を鳴らしてゐる船を思ひ出したりするのでした。
その煙突は白く、太くつて、傾いてゐて、
ふてぶてしくもまた、可憐なものに思へるのでした。
沖の方の空は、煙つてゐて見えないで。

僕はもうへとへとなつて、何一つしようともしませんでした。
純心な恋物語を読みながら、僕は自分に訊〈(たず)〉ねるのでした、
もしかばかりの愛を享(う)けたら、自分も再び元気になるだらうか?

かばかりの女の純情を享けたならば、自分にもまた希望は返つて来るだらうか?
然し……と僕は思ふのでした、おまへはもう女の愛にも動きはしまい、
おまへはもう、此の世のたよりなさに、いやといふ程やつつけられて了つたのだ!

   2

弾力も何も失くなつたこのやうな思ひは、
それを告白してみたところで、つまらないものでした。
それを告白したからとて、さつぱりするといふやうなこともない、
それ程までに自分の生存はもう、けがらはしいものになつてゐたのです。

それが嘗(かつ)て欺かれたことの、私に残した灰燼(かいじん)のせゐだと決つたところで、
僕はその欺かれたことを、思ひ出しても、はや憤りさへしなかつたのです。
僕はたゞ淋しさと怖れとを胸に抱いて、
灰の撒き散らされた薄明の部屋の中にゐるのでした。

そしてたゞ時々一寸(ちよつと)、こんなことを思ひ出すのでした。
それにしてもやさしくて、理不尽でだけはない自分の心には、
雨だつて、もう少しは怡(たの)しく響いたつてよからう…………

それなのに、自分の心は、索然と最後の壁の無味を甞(な)め、
死なうかと考へてみることもなく、いやはやなんとも
隠鬱なその日その日を、糊塗してゐるにすぎないのでした。

   3

トタンは雨に洗はれて、裏店の逞しいおかみを想はせたりしました。
それは酸つぱく、つるつるとして、尤(もつと)も、意地悪でだけはないのでした。
雨はそのおかみのうちの、箒(ほうき)のやうに、だらだらと降続きました。
雨はだらだらと、だらだらと、だらだらと降続きました。

瓦は不平さうでありました、含まれるだけの雨を含んで、
それは怒り易い老地主の、不平にも似てをりました。
それにしてもそれは、持つて廻つた趣味なぞよりは、
傷み果てた私の心には、却(かえつ)て健康なものとして映るのでした。

もはや人の癇癖(かんぺき)なぞにも、まるで平気である程に僕は伸び朽ちてゐたのです。
尤も、嘘だけは癪(しやく)に障(さわ)るのでしたが…………
人の性向を撰択するなぞといふことももう、
早朝のビル街のやうに、何か兇悪な逞しさとのみ思へるのでした。

——僕は伸びきつた、ゴムの話をしたのです。
だらだらと降る、微温の朝の雨の話を。
ひえびえと合羽(かつぱ)に降り、甲板(デツキ)に降る雨の話なら、
せめてもまだ、爽々(すがすが)しい思ひを抱かせるのに、なぞ思ひながら。

   4

何処(どこ)まで続くのでせう、この長い一本道は。
嘗てはそれを、少しづつ片附けてゆくといふことは楽しみでした。
今や麦稈真田(ばつかんさなだ)を編むといふそのやうな楽しみも
残つてはゐない程、疲れてしまつてゐるのです。

眠れば悪夢をばかりみて、
もしそれを同情してくれる人があるとしても、
その人に、済まないと感ずるくらゐなものでした。
だつて、自分で諦めきつてゐるその一本道…………。

つまり、あらゆる道徳(モラリテ)の影は、消えちまつてゐたのです。
墓石のやうに灰色に、雨をいくらでも吸ふその石のやうに、
だらだらとだらだらと、降続くこの不幸は、
もうやむものとも思へない、秋告げるこの朝の雨のやうに降るのでした。

   5

僕の心が、あの精悍(せいかん)な人々を見ないやうにと、
そのやうな祈念をしながら、僕は傘さして雨の中を歩いてゐた。

 *
 かなしみ

 白き敷布のかなしさよ夏の朝明け、なほ仄暗(ほのぐら)い一室に、時計の音〈おと〉のしじにする。
 目覚めたは僕の心の悲しみか、世に慾呆(よくぼ)けといふけれど、夢もなく手仕事もなく、何事もなくたゞ沈湎(ちんめん)の一色に打続く僕の心は、悲しみ呆けといふべきもの。
 人笑ひ、人は囁き、人色々に言ふけれど、青い卵か僕の心、何かかはらうすべもなく、朝空よ! 汝(なれ)は知る僕の眼(まなこ)の一瞥(いちべつ)を。フリュートよ、汝(なれ)は知る、僕の心の悲しみを。
 朝の巷(ちまた)や物音は、人の言葉は、真白き時計の文字板に、いたづらにわけの分らぬ条(すぢ)を引く。
 半ば困乱(こんらん)しながらに、瞶(みは)る私の聴官よ、泌(し)みるごと物を覚えて、人竝(ひとなみ)に物え覚えぬ不安さよ、悲しみばかり藍(あい)の色、ほそぼそとながながと朝の野辺空の涯(はて)まで、うちつづくこの悲しみの、なつかしくはては不安に、幼な児ばかりいとほしくして、はやいかな生計(なりはひ)の力もあらず此の朝け、祈る祈りは朝空よ、野辺の草露、汝(なれ)等呼ぶ淡(あは)き声のみ、咽喉(のど)もとにかそかに消ゆる。

 *      
 雨の朝

(麦湯は麦を、よく焦がした方がいいよ。)
(毎日々々、よく降りますですねえ。)
(インキはインキを、使つたらあと、栓〈(せん)〉をしとかなけあいけない。)
(ハイ、皆さん大きい声で、一々(いんいち)が一(いち)…)
         上草履は冷え、
         バケツは雀の声を追想し、
         雨は沛然〈(はいぜん)〉と降つてゐる。
(ハイ、皆さん御一緒に、一二(いんに)が二(に)……)
       校庭は煙雨〈けぶ〉つてゐる。
       ——どうして学校といふものはこんなに静かなんだらう?
       ——家(うち)ではお饅ぢうが蒸(ふ)かせただらうか?
       ああ、今頃もう、家ではお饅ぢうが蒸かせただらうか?

   *<編注> 原作では、パーレンが二重になっています。

 *
 夏

僕は卓子の上に、
ペンとインキと原稿紙のほかになんにも載せないで、
毎日々々、いつまでもジッとしてゐた。

いや、そのほかにマッチと煙草と、
吸取紙くらゐは載つかつてゐた。
いや、時とするとビールを持つて来て、
飲んでゐることもあつた。

戸外では蝉がミンミン鳴いていた
風は岩にあたつて、ひんやりしたのがよく吹込んだ。
思ひなく、日なく月なく時は過ぎ、

とある朝、僕は死んでゐた。
卓子に載つてゐたわづかの品は、
やがて女中によつて瞬く間に片附けられた。
──さつぱりとした。さつぱりとした。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年3月17日 (火)

中也の詩のわかりやすさ

その詩が
朝という時間帯を歌ったものである、
ということを示す詩句を抜き出してみれば
なんと!
12篇中の2篇を例外として
10篇が
第1連もしくはタイトルの中にある、
ということを発見しました。

「朝の歌」は
第3連の、

樹脂(じゆし)の香に 朝は悩まし
  うしなひし さまざまのゆめ、
森竝は 風に鳴るかな

「臨終」は、
第3連の、

窓際に髪を洗へば
その腕の優しくありぬ
  朝の日は澪(こぼ)れてありぬ
  水の音したたりてゐぬ

で、朝の歌と判明しますが、

その他の朝の歌は、
すべて、第1連またはタイトルに、
朝を指示する詩句があります。

作品の冒頭部に
その詩の「時」を示した
詩人の律儀さを思わずにはいられません。

中原中也の詩が
わかりやすく、
親しみやすい、
ということの
一つのわけが
ここにある
ということを示すもの
であるかもしれません。

逆の意味で、
「朝の歌」や「臨終」は
基本から踏み出して
いわば「技巧」を凝らして作られた作品、
といえるのかもしれません。

多くの作品が
基本に忠実な作り方だからといって
技巧に欠ける、
とは、ただちにはいえませんが、
「朝の歌」「臨終」の完成度が
抜きん出ている、と
しばしば評されるのは
このあたりの事情にもあろうかと思われます。

以下に
朝という「時」を示した
第1連の詩句だけを
記します。

秋の一日

こんな朝、遅く目覚める人達は
戸にあたる風と轍(わだち)との音によつて、
サイレンの棲む海に溺れる。 

悲しき朝

河瀬の音が山に来る、
春の光は、石のやうだ。
筧(かけひ)の水は、物語る
白髪(しらが)の嫗(をうな)にさも肖(に)てる。

宿酔

朝、鈍い日が照つてて
  風がある。
千の天使が
  バスケットボールする。

修羅街輓歌
      関口隆克に
 1 酔生

私の青春も過ぎた、
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
私の青春も過ぎた。

青い瞳

1 夏の朝

かなしい心に夜が明けた、
  うれしい心に夜が明けた、
いいや、これはどうしたといふのだ?
  さてもかなしい夜の明けだ!

2 冬の朝

それからそれがどうなつたのか……
それは僕には分らなかつた
とにかく朝霧罩(こ)めた飛行場から
機影はもう永遠に消え去つてゐた。

春は土と草とに新しい汗をかゝせる。
その汗を乾かさうと、雲雀は空に隲(あが)る。
瓦屋根今朝不平がない、
長い校舎から合唱は空にあがる。

冬の明け方

残んの雪が瓦に少なく固く
枯木の小枝が鹿のやうに睡(ねむ)い、
冬の朝の六時
私の頭も睡い。

秋の消息

麻は朝、人の肌(はだへ)に追い縋(すが)り
雀らの、声も硬うはなりました
煙突の、煙は風に乱れ散り

曇天

 ある朝 僕は 空の 中に、
黒い 旗が はためくを 見た。
 はたはた それは はためいて ゐたが、
音は きこえぬ 高きが ゆゑに。

2009年3月16日 (月)

「朝の歌」以外の朝の歌

ここで
「朝」が歌われた作品を
公刊2詩集である
「山羊の歌」と「在りし日の歌」から
ざっと、ながめておきます。

朝といっても
明け方、とか
目覚めた朝、とか
太陽がまだあがっていない時刻から
太陽が空にあがって、
陽光が降り注ぎはじめたあたりまでの朝で、
昼になっていない時間帯を指す「朝」。

その、微妙にあいまいでありそうな「朝」を
中原中也は、
厳密に使い分けていることが
見えてくるような「朝」。

その、
朝の歌の変遷が
わかります。

詩人が、
詩人としての出発点と自認した
「朝の歌」は、
大正15年(1926年)に作られ、
「曇天」は、昭和11年(1936)の作ですから、
この意味での「朝」の歌を、
詩人誕生から晩年にいたるまで
詩作活動の全般にわたって
作っていることがわかります。

これらの、朝の歌と、
「朝の歌」とを比べながら味わうと、
色々な朝の歌が聞こえてきます。

<山羊の歌>より

 *
 朝の歌

天井に 朱(あか)きいろいで
  戸の隙を 洩れ入る光、
鄙(ひな)びたる 軍楽の憶(おも)ひ
  手にてなす なにごともなし。

小鳥らの うたはきこえず
  空は今日 はなだ色らし、
倦(う)んじてし 人のこころを
  諫(いさ)めする なにものもなし。

樹脂(じゆし)の香に 朝は悩まし
  うしなひし さまざまのゆめ、
森竝は 風に鳴るかな

ひろごりて たひらかの空、
  土手づたひ きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。

 *
 臨終

秋空は鈍色(にびいろ)にして
黒馬の瞳のひかり
  水涸(か)れて落つる百合花
  あゝ こころうつろなるかな

神もなくしるべもなくて
窓近く婦(をみな)の逝きぬ
  白き空 盲(めし)ひてありて
  白き風冷たくありぬ

窓際に髪を洗へば
その腕の優しくありぬ
  朝の日は澪(こぼ)れてありぬ
  水の音したたりてゐぬ

町々はさやぎてありぬ
子等の声もつれてありぬ
  しかはあれ この魂はいかにとなるか?
  うすらぎて 空となるか?

 *
 秋の一日

こんな朝、遅く目覚める人達は
戸にあたる風と轍(わだち)との音によつて、
サイレンの棲む海に溺れる。 

夏の夜の露店の会話と、
建築家の良心はもうない。
あらゆるものは古代歴史と
花崗岩のかなたの地平の目の色。

今朝はすべてが領事館旗のもとに従順で、
私は錫(しやく)と広場と天鼓のほかのなんにも知らない。
軟体動物のしやがれ声にも気をとめないで、
紫の蹲(しやが)んだ影して公園で、乳児は口に砂を入れる。

     (水色のプラットホームと
     躁(はしや)ぐ少女と嘲笑(あざわら)ふヤンキイは
     いやだ いやだ!)

ぽけっとに手を突込んで
路次を抜け、波止場に出でて
今日の日の魂に合ふ
布切屑(きれくづ)をでも探して来よう。

 *
 悲しき朝

河瀬の音が山に来る、
春の光は、石のやうだ。
筧(かけひ)の水は、物語る
白髪(しらが)の嫗(をうな)にさも肖(に)てる。

雲母の口して歌つたよ、
背(うし)ろに倒れ、歌つたよ、
心は涸(か)れて皺枯(しわが)れて、
巌(いはほ)の上の、綱渡り。

知れざる炎、空にゆき!

響の雨は、濡れ冠る!

……………………………

われかにかくに手を拍く……

 *
 宿酔

朝、鈍い日が照つてて
  風がある。
千の天使が
  バスケットボールする。

私は目をつむる、
  かなしい酔ひだ。
もう不用になつたストーヴが
  白つぽく銹(さ)びてゐる。

朝、鈍い日が照つてて
  風がある。
千の天使が
  バスケットボールする。

 *
 修羅街輓歌
      関口隆克に

   序歌

忌(いま)はしい憶(おも)ひ出よ、
去れ! そしてむかしの
憐みの感情と
ゆたかな心よ、
返つて来い!

  今日は日曜日
  縁側には陽が当る。
  ――もういつぺん母親に連れられて
  祭の日には風船玉が買つてもらひたい、
  空は青く、すべてのものはまぶしくかゞやかしかつた……

  忌はしい憶ひ出よ、
  去れ!
     去れ去れ!

 1 酔生

私の青春も過ぎた、
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
私の青春も過ぎた。

ほんに前後もみないで生きて来た……
私はあむまり陽気にすぎた?
――無邪気な戦士、私の心よ!

それにしても私は憎む、
対外意識にだけ生きる人々を。
――パラドクサルな人生よ。

いま茲(ここ)に傷つきはてて、
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
おゝ、霜にしみらの鶏鳴よ……

 2 独語

器の中の水が揺れないやうに、
器を持ち運ぶことは大切なのだ。
さうでさへあるならば
モーションは大きい程いい。

しかしさうするために、
もはや工夫(くふう)を凝らす余地もないなら……
心よ、
謙抑にして神恵を待てよ。

 3

いといと淡き今日の日は
雨蕭々(せうせう)と降り洒(そそ)ぎ
水より淡(あは)き空気にて
林の香りすなりけり。

げに秋深き今日の日は
石の響きの如くなり。
思ひ出だにもあらぬがに
まして夢などあるべきか。

まことや我は石のごと
影の如くは生きてきぬ……
呼ばんとするに言葉なく
空の如くははてもなし。

それよかなしきわが心
いはれもなくて拳(こぶし)する
誰をか責むることかある?
せつなきことのかぎりなり。

<在りし日の歌>より

 * 
 青い瞳

   1 夏の朝

かなしい心に夜が明けた、
  うれしい心に夜が明けた、
いいや、これはどうしたといふのだ?
  さてもかなしい夜の明けだ!

青い瞳は動かなかつた、
  世界はまだみな眠つてゐた、
さうして『その時』は過ぎつつあつた、
  あゝ、遐(とほ)い遐いい話。

青い瞳は動かなかつた、
  ――いまは動いてゐるかもしれない……
青い瞳は動かなかつた、
  いたいたしくて美しかつた!

私はいまは此処(ここ)にゐる、黄色い灯影に。
  あれからどうなつたのかしらない……
あゝ、『あの時』はあゝして過ぎつゝあつた!
  碧(あを)い、噴き出す蒸気のやうに。

   2 冬の朝

それからそれがどうなつたのか……
それは僕には分らなかつた
とにかく朝霧罩(こ)めた飛行場から
機影はもう永遠に消え去つてゐた。
あとには残酷な砂礫(されき)だの、雑草だの
頬を裂(き)るやうな寒さが残つた。
――こんな残酷な空寞(くうばく)たる朝にも猶(なほ)
人は人に笑顔を以て対さねばならないとは
なんとも情ないことに思はれるのだつたが
それなのに其処(そこ)でもまた
笑ひを沢山湛(たた)へた者ほど
優越を感じてゐるのであつた。
陽は霧に光り、草葉の霜は解け、
遠くの民家に鶏(とり)は鳴いたが、
霧も光も霜も鶏も
みんな人々の心には沁(し)まず、
人々は家に帰つて食卓についた。
  (飛行機に残つたのは僕、
  バットの空箱(から)を蹴つてみる)

 *
 春

春は土と草とに新しい汗をかゝせる。
その汗を乾かさうと、雲雀は空に隲(あが)る。
瓦屋根今朝不平がない、
長い校舎から合唱は空にあがる。

あゝ、しづかだしづかだ。
めぐり来た、これが今年の私の春だ。
むかし私の胸摶(う)つた希望は今日を、
厳(いか)めしい紺青(こあを)となつて空から私に降りかゝる。

そして私は呆気(ほうけ)てしまふ、バカになつてしまふ
――薮かげの、小川か銀か小波(さざなみ)か?
薮かげの小川か銀か小波か?

大きい猫が頸ふりむけてぶきつちよに
一つの鈴をころばしてゐる、
一つの鈴を、ころばして見てゐる。

 *
 冬の明け方

残んの雪が瓦に少なく固く
枯木の小枝が鹿のやうに睡(ねむ)い、
冬の朝の六時
私の頭も睡い。

烏が啼いて通る――
庭の地面も鹿のやうに睡い。
――林が逃げた農家が逃げた、
空は悲しい衰弱。
     私の心は悲しい……

やがて薄日が射し
青空が開(あ)く。
上の上の空でジュピター神の砲(ひづつ)が鳴る。
――四方(よも)の山が沈み、

農家の庭が欠伸(あくび)をし、
道は空へと挨拶する。
     私の心は悲しい……

 *
 秋の消息

麻は朝、人の肌(はだへ)に追い縋(すが)り
雀らの、声も硬うはなりました
煙突の、煙は風に乱れ散り

火山灰掘れば氷のある如く
けざやけき顥気(かうき)の底に青空は
冷たく沈み、しみじみと

教会堂の石段に
日向ぼつこをしてあれば
陽光(ひかり)に廻(めぐ)る花々や
物蔭に、すずろすだける虫の音(ね)や

秋の日は、からだに暖か
手や足に、ひえびえとして
此の日頃、広告気球は新宿の
空に揚りて漂へり

 *
 曇天

 ある朝 僕は 空の 中に、
黒い 旗が はためくを 見た。
 はたはた それは はためいて ゐたが、
音は きこえぬ 高きが ゆゑに。

 手繰り 下ろさうと 僕は したが、 
綱も なければ それも 叶(かな)はず、
 旗は はたはた はためく ばかり、
空の 奥処(をくが)に 舞ひ入る 如く。

 かかる 朝(あした)を 少年の 日も、
屡々(しばしば) 見たりと 僕は 憶(おも)ふ。
 かの時は そを 野原の 上に、
今はた 都会の 甍(いらか)の 上に。

 かの時 この時 時は 隔つれ、
此処(ここ)と 彼処(かしこ)と 所は 異れ、
 はたはた はたはた み空に ひとり、
いまも 渝(かは)らぬ かの 黒旗よ。

2009年3月13日 (金)

絶望的な朝空/かなしみ<2>

乱暴な言い方に受け取られるかもしれませんが、
はなだ色の空(「朝の歌」)も
藍(あい)の色の空(「かなしみ」)も
青は藍より出でて藍より青し、のように
違う青ですが、
限りなく同じ色に近い青で、
どちらも
悲しみの色ではあります。

にもかかわらず、
「朝の歌」には、
何かしら、希望のようなもの
光状のものが散りばめられているのに
「かなしみ」は
絶望の深みばかりを歌います。

文語七五調であることによって
それは、さらに強調されます。
これでもか、これでもかと
かなしみは深まってゆくばかり……。

終わりの方の

うちつづくこの悲しみの、なつかしくはては不安に、幼な児ばかりいとほしくして、はやいかな生計(なりはひ)の力もあらず此の朝け、祈る祈りは朝空よ、

この、幼な児、は、だれ?
生まれたての長男文也?
死んだ長男文也?
それとも、
生まれたばかりの次男の愛雅(よしまさ)?
それとも、幼児一般を表現したもの?

はやいかな生計(なりはひ)の力もあらず此の朝け、
とは、
そんなにも暮らしが成り立っていなかったのか

「四季」や「文学界」への旺盛な発表がありながら
詩で食っていく、ということが
どんなにか、大変なことであるか
不可能なことであるか

山口へ帰る決意は
この詩が作られたころには
芽生えていたのでしょうか。

この詩が発表されたのは
昭和12年(1937年)の「四季」2月号ですから、
このころには
帰郷の心があったのでしょうか。

「在りし日の歌」原稿を
小林秀雄に託す日までは
そんなに遠いことではなさそうです。

 *
 かなしみ

 白き敷布のかなしさよ夏の朝明け、なほ仄暗(ほのぐら)い一室に、時計の音〈おと〉のしじにする。
 目覚めたは僕の心の悲しみか、世に慾呆(よくぼ)けといふけれど、夢もなく手仕事もなく、何事もなくたゞ沈湎(ちんめん)の一色に打続く僕の心は、悲しみ呆けといふべきもの。
 人笑ひ、人は囁き、人色々に言ふけれど、青い卵か僕の心、何かかはらうすべもなく、朝空よ! 汝(なれ)は知る僕の眼(まなこ)の一瞥(いちべつ)を。フリュートよ、汝(なれ)は知る、僕の心の悲しみを。
 朝の巷(ちまた)や物音は、人の言葉は、真白き時計の文字板に、いたづらにわけの分らぬ条(すぢ)を引く。
 半ば困乱(こんらん)しながらに、瞶(みは)る私の聴官よ、泌(し)みるごと物を覚えて、人竝(ひとなみ)に物え覚えぬ不安さよ、悲しみばかり藍(あい)の色、ほそぼそとながながと朝の野辺空の涯(はて)まで、うちつづくこの悲しみの、なつかしくはては不安に、幼な児ばかりいとほしくして、はやいかな生計(なりはひ)の力もあらず此の朝け、祈る祈りは朝空よ、野辺の草露、汝(なれ)等呼ぶ淡(あは)き声のみ、咽喉(のど)もとにかそかに消ゆる。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年3月12日 (木)

悲しみ呆けの青空/かなしみ

昭和12年(1937)はじめに
詩人は、千葉県にある中村古峡療養所へ
入院します。
そこで
診察の材料にしたのか
日記を書くことを求められ、
「療養日誌」を残します。
この「療養日誌」の中に、
「悲しみ呆け」の一語が見られることは
広く知られていることです。

散文詩「かなしみ」に現れる「悲しみ呆け」は
「療養日誌」以前に書かれたものでしょうか
それとも、同じ時期または以後のものでしょうか

悲しみばかりの多かった詩人が
真正面から
かなしみを歌っている。
ストレートに
かなしみを歌っているのは
長男文也の死に会い
それまでこうむってきた全てのかなしみ
平仮名(ひらがな)で「かなしみ」
と言わざるを得ない悲しみを
数え上げ、
そのすべて吐き出したかったからではありませんか。

散文詩の形で歌っているから
余計に、
ありのままに
なりふりかまっていられずに、
かなしみを歌っているように感じられますし、
ありのままを歌うためには散文詩が求められた、
ともいえるでしょうか。

夏の朝の歌です。
「朝の歌」と同じ朝の歌で、
はなだ色の空(「朝の歌」)が
悲しみばかり藍(あい)の色、と
空の色が変わったように見えても
青はあくまで青で
変わっておらず、
いずれも
青い空が目に染みるようです
読者の目にも染みてきます。

にもかかわらず、

目覚めたは僕の心の悲しみか
青い卵か僕の心、何かかはらうすべもなく、朝空よ!

この2行をはじめとする
詩の全体には
「朝の歌」の気分とは異なるものがあります。

 

 *
 かなしみ

 白き敷布のかなしさよ夏の朝明け、なほ仄暗(ほのぐら)い一室に、時計の音〈おと〉のしじにする。
 目覚めたは僕の心の悲しみか、世に慾呆(よくぼ)けといふけれど、夢もなく手仕事もなく、何事もなくたゞ沈湎(ちんめん)の一色に打続く僕の心は、悲しみ呆けといふべきもの。
 人笑ひ、人は囁き、人色々に言ふけれど、青い卵か僕の心、何かかはらうすべもなく、朝空よ! 汝(なれ)は知る僕の眼(まなこ)の一瞥(いちべつ)を。フリュートよ、汝(なれ)は知る、僕の心の悲しみを。
 朝の巷(ちまた)や物音は、人の言葉は、真白き時計の文字板に、いたづらにわけの分らぬ条(すぢ)を引く。
 半ば困乱(こんらん)しながらに、瞶(みは)る私の聴官よ、泌(し)みるごと物を覚えて、人竝(ひとなみ)に物え覚えぬ不安さよ、悲しみばかり藍(あい)の色、ほそぼそとながながと朝の野辺空の涯(はて)まで、うちつづくこの悲しみの、なつかしくはては不安に、幼な児ばかりいとほしくして、はやいかな生計(なりはひ)の力もあらず此の朝け、祈る祈りは朝空よ、野辺の草露、汝(なれ)等呼ぶ淡(あは)き声のみ、咽喉(のど)もとにかそかに消ゆる。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年3月10日 (火)

お調子もの嫌いの歌/幻想

沈鬱な表情とか
誠実そうな感じとかが
中原中也の心の琴線に触れたのでしょうか
エイブラハム・リンカーンは
ジョージ・ワシントンや
トーマス・ジェファーソンよりも
詩人の感性に響くところがあることは
容易に推察されます。

リンカーンといえば
奴隷解放宣言。
深い悩みや悲しみを
湛(たた)えたイメージがあり、
イメージばかりでなく
実際に、悲しみや悩みを
抱えていたことでしょうし、

少なくとも
現代の、たとえば、
前大統領ブッシュのような
お調子もののイメージはありませんから
リンカーンは
友だちのような感じがしたのです。

手帳を出して何か書き付けてゐる。

(夕陽に背を向けて野の道を散歩することは淋しいことだ。)

リンカーンが手帳に書きつける内容の
なんと! 政治家らしからぬこと!

やがてリンカン氏は、私がひとなつつこさのほか、何にも持合はぬのであることをみてとつた。

目玉クリクリの
人なつっこい中也がここにいます!

万事諦めて私とリンカン氏とは、卓子(テーブル)を中に向き合つて、頬肘(ほおひじ)をついたまゝで眠らうとしてゐた。

二人の「詩人」の間を
静かな穏やかな時間が
流れてゆくだけです。
ひとことふたことの言葉が
交わされるだけです。

いい詩ですねえ!
小説や演劇にはなりませんし、
詩にしかなりませんし、
中也にしか作れない詩です!

 *
  幻 想

 草には風が吹いてゐた。
 出来たてのその郊外の駅の前には、地均機械(ローラー・エンジン)が放り出されてあつた。そのそばにはアブラハム・リンカン氏が一人立つてゐて、手帳を出して何か書き付けてゐる。
(夕陽に背を向けて野の道を散歩することは淋しいことだ。)
「リンカンさん」、私は彼に話しかけに近づいた。
「リンカンさん」
「なんですか」
 私は彼のチョッキやチョッキの釦(ボタン)や胸のあたりを見た。
「リンカンさん」
「なんですか」
 やがてリンカン氏は、私がひとなつつこさのほか、何にも持合はぬのであることをみてとつた。
 リンカン氏は駅から一寸行つた処の、畑の中の一瓢亭に私を伴つた。
 我々はそこでビールを飲んだ。
 夜が来ると窓から一つの星がみえた。
 女給が去り、コックが寝、さて此の家には私達二人だけが残されたやうであつた。
 すつかり夜が更けると、大地は、此の瓢亭(ひようてい)が載つかつてゐる地所だけを残して、すつかり陥没してしまつてゐた。
 帰る術(すべ)もないので私達二人は、今夜一夜を此処に過ごさうといふことになつた。
 私は心配であつた。
 しかしリンカン氏は、私の顔を見て微笑(ほほえ)むでゐた、「大丈夫(ダイジヨブ)ですよ」
 毛布も何もないので、私は先刻から消えてゐたストーブを焚付けておいてから寝ようと思つたのだが、十能も火箸もあるのに焚付(たきつけ)がない。万事諦めて私とリンカン氏とは、卓子(テーブル)を中に向き合つて、頬肘(ほおひじ)をついたまゝで眠らうとしてゐた。電燈は全く明るく、残されたビール瓶の上に光つてゐた。

 目が覚めたのは八時であつた。空は晴れ、大地はすつかり旧に復し、野はレモンの色に明(あか)つてゐた。
 コックは、バケツを提げたまま裏口に立つて誰かと何か話してゐた。女給は我々から三米(メートル)ばかりの所に、片足浮かして我々を見守つてゐた。
「リンカンさん」
「なんですか」
「エヤアメールが揚つてゐます」
「ほんとに」

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

*原作品は、「ひとなつつこさ」に傍点が付されています。

2009年3月 9日 (月)

リンカーンと同宿する詩人/幻想

Byfreezr03
By freezr

    「四季」昭和12年2月号に載せた
4篇の散文詩の一つ「幻想」は
エイブラハム・リンカーンと私が
郊外の小さなホテル=瓢亭で
一夜を過ごす、
という内容の奇抜な作品です。

夢を見たのでしょうか。
それにしても
アメリカの大統領と
ホテルで朝を迎えるなんて!
中也らしい突飛さです
シュール! シュール!

終わりの二人の会話が
何気ないようで
詩人が描きたかったこと
歌いたかったことが見えるようです。

「リンカンさん」
「なんですか」
「エヤアメールが揚つてゐます」
「ほんとに」

エアーメールは
エアーサインの混同でしょうか
それとも、詩人の時代には
「空の手紙」という言い方が
通用していたのでしょうか

中也の詩にいくつか現れる
広告気球とかアドバルーンのこととるのが自然です。

 *
  幻 想

 草には風が吹いてゐた。
 出来たてのその郊外の駅の前には、地均機械(ローラー・エンジン)が放り出されてあつた。そのそばにはアブラハム・リンカン氏が一人立つてゐて、手帳を出して何か書き付けてゐる。
(夕陽に背を向けて野の道を散歩することは淋しいことだ。)
「リンカンさん」、私は彼に話しかけに近づいた。
「リンカンさん」
「なんですか」
 私は彼のチョッキやチョッキの釦(ボタン)や胸のあたりを見た。
「リンカンさん」
「なんですか」
 やがてリンカン氏は、私がひとなつつこさのほか、何にも持合はぬのであることをみてとつた。
 リンカン氏は駅から一寸行つた処の、畑の中の一瓢亭に私を伴つた。
 我々はそこでビールを飲んだ。
 夜が来ると窓から一つの星がみえた。
 女給が去り、コックが寝、さて此の家には私達二人だけが残されたやうであつた。
 すつかり夜が更けると、大地は、此の瓢亭(ひようてい)が載つかつてゐる地所だけを残して、すつかり陥没してしまつてゐた。
 帰る術(すべ)もないので私達二人は、今夜一夜を此処に過ごさうといふことになつた。
 私は心配であつた。
 しかしリンカン氏は、私の顔を見て微笑(ほほえ)むでゐた、「大丈夫(ダイジヨブ)ですよ」
 毛布も何もないので、私は先刻から消えてゐたストーブを焚付けておいてから寝ようと思つたのだが、十能も火箸もあるのに焚付(たきつけ)がない。万事諦めて私とリンカン氏とは、卓子(テーブル)を中に向き合つて、頬肘(ほおひじ)をついたまゝで眠らうとしてゐた。電燈は全く明るく、残されたビール瓶の上に光つてゐた。

 目が覚めたのは八時であつた。空は晴れ、大地はすつかり旧に復し、野はレモンの色に明(あか)つてゐた。
 コックは、バケツを提げたまま裏口に立つて誰かと何か話してゐた。女給は我々から三米(メートル)ばかりの所に、片足浮かして我々を見守つてゐた。
「リンカンさん」
「なんですか」
「エヤアメールが揚つてゐます」
「ほんとに」

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

*原作品は、「ひとなつつこさ」に傍点が付されています。

2009年3月 6日 (金)

散文詩「北沢風景」の青い空

小鳥らの うたはきこえず
  空は今日 はなだ色らし、
倦(う)んじてし 人のこころを
  諫(いさ)めする なにものもなし。

と、歌った「朝の歌」から
何年経ったことだろうか?

散文詩「北沢風景」で、

 僕は出掛けた。僕は酒場にゐた。僕はしたたかに酒をあほつた。翌日は、おかげで空が真空だつた。真空の空に鳥が飛んだ。

と、歌った詩人の「青い空」は
変わったろうか?

いや、変わっていない。

杉並か、
中野か、
豊島か
渋谷か、
世田谷か
大田か……

いずれも
東京の西の方の
中也が住んだことがあって、
下町とは違った
武蔵野の雰囲気のある
青い空の感じがあります。

昨夜、東森と下北沢で飲みながら
近くの豪徳寺のバーで
詩人は友人としこたま飲んで
帰宅した夜11時ころ、
弟洽三の訃報(ふほう)に接した、という
大岡昇平の記述を思い出していました。

10月23日、小田急沿線豪徳寺のバアで友人と大酔し、11時すぎ千駄ヶ谷の下宿に帰ったところへ、死亡を知らせる電報が届いた。
(大岡昇平「在りし日の歌」より)

中也が、近くにいるなあ、と
感じます。

「北沢風景」の北沢は、
いまの、上北沢のことらしいのですが、
上北沢とて、下北沢かそんなに遠くはありませんし、
世田谷のうちです。

台所の入り口からは
北東の空が見える
田園風景が広がっていました。

 *
 北沢風景

 夕べが来ると僕は、台所の入口の敷居の上で、使ひ残りのキャベツを軽く、鉋丁の腹で叩いてみたりするのだつた。

 台所の入口からは、北東の空が見られた。まだ昼の明りを残した空は、此処台所から四五丁の彼方に、すすきの叢(むら)があることも思ひ出させはせぬのであつた。

 ——嘗て思索したといふこと、嘗て人前で元気であつたといふこと、そして今も希望はあり、そして今は台所の入口から空を見てゐるだけだといふこと、車を挽いて百姓はさもジツクリと通るのだし、——着物を着換へて市内へ向けて、出掛けることは臆怯であるし、近くのカフヱーには汚れた卓布と、飾鏡(かざりかゞみ)とボロ蓄音器、要するに腎臓疲弊に資する所のものがあるのであるし、感性過剰の斯の如き夕べには、これから落付いて、研鑽にいそしむことも難いのであるし、隣家の若い妻君は、甘ッたれ声を出すのであるし、……

 僕は出掛けた。僕は酒場にゐた。僕はしたたかに酒をあほつた。翌日は、おかげで空が真空だつた。真空の空に鳥が飛んだ。

 扨、悔恨とや……十一月の午後三時、空に揚つた凧ではないか? 扨、昨日(きんのふ)の夕べとや、鴫が鳴いてたといふことではないか?

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

散文詩「郵便局」と「正午-丸ビル風景」

歴史的建造物として
貴重な文化遺産である
東京中央郵便局が取り壊されてしまうのか、どうか
固唾(かたず)を飲んで
注目されるところですが、

中央郵便局の連想で
丸ビルが出てきて、
次には
中原中也の「正午 丸ビル風景」が重なって
……
そうこうしているうちに
ズバリ「郵便局」という題の詩があることを知りました。

中也は、昭和10年(1935)に
「四季」同人になるのですが、
昭和12年2月号に
「散文詩四篇」として発表した中に
「幻想」
「かなしみ」
「北沢風景」
とともに
「郵便局」はあります。

これら4作品と
「正午 丸ビル」は
ごく近いところにあることが推測されます。
その近さの一つは、
この年に詩人は死去する、
という一事です。

   *   
 郵便局

 私は今日郵便局のやうな、ガランとした所で遊んで来たい。それは今日のお午(ひる)からが小春日和で、私が今欲してゐるものといつたらみたところ冷たさうな、板の厚い卓子(テーブル)と、シガーだけであるから。おおそれから、最も単純なことを、毎日繰返してゐる局員の横顔!——それをしばらくみてゐたら、きつと私だつて「何かお手伝ひがあれば」と、一寸(ちよつと)口からシガーを外して云つてみる位な気軽な気持になるだらう。局員がクスリと笑ひながら、でも忙しさうに、言葉をかけた私の方を見向きもしないで事務を取りつづけてゐたら、そしたら私は安心して自分の椅子に返つて来て、向うの壁の高い所にある、ストーブの煙突孔でも眺めながら、椅子の背にどつかと背中を押し付けて、二服ほどは特別ゆつくり吹かせばよいのである。
 すつかり好い気持になつてる中に、日暮は近づくだらうし、ポケットのシガーも尽きよう。局員等の、機械的な表情も段々に薄らぐだらう。彼等の頭の中 に各々(めいめい)の家の夕飯仕度の有様が、知らず知らずに湧き出すであらうから。
 さあ彼等の他方見(よそみ)が始まる。そこで私は帰らざなるまい。
 帰つてから今日の日の疲れを、ジツクリと覚えなければならない私は、わが部屋とわが机に対し、わが部屋わが机特有の厭悪(えんお)をも覚えねばなるまい……。ああ、何か好い方法はないか?——さうだ、手をお医者さんの手のやうにまで、浅い白い洗面器で洗ひ、それからカフスを取換へること!
 それから、暖簾(のれん)に夕風のあたるところを胸に浮べながら、食堂に行くとするであらう……

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年3月 5日 (木)

梅雨と弟/「少女の友」に発表した詩

「少女の友」という雑誌の
復刻版が、1号分だけですが、
もうすぐ刊行になるそうです。

アマゾン・コムの案内では、
「少女の友」は、
川端康成、吉屋信子、中原中也らが筆をふるい、
若き中原淳一が表紙画家として活躍したことで知られ、
明治41(1908)年に創刊、
昭和30(1955)年の終刊まで48年間続いた月刊誌。
その中の記事から
昭和10年代を中心にピックアップし、
5つのセクションに分け
1は、口絵
2は、小説、漫画、詩
3は、中原淳一の全表紙66点
4は、昭和初期の女の子たちに世界を教えた教養読みもの
5は、毎号付いていた付録を20ページで紹介する。
この他に、
作家・田辺聖子らのスペシャルインタビュー・エッセイや、
特別読みものなどで再構成している。

現代でいえば、
1960-70年代に、
「少年ジャンプ」などの漫画週刊誌が、
熱狂的な支持を受けて読まれた
のに似た現象かな(?)

この雑誌に
中原中也が載せた作品を
探したら、
とりあえず一つ見つかりました。

「少女の友」昭和12年(1937)8月号に載った
と、大岡昇平が「在りし日の歌」(1966)に記す
「梅雨と弟」は、
昭和6年(1931)に亡くなった弟洽三を歌った作品です。

昭和12年8月号とは、
中也の亡くなったのがこの年の10月ですから
この詩が活字になったのを見届けて
まもなく、亡くなった、ということになります。

 *
 梅雨と弟

毎日々々雨が降ります
去年の今頃梅の実を持って遊んだ弟は
去年の秋に亡くなつて
今年の梅雨(つゆ)にはゐませんのです

お母さまが おつしやいました
また今年も梅酒をこさはうね
そしたらまた来年の夏も飲物があるからね
あたしはお答へしませんでした
弟のことを思ひ出してゐましたので

去年梅酒をこしらふ時には
あたしがお手伝ひしてゐますと
弟が来て梅を放つたり随分と邪魔をしました
あたしはにらんでやりましたが
あんなことをしなければよかつたと
今ではそれを悔んでをります……

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

正午丸ビル風景と東京中央郵便局

2009年3月初旬のいま、
時の総務大臣、鳩山邦夫が
東京都千代田区にある
東京中央郵便局の再開発工事現場を
抜き打ちで視察し、
日本郵政が進める
同郵便局の解体工事に
「待った!」をかけている、
というニュースが
マスコミを賑わしています。

はて、さて、
それが、どうした? ということになるのですが、
このニュースを、
中原中也はどのように聞くでしょうか。

問題の東京中央郵便局の隣りあたりに、
旧丸ビルがあったことを
知っている中也の読者は
ただちに
出てくるわ、出てくるわ、のフレーズとともに
東京駅丸の内口に広がっていた風景、
そうです!
丸ビル風景を
思い浮かべていることでしょう。

丸ビルは
何年か前に壊され
新丸ビルが建ち
最近でも、この一帯は
再開発とかで
激変しているところです。

中央郵便局は、
中原中也の詩「正午 丸ビル風景」の
面影を残す風景です。
それが、壊されようとしている、
それに、総務大臣が異議を申し立てている、
というわけです。

ニュースに
中央郵便局の建物が現れるたびに
以下の詩が
重なってみえます。

 *
 正午
  丸ビル風景

あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
月給取の午休み、ぷらりぷらりと手を振つて
あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立つてゐる
ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても……
なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな
あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』角川文庫クラシックスより)

2009年3月 3日 (火)

詩の入り口について/凄じき黄昏<6>

「白痴群」全6号に載った
中原中也の作品は
全部で24篇あります。
これは、詩集「山羊の歌」の全作品44篇の
半分以上です。
「白痴群」が、
中原中也という詩人にとって
いかに重要であったかを
端的に物語る事実です。

にもかかわらず、
僚友・大岡昇平が
以下のように記しているのは
気になりますし、変な感じがします。

結局「白痴群」六号を通じて、見るべきものは「寒い夜の自我像」「「修羅街輓歌」等中原の中期の重要な詩篇と、河上の「ヴェルレーヌの愛国詩」、阿部六郎の小説「放たれたバラバ」、それから河上が訳載したヴァレリイ「レオナルド・ダ・ヴィンチ序説」ぐらいなものであったといっても、当時の同人から不服は出ないものと思う。(「朝の歌」所収「白痴群」より引用)

同人から不服は出ない、というのは
中也がいないのだから、
中也から不服が出ることを想定しておらず
中也の詩の評価を
あらかじめ除外しての感想であって
それは公平ではない感じがあり
大岡昇平にしてはというか
大岡昇平だからというか
変!です。

見るべきものは「寒い夜の自我像」「「修羅街輓歌」等中原の中期の重要な詩篇

と、大岡は「等」の中に
どれほどの評価を込めているか
あまり評価していない感じがあります。

「ためいき」への河上徹太郎の評価や
大岡自らも「夕照」などへの
評価があることを考えると、
「重要な詩篇」とは、
詩作品への評価ではなく、
評伝を書くにあたって「重要」
と言っているに過ぎないようで
変です。

要するに
大岡昇平は
「白痴群」に文学作品としては
高い評価を与えなかったのですし、
そのことは理解できるにしても、
「山羊の歌」の半分以上を占める
「白痴群」への中也の発表作品の中の
「寒い夜の自我像」「「修羅街輓歌」等、
しか評価しなかったのです。

「白痴群」に中原中也が発表した全作品のタイトルを
再び載せておきます。
名作、傑作が
たくさんあります。

創刊号 昭和4年4月
    「寒い夜の自我像」
    「詩友に」
第2号 昭和4年7月
    「秋の一日」
    「深夜の思ひ」
    「凄じき黄昏」
    「夕照」
    「ためいき」
第3号 昭和4年9月
    「木蔭」
    「夏」
第4号 昭和4年11月
    「心象」
第5号 昭和5年1月
    「冬の雨の夜」
    「みちこ」
    「修羅街輓歌」
第6号 昭和5年4月
    「盲目の秋」
    「わが喫煙」
    「妹よ」
    「寒い夜の自画像」
    「失せし希望」
    「汚れつちまつた悲しみに……」
    「無題」
    「更くる夜」
    「雪の宵」
    「生ひたちの歌」
    「時こそ今は……」
「中原中也必携」(吉田凞生編、学燈社)調べ。

 *
 凄じき黄昏

捲き起る、風も物憂き頃ながら、
草は靡(なび)きぬ、我はみぬ、
遐(とほ)き昔の隼人(はやと)等を。

銀紙(ぎんがみ)色の竹槍の、
汀(みぎは)に沿ひて、つづきけり。
--雑魚(ざこ)の心を俟(たの)みつつ。

吹く風誘はず、地の上の
敷きある屍(かばね)--
空、演壇に立ちあがる。

家々は、賢き陪臣(ばいしん)、
ニコチンに、汚れたる歯を押匿す。

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』」角川文庫クラシックスより)

2009年3月 1日 (日)

詩の入り口について/凄じき黄昏<5>

「白痴群」第2号に発表された
中原中也の詩を
まとめて載せておきます。    

(つづく)

 *
 秋の一日

こんな朝、遅く目覚める人達は
戸にあたる風と轍(わだち)との音によつて、
サイレンの棲む海に溺れる。 

夏の夜の露店の会話と、
建築家の良心はもうない。
あらゆるものは古代歴史と
花崗岩のかなたの地平の目の色。

今朝はすべてが領事館旗のもとに従順で、
私は錫(しやく)と広場と天鼓のほかのなんにも知らない。
軟体動物のしやがれ声にも気をとめないで、
紫の蹲(しやが)んだ影して公園で、乳児は口に砂を入れる。

(水色のプラットホームと
躁(はしや)ぐ少女と嘲笑(あざわら)ふヤンキイは
いやだ いやだ!)

ぽけっとに手を突込んで
路次を抜け、波止場に出でて
今日の日の魂に合ふ
布切屑(きれくづ)をでも探して来よう。


深夜の思ひ

これは泡立つカルシウムの
乾きゆく
急速な――頑ぜない女の児の泣声だ、
鞄屋の女房の夕(ゆふべ)の鼻汁だ。

林の黄昏(たそがれ)は
擦(かす)れた母親。
虫の飛交ふ梢のあたり、
舐子(おしやぶり)のお道化(どけ)た踊り。

波うつ毛の猟犬見えなく、
猟師は猫背を向ふに運ぶ。
森を控へた草地が
  坂になる!

黒き浜辺にマルガレエテが歩み寄する
ヴェールを風に千々にされながら。
彼女の肉(しし)は跳び込まねばならぬ、
厳(いか)しき神の父なる海に!

崖の上の彼女の上に
精霊が怪しげなる条(すぢ)を描く。
彼女の思ひ出は悲しい書斎の取片附け
彼女は直きに死なねばならぬ。

 *
 凄じき黄昏

捲き起る、風も物憂き頃ながら、
草は靡(なび)きぬ、我はみぬ、
遐(とほ)き昔の隼人(はやと)等を。

銀紙(ぎんがみ)色の竹槍の、
汀(みぎは)に沿ひて、つづきけり。
——雑魚(ざこ)の心を俟(たの)みつつ。

吹く風誘はず、地の上の
敷きある屍(かばね)——
空、演壇に立ちあがる。

家々は、賢き陪臣(ばいしん)、
ニコチンに、汚れたる歯を押匿す。

 *
夕照

丘々は、胸に手を当て
退けり。
落陽は、慈愛の色の
金のいろ。

原に草、
鄙唄(ひなうた)うたひ
山に樹々、
老いてつましき心ばせ。

かゝる折しも我ありぬ
小児に踏まれし
貝の肉。

かゝるをりしも剛直の、
さあれゆかしきあきらめよ
腕拱(く)みながら歩み去る。


 ためいき
   河上徹太郎に

ためいきは夜の沼にゆき、
瘴気(しやうき)の中で瞬きをするであらう。
その瞬きは怨めしさうにながれながら、パチンと音をたてるだらう。
木々が若い学者仲間の、頸すぢのやうであるだらう。

夜が明けたら地平線に、窓が開(あ)くだらう。
荷車を挽いた百姓が、町の方へ行くだらう。
ためいきはなほ深くして、
丘に響きあたる荷車の音のやうであるだらう。

野原に突出た山ノ端の松が、私を看守(みまも)つてゐるだらう。
それはあつさりしてても笑はない、叔父さんのやうであるだらう。
神様が気層の底の、魚を捕つてゐるやうだ。

空が曇つたら、蝗螽(いなご)の瞳が、砂土の中に覗くだらう。
遠くに町が、石灰みたいだ。
ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光つてゐる。

*瘴気 熱病を起させる毒気。
*ピョートル大帝 ロシア皇帝ピョートル一世(1672―1724)。西欧文化を積極的に取り入れ、絶対主義帝政を確立した。

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』」角川文庫クラシックスより)

詩の入り口について/凄じき黄昏<4>

「凄じき黄昏」は
昭和4年(1929)7月発行の
「白痴群」第2号に発表されました。

これは、後で知った発見だったのですが
「ためいき」も
同じ号に発表されています。

ということで
俄然、「白痴群」第2号が注目されまして、
探してみると、ほかに
「深夜の思ひ」
「秋の一日」
「夕照」がありました。

この5作品は、
なんらかの類縁性がある、
少なくとも、「白痴群」第2号に掲載された
という類縁性があることを知りました。

ことさらに
「ためいき」と「凄まじき黄昏」の類縁性は
まったく偶然ながら
「どこか似ている!」との直感を抱いたのですが
この直感は
中原のイメージは
決して生得環境的なものではなくて、
いわば教養的なもの……
と見なす河上徹太郎の説を
ヒントに導きだされたことは
特筆しておきたいことです。

ついでに
「白痴群」全6号に載った
中原中也の作品を
見ておきましょう。

創刊号 昭和4年4月
    「寒い夜の自我像」
第2号 昭和4年7月
    「秋の一日」
    「深夜の思ひ」
    「凄じき黄昏」
    「夕照」
    「ためいき」
第3号 昭和4年9月
    「木蔭」
    「夏」
第4号 昭和4年11月
    「心象」
第5号 昭和5年1月
    「冬の雨の夜」
    「みちこ」
    「修羅街輓歌」
第6号 昭和5年4月
    「盲目の秋」
    「わが喫煙」
    「妹よ」
    「寒い夜の自画像」
    「失せし希望」
    「汚れつちまつた悲しみに……」
    「無題」
    「更くる夜」
    「つみびとの歌」
    「秋」
    「雪の宵」
    「生ひたちの歌」
    「時こそ今は……」

以上、「中原中也必携」(吉田凞生編、学燈社)調べ。
    

(つづく)

 *
 凄じき黄昏

捲き起る、風も物憂き頃ながら、
草は靡(なび)きぬ、我はみぬ、
遐(とほ)き昔の隼人(はやと)等を。

銀紙(ぎんがみ)色の竹槍の、
汀(みぎは)に沿ひて、つづきけり。
——雑魚(ざこ)の心を俟(たの)みつつ。

吹く風誘はず、地の上の
敷きある屍(かばね)——
空、演壇に立ちあがる。

家々は、賢き陪臣(ばいしん)、
ニコチンに、汚れたる歯を押匿す。

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』」角川文庫クラシックスより)

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