青山二郎との談論/月下の告白<2>
青山二郎に献じた詩「月下の告白」は
「草稿詩篇(1933ー1936年)」に収められ、
1934年10月20日の日付があります。
1931年(昭和6年)に亡くなった
中原中也の5歳下の弟恰三の死を悼んだ歌です。
死から3年を経て
どのような経緯で
青山二郎に
弟の追悼詩が献じられたのでしょうか。
という問いを大岡昇平に
ぶつけてみますと、
やはり答はありました。
中也に関する疑問は、
大岡昇平に聞けば
大概、氷解します。
「月下の告白」はおそらく前夜の青山としたなにかの議論の返事として書かれたものであろう。この頃小林秀雄に「お前が怠け者になるのもならないのも今が境ひだ」といわれたという記事が、安原宛の手紙にあるから(二月十日附)そんな話だったのかも知れない。
と、「在りし日の歌」の中で、
大岡昇平は、推測しています。
そもそも「青山学院」と、
世の中で初めて呼んだのは
大岡昇平らしいのですが、
「鬼の栖(すみか)」か
梁山泊か……、
そのようなものに似た
文学サロンで、
花園アパートはあったらしく、
そこには、
小林秀雄
河上徹太郎
大岡昇平
今日出海
吉田健一
永井龍雄
井伏鱒二
中島健蔵
瀧井孝作
坂本睦子
白州正子
三宅艶子
武原はん
……
らが、
入れ替わり立ち替わり、
現れては消え
消えては現れて
中心に、
青山二郎がいて、
中原中也は、
アパート2階に新婚所帯を構えるほどの
ファミリアーな時期もありました。
「月下の告白」が書かれた、
1934年10月20日という日付は、
長男文也誕生の2日後です。
大岡昇平は、
ここでは書いていないのですが、
この日の2日前の10月18日に
長男文也が出生している、
という日に、
「月下の告白」は書かれ、
そして、青山二郎に贈られたのです。
中也と青山二郎のやりとりが
うっすらながら
浮かび上がってきます。
中也は
言い足りなかったことを
吐き出したのでしょうか。
*
月下の告白
青山二郎に
劃然(かくぜん)とした石の稜(りよう)
あばた面(づら)なる墓の石
蟲鳴く秋の此の夜さ一と夜
月の光に明るい墓場に
エジプト遺跡もなんのその
いとちんまりと落居(おちい)てござる
この僕は、生きながらへて
此の先何を為すべきか
石に腰かけ考へたれど
とんと分らぬ、考へともない
足の許(もと)なる小石や砂の
月の光に一つ一つ
手にとるやうにみゆるをみれば
さてもなつかしいたはししたし
さてもなつかしいたはししたし
(一九三四・一〇・二〇)
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
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