悲しみの歌は聞こえない/聞こえぬ悲鳴
散文詩「かなしみ」の、
「悲しみ呆け」が、
「朝の歌」からは
遠く隔(へだ)たった地平を感じさせ、
ならば、
その異なり具合の変遷はどうだったのか、と、
「山羊の歌」
「在りし日の歌」
「生前発表詩篇」を
パラパラめくっているうち、
朝を歌った詩の変遷を辿ることになり
いくつかの発見がありました。
いったい
中原中也の詩に
「悲しみ」がないものの方が少なく、
「悲しみ」以外を歌っているものなどない
とまで言えるのではないか、などと、
思いあやまりそうになるほど
「悲しみ尽くし」です。
散文詩「かなしみ」は、
白き敷布のかなしさよ夏の朝明け、なほ仄暗(ほのぐら)い一室に、時計の音〈おと〉のしじにする。
とはじまり、
はやいかな生計(なりはひ)の力もあらず此の朝け、祈る祈りは朝空よ、野辺の草露、汝(なれ)等呼ぶ淡(あは)き声のみ、咽喉(のど)もとにかそかに消ゆる。
で、終わっていました。
白き敷布のかなしさよ……
ではじまり、
淡(あは)き声のみ、咽喉(のど)もとにかそかに消ゆる。
で終わるのです。
悲しみにくたびれて
声が枯れて掠(かす)れて
ひどい悲しみなのだなあ
などとと思いながら
また、パラパラと詩集をめくっていて
これに似た作品「聞こえぬ悲鳴」にぶつかりました。
見過ごしていた朝の歌です。
悲しみの歌です。
こちらは、
悲しい夜更け、ではじまり
その悲しみは
朝まで続いた、という内容です。
悲しみの夜更けが続いて
夜が明けて、朝になってしまった、
という歌です。
第2連に
痩せた 大きな 露西亜の婦(をんな)?
と、「おんな」が出てくるだけましで
まだ、余裕がある
なんて思えるでしょうか。
タイトルが「聞こえぬ悲鳴」
であることを思い合わせると
グッとくるものがありますよね?
*
聞こえぬ悲鳴
悲しい 夜更が 訪れて
菫(すみれ)の 花が 腐れる 時に
神様 僕は 何を想出したらよいんでしよ?
痩せた 大きな 露西亜の婦(をんな)?
彼女の 手ですか? それとも横顔?
それとも ぼやけた フイルム ですか?
それとも前世紀の 海の夜明け?
あゝ 悲しい! 悲しい……
神様 あんまり これでは 悲しい
疲れ 疲れた 僕の心に……
いつたい 何が 想ひ出せましよ?
悲しい 夜更は 腐つた花弁(はなびら)——
噛んでも 噛んでも 歯跡〈はあと〉もつかぬ
それで いつまで 噛んではゐたら
しらじらじらと 夜は明けた
——一九三五、四——
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
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