大岡昇平の「月下の告白」論
「月下の告白」に関しての
大岡昇平の記述を、
「在りし日の歌」(1966年)の中から
ひろってみますと、
まず、
亡弟を主題とした詩は七篇書かれた。昭和六年「秋の日曜」と同じノートに書かれた「ポロリ、ポロリと死んでゆく」にはじまり、十月九日附安原喜弘に送られた「疲れやつれた美しい顔」「死別の翌日」「梅雨と弟」(「少女の友」昭和十二年八月号)「蝉」(昭和八年8月十四日)「秋岸清涼居士」(昭和九年十月二十日夜)「月下の告白」(同日)である。いづれも死者の霊への呼びかけを動機としている点で、十一年の暮長男文也を失った後の作品と共通点を持つ。
これが、はじめ。
次に、
「死の観念」に囚われていた中原には、弟への追懐に耽る自分の「怠惰」についての自己主張がある。それは特に青山二郎に宛てた「月下の告白」に著しい。とにかく彼が意識的に自分の幻想に固執し、それを詩法としていることに注意したい。
次に、
しかし私は彼の魂に大きな穴が開いていたことには気がつかなかった。九年十月、彼は「月下の告白」という短い詩を、青山二郎に捧げている。
ここで、「月下の告白」を全詩句、引用し、
劃然(かくぜん)とした石の稜(りよう)
あばた面(づら)なる墓の石
蟲鳴く秋の此の夜さ一と夜
月の光に明るい墓場に
エジプト遺跡もなんのその
いとちんまりと落居(おちい)てござる
この僕は、生きながらへて
此の先何を為すべきか
石に腰かけ考へたれど
とんと分らぬ、考へともない
足の許(もと)なる小石や砂の
月の光に一つ一つ
手にとるやうにみゆるをみれば
さてもなつかしいたはししたし
さてもなつかしいたはししたし
再び亡弟洽三である。中原の心の中には、いつも郷里吉敷の中原家累代の墓が、時空を超えて「劃然として」立っていたことをわれわれは知る。それは家業を継ごうとして倒れた謹直清純な洽三の墓であると共に、むろん無頼な長男たる彼自身の墓でもある。もはやそのような自己のほか、何者でもありたくないという宣言である。或いはここには中原家の子供たちすべての宿命が見据えられているともいえよう。
と、踏み込んだ論評を加えています。
さらに、続け、
「月下の告白」はおそらく前夜の青山としたなにかの議論の返事として書かれたものであろう。この頃小林秀雄に「お前が怠け者になるのもならないのも今が境ふだ」といわれたという記事が、安原宛の手紙にあるから(二月十日附)そんな話だったかもしれない。中原の詩稿としては珍しく、固苦しい楷書で書かれている。同じ日に書いて、筐底にしまっておいたのは、次のような道化歌である。
と書き、「秋岸清凉居士」を、
「改行なし(一部略)」で引用して以降、
「月下の告白」への言及はしていません。
以上、大岡昇平は、評伝「在りし日の歌」で
中原中也の、生からの離脱、
つまりは、死への関心が、
「山羊の歌」の後期の作品、
「羊の歌・祈り」や「盲目の秋」などに見られ、
これは、もっと古い時代、
尋常小学校5年、6年の頃に作った短歌に
遡(さかのぼ)ることができる、
などと、書き出した後に続けて、
弟・洽三が死んだ頃から、
深夜に詩人を襲った幻想を、
詩の源泉としてはぐくんだ形跡がある、
と分析してみせる過程で
「月下の告白」を
論じていることをみてきました。
大きな流れとしては、
「幻想」を詩作の源泉としていた
という論の中で
「月下の告白」は登場しているということです。
少しは、すっきりしてきましたか……。
なぜ、青山二郎に献じたのか
という点は、
大岡の推測以外に
具体的な理由は見つかりそうにありません。
中原中也が
東京・四谷区(現在の新宿区)の
花園アパートに住みはじめたのは
昭和8年(1933年)の暮れで、
四谷・谷町へ引っ越すまで、
約1年半、そこで暮らしたとういうことです。
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