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2009年3月10日 (火)

お調子もの嫌いの歌/幻想

沈鬱な表情とか
誠実そうな感じとかが
中原中也の心の琴線に触れたのでしょうか
エイブラハム・リンカーンは
ジョージ・ワシントンや
トーマス・ジェファーソンよりも
詩人の感性に響くところがあることは
容易に推察されます。

リンカーンといえば
奴隷解放宣言。
深い悩みや悲しみを
湛(たた)えたイメージがあり、
イメージばかりでなく
実際に、悲しみや悩みを
抱えていたことでしょうし、

少なくとも
現代の、たとえば、
前大統領ブッシュのような
お調子もののイメージはありませんから
リンカーンは
友だちのような感じがしたのです。

手帳を出して何か書き付けてゐる。

(夕陽に背を向けて野の道を散歩することは淋しいことだ。)

リンカーンが手帳に書きつける内容の
なんと! 政治家らしからぬこと!

やがてリンカン氏は、私がひとなつつこさのほか、何にも持合はぬのであることをみてとつた。

目玉クリクリの
人なつっこい中也がここにいます!

万事諦めて私とリンカン氏とは、卓子(テーブル)を中に向き合つて、頬肘(ほおひじ)をついたまゝで眠らうとしてゐた。

二人の「詩人」の間を
静かな穏やかな時間が
流れてゆくだけです。
ひとことふたことの言葉が
交わされるだけです。

いい詩ですねえ!
小説や演劇にはなりませんし、
詩にしかなりませんし、
中也にしか作れない詩です!

 *
  幻 想

 草には風が吹いてゐた。
 出来たてのその郊外の駅の前には、地均機械(ローラー・エンジン)が放り出されてあつた。そのそばにはアブラハム・リンカン氏が一人立つてゐて、手帳を出して何か書き付けてゐる。
(夕陽に背を向けて野の道を散歩することは淋しいことだ。)
「リンカンさん」、私は彼に話しかけに近づいた。
「リンカンさん」
「なんですか」
 私は彼のチョッキやチョッキの釦(ボタン)や胸のあたりを見た。
「リンカンさん」
「なんですか」
 やがてリンカン氏は、私がひとなつつこさのほか、何にも持合はぬのであることをみてとつた。
 リンカン氏は駅から一寸行つた処の、畑の中の一瓢亭に私を伴つた。
 我々はそこでビールを飲んだ。
 夜が来ると窓から一つの星がみえた。
 女給が去り、コックが寝、さて此の家には私達二人だけが残されたやうであつた。
 すつかり夜が更けると、大地は、此の瓢亭(ひようてい)が載つかつてゐる地所だけを残して、すつかり陥没してしまつてゐた。
 帰る術(すべ)もないので私達二人は、今夜一夜を此処に過ごさうといふことになつた。
 私は心配であつた。
 しかしリンカン氏は、私の顔を見て微笑(ほほえ)むでゐた、「大丈夫(ダイジヨブ)ですよ」
 毛布も何もないので、私は先刻から消えてゐたストーブを焚付けておいてから寝ようと思つたのだが、十能も火箸もあるのに焚付(たきつけ)がない。万事諦めて私とリンカン氏とは、卓子(テーブル)を中に向き合つて、頬肘(ほおひじ)をついたまゝで眠らうとしてゐた。電燈は全く明るく、残されたビール瓶の上に光つてゐた。

 目が覚めたのは八時であつた。空は晴れ、大地はすつかり旧に復し、野はレモンの色に明(あか)つてゐた。
 コックは、バケツを提げたまま裏口に立つて誰かと何か話してゐた。女給は我々から三米(メートル)ばかりの所に、片足浮かして我々を見守つてゐた。
「リンカンさん」
「なんですか」
「エヤアメールが揚つてゐます」
「ほんとに」

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

*原作品は、「ひとなつつこさ」に傍点が付されています。

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