「青山学院」時代の中原中也/月下の告白<3>
整然と並んだ墓石のくっきりした稜線、
あばたのような御影石の点々、
秋の虫がやかましい今夜という今夜だ。
月光で墓場はいやに明るい、
ピラミッドなんて知らないよ、とばかり、
ちんまりと構えていらっしゃるよ。
この僕は生き長らえて、
この先どうやって生きていったらいいものか、
墓石に腰かけて考えたけれど、
とんと答は出てこない、考えつかない。
足元の砂利が、
月光に照らし出され一つ一つが、
手に取るように見えるので、
懐かしくもいたわしくも親しく……
懐かしくもいたわしくも親しく……
(お前のことを思い出すのだよ)
中原中也が
青山二郎に献じた
「月下の告白」は、
直訳すれば、以上のように読める、
とある墓地での、
月光の燦々(さんさん)と降りしきる夜に
僕が一人考え込んでいる情景を
歌っています。
この詩が作られたのは
1934年(昭和9年)10月20日。
この2日前、18日には
第一子である文也が誕生しています。
なぜ、この時に、
亡弟の追悼詩が作られたのでしょうか。
なぜ、青山二郎に捧げられたのでしょうか。
文也は、山口の産院で生まれていますから
2日後の20日には
中也は知らなかったのかもしれません。
電報は1日以内で着いたはずですから、
どこかで飲んだくれて
住居へ帰らなかったとか。
このあたりのことは
日記とか書簡とか
友人知人の証言とかの、
詩作品以外の記録とか……を
丹念に読まないと見えてこないことかもしれません。
読んでも見えてこないのかもしれません。
大岡昇平の
精緻を極めた記録でさえ
このことを真正面でとらえてはいませんから。
もはや、
推測・推理の域のことになるのでしょうが
推理になるにしても、やはり、
大岡昇平の記録を元にするしかありません。
そこで
中原中也の花園アパート時代は
どんなふうだったのか、
という眼で、
大岡昇平や
河上徹太郎や
安原喜弘らが残した
記録にあたってみることになるのですが……。
「青山学院」時代の中也の
生き生きとしたイメージは、
あがってきません。
この頃、詩人としての評価が
次第に高まっているにもかかわらず、です。
*
月下の告白
青山二郎に
劃然(かくぜん)とした石の稜(りよう)
あばた面(づら)なる墓の石
蟲鳴く秋の此の夜さ一と夜
月の光に明るい墓場に
エジプト遺跡もなんのその
いとちんまりと落居(おちい)てござる
この僕は、生きながらへて
此の先何を為すべきか
石に腰かけ考へたれど
とんと分らぬ、考へともない
足の許(もと)なる小石や砂の
月の光に一つ一つ
手にとるやうにみゆるをみれば
さてもなつかしいたはししたし
さてもなつかしいたはししたし
(一九三四・一〇・二〇)
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
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